佐山聡が虎のマスクをかぶるまで

佐山聡が虎のマスクをかぶるまで

佐山聡は、山口県に生まれ、子供の頃からアントニオ猪木を崇拝し「プロレスこそ真の格闘技」「プロレスこそ最強の格闘技」と信じ、プロレスラーになることを決めた。


1973年4月、佐山聡は、レスリング部がある山口県立水産高校に進学。
学校が実家から50km離れていたため寮に入った。
水興寮は4階建てで、1階が事務所と食堂、2階以上が寮。
1部屋に1年生、2年生、3年生が1人ずつ入った。
入寮して数日後の深夜、新入生は上級生に起こされた。
2階の真っ暗なテラスにつれていかれ
「はい、整列」
と並んで朝まで正座し、足を崩すと拳や竹刀が飛んできた。
ある日の深夜は部屋に呼ばれて
「とにかく先輩のいうことを聞け」
と真っ暗闇の中、パンチ&ビンタ。
パンチはボディに、ビンタは顔面に入れられた。
こういったシメは、なにかあると行われ、週2のペースであった。
寮生は7時に起床し、点呼、体操、掃除を行い、7時半に食堂で朝食を食べてから登校。
学校まではカケ足で、校舎前に海難事故で亡くなられた人をまつる慰霊碑「燈心台」があって敬礼。
学校内で上級生に出会えば敬礼したため
「敬礼は1日300回くらいやっていた」
(佐山聡)
学校には通学生もいて、1年生は上級生に
「シメろ」
と命じられていたが、最初にシメたのは佐山聡。
同級生は
「やるなあ」
「あいつは何も考えずに行く」
と感心した。

佐山聡は、入学直後、4月22日に行われた山口県高校レスリング大会の75kg級で3位になり、国体候補選手になった。
山口水産高校レスリング部顧問は柔道経験者だがレスリングは素人だったので、週1回、周南市の桜ケ丘高校レスリング部に出稽古にいかせた。
ここで佐山聡は長州力の師である江本孝允に指導を受けた。
「江本先生に首投げ、タックルを教えてもらってから3年生にも面白いように勝てるようになりました」
というレスリングを始めて1ヵ月の佐山聡は、国体候補合宿でインターハイ4位と対戦しフォール勝ち。
数ヵ月後、11月18日、1年生と2年生が対象の新人戦に75kg級でエントリーしたが、他の選手が佐山を避けたため、出場者は1人だけだった。
「1試合も戦わないまま優勝させるわけにはいかない」
ということで佐山は、1階級下の1位、、2位、3位、1階級上の1位の4人と対戦し、その成績次第で75kg級の優勝が認められることになった。
佐山聡は4人にフォール勝ち。
この勝利で高校を中退することを決意した。
「1年生の新人戦に勝って有頂天になるわけですよ。
もうプロレスにいけると。
背が低かったから早く入らねばという思いも強かったですね」


新人戦から1ヵ月後の12月、学校で「はやり目」と呼ばれるウイルス性の急性結膜炎が流行った。
「どうやったら新日本プロレスに入れるか」
佐山聡が考えていた佐山聡は、同級生の1人がはやり目にかかると、その炎症を起こした目を指で触って自分の眼球になすりつけた。
するとみんな学校を休みたいので
「俺もくれ」
「俺もくれ」
といい出し、クラスの2/3が罹患。
学級閉鎖となり、全員で同級生の実家で隔離生活を送った。
やがて目が治るとみんな学校に戻ったが、佐山聡だけは長府の実家へ。
プロレス誌に書かれた記事を参考にトレーニングメニューを作成し黙々とこなし、夜、プロレス中継があれば欠かさずチェック。
高校を辞めないよう説得する父、文雄と衝突し、悶々とした日々を過ごし、駅前でヤンチャそうな高校生にケンカを売って、路地裏で行き場のない力を爆発させることもあった。

「下の息子があんたくらいの身長と体重なんやけどプロレスやりたいっちゅうんや。
やれるやろか?」
文雄は職場の元プロボクサーに聞いた。
「ヤマハブラザースの星勘太郎と山本小鉄は2人とも170cmないはずです。
大丈夫やと思います」
「ああ、そうか」
年が明け、1974年2月、根負けした文雄は、自分の紹介する仕事に就くという条件で上京を認めた。
佐山聡は寝台特急あさかぜに乗り、東京駅で降りると丸の内のビル群に圧倒された。
そして千葉県の六方町の神戸製鉄所の関連会社、サンアルミニウム工業の寮に入り、朝から夕方まで工場で仕事。
自主トレーニングに加え、会社のサッカー部に入り、背番号3をつけて千葉県内の企業リーグ戦にも出場。
そのうちに父親が手を回していることに気づいた。
「親父は工場の人たちに息子をプロレスに近づけないでくれといっていたんです。
僕はすっかり頭に来てしまい、すぐに辞めることにしました」
寮を出て千葉県柏市の新聞販売店に転がり込んだが、これも文雄の紹介だったため、結局すぐに辞めた。
「とにかく東京に出ないと」
フリーペーパーどころかアルバイト雑誌もない時代、新聞販売店を飛び出した佐山は、東京に向かって移動。
さまよい歩きながら「募集」という張り紙を見つけると、その店に飛び込んだ。

1974年8月、佐山聡は、東京都荒川区南千住のレストラン泉で住み込みで働き始めた。
地上7階地下2階のビルの1階部分がレストラン泉で、地下2階はサウナ。
契約では2食だったが佐山聡は3食をレストラン泉で食べさせてもらい、その上、毎日サウナも無料で入らせてもらった。
そして実家に近況を知らせる内容と
「聡は必ずプロレスラーになりますから、これがお父さんに返事を聞く最後の手紙です。
プロレスラーになってよろしいでしょうか?」
と最後の
「プロレスラーになってよろしいでしょうか?」
の部分を大きく、太書きにした手紙を送った。
また新日本プロレスの営業本部長、新間寿にも手紙を出した。
新間寿は、中央大学時代に柔道部に所属し、人形町の日本プロレスの道場で力道山をはじめプロレスラーと知り合って、その強さに憧れた。
165cmと小柄な新間は、佐山の一途な気持ちをひしひしと感じた。

1974年10月、レストラン泉で働き始めて2ヵ月後、佐山聡は
「坊や、おいで」
と新間寿に電話で南青山の新日本プロレスの事務所に呼ばれた。
新間は、佐山の顔、立ち姿勢、対応、礼儀、言葉遣いが気に入った。
「今夜、後楽園ホールで試合があるけどいくか?」
「いきたいです。
どういう風にいったらいいんですか?」
佐山聡は事務員に連れられて後楽園ホールへ。
ちょうど試合前の練習が始まろうとしていて、佐山はそこに加わって、スクワット500回、ブリッジ3分をやった。
スクワットは最初は300回のはずだったが、佐山がこなしてしまったので急遽500回に増えて、周囲がムッとするのを感じた。
「スクワットを500回。
もう根性ですよ。
絶対にプロレスラーになりたいという気持ち。
それでブリッジも3分間やったんです」

最後はリングでスパーリング。
相手は藤原喜明だった。
「俺たちがスパーリングしてたら小鉄さんが連れてきて一緒にやったんだよ。
あんときアイツは17歳だっけな。
ちっちぇのに高校のアマレスチャンピオンだったとかいってたけどグチャグチャにしてやったよ。
でも歯応えはあったよ。
結構やるなと。
ただちっちゃいから苦労するなと思った。
ああ、思っただけでなくいったかもしれないな」
コテンパンにやられた佐山聡は悔しくて、その後、試合を観たはずだが覚えているのは藤波辰巳の肉体美と誰かに
「体重を増やしてこい」
といわれたことだけ。
そしてレストランで働きながらバンバン食べた。
台東区の日本ボディビル協会にも通い、ひたすら食ってひたすらトレーニングという日々を送った。

同年、極真空手の第6回全日本大会に、アントニオ猪木をはじめ数人のレスラーが参加申し込み。
「ある雑誌(少年マガジン)で広告をみまして・・・
新しいルールによる真剣勝負と謳ってあり、ボクシングでもキックでもプロレスでも、誰でも参加できるということを読んだものですから、カッと血が熱くなりまして・・・
でも考えてみるとスケジュールの調整がどうしてもつかないんで残念ながら諦めました」
(アントニオ猪木)
そして新日本プロレスはブラジル興行へ。
「誰の挑戦でも受ける」
というアントニオ猪木の言葉を聞いて、ボクシングと柔術をバックボーンに持つバーリ・トゥード(なんでもあり)最強の戦士、イワン・ゴメスが、ブラジル北東部から南部のサンパウロまで、すさまじい距離を運転してやってきて
「挑戦したい」
といった。

イワン・ゴメスは172cmと小柄ながら全身筋肉。
23歳のときにグレイシー柔術の始祖、カーロス・グレイシーの長男、カーウソン・グレイシーと対戦し、引き分け。
以後、バーリ・トゥード12年無敗だった。
「このヤロウ。
ずいぶんなめたことをいってくれるじゃねえか」
猪木は思ったが、このハイリスク、ローリターンな戦いを受けるはずがなく、逆に新間寿は
「月給1500ドル(約45万円)+試合給」
という条件でイワン・ゴメスをスカウト。
新日本プロレスの練習をみてセメントレスリングに興味を覚えたゴメスは、それに応じ、来日。
基本的にチョークスリーパーとヒールホールドしか使えない、強いが地味なゴメスは、ずっと前座で、アントニオ猪木と戦うことはなかった。
しかしレスリングのトレーニングをしつつ、新日本プロレスのレスラーに自身の技術を教えた。
藤原喜明は、イワン・ゴメスからヒールホールドを学んだ。
後にサンボの麻生秀孝から膝十字固めを学ぶなど、足関節においてはカール・ゴッチをしのぐといわれ
「関節技の鬼」
と恐れられる藤原喜明だが、特にそのわき固めは必殺の切れ味で
「フジワラ・アームバー」
と呼ばれた。

1975年6月、新間寿は
「道場に来い」
と佐山聡を呼んだ。
道場に現れた佐山聡をみて、アントニオ猪木は新間寿を呼び出した。
「お前が入れたのか?」
「はい、入れました」
「ちっこいのばっかり入れるなよ」
190cmの猪木は、吐き捨てるようにいった。
佐山聡より2歳上の小林邦昭も
「第1印象はどこの坊ちゃんが来たんだろうという感じ。
かわいい顔してるでしょ。
とにかく練習は厳しいから大丈夫かなと思った」
という。
ちなみに小林邦昭は藤原喜明より歳下だが入門は1年早く先輩だった。
1975年7月、こうして佐山聡は、藤原喜明から3年遅れで、新日本プロレスに正式に入門。
新日本プロレスでは藤原喜明以降、すべての新弟子が辞めていた。
理由は地獄の練習。
「洗濯にいってきます」
といって帰ってこなかった新弟子もいた。
しかし佐山聡は逃げなかった。
10時から練習が始まり、準備運動で、スクワット500回、あるいは1000回。
トタンづくりの道場は夏は45℃を超え、そんな中で3、4時間練習し、14~15時で終わると、その後に食事。
チャンコ番が1週間に1度回ってきて、そのときは早めに練習を終える。
練習後、外出は自由。
しかし月給5万円では、毎日、遊びに出ることはできなかった。

これまでやってきた柔道やレスリングは、いかに投げるかだったが、新日本プロレスの道場で行われるスパーリングは、いかに極めるかというサブミッションレスリング。
佐山聡は、一瞬で極まり、1度極まれば逃げることができない関節技にのめりこんでいった。
トレーニングも徹底的に行い、小柄な体でベンチプレス160kgを挙げ、腕相撲は坂口せいじについで新日本プロレスで2位になるほどのパワーをつける。
常にノートを持ち歩き、トレーニングや練習を記録し、思いついたことを書きとめ、熱心に研究。
また新弟子の仕事にはいろいろな雑用もあり、それも忘れないようにノートにメモし、マジメで気の利く後輩となった。
あるときの巡業後、山本小鉄は帰りのタクシーに会社の金、800万円を置き忘れ、付き人をしていた佐山聡に、
「責任を取って坊主になろう」
といい、2人で剃り合った。
翌日、2人で歩いていて親子に間違えられ、佐山聡はショックを受けた。

その山本小鉄に
「世話してやれ」
といわれ、佐山聡は、すでに会社から冷遇され、道場でも村八分状態になっていたイワン・ゴメスの付き人となって、公私共に帯同した。
ポルトガル語しか理解できないゴメスと片言の英語とジェスチャーでコミュニケーション。
バーリ・トゥードのリングで選手が血まみれになって戦う写真をみせられた。
ゴメスはマウントポジション(馬乗り)でのコントロールやポジショニングの重要性を必死に説明。
それはカール・ゴッチにはなかった教えだった。
1976年2月、イワン・ゴメスがブラジルへ帰国するとき、空港まで見送りに行った佐山聡は別れが悲しくて泣いた。
そしてこの後、藤原喜明と共にアントニオ猪木の付き人となった。

佐山聡はカール・ゴッチから指導を受け、技術、体力、精神 どれをとってもセメントでは史上最強のレスラーだと思った。
「ゴッチさんは、レスリングと極め技の達人といわれているが、実はボクシングも大好きで、最も凄いのはケンカだった。
蹴りは嫌いだったがパンチは得意で、打撃と実戦と精神面の話は何度も聞かされた。
私はいうまでもなく藤原(喜明)さんも実はパンチとキックの心得がある。
私達は基礎である極め技と、実戦とは何かを魂に叩き込まれていたのだ。
それだけではない。
最も重要なのはゴッチさんに人生を教えられたことだ。
服装、食事、態度から人生とはこうあるべきということまでを教えられた。
レスラーならこうあるべきという所をサムライならこうあるべきだと教えられたといえばよくわかるだろう。
ゴッチさんは宮本武蔵が好きだった。
不良や世の中の間違った行為も許さなかったし、実際に注意されたり投げ飛ばされた者は何人もいる」

1ヵ月後の1976年3月、入門8ヵ月の佐山聡はプロレスの秘密を知ってしまった。
新潟県長岡市で興行が終わった後、ホテルで藤原喜明とあるレスラーと口喧嘩をはじめ、同じ部屋にいた佐山は
「そんなこといっても藤原先輩はあの先輩に勝てないじゃないですか」
といった。
「お前はプロレスのことを何も知らない。
試合で俺は負けてやったんだ。
俺にボディスラムをかけてみろ」
いわれてかけてみるとプロレスラーとしては小さい藤原がビクとも動かない。
「もう1度やってみろ」
といわれやってみると今度はかんたんに持ち上がった。
「プロレスは真剣勝負の世界なんかじゃない。
お互いが協力するショーだ」
プロレスは真の格闘技で真剣勝負をしていると信じていた佐山聡は、天地がひっくり返るような衝撃を受け、同時にプロレスラーに抱いていた畏怖の念も消し飛んだ。
ただしカール・ゴッチやアントニオ猪木、藤原喜明、イワン・ゴメスなど一部の人間は別。
彼らの強さが本物であることは体で理解していた。
佐山はプロレスのフェイクファイトを先輩たちへの尊敬で相殺しつつ、デビューに向けてトレーニングを続けた。
そしていつしか寮の部屋に自分の理想を書いた紙を貼った。
「真の格闘技は打撃に始まり、組み合い、投げ、極める」

佐山聡は他の格闘技を習おうと
「キックでは1番強い」
と思っていた藤原敏男が所属する目白ジムの住所を自分で調べて訪ねた。
ジムの中には六角棒や木刀がゴロゴロと置いてあって、まだ10代の佐山聡は怖かったが入門したいと伝えた。
そして申込書に住所と名前を書いて、住職業欄は空欄にしてプロレスラーであることを隠し、志望動機を
「健康のため」
として提出。
藤原敏男ら内弟子は、朝9時から練習したが、通常のジム生は夕方か夜にジム入り。
佐山聡は新日本プロレスの練習が14~15時に終わった後、世田谷区野毛から巣鴨の目白ジムまで電車とバスで通い、練習を始めたのでプロと一緒にトレーニングすることも多かった。。
会長の黒崎建時は、極真空手の創設メンバーで、自身、タイでムエタイの試合を経験した経験を持ち、気が狂うほどの苦しみを伴う稽古を課すため「鬼の黒崎」と呼ばれていた。
例えばサンドバッグを
「全力で蹴り続けろ」
といい、竹刀をもってその後ろに立つ。
選手は1発1発、100%全力で入れようとするが、途中、苦しくなって80%、90%になると竹刀が飛んだ。
時間は、3分とか4分ではなく黒崎が
「ヤメ」
いうまでで、途中、トイレも許されず、サンドバッグを蹴りながら垂れ流すこともあった。
「お前の肉体は神様からの借りものだと思え。
鉛筆や消しゴムも自分のものだと大事にするが、人のものだと粗末にするだろ。
それと同じだ」
という黒崎建時は、麻酔無しの鼻手術、線香を1束、腕に当てて燃やし切るなどオリジナルな修行も考案。
その目的は
「必死の力、必死の心」
を引き出すことだった。
「人間は極限に追い込まれたとき、 無意識の内に秘めた、想像を超える力を出す。
ギリギリ自分の限界に立たされたとき、逆境を乗り切る根性と力を出す」

33歳の北沢幹之は佐山聡を
「いい根性している」
と思っていた。
「すごく負けん気が強い。
最初は大したことなかったけど研究熱心だからみるみる強くなった。
下手にこっちの技なんかみせられないほど飲み込みが早かった」
そしてある夜、散歩をしていた北沢は、道場に明かりが灯っているのをみてのぞいてみると一心不乱にサンドバッグを蹴る佐山聡がいた。
ある日、169cm61kgの藤原敏男に
「もっと体重落とさないと」
といわれた佐山聡は
「実は僕はプロれレスラーなんです」
と答えてしまった。
すぐに目白ジムから新日本プロレスに連絡が入り、佐山聡はアントニオ猪木に呼び出された。
「ヤバい」
と思ったが、意外にも
「練習熱心だな」
とホメられた。
そしてプロレスの秘密を知って2ヵ月後、1976年5月28日、18歳の佐山聡が後楽園ホールでデビュー。
9分44秒、北沢幹之にねじ伏せられた。
その後もTVに映らない10分1本勝負の前座で負け続け、55連敗1分の後、57試合目で初勝利を収めた。

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佐山聡がキックボクシングを始めた同時期、アントニオ猪木は異種格闘技戦を開始した。
力道山の時代から八百長、ショーとみなされ、スポーツとして認知されていなかったプロレスは、大相撲やボクシングに視聴率で引けをとらないのに、新聞でもニュースで試合を結果を報道されることはない。
この状況を覆し、プロレスの強さを認めさせるためには、ボクサー、空手家、柔道家、キックボクサーなど真剣勝負をやっている競技のトップクラスと戦って勝つしかない。
「プロレスこそ最強」
「プロレスこそキングオブスポーツ」
という猪木にファンはロマンを感じていた。
1976年2月6日、ミュンヘン・オリンピック柔道、93kg超級&無差別級金メダル、196cm、120kg、ウイリエム・ルスカは、その投げと寝技は圧倒的だったが、ドロップキックからバックドロップ3連発で20分35秒、TKO負け。
6月26日、ボクシング世界ヘビー級チャンピオン、スーパースター、モハメッド・アリとの戦いは、アンバランスなルールのスキマをついて猪木がスライディングキック(アリキック)に終始し、15Rドロー。
単調な内容に「世紀の凡戦」といわれたが、アリは左脚を痛めて入院。
猪木は何億という借金を背負い込んだ。
このモハメド・アリ戦に備え、アントニオ猪木は藤原喜明や佐山聡と特訓。
相手のパンチに対し滑り込みながらのローキックを放つ猪木に
「逃げながら蹴るんじゃなくて相手の懐の中に入っていったほうがいいんじゃないですか」
佐山がいうと
「オメェやってみろ、このヤロウ」
と藤原喜明に殴られた。
12月12日、パキスタンの英雄、アクラム・ペールワンから挑戦状が届き、猪木は敵地、カラチ・ナショナル・スタジアムに乗り込んだ。
3R、1分5秒、アーム・ロックが完全に極まっているのにギブアップしないペールワンに、猪木は、その腕をへし折り、ドクターストップで勝利。
特筆すべきなのは、モハメド・アリ戦とアクラム・ペールワン戦はリアルファイトだったということだった。
プロレスラーでありながら、打・投・寝、すべてOKの格闘技を目指していた18歳の佐山聡は、猪木に
「打撃と投げと関節技を合わせた新しい格闘技をつくりたいんです」
と打ち明けた。
そして
「わかった。
お前のいう新しい格闘技をウチでやろう。
実現したときお前を第1号の選手にする」
といわれた佐山聡は、ずっとこの約束を信じ続けた。

年が明け、1977年4月、新日本プロレスが大阪府立で興行を行ったとき、アントニオ猪木の付き人だった佐山聡は洗濯物を抱えコインランドリーを探していた。
そして公園で蹴りの練習をしている2人の男を発見。
「いい蹴りだ」
と思い、近づいた。
「それは空手ですか、キックですか?」
それが前田日明と彼の先輩で空手の師匠である田中正悟だった。
3人は意気投合し、後日、田中と前田が通う道場で一緒に稽古をした。
「佐山さんは、身長は小さかったですけどサイコロみたいに横幅がありましたし、もう組んだらポーンって投げられてどうしようもなかったですね。
凄い力やなぁと思って」
そういう前田日明のバイブルは、マンガ「空手バカ一代」
極真空手の大山倍達の弟子達のようにアメリカで空手の道場を開くのが夢で、大学受験に失敗しアメリカ行きの金を貯めるためアルバイトに明け暮れていた。

1977年7月、佐山聡から2年遅れて、前田日明が新日本プロレスに入門。
佐山聡に、
「大阪に体の大きな空手の選手がいる」
と聞いた猪木は、それを新間寿に話した。
新間は田中正悟と連絡を取って大阪に飛び、前田日明をスカウトした。
「プロレスラーにならないか?」
「とんでもない。
自分は無理です」
「君はモハメッド・アリが好きか?
ヘビー級ボクサーになる気はないか?」
「ヘビー級ボクサーだったら考えてもいいです」
「じゃあモハメッド・アリの弟子にしてやろう。
ウチはモハメド・アリのジムと提携してるから一緒のジムに入ってボクシングのヘビー級チャンピオンも目指せる。
ただ君はまだ体ができてないんでウチで1~2年間体を大きくしてアリの弟子になったらいい」
「新日本プロレスに1~2年食べさせてもらってトレーニングさせてもらって、どうやってお返しすればいいんですか?」
「ちょっとだけ試合してくれればいいから」
新日本プロレスはモハメド・アリのジムと提携などしておらず、大ウソだったが前田は
「金を貯めなくてもアメリカにいける」
と思い、新日本プロレスに入ることにした。
192cm、73kgとガリガリだった前田は、キツい練習とトレーニングをした後、山盛りのドンブリ飯を5杯から10杯食わされた。
前田にとって2歳上の佐山聡はしっかり者の兄貴のような存在だった。
「礼儀正しくて優しい。
好青年というものを生きた形にしたらあんな人になるという・・・
すごく気が利いてみんなから絶賛されていた」
北沢幹之は佐山聡を
「マジメで頭がいい」
とかわいがっていたが、前田日明は
「アイツは真っすぐしかみえない。
口の利き方から何から生意気」
と殴ることはなかったが
「かわいがらなかったです」
という。

東北を巡業中、前田日明は着替え中の藤原喜明にあいさつ。
しかし、
「シッシッ」
と手で追い払われた。
そして開場前、リングで汗を流す藤原が相手がいないのをみて
「藤原さん、スパーリングお願いします」
と志願したが、
「シッシッ」
1ヵ月後、山口県で、その藤原と前田のやり取りをみたアントニオ猪木は
「藤原、たまには新弟子の相手をしてやれよ。
ヨシッ前田、俺がやってやる」
といった。
「何をやってもいいんですか?」
「いいよ」
目前に立つ猪木に前田は金的蹴りから目突き。
金的蹴りは太い内腿にガードされたが、目は無防備で猪木が
「ウーッ」
となった瞬間、周りで練習していた先輩レスラーがリングになだれ込んできて前田はボコボコにされた。
それを横でみていた藤原は大笑い。
「バカは死ななきゃ直らない」
といって、それから毎日、前田とスパーリングをした。
このとき藤原喜明は28歳。
レスラーとしては前座だったが、実力的には誰にも負けないという裏番長的な存在だった。
前田日明は、スパーリングでオモチャにされながら藤原がなぜTVに映らない前座なのか、藤原より実力で劣るレスラーがリングでスポットライトを浴びているのか、不思議で仕方なかった。

1977年10月12日、京王プラザホテルで記者会見が開かれ、梶原一騎主催の格闘技イベント「格闘技大戦争」が日本武道館で行われることが発表された。
その内容は、日本のキックボクサー vs アメリカのプロ空手家。
アメリカは、ブルース・リーの映画の影響でプロ空手(マーシャルアーツ)が大ブームで、特にライト級チャンピオン、ベニー・ユキーデは大人気で、ロサンゼルスに「ジェットセンター」という大きな道場を構えていた。
またヘビー級チャンピオン、ザ・モンスターマンも2ヵ月前に猪木と異種格闘戦を行っていた。
「格闘技大戦争」のメインはライト級の藤原敏男だったが、佐山聡も参戦することになった。
すでに1ヵ月前に目白ジムの第1次合宿を行い、数日後から第2次キャンプに参加する予定で、試合までに90kg以上あった体重を77.5kgまで落とさなければならなかった。
一方、新日本プロレスでは、アントニオ猪木 vs チャック・ウェップナー戦が迫っていた。
チャック・ウェップナーは、ニューヨーク生まれのヘビー級ボクサーで、絶対勝てないといわれながら世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリと対戦し、ダウンを奪い、映画「ROCKY」のモデルになった。
1977年10月25日に行われた試合では、佐山聡考案のオープンフィンガーグローブが使用された。
「ブルース・リーの映画に出てきたグローブを参考にして(リングシューズを製造していた)近藤靴屋さんにつくってもらったんです」
猪木は、そのグローブを
「いいな」
と採用したが、試合後
「太すぎて脇がさせずやりにくかった」
といった。

1977年11月12日、京王プラザホテルで「格闘技大戦争」の調印式が行われた。
梶原一騎は

・2分6R、インターバル1分
・キックとパンチOK
・肘打ち禁止
・首相撲の制限あり
・投げ、寝技禁止。

などというルールを発表したが、佐山聡は

・ノーレフリー
・ノーグラブ(素手)

という「完全フリースタイル」を希望したが認められなかった。
2日後の試合当日、アントニオ猪木や藤原喜明がリングサイドに、山本小鉄がセコンドに入った。
相手は、プロ空手ミドル級とスーパーウエルター級で3位のマーク・コステロ。
佐山は
「頭から落とせば勝てるだろう」
と反則のスープレックスやバックドロップ。
「決まった」
と思ったが、レスリング経験者のコステロは柔らかく受け身をとって立ち上がってきた。
そして打撃戦では目白ジムで特訓したパンチとローキックを繰り出したが当たらず、長身のコステロのパンチと蹴りでメッタ打ちにされ、ダウンを繰り返した。
結局、6Rで7度のダウンを奪ったマーク・コステロが判定勝ち。
試合後、
「すみません」
と謝る佐山聡にアントニオ猪木は
「なにいってるんだ」
といい、山本小鉄、藤原喜明も最後まで倒れなかった佐山をホメた。
しかし新日本プロレスの先輩レスラーに
「だらしない」
「恥」
といわれることもあり、佐山聡は悔しくて河原にいって草木を蹴飛ばした。
このときはまだ前座で、試合翌日のスポーツ新聞に「佐山トオル」と書かれてしまうほど無名の存在だった。

1978年6月、20歳になった佐山聡は
「猪木さんはいつになったら格闘技をやらせてくれるのだろう」
と思いながら日々、プロレスと格闘技の練習を続けていた。
そんなときに坂口征二副社長にメキシコ遠征を命じられ、
「なぜショー的要素が強いメキシコにいかなければならないのか」
「格闘技の選手になるのではなかったのか」
と不服だったが渡墨。
まず標高1589m、メキシコ第2の都市、グアダラハラのリングに上がり、5ヵ月後、首都、メキシコシティへ。
標高2250mのラテンアメリカ最大の都市は3000m級の山々に囲まれた盆地で、佐山聡は、ここで先輩の木村健悟と共同生活。
木村は
「なんで飛んだりしなきゃいけないんだ」
と新日本プロレスのストロングスタイルを貫き、入場時、小便入りのコンドームをぶつかられながら、ルード(ヒール、悪玉)として高い評価を受け、NWAライトヘビー級チャンピオンにもなった。
一方、佐山聡は、テクニコ(善玉)として跳んだり跳ねたりの正統派のメキシカンプロレスを行い、トペ(場外ダイブ)を放った。
また飛び上がってからの後ろ回し蹴り「ローリングソバット」
相手に体をかけ上げって蹴り、後転して着地する「サマーソルトキック」
など日本では使えなかった技も試し、メキシコのプロレスファンを魅了。
専門誌、ルチャ・リブレで、レスラー・オブ・イヤーとテクニシャン・オブ・イヤーに選ばれた。
佐山はメキシコでも格闘技の練習をするため、サンドバッグを買って、部屋に吊り、1人で2つをダメにするほど蹴り続けたが、関節技の練習はほとんどできなかった。

1978年7月、藤原喜明とスパーリングやり始めて1年くらい経った前田日明は、坂口征二に
「スパーリングやろう」
といわれ、
「元柔道日本一はすごいんやろうな」
と思ったが、やってみると意外に極められなかった。
しかし他のレスラーもみている中、気を遣ってわざと関節を取らせ、坂口が腕ひしぎ十字固めを極めてスパーリングは終わった。
それをみていた藤原は前田を呼んで、
「俺はそんなことをするためにお前にスパーリングを教えてるんじゃない」
と涙を流しながらいい、それをみて前田は
「こんなにオレのことを思ってくれている」
と感動した。

1980年1月、長年、アントニオ猪木の付き人を務め、30歳を過ぎた藤原喜明は、
「褒美をやろう。
なんでもいってみろ」
といわれ
「フロリダに行かせてください」
といった。
許可されるとゴッチの家の近くにアパートを借り、ゴッチからマンツーマンで指導を受けた。
そして3ヵ月経った頃、佐山聡がアパートに転がり込んできた。
日本以上にショーアップされ格闘技のニオイがまったくしないたメキシコのプロレス。
標高2240mと空気が薄い上、食事も合わず、治安が悪いため気軽に出歩けない。
約1年間のメキシコシティ滞在で体調不良と欲求不満を重ねた佐山聡の体は10kg減。
親友のジムで指導するためメキシコを訪れたカール・ゴッチは別人のようにやせてしまった佐山をアメリカにつれて帰ったのである。
以後、3人のトレーニング生活が始まった。

9時、起床
10時、ゴッチが2、30分かけて車で迎えに来る
11時、トレーニング開始

家の前に2.5kmほどの真っすぐな道があって、電柱が建っていて、あの電柱まではアヒル歩き、次の電信柱までは佐山が藤原をオンブして歩き、その次の電信柱までは藤原が佐山に足を持ってもらい腕立て歩きなど、いろいろなメニューで往復5kmを90分かけて進み、
「もうすぐ終わりだ」
と思っていると
「引き返せ」
といわれることもあった。
そしてトランプを使ってトレーニング。
2人、交互にトランプをめくり、ハートなら腕立て伏せ、スペードはスクワット、クローバーは腹筋。
ハートの9が出たら腕立て伏せ9回となるが、スクワットだけは出た数字の2倍の回数を行う。
その他、庭に木に吊るしたロープを登るなど自重を使ってさまざまな角度から筋肉に負荷をかけた。

14時、食事と水で割った赤ワインを飲む。
休憩後、町の柔道場に移動し、ブリッジなどの基本動作、関節技の練習、スパーリング
17時、合計5、6時間のトレーニングと練習が終了
18時、スーパーで買った安いステーキ肉と赤ワインで夕食
21時、ゴッチに車でアパートまで送ってもらった2人は、ゴッチから教わったことをノートに、藤原はイラスト入りで、佐山は文章で記録した。

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