松岡修造という人物
松岡修造は何だか分からないけど熱い人、というイメージがあるかもしれません。しかし、その熱い言葉は自身が経験した厳しいプロツアーがあるからこそです。今回は松岡修造のテニス選手としての歴史を振り返りたいと思います。下の名言も歴史を知った後は違う受け取り方が出来るかもしれません。
何言ってんだよ!! その崖っぷちが最高のチャンスなんだぜ!! 自分の全ての力を出し切れるんだから!!! 崖っぷちありがとう!! 最高だぁぁぁぁぁぁぁ!!!!
http://iso-labo.com/labo/words_of_SyuzoMatsuoka.html名言・格言『松岡修造さんの気になる言葉』一覧リスト | iso.labo
一番になるっつったよな? ナンバー1になるっつったよな!? まずは、形から入ってみろよ! 今日からお前は!!一番だ!!!
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100回叩くと壊れる壁があったとする。 でもみんな何回叩けば壊れるかわからないから、 90回まで来ていても途中であきらめてしまう。
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よく、時間が解決してくれると言うけれど、そうは思わない。 でも、行動した時間なら解決してくれるはずだ。
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人は完璧を求める。 しかし、完璧だと思った時から全てがやり直しとなる。
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凄い家柄の松岡修造
家計を辿るととにかく圧巻、サラブレッド中のサラブレッドです。
曽祖父は政治家であり実業家、祖父、父とも関西財閥として経済界に影響を与える人物です。
反対を押し切ってプロテニスプレーヤーに
ボブ・ブレッド
選手生命を危ぶまれる怪我
1988は好成績を収めてこれからの活躍が期待されていましたが、89年初頭からケガとの戦いが始まりました。
リハビリからの復活そしてウィンブルドン
松岡修造 - Wikipedia
その後病気によるツアー離脱により、ランキング100位が壁になってしまいました。その後1995年ウィンブルドンでハイライトが訪れます。
テニスからの卒業
96年ウィンブルドンで念願のセンターコートでのプレーを果たします。
そして、98年、30歳での引退を発表しました。
その後はくいしん坊万歳や報道ステーション、各CMなどテレビでの活躍も目立ちます。伊達公子がフェデレーションカップでグラフと対戦した際には日本の旗を振って熱い応援をしていました。(その後伊達公子は松岡の応援についてうるさいから集中できないと苦笑い)
一人海外に飛び込み、プロツアーで戦ってきた松岡は常に自分を応援していたといいます。テニスから卒業後、今度は人の応援をすることを役割とした松岡は熱い言葉で色々な人を応援する、ポジティブなキャラクターが人気となりました。
松岡修造と錦織圭
世界で戦えるジュニア、若手プレーヤーの育成も命題としており、熱い指導をしています。そこに子供時代の錦織圭がいました。まだ小学生だった錦織の才能に気づいた松岡は厳しい指導をします。短い期間の指導とはいえ、松岡と錦織は日本のテニス界の新しい形だと思います。
プロツアー経験者である松岡がジュニアを指導するということは、世界を意識したプロとしての考えも指導されるということです。
「あの修造チャレンジのおかげで世界を目指すことができて、グランドスラムも小さい頃から意識してやっていたので、本当に修造さんのおかげです」
http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2014/09/09/kiji/K20140909008903280.html錦織 “師匠”修造氏に感謝「修造チャレンジのおかげで世界目指せた」 — スポニチ Sponichi Annex テニス
松岡修造が日本テニス界にもたらしたもの
高校時代から強烈な自己を持った松岡は周囲の反対も納得させ、プロ入りを果たします。単身アメリカに渡って英語を習得し、プロツアーを回る。裕福な実家の援助は受けられずお金の無い時代を過ごす。これを苦労と捉えるのが日本的な考え方かもしれません。
松岡は自分が決めたプロでの生活をしっかり切り開き、ウィンブルドンベスト8、ツアータイトル獲得など日本人で初めて海外ツアーを主戦場にするプロ選手としてのベースを作り上げました。
錦織がアメリカに渡り、現在の活躍に至る道筋も松岡の作り上げた道と言えると思います。
日本人でも海外で勝負するプレーヤーになれるという新しい価値観を植えつけたということが、松岡が日本テニス界にもたらした最大の功績だと思います。