2005年11月4日、ジェフはナビスコカップの決勝に進出。
決勝戦を明日に控えた練習で、紅白戦が行われ、坂本將貴の横パスを補欠選手がインターセプト。
それをみたオシムは激怒。
「もう終わりだ」
と練習を止めてしまった。
こうして練習は10分くらいで終わってしまった。
2005年11月5日、ナビスコカップの決勝戦当日、ジェフの相手はガンバ大阪だった。
2チームとも勝てば初のタイトル獲得という顔合わせだった。
試合は両チームとも決め手を欠き、本戦90分、延長戦30分、合計120分を0-0で終え、PK戦に突入。
ガンバ大阪に負傷退場者が出ていたため、ルールでジェフも1人だけベンチに残さなくてはならず、オシムは
「俺はロッカーに戻るから、サカ、お前もベンチに戻れ」
と坂本將貴にベンチに残るよう指示し、自分はロッカーに引き上げた。
ユーゴスラビア代表監督時代、イタリアワールドカップでアルゼンチンにPK戦で敗れて以来、自分のチームのPKはみなくなっていた。
PK戦では、ガンバの1人目、遠藤保仁のキックをジェフのGK立石智紀がセーブ。
ジェフの5人目、巻誠一郎のキックが決まった瞬間、ジェフの初優勝が決まった。
J13年目で初のタイトル獲得だった。
ピッチに戻ったオシムは、優勝インタビューを受けた。
『なぜ胴上げを断られたんですか?』
「私の体重は重すぎるので選手たちがケガをしてしまいます」
『なぜPK戦をベンチで一緒にご覧にならなかったのは何故ですか?』
「私の人生の中でPK戦は悪いほうに傾いてきたのでみませんでした」
オシムがPK戦をみないことに対して、監督として無責任ではないかと批判的な意見もあった。
オシムは、それに対してよく
「心臓に悪い」
といっていたが、実際、オシムは心臓に持病があって、常時薬を持ち歩いていた。
他に糖尿病、高血圧をあって、よく頭痛やめまいが起こしていたが
「水を飲めば治る」
といって常にペットボトルを持っていた。
1シーズン制となった2005年シーズンの最終節で、ジェフは名古屋グランパスと対戦。
試合前の時点でセレッソ大阪と勝ち点2差の5位で、逆転優勝の可能性もあった。
試合終盤、グランパスに先制点を許したが、8分後に阿部勇樹がPKを決めて同点。
アディショナルタイムに坂本將貴が決勝ゴールを決めた。
最終的に2位のガンバ大阪が優勝し、ジェフは4位に終わったが、オシムは最後まで諦めなかった姿勢を評価した。
チーム予算が乏しく、毎年、有力選手が去り、毎年「戦力ダウンした」といわれ続ける中、ジェフは
2003年(監督就任1年目) 1stステージ3位、2ndステージ2位、シーズン3位
2004年 1stステージ7位、2ndステージ2位 シーズン4位
2005年 シーズン4位、ヤマザキナビスコカップ優勝、ホームスタジアム(市原緑地運動公園臨海競技場)リーグ戦31戦連勝(2003年1stステージ第5節~2005年第20節)
と結果を出し続け、
「ミラクル」
「マジック」
といわれた。
2006年も、前半戦を5位、ヤマザキナビスコカップ準決勝進出という好成績で折り返し、この後に始まったドイツワールドカップには巻誠一郎を日本代表に送り込んだ。
(阿部勇樹も日本代表候補として召集されていたが、最後に23人代表メンバーから漏れた)
ワールドカップ期間中、ジェフは岐阜県飛騨でのキャンプに入った。
日韓ワールドカップでフィリップ・トルシエ監督は、選手に軍隊のように命令通りに動くことを求めた。
マスコミの選手取材を禁止し、自身もテレビ1局の取材しか応じないなど厳しい管理体制をとった。
それに対しドイツワールドカップで日本代表の指揮を執ったジーコは、選手の自由、自律、創造、打開によるチーム力向上を目指し、練習も完全公開。
そのやり方は多くの支持を得た。
中田英寿、中村俊輔の2大司令塔に、高原直泰、小野伸二、稲本潤一、小笠原満男、遠藤保仁、加地亮、稲本潤一、柳沢敦らを加えたチームは「歴代最強」といわれ、ワールドカップ開始前に行われた試合で、欧州チャンピオンのギリシャに1-0、ブラジルに2-2、開催国ドイツに2-2という結果を出し
「十分にイケる」
と期待させたが、実際にワールドカップに入ると初戦のオーストラリア戦で1-0とリードしながら、ラスト6分間で3失点し、1-3の逆転負け。
その後、クロアチア戦0-0、ブラジル戦1-4。
結局、1分2敗で予選リーグ敗退。
トルシエジャパンのベスト16進出を大きく下回った。
その上、中田英寿が引退を発表。
暗いニュースが続き、日本は意気消沈した。
2006年6月24日、ワールドカップを総括する記者会見が成田空港近くのホテル日航ウインズで行われた。
ドイツから帰国したJリーグ初代チェアマンであり日本サッカー協会会長の川渕三郎は、
『次の日本代表監督は、(フィリップ・トルシエのように)オリンピック日本代表監督も兼任するのか』
という質問に対し、
『日本代表監督はオリンピック日本代表に協力するが、オリンピック日本代表監督はあくまで反町康治氏である』
と答えようとして、その中で、
「反町監督がオリンピックチームをみてもらい、そしてそのスーパーバイザーとして総監督という立場でオシムが・・・・
あっ!オシムがじゃない!
あの~オシムっていっちゃったね」
と口を滑らせてしまった。
それまでサッカー協会は時期日本代表監督については一切情報を明かさないと明言していた。
その組織のトップが、オシムと交渉中であることを明かしてしまった。
テレビカメラ6台、記者100人が入る会見場は、一瞬、静まり返った後、どよめいた。
川渕三郎は、顔を引きつらせて、しどろもどろになりながら釈明をはじめた。
「弱っちゃんったねオレ・・・
つい何となく話の過程で口走ってしまって・・・
これをまたウソをついて取り消すのも変な具合だし・・・
どうするかねえ…
あんまり頭が整理されていない段階で口走ってしまったんだけど・・
う~ん・・・ここで聞かなかった話にはならないだろうね。
う~ん・・・ちょっと田嶋(幸三)技術委員長と話をさせてください」
と会見を一時中断。
急遽、釜本邦茂(サッカー協会副会長)がマイクの前に立って場をつなぎ、その間、川渕三郎は、ジェフの淀川社長ら関係者に連絡し謝罪。
退席から10分後、川渕三郎がしょんぼりと再登場。
「史上最大の失言です。
シーズン中なので千葉の選手、関係者に十分に配慮しなければならない。
来週以降、田嶋が交渉を行います」
6月29日(川渕三郎会見から5日後)、ワールドカップを現地で観たオシムが帰国。
ジェフのクラブハウスにいくと100人を超える報道陣に加え、多くのサポーターが待ち構えいて、オシムに残留を訴えた。
午後の練習が終わった後、オシムは記者会見を行い
「日本代表監督への就任はそう簡単に決断できない。
責任が大きいし私は今ジェフに所属している。
共に戦っている仲間がいるのに1人で簡単には決められない」
と思い悩む表情をみせながら吐露。
記者会見を終え、夜、家に帰るためクラブハウスを出ると、待っていたすべてのファンの握手やサインに応じてから車に乗った。
6月30日、記者会見翌日、オシムは、ジェフのキャンプが張っている岐阜県飛騨市に移動し、夕方から指導。
7月1日、オシムは、急遽、練習開始時間を30分早めた。
「30分くらい」
と思いながらもスタッフや選手は準備し、9時に練習開始。
4対2の練習の最中、オシムはワールドカップ帰りの巻誠一郎に
「マキは代表に行ってからヒールパスが多くなったな。
まずはキチンと(パスを)つなごう」
とチクリと一言、釘を刺した。
2006年7月18日、オシムは川淵三郎と会談。
選手の起用法について
「古い井戸があります。
そこには水が少し残っています。
それなのに古い井戸を完全に捨てて新しい井戸を掘りますか?
古い井戸を使いながら、新しい井戸を掘ればいいんです。」
と表現した。
2006年7月21日(川渕三郎会見から約1ヵ月後)、日本サッカー協会が、イビチャ・オシムの日本代表監督就任を発表。
オシムは
「契約は結婚のようなもの。
だいたい初めはうまくいくが、その後がどうなるかはわからない」
「代表は車に例えられる。
全員がこの車を後押ししなければならない。
今、日本の車は一時的に止まっている。
だからこそ強く、全員で押さないといけない」
と述べた。
2006年11月3日、オシムの日本代表監督就任となって3ヵ月後、ジェフはナビスコカップの決勝戦で鹿島アントラーズと対戦。
試合終了直前、鹿島ディフェンスのスキを突いてジェフの水野晃樹が先制ゴール。
その後も攻撃の手を緩めず、2分後にセットプレーから阿部勇樹がゴールを決めた。
前年のガンバ大阪との決勝戦では、0対0からPK戦にもつれたジェフが、今年は2対0で快勝し、ナビスコカップ2連覇を果たした。
国立競技場で胴上げされたのは、オシムの息子、アマルだった。
川淵三郎の失言が発端となって、オシムは契約満了を待たずしてジェフの監督を辞任。
コーチだったアマルが監督に昇格した。
ジェフサポーターにとって、オシムが日本代表監督が選ばれたことは誇らしかったし、ジェフから多くの日本代表が選ばれることも期待されたが、何よりも喪失感が大きかった。
事実、オシムが去った後、ジェフは低迷。
ナビスコカップでは優勝したものの、2006年シーズンは11位。
屈辱の2桁順位は、オシムが監督になった2003年以降、初。
2007年は残留争いに巻き込まれながら、13位でJ1残留。
アマルは解任された。
2008年は奇跡的に残留したが、2009年にJ2降格。
この間に、キャプテンの阿部勇樹、選手会長の坂本将貴、水野晃樹、羽生直剛、山岸智、水本裕貴、佐藤勇人など、2006年に奇跡を起こしたメンバーの半数が他チームへ移籍した。
「オシムさんが辞めた後も、息子のアマル・オシムコーチが昇格して監督になっていたので練習は変わらなかったんです。
でもイビチャ・オシム監督ともう1回一緒にやりたいという思いが強かった。
だから自分が代表に入るためには何をしなければいけないかって考えていました。」
(阿部勇樹)
「みんなオシムさんに育てられた選手ばかりなので、ジェフでオシムさんのサッカーができないのであれば新しいところでトライしないとというのはありましたね。
あとオシムさん自身が『リスクを冒せ』と、ことあるごとにいっていましたから。
自分に関しては、京都の監督だった(加藤)久さんから『ウチでオシムさんのサッカーを実現させるために力を貸してほしい』といわれたのが大きかったですね。
京都の選手としてジェフと対戦するときは、正直、複雑な気持ちでした。
ブーイングはある程度、覚悟していたんですけれどかなり罵声も浴びせられました。」
(佐藤勇人)
川渕三郎の失言によって、2010年のワールドカップ南アフリカ大会に向けてドタバタの船出はとなった反面、オシムジャパンはサッカーファンのみならず一般の人からも注目度が高まり、「オシム語録」はブームとなった。
2006年8月4日、就任から約2週間後、オシムが最初の日本代表を千葉県に招集。
その人数は13人だったが
「11人以上いるので試合はできますよ。
この13人は90分間走れる選手。
それは冗談ですけど」
といい、この後、数名を追加招集。
日本代表初の「2段階召集」だった。
結局、召集されたメンバーは、ドイツワールドカップ経験者4名、海外組0人で、初招集や代表歴の浅い選手が大半を占めた。
以下は追加招集組の1人で日本代表初選出の鈴木啓太のコメント。
「オフだったので知り合いに会う予定を入れていました。
そしたら(浦和レッズの)強化部長からいきなり連絡がきて『明日から千葉にいってくれ』っていわれました。
ゴールデンエイジがいなかったことがすごく不思議でした。
僕たちの年代からすると、ずっと追いかけてきた高い壁みたいな人たちだった。
そんな人たちがいない代表って?って感じでした」
鈴木啓太は、オシムジャパンの全試合で先発出場し、オシムに「日本のマケレレ(クロード・マケレレ、フランス代表、レアル・マドリード、チェルシーで活躍をしたMF)」と評価されることになった。
この初召集で平成国際大学と練習試合を行われ、オシムは、先発メンバーだけを決め、
「ポジションは自分たちで決めろ」
と後は選手に任せた。
記者にその意図を聞かれ
「ここは軍隊じゃない。
命令など出しません」
と答えた。
翌日の練習で、8対8のミニゲームで3点しか入らなかったときも
「決定力不足では?」
と問われ
「シュート練習をして100点入れればいいのでしょうか?」
と答えた。
たくさんの色のビブスを使用するなどオシム独特の練習に苦戦する代表選手が多かったが、スタッフやコーチもオシムと組むのは初めての人間が多く、戸惑うことが多かった。
大熊清コーチもその1人だった。
「代表コーチは大変でした。
大変というか勉強になりました。
勉強になったけど意外なことはいろいろありました。
オシム監督には、練習のオーガナイズ(準備)、組み分けを練習前に1回しか教えてもらったことがないんです。
その1回も、メニューを1番から5番まで聞いて、グラウンドに到着して1番の準備をしてたら5番から始まって・・・
そんな感じだからピッチではオレが1番緊張してたと思う。
バスでグラウンドに行くのが憂鬱でね。
その日何があるかわかんないし先がみえないから。
オシム監督は途中でいろいろ練習の内容を変えるし。
監督から次はどうするかって聞いてからコーン並べるんでメニューからメニューの間隔が長くなるし。
オシム監督の頭の中には全部入ってるんですよ。
それをこっちがわからなきゃいけない。
監督から4人のグループを4組つくれっていわれて選手をわけていると、
「お前、組み合わせを考えてやってるか」
「これ適当じゃないぞ」
っていわれるんです。
「どんな意図があってこの組み合わせなんだ」
とかいわれるからこっちも必死ですよ。
スタッフミーティングのときも2回ぐらい「出て行け」っていわれました。
監督がいきなり「コーチはみんな出ていってくれ」っていうんですよ。
理由もいわずに・・・「なんで?」って。
監督がああやっていたのは間違いなくチームって緊張感が大切だと示すためでしたね。
仕事は何でも緊張感がなくちゃいけない、一生懸命やっても緊張感がないとマンネリ化すると思ってたんでしょうね。
でもオシム監督は根がすごいいい人だから厳しいけどみんなついていきました。
口悪いけど。
あれも意図的なのかな」
(大熊清コーチ)
通常、代表合宿の夕食は18時からだったが、あるときオシムは
「18時30分にしたい」
とスタッフに伝えた。
しかしそれがうまく伝達されず、選手やコーチ、スタッフは先に食べ始めた。
遅れてきたオシムは、それをみて怒り、部屋に帰ってしまった。
すぐに大熊清コーチは、オシムの部屋まで食事を持っていった。
しかしベルを鳴らしてもドアは開かず、少し部屋の前で待っていたが食堂に戻った。
30分くらい経ってからオシムが食堂に現れ、1人で夕食を食べ始めた。
するとくつろいでいた食堂がピリッとなった。
2006年8月8日、トリニダード・トバゴ戦の前日、オシムは
「歴史、戦争、原爆の上に立って考えないといけない。
負けたことから最も教訓を学んでいる国は日本だ。
それが今は経済大国になっている。
サッカーは何で他の強国と肩を並べることができないのか」
となぜか負けて学ぶことの重要性を説いた。
そして2-0で初陣を勝利で飾ると
「気がかりなことがあります。
サッカーは試合時間が90分間あります。
今日は90分間走り切ることができない選手がいた。
今日得た最も大きな教訓は走ることだ。」
と述べた。
2006年8月13日、イエメン戦の代表発表の記者会見では、
「負けたいと思う選手は1人もいない。
失敗から学ぶ姿勢がなければサッカーは上達しない。
もしいつも勝たないといけない危機感があったら子供たちはサッカーをしなくなる。」
とコメント。
この試合で阿部勇樹が初召集され、以後、試合では守備の中心となり、練習ではオシムの意図を伝える役割も担った。
イエメン戦のハーフタイムでオシムは
「後ろ6人で(ボールを)回してどうするんだ。
リスクを冒していかないと未来は開けないんだぞ。
人生も同じだ。」
とカツを入れた。
日本代表はイエメンに2-0で勝利。
2006年9月1日、日本代表は、エジプト戦のために現地入り。
到着直後に練習を行なった。
そ高温多湿の気候について聞かれ、オシムは
「感想をいって天気がよくなるならいうが、いってもよくならないのでいいたくない。」
2日後のサウジアラビア戦で、0-1で敗北。
「考えないでプレーしていること。
せっかくチャンスをつくれそうな状況なのに、ただ前に蹴っているだけ。
子供病とでもいうか、子供のようなプレーは恥ずかしかった。」
2006年10月1日、ガーナ戦の代表招集の記者会見で
『今回の代表合宿で欧州組の招集も考えましたか?』
と聞かれ、オシムは
「私の頭が理髪店にいくためだけに存在しているとでもいうのでしょうか?
彼ら(欧州組)も(代表招集の)考慮に入っています。
しかし彼らが旅行している(代表に招集されている)間に自分の仕事場が誰かに取られたらどうなるのか。
彼らは日本サッカーのショーウインドーです。
欧州で日本のサッカーをみせている彼らは貴重です。」
と答えた。
2006年10月03日、ガーナ戦の前日、
『FWの前線からのプレスはカギになるのか?』
と聞かれ
「私が発明したわけではないが、現代サッカーでボールを失った時点でFWが最初のDFになることは重要。
これはいい質問で、私がサッカー学校のテストでみなさんに出された問題に解答を出したみたいだ。
戦術という科目のね。」
と記者を評価。
翌日、ガーナ代表に0-1で敗れ
『オートマチズム(連動性)に問題があるのでは?』
と聞かれると
「私は結婚して40年になるが、まだ嫁とオートマチズムは取れていない。
なのに3ヵ月でどうやって選手間でつくるんですか?」
と答えた。
2006年10月9日、インド戦を前にした練習後、オシムは
「覚えていてほしいが、どの戦術を採用するかではなく、チームはあらゆることに対応できるようになることだ。
それは試合前でなく試合中に。
臨機応変に変えられるチームを目指している」
と発言。
2006年10月10日、インド戦の前日記者会見で
『インドは守備を固めてくると予想されるが』
と聞かれ、
「あらかじめ戦い方は決められない。
相手の出方によって対応する。
決して受け身じゃないが相手が変化すればこちらも変化する。
最初から決められない。
裏をかくというのはあるが。
ここは相手のホーム。楽勝と考えるのは失礼。
国際試合では相手をリスペクトするのが負けない秘訣だ。」
翌日の試合は3-0で勝利した。
「それまで試合前に監督に個人的に呼ばれたことはなかったんですが、インド戦の前に初めて呼ばれました。
そのときいわれたのは、「自信持ってやれ」って。
その言葉はそれからも何度かいわれたかな。
2010年、南アフリカのワールドカップ前にもね、手紙で」
(阿部勇樹)
2006年10月17日、JFA公認S級コーチ養成講習会で講師となったオシムが、日本代表やJリーグの監督などを目指す25人に講義を行った。
「バルセロナを目指してやろう、と選手にいい聞かせる権利はある。
ただバルセロナとは差があることを実感するだろう。
監督として知っておかなければいけないのは“何ができて、何ができないか”。
簡単なことではない。
客観的に自分、選手、サポーターをみる。
スポンサーは成績を上げることを考えるが、それを冷静にさせることができるのは監督だけなんだ。」
2006年11月12日、アジアカップ予選、最終戦、サウジアラビア戦を前に、日本はすでに突破を決めていたが、オシムは
「名誉のため、内容と共に結果を求めます。
どうしても勝たないといけないという試合ではないが名誉がかかっている。
(選手の)テストだけでは終われません。」
と発言。
3日後、日本代表はサウジアラビア戦に、3-1で勝利した。
試合後の記者会見で
『サウジの24番をもっと厳しくマークすべきだったのでは?』
と聞かれ、オシムは、
「これは極端な話だが、バルセロナと試合するとき、ロナウジーニョにマンマークしたとする。
その場合はマークする選手が必要以上に怯える。
相手を消すプレーしかしない。
でもロナウジーニョをマークする選手が前線に走ったとき、ロナウジーニョがその選手の守備にいけば、もはやロナウジーニョではない。
そんな対策もある。」
と回答した。
2006年11月26日、JリーグのFC東京 vs 浦和レッズ。
浦和レッズは勝てば優勝だったが0―0の引分。
観戦していたオシムは、
「一生懸命探すニワトリだけが餌にありつける。
浦和はこの試合に負けても次で勝つ(優勝する)チャンスがあった。
オール・オア・ナッシングでいく(攻める)べきだった。
選手の疲労や負傷でそうできなかったかもしれないけど・・」
とコメント。
2006年12月17日、横浜でクラブワールドカップ、インテルナシオナル(ブラジル) vs バルセロナ(スペイン)が行われ、1-0でインテルナシオナルが勝利。
観戦後、オシムは、
「一方(バルセロナ)はスペクタクルに見せ物として戦った。
一方(インテルナシオナル)は生活のためにスキルを実用的に使った。
1人でも走れない選手がいては勝てない。
現代サッカーの特徴があらわれた試合。
誰を指してのこととはいいませんが・・・」
とコメント。
バルセロナの走れない選手とは、おそらくロナウジーニョ!
2006年12月18日、Jリーグ・アウオーズ(Jリーグの年度表彰式)で浦和のDF、田中マルクス闘莉王がMVPを受賞。
オシムは、
「これからDFを目指す人に価値あること。
よい攻撃をするにはDFが創造的で危険な攻撃をしないといけない。
カンナバロ(イタリア代表DF)もMVPをとってるし、日本も世界のトレンドを追っている。」
とコメント。
オシムはディフェンスに、後方から試合をしっかりと組み立てることを望み、フィード(供給、前線へパスを送る)能力が高い上、リスクを冒して点を取りにいく闘莉王を日本代表に初選出していた。
2006年12月20日、アジアカップの組合わせが決定。
予選グループリーグ(4チームずつの4グループにわかれ、各グループ上位2チームが決勝トーナメントに進出)で日本代表はグループBに入った。
グループBは、日本、ベトナム、UAE(アラブ首長国連邦)、カタールで「死の組」と呼ばれたが、オシムは
「オーストラリアや韓国と同じ組でもよかった。
タフなグループを勝ち抜く経験ができる。」
と強気。
2007年2月13日、2007年度の日本代表の日程発表の記者会見で、報道陣に欧州組の招集について聞かれたオシムは
「皆さん方が(欧州組を)呼びたがってるのはわかるが、呼んだらどうなるか副作用も考えなくてはいけない。
大阪-東京と欧州-日本は違う。
(来ることで)レギュラーを失う可能性もある。
どうしたらいいか皆さんの知恵も借りたい。
欧州にいる人がスーパーマンならいいですけど。」
と慎重な姿勢を示した。
2007年2月16日、日本代表は千葉県内で流通経済大学との練習試合で初選出された矢野貴章のハットトリックもあり、5-2。
オシムは
「争いが激しくなって選択肢が増える。」
とコメント。
2007年2月19日、日本代表は、東海大との練習試合で、10-0。
途中、選手が1タッチ、2タッチでパスを急いだ理由を聞かれ、オシムは
「私は何もいっていません。
選手に聞いてください。
でも選手に秘密にするので他言するなといったこともあります。」
2007年2月23日、Jリーグ監督会議で、2日前に行なわれた欧州チャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦、セルティック(スコットランド) vs ACミラン(イタリア)戦について、オシムは、
「ACミランには、よい選手が9人もそろっている。
セルティックが勝つには、ナカムラがもう1人はいないと、1人では連係もできない。」
とコメント。
この試合で中村俊輔が所属するセルティックは、強豪ACミランに終始押され、中村俊輔は2度フリーキックを狙ったが得点は挙げられず、0-0で引き分けていた。
少し前、中村俊輔は、ウエイン・ルーニー、ライアン・ギグス、クリスチアーノ・ロナウドなどをそろえるビッグクラブ、マンチェスターユナイテッドと対戦し、193㎝のファンデルサール(オランダ代表)が一歩も動けないほど芸術的なフリーキックを決めていた。
2007年3月19日、オシムはペルー戦の代表メンバーを発表。
初めて欧州組(中村俊輔、高原直泰)が召集された。
2007年3月23日、ペルー戦の前日記者会見で、中村俊輔と高原直泰、欧州組の2人ばかりに質問が集中すると、
「2対9。
2人の方ではなく9人の方が優先権がある。
彼ら2人のためにチームがやるのか、彼らがチームに適応するのか、どちらがいいのでしょう。
皆さんに聞きたい。
2人も大事だが、私にとって、その他の選手も大事なんです。
帰ってきた2人を楽な状況にしたい。
過度の期待が周りからかかってると感じているかも。
彼らも人間ですよ!」
とクギを刺した。
翌日、日本代表はペルーに2-0で勝利した。
2007年5月15日、日本代表候補合宿で、FWの選出方法について聞かれ、オシムは
「1トップ、2トップ、3トップなど戦術上、いろいろなタイプが必要になる。
それに高原も入れている。
あと日本にどんなFWがいるでしょう。
趣味の問題もある。
まあ趣味について論議してもしようがないという欧州のことわざもある。
ただ大統領令とか何か外からの基準で代表が選ばれるのは良くない。
イケメンだけの代表とか見かけではなく、プレーで真の代表を呼ばないと。」
翌日、流通経大と練習試合を2つ行い、共に1-0の辛勝で終わると
「ケガをしないことが第1で、それは選手もわかっているはず。
この練習試合で犬死にするようなインテリジェンスに欠けた選手はいないはずだ。
プロは全力を出すのが当然だが、その状況をわかることも大事。」
と過密日程で疲労しモチベーションも上がらない選手を擁護した。
2007年6月1日、日本代表はモンテネグロに2-0で勝利。
この試合に、(5月26日にセルティックの試合で右足首を負傷し、日本代表に合流するため日本に帰国していた)中村俊輔はベンチ入りしなかった。
次のコロンビア戦に出場させるのか聞かれたオシムは
「私も出てほしいと思う。
けれど私は医者じゃないので。
大事なのは100%のプレーができる準備が間に合うか。
まあ、ナカムラさんは素晴らしいスター選手ですから、私がここで先発を予告すれば、あと1万5000人ほどは観客が増えるかもしれませんね。
政府がそういう政策なら、協力してもいいかもしれません。
そもそも日本では、1つのニュース番組でナカムラが毎回3本ぐらいゴールを決める。
私が日本に来てから1500日くらいですから、5000点近くみたことになります。
私が生涯でみたゴールよりはるかに多い」
とコメント。
2007年6月4日、コロンビア戦前日の全体練習後、オシムはピッチ上で全選手を集め、3分50秒間のミーティングを行った。
記者会見でその内容を聞かれ
「話の内容は選手に聞いてください。
秘密とはいっていないので選手は正直にいうでしょう。
彼らがあなた方(マスコミ)に話した内容で、どのぐらい私の話が伝わっているかがわかるでしょう。」
翌日、日本代表は、中村俊輔(セルティック、スコットランド)、中田浩二(バーゼル、スイス)と稲本潤一(フランクフルト、ドイツ)、高原直泰(フランクフルト/ドイツ)の4人の海外組、遠藤保仁、鈴木啓太、中村憲剛、中澤佑二、阿部勇樹、駒野友一、GKの川口能活が先発。
前半、ボール支配率は日本49・8%、コロンビア50.2%とほぼイーブン。
後半、オシムは中田浩二と稲本潤一を下げ、今野泰幸、羽生直剛を投入。
60分、左サイドで高原直泰がボールを奪ってドリブルで持ち込んでから、右斜め前の羽生直剛へパス。
羽生直剛はダイレクトで中村俊輔へ。
中村俊輔もダイレクトで遠藤保仁へ。
遠藤保仁からさらに
「高原さんがボールをとった瞬間に前へ出ていった」
とゴール前へ飛び出していた中村憲剛へボールがつながった。
中村憲剛はフリー。
しかしシュートはバーを越え、スタジアムにため息がこだました。
その後も日本代表は攻め続け、終了間際に、高原直泰がヘディングシュートを浴びせたが得点は奪えず、0-0のドロー。
強豪、コロンビアと引き分けた後、記者会見でオシムは
「立ち上がりは『神風システム』という形で臨んだ。
例えばアジアカップでもあるでしょうが、勝ち点1を争うような試合ならば、今日は10分で選手の誰かを交代させていた。
今日のような試合ではなるべく長い時間でプレーをみたいこともあったので、あの時間帯までプレーさせた。
フィジカルで準備できていない選手がいたということ。
でも直すのは簡単です。」
翌月9日にアジアカップ初戦、カタール戦が迫っていた。
2007年6月21日、外国特派員協会で会見したオシムは、ドイツワールドカップで現役を引退した中田英寿氏のカムバックについて聞かれ、
「彼がなぜ辞めたのかはわからない。
しかし明らかにワールドカップでの失望と関係がある。
長くプレーすることで名声を失うことを恐れたのだろう。
まだ若いしプレーできる。
彼が再びプレーすることを決意するのなら代表にも居場所はある。
代表の扉は開いている。」
と語った。
2007年6月23日、田中マルクス闘莉王、伊野波雅彦、水本裕貴、3名のアジアカップ日本代表メンバーがJリーグの試合で故障。
オシムは
「他の国は20日前後準備期間があるのに、日本は30日までリーグ戦がある。
疲れ切った選手とケガ人を連れて大会に挑むのは、斬新なアプローチというしかない。」
と愚痴った。
2007年6月28日、千葉県内で行われた4日間の代表合宿を終え、オシムは、
「日本は前回(2000年、レバノン)と前々回(2004年、中国)と2大会連続で優勝しており、優勝候補扱いされるのは避けられない。
しかし優勝候補扱いされるのは、トランプでジョーカーを引いたようなもの。
嬉しがるチームはいない。
優勝候補と呼ばれるのは、いい気分ではない。
対戦相手は、我々を目標として挑んでくる」
とアジアカップの3連覇は容易ではないとした。
そして先発メンバーを聞かれると
「ピッチの状態がどうなのか、どの対戦相手なのかでスタイルは変わる。
1番、気にするのは気温と湿度。
高温多湿で誰が走れるのか、走れないのか。
うまい選手でも走れなければプレーしない方がいい。
(気候が)先発メンバーにも影響してくる。
試合当日の気温で判断が変わるかもしれない。」
とはぐらかした。
2007年7月7日、タイ、マレーシア、ベトナム、インドネシアの4カ国の共同開催となった2007アジアカップが開始。
日本代表は、高温多湿の環境で「走る」サッカーができるのか、懸念されていた。
初戦を前にして記者会見で
『3連覇を目指すにはムードが足りないという声があるが・・・』
と聞かれたオシムは
「あなたが監督をやれば雰囲気が良くなるのでしょう。
そもそも私は自分の選手たちに「王者になれるなんていったことはない。
日本の報道陣は知っているでしょう。
どのくらい準備ができて、できなかったかを。
「タイトルを守る」という質問は良くない。
結果はやってみないとわからないんだから・・」
と厳しい表情で答えた。
2007年7月9日、日本代表は、試合終盤にカタールに追いつかれ、1-1のドロー。
オシムは
「お前たちはアマチュアだ。
オレはプロだから死ぬ気でやっている。
お前たちはそこまでやっていない。
今日は6-1の試合だった。
ボクシングでいうなら3階級上の力の差を見せつけられたはずだ。
勝ち点6でもおかしくない内容だった。
事故、あるいは不注意でこうなった。」
と集中力を切らした選手を厳しく叱責。
試合翌日、選手たちがランニングシューズを履いてリカバリートレーニングをしようとしているのをみたオシムは激怒。
「お前らサッカー選手なのになんでスパイクを履いてないんだ!」
とスパイクを履かせてフィジカルトレーニングを行った。
2007年7月12日、第2戦、UAE(アラブ首長国連邦)戦を前に、オシムはミーティングで
「恥をかきたくなければチャンピオンの誇りを持って1次リーグを突破しろ。
1位か2位かなんて関係ない。
最悪なのは1次リーグが突破できないことだ。」
とチームに檄を入れた。
翌日、気温30度、湿度87%という環境で行われたUAE戦で日本代表は3-1。
2007年7月15日、第3戦、ベトナム戦の前日、記者会見でオシムは
『試合中に(同組の)UAE vs カタール戦の経過を選手に伝えるか?』
と聞かれ、
「こういけばこうなるとか憶測を巡らすのは得策ではない。
何が起こっているか知った後、既に手遅れになっている可能性もある。
私を含めて代表スタッフはある程度の数学はできるので必要なことはわきまえている。」
と答えた。
そして翌日、日本代表はベトナムを4-1で下し、予選グループリーグを1位で通過した。
2007年7月20日、アジアカップ決勝トーナメント初戦(準々決勝)、ドイツワールドカップで敗れたオーストラリアとの試合を翌日に控え、オシムは、
「相手の身長、体重を気にするファンの多い国のチームとしては大きな問題だ。
問題は体の大きさとテクニックの両方になる。
我々の選手が大きければ下手になるだろうし、そういう選手はレスリングをすればいい。
しかしレスリングの試合でも多分、オーストラリアの方が強いでしょう。」
とオーストラリアのフィジカルの強さを表現。
そして試合は、オーストラリアに先制を許すも、同点に追いつき、PK戦に突入。
日本代表は、GKの川口能活は1人目と2人目を止め、キッカー4人が決め、PK戦を4-3で勝利。
オシムはPK戦に入る前に控え室に戻った。
「病気じゃなくてもPK戦は心臓に悪いから。
私は日本では死にたくない。
死ぬならサラエボで死にたいですから、みていて心臓発作を起こすわけにはいかない。」
7月25日、サウジアラビアとの準決勝で日本代表は、2度のビハインドに追いつく粘りをみせたが、最終的に2-3で負けた。
7月28日、3位決定戦で日本代表は韓国と対戦。
勝っても負けても最終戦になる両チームは、互いに譲らなかったが、後半、韓国の姜敏壽が2枚目のイエローカードを受け、退場。
10人となった韓国に対し日本は積極的に仕掛けたが、相手ディフェンスをこじ開けられず、同点のまま、延長戦へ。
延長戦でも、数的有利な日本は得点は奪えず、PK戦へ突入。
PK戦で、韓国は6人連続で成功し、日本は6人目が止められ、敗れた。
10人の韓国から点を奪えなかったオシムは
「チームのレベルアップは、個のレベルアップなしにはない。
サッカーはそういうスポーツです。
我々にも俊輔や高原のような優れた選手はいる。
でもそれだけでは足りない。
バルセロナですらコレクティブ(集団的プレーに優れている)なのですから・・」
と語った。
オシムジャパンは、トルシエ、ジーコと優勝していたアジアカップの連覇に失敗し、4位。
アジアカップの優勝チームは南アフリカワールドカップの前に開催されるコンフェデレーションズカップの出場権が、3位までに入れば、次回アジアカップの予選免除で本戦出場という特典が得られたが、どちらも手に入れることはできなかった。
セルジオ越後は、ニッカンスポーツのウェブサイト内に設置された自身のブログで、
「オシムは最低の監督」
と批判し、更迭を要求した。
アジアカップで評価を落としたオシムジャパンだったが、その後
8月22日、親善試合、カメルーン戦、2-0
9月7日、3大陸トーナメント(オーストリア開催、日本、オーストリア、スイス、チリが参加)オーストリア戦、0-0(PK4-3)
9月11日、3大陸トーナメント、スイス戦、4-3(トーナメント優勝)
10月17日、アジア・アフリカ選手権(アジアチャンピオンvsアフリカチャンピオン)、エジプト戦、4-1
と勝ち続けた。
勤勉で運動量が豊富で技術にも長けた選手が考えながら動いてボールを展開していくスタイルが日本代表に定着し始め、オシムは
「チームづくりが次の段階に進む」
と宣言。
しかし1ヵ月後、大きなハプニングが発生した。