
第1次世界大戦後、南東ヨーロッパ、バルカン半島の3民族(セルビア人、スロベニア人、クロアチア人)によって「セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国」がつくられた。
約10年後にユーゴスラビア王国に改名。
第2次大戦でナチス・ドイツの占領下となったユーゴスラビアは、パルチザンによる抵抗運動を繰り広げ、自力で独立、解放を果たした。
パルチザンのリーダー、チトーが大統領となって、多様な民族の共存を目指し、ソ連とは一線を画した社会主義国家の建設を推し進めた。
こうして6つの国(スロベニア、クロアテチア、ボスニア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)、7つの国境、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つユーゴスラビア連邦が誕生した。
北部のスロベニア、クロアテチアは、工業地域で比較的豊か。
宗教はカトリック。
文字はラテン文字。
南部のセルビア、モンテネグロ、マケドニアは農村地域で貧しかった。
宗教はギリシア正教とイスラム教。
文字はキリル文字。
歴史、文化、経済が異なる民族を1つの国に統合しようとするとさまざまな反発が生じた。
特に中央集権化を進めようとするセルビアと、連邦国家を主張するクロアチアの対立は深刻だった。

1941年5月6日、イビチャ・オシムは、そんなユーゴスラビア連邦の構成国の1つ、ボスニアの首都、サラエボで生まれた。
北にスロベニアとクロアテチア、東にセルビア、南にモンテネグロとマケドニアがあるボスニアは、ユーゴスラビア連邦の真ん中に位置し、その中でもサラエボは、ムスリム人44%、セルビア人31%、クロアチア人17%、宗教はイスラム教40%、ギリシャ正教31%、カトリック15%、プロテスタント4%と多種多様な文化が渦巻く民族の交差点で、ユーゴスラビア連邦の中で最も異民族間の結婚が多い街だった。
オシムの家は、決して裕福ではなかったが、切り詰めた生活の中で幸福に育った。
子供のころから運動も勉強もよくできる目立つ存在で、幼なじみで今もサラエボに住むランコ・コバチは
「まるで神様からの贈り物のような人間さ」
という。
娯楽はほとんどなく、必然的にサッカーが子供の遊びとなり、靴下を丸めたものをボールにして遊んでいた。
学校でもサッカー狂いの体育教師と日が暮れるまでサッカーをした。
13歳で地元のサッカークラブ、ゼレズニカールに入団。
18歳でゼレツニカール・サラエボと契約しプロ選手になった。
同時にサラエボ大学にも入学。
運動、勉学共に優秀なオシムは、奨学金をもらい、ボランティアで家庭教師をして食事を馳走になるなどして食費を浮かせた。
後に妻となるアシマも数学を指導したことで知り合った。

教授から研究職に就くことを勧められていたが、本人は数学の道に進むことを望んでいた。
やがてサッカーの出場給が鉄道工だった父親の3倍にもなり
「数学かサッカーか」
と大いに悩む。
20歳、大学を中退し、数学者になる夢を断念しサッカーに専念。
「私がプロ選手になったのは家庭の事情からだ。
母は望んでいなかったけど、お金を稼いで両親を喜ばせたかった。
でも母は逆に悲しんだかもしれない。
医者やエンジニアなど堅実な仕事を望んでいた。
実際、私の友人の多くはそういった職業を選んだ。
私が幸福だったのは両親が自由を与えてくれたことだ。
なにもいわず私の決断を受け入れてくれた。
私はサッカーから人生のすべてを学んだよ。
サッカーは人生の大学だ。
これほど素晴らしい大学はない。」
(イビチャ・オシム)
華麗なドリブルとチャンスを逃さない決定力を持つFW(フォワード)としてユーゴスラビアのスター選手となった。
ニックネームは「シュトラウス」
ワルツのように華麗なプレーがその理由だった。
23歳でユーゴスラビア代表として東京オリンピックに参加し、初来日し日本戦で2得点。
24歳で学生時代から交際していたアシマと結婚。
後に2男1女を授かった。
1970年、29歳でフランスリーグに移籍し、RCストラスブール、スダン、ヴァランシエンヌ、ストラスブールと各チームで10番を背負った。
1978年、37歳で現役引退。
選手生活12年間で85得点。
驚くべきことに1枚のイエローカードも受けたことがないフェアなプレーヤーだった。
その後、故郷サラエボに戻り、古巣ゼレツニカール・サラエボのユースチーム監督となり、翌年にはトップチームの監督に昇格。

1990年、49歳でユーゴスラビア代表監督に就任。
ボスニア人、モンテネグロ人、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、モザイク国家といわれたユーゴスラビアの代表メンバーを束ね上げていった。
ユーゴスラビアの代表監督は、民族間対立の狭間に立たされるという宿命があった。
メディアは、自民族の活躍に偏った報道を行い、記者会見も3つくらいにわかれて行われた。
オシムは外部から「自分たちの民族を使え」と圧力をかけられたが、屈することなく自分が信じる選手を起用し続けた。
このときの代表メンバーの中に、ドラガン・ストイコビッチ(日本でもプレーしJリーグ史上最高の外国人選手の1人といわれている)、デヤン・サビチェビッチ(ACミラン、「天才」「悪魔のドリブラー」と呼ばれた)もいた。
「オシムはチーム構成のスペシャリストだ。
どれだけ苦境に立たされても必ず正しい解決策を見つける。
育成術も一流で選手の能力最大限引き出せる」
(ユーゴスラビア代表、ドラガン・ストイコビッチ)

1990年6月、イタリアワールドカップで、ユーゴスラビア代表は準決勝に進出し、アルゼンチン代表と対戦。
試合は本戦で決着がつかずPK戦にもつれたが、ユーゴスラビア代表の9名のキッカーのうち7名が拒否。
もし外したとき、自分や自分が属する民族が他民族から非難されるのを恐れたためだった。
それはユーゴスラビア連邦代表の独特の重圧だった。
オシムは、PKを拒否しなかった2人に加え、3人を選んだ。
そして拒否しなかった2人は入れ、蹴りたくないといった3人は外し、試合に敗れた。
しかしワールドカップ、ベスト8という快挙は、国と民族の垣根を超え、ユーゴスラビア連邦のすべての人に歓喜をもたらした。
オシムは、このときすでに強いチームをつくって優勝させる「優勝請負人」としてだけでなく、格上を倒して観る者を胸を熱くさせる「感動請負人」という稀有な才能を発揮させていた。

ユーゴスラビア代表は、ワールドカップを終えた後、ヨーロッパ選手権に入ったが、同時期、並行するようにユーゴスラビア内で民族間の軋轢が激化。
サッカーでも、セルビアのクラブとクロアチアのクラブとの試合で開始早々、サポーター同士の衝突が起こり、ピッチ内にまで乱入するというハプニングが起こっていた。
9月12日、ユーゴスラビア代表 vs 北アイルランド、2対0
10月3日、スロベニア、クロアチア国家連合案を発表(スロベニアとクロアチアが連邦から離脱すれば両国の選手もユーゴスラビア代表から離脱となる)
10月31日、ユーゴスラビア代表 vs オーストリア戦、4対1
12月23日、スロベニアで国民投票が行われ88%が独立に賛成
1991年3月27日、ユーゴスラビア代表 vs 北アイルランド、4対1
3月31日、クロアチア人とセルビア人が銃撃戦
5月1日、ユーゴスラビア代表 vs デンマーク戦、1対2
5月2 日、クロアチア人とセルビア人が武装衝突
5月16日、ユーゴスラビア代表 vs フェロ諸島、7対0
6月26日、セルビア系住民が反対する中、クロアチアが独立宣言
7月、クロアチア軍とユーゴスラビア連邦軍が武力衝突(クロアチア紛争)
とユーゴスラビア代表がヨーロッパ選手権の予選を戦う中、ユーゴスラビア連邦は分裂していった。
そしてついにオシムの故郷、ボスニアのサラエボでも内戦が勃発した。

ボスニアのアリヤ・イゼトベゴヴィッチ大統領は、ユーゴスラビア連邦に残留しないことをと宣言。
しかしセルビア民主党のラドヴァン・カラジッチは、議会でイスラム教徒である大統領を激しく非難。
大統領は
「地獄の門が開くのを感じた」
という。
ボスニアは、イスラム教徒44%、セルビア人31%、クロアチア人17%という民族構成で、独立が残留か国論は二分され、民族間の緊張が高まった。
1992年2月29日、ボスニア独立の賛否を問う住民投票を行われ、90%以上が賛成。
それに反対するセルビア人勢力が大規模な軍事行動を開始。
この過程で、セルビア人以外の民族に対する虐殺が行われた。
例えばある40歳代だった男性は、セルビア人兵士に連行され、腕に囚人番号を入れ墨され、その後数週間、収容所のような場所で強制労働と拷問の日々を送った。
30代前半だった女性は、結婚し就学前の男児、女児、乳児がいたが、数人のセルビア人兵士に家を襲われ、家財を奪われ、男児を射殺された上、強姦された。
蛮行は他民族に対してだけではなく、民族主義者ではないセルビア人、他民族へ蛮行を拒否したセルビア人も暴力や殺害の対象となった。
あるセルビア人老人はイスラム教徒の友人や隣人らと離されるのを拒んだため、その場で死ぬまで殴られ、遺体はみせしめとして路上に放置された。
こうしてセルビア人勢力とユーゴスラビア軍は、ボスニアの6割以上を制圧。
カラジッチは首都:サラエボに入った。
4月5日、サラエボで民族共存を求める平和デモが行われ、何千人もの市民が議事堂を占拠。
その中にはセルビア人も含まれていた。
セルビア人勢力がデモ隊に発砲し、犠牲者が出る中、カラジッチは街の外の高台に逃れた。
そしてサラエボに対し、街の周辺から砲撃。
1日平均329回、最も多かった日には37777回の砲撃が行われ、サラエボのすべての建造物が被害を受け、35000棟以上が完全に破壊された。
街周辺には狙撃兵もいて、砲撃に加え、多くの人命が失われた。
やがてセルビア人勢力は町の中へ侵攻し、一部を支配下に置いた。
街中で衝突が繰り返され、一般市民が銃弾の雨にさらされた。

サラエボが包囲されたとき、オシムはユーゴスラビアの首都:ベオグラードにいた。
サラエボの自宅には妻:アシマと長女:イルマが取り残されていたが、帰る術はなく連絡も取れなかった。
1992年5月22日、ユーゴスラビア代表は予選を勝ち抜き、ヨーロッパ選手権の本戦まであと3ヵ月と迫っていた。
オシムは各民族の精鋭を束ねる監督して苦悩したが、故郷の惨状を見過ごすことはできず、手塩にかけて育ててきた代表チームから去ることを決意した。
辞任会見では
「これは個人としての意思表示で私自身が決めたことです。
私がサラエボに対してできる唯一のこと。
それが代表監督を辞めることです。
サラエボで今何が起こっているかみなさんご存じでしょう。」
と涙を浮かべながら語った。
その後、欧州サッカー連盟(UEFA) 、国際サッカー連盟(FIFA) は、国連のユーゴスラビアに対する経済制裁に同調する形でユーゴスラビア代表の出場を認めないことを決定。
予選を突破していたユーゴスラビア代表は、ヨーロッパ選手権に出場できなかった。
この後、オシムは
1990年~ パルチザン・ベオグラード(セルビア)
1992年~ バナシュナイコス・アテネ(ギリシア)
1994年~ シュトルム・グラーツ(オーストリア)
といずれも低迷に苦しむチームを優勝へと導いていった。

1994年10月、国連軍のヘリでオシムの妻:アシマがサラエボを脱出。
2年半ぶりにウィーンで夫婦は再会。
痩せ細ったアシマにオシムは言葉を失った。
ボスニアの内戦は、3年半以上にわたりボスニア全土で戦闘が繰り広げられ、その結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、侵入、略奪、破壊、暴行、、強制追放、強制収容、拷問、強姦、殺人、大量虐殺なども行われ、第2次世界大戦以降のヨーロッパで最悪の紛争となった。
「ユーゴスラビアはバラバラにわかれてしまった。
もう戦争は繰り返してほしくない。
でもわからない。
バカな人間はいつの世にもいる。」
(イビチャ・オシム)

Jリーグのジェフユナイテッド市原(現:千葉)は、ジョゼフ・ベングロシュ監督が2002年のシーズン終了後、退任。
後任監督が決まらないまま年が明け、韓国キャンプはコーチ陣が指揮していた。
キャンプに入って2週間後、就任が決まったオシムが韓国入りし、残りの1週間を指導した。
選手は、まるで陸上選手のように徹底的に走らされた。
それはコーチが
「本当にこれをやるのか」
と思うような練習量で、彼らは選手が疲労をため、ケガをすることを恐れた。
キャンプの打ち上げで、オシムが
「帰ったら本格的な練習をやろうか」
といったとき、全員が
「これは大変なことになるな」
と思った。
実際、この後、数ヶ月間、休みがなかった。
2003年2月11日、ジェフユナイテッド市原(現:千葉)は、61歳のイビチャ・オシムの監督就任を正式に発表。
それまでジェフは、ヤン・フェルシュライエン、ゲルト・エンゲルス、ニコラエ・ザムフィール、ズデンコ・ベルデニック、ジョゼフ・ベングロシュと5人の外国人監督が続いていた。
1993年(Jリーグ発足) 8位
1994年 9位
1995年 5位
1996年 9位
1997年 13位
1998年 16位
1999年 13位
2000年 14位
2001年 3位
2002年 7位
3年連続残留争いなど優勝とは無縁だった。
果たして6人目の外国人監督は、就任会見で
「とても危険なチームをつくりたい」
といった。

チーム全体が、現状に満足し、挑戦していないと感じたオシムは、チームを根本的に改革していくため、まず21歳の阿部勇樹をキャプテンに抜擢。
阿部勇樹は、中学生のころからジェフのジュニアユースでプレーするジェフ一筋の選手で、それまで先輩選手を立ててあまり前に出ようとしてなかった。
阿部は最初は嫌で仕方なかったが、試合を重ねるごとに頭角を現し、譲りがちだったFKを自ら蹴るなど積極的に攻撃に参加するようになった。
戦う姿勢が変わったことに加え、本職の守備的MFに加え、複数のポジションを経験させられ
「ポリバレント(ユーティリティープレイヤー、いくつものポジションをこなす選手)」
といわれるようになったことも強みになった。
「僕自身「できること」と「できないこと」を整理してました。
サイドバックをやっても長友佑都選手みたいにできるかっていうとできない。
タイプが違います。
誰かの真似じゃなくて、僕は僕のやり方でやれればいいんじゃないかという考えでプレーしていたから、それがよかったんでしょうね。
別のポジションでプレーすると「誰かの代役」っていわれちゃうじゃないですか。
別に代役じゃないし自分は自分。
自分が「代役」といわれたらそう思ってたし、他の人がそういわれたら「関係ないじゃん、自分らしくやればいいじゃん」って話をしていました。
そして僕は「自分が出来ることをしっかりやっていた」から、オシム監督は違うポジションでも使ってくれたのかなぁと考えています。」
(阿部勇樹)

オシムは、練習メニューを、その日、そのとき、現場で決めた。
たとえ前日に
「明日は・・・の練習をするつもりだ」
と聞いていても、当日になると変更されるため、スタッフは準備が大変だった。
練習時間が突然、変更されることもあり、選手もそれに対応しなければいけなかった。
「前もって何も決められないことは初めは戸惑いました。
しかしそれで結果が出たので・・」
(ジェフスタッフ)

オシムは、チームに3色しかなかったビブス(着る人の役割や所属を一目で伝えられるカラーゼッケン)を10色に増やし、オリジナルの練習が行った。
選手は、ビブスの色が多く、新しいことだらけでついていくので精一杯だった。
例えば「3対1のボール回し」は、最初は自由な状態でスタート。
徐々にタッチ数の制限やボール保持する3人に「1-2-3のの順番にしか回せない」などというルールが追加されていった。
「3色のチームにわかれたパス練習」では、3色のビブスで3チームにわかれ、数個のボールを使ってパス練習を行う。
すべてのパスをワンタッチで行い、リターンパスは禁止。
最初は、ビブスの色に関係なくパスを回す。
やがて
・同色のビブスの人へのパスを禁止
・青-白-赤の順でパスを回す
などのルールが追加される。
パスはワンタッチで行わなければならないので、パスを受ける前に周囲をみてパスする相手やコースを準備しておく必要がある。
紅白戦も、Aチームの前線は黄色、中盤は赤、ディフェンスは緑のビブス、Bチームも3色のビブスを着て、合計6色のビブスと複雑なルールを使って行われたため、何がなんだかわからなくなり、頭が疲れてしまう選手が続出した。

「マルチゴール4対4」は、コーンで小さなゴールは5つつくって、守備側、攻撃側にわかれての4対4。
4人で守るべきゴールは5つ。
1人が1つのゴールを守っていても1つが空いてしまうため、動き続けなければならない。
攻撃側は、ただ横1列に並んで攻めるのではなく、
・誰か1人が前に出れば、守備側は警戒してマークを絞ってきて、ゴールが空く。
・ボールを持っている選手が右サイドに走りこんで相手を引きつけから左サイドにボールを展開すれば数的優位をつくることができる。
・ボールを持っていない3人がスペースに走り込み、その動きに相手が釣り出されて生まれたスペースに、さらに他の選手が走り込むと、また別の守備側の選手が釣り出される。
などテクニックを使う。
このとき大事なのは、スペースに走り込むとき、本気で狙っているという気持ちを持って、強くハッキリ動くこと。
そうでないと相手は釣られないし、味方にも意図が伝わらない。
オシムは
「強く走る」
「ハッキリ走る」
「相手を惑わすランニングをしろ」
「本気で狙え」
と指導した。
またシュートを決めた選手よりも走って囮になった選手を、
「9割は彼の得点だ」
と称えた。
それは試合でも変わらず、だから選手は犠牲心を持ってチームのために走ることができた。

ハーフコートを使った4対4では、オシムは
「とにかく速く攻める」
「全部、速く速く速く、フィニッシュまで」
「いま、・・が仕掛けたときもう1人裏に回ってやるとか・・・・」
「うちはレアルマドリードじゃないんだから」
「なんで1歩を惜しんでるの?
ボール持ってない選手はもっと1歩を動かそう」
「ボール持ったら早く仕掛けよう。
なんでゆっくり仕掛けるの。
ゆっくりしかけたら相手は全然こわくない」
とスピードを維持したままボールを回し、走ることを要求。
ある選手がセンターリングを上げると、表情を険しくして
「ストップ!」
と練習を止めた。
そして
「なんで上げたの?
そこから中に入って勝負かけてみろ。
2対1になるだろ?
なんでセンターリング上げたの?」
と詰め寄った。
そして日本語で答えようとする選手を
「説明なんていらない!
仕掛けろっていってるんだ。
わからないんだったら家に帰っていいから」
と遮った。
思慮の浅いプレーには非常に厳しかった。

選手は練習でミスをすれば罰で走らされた。
コーチやトレーナーも人数合わせのためにゲーム形式の練習に参加することがあったが、ミスをすれば、選手と同じようにオシムに怒られ、走らされた。
それはジェフの得点王、エースストライカーの崔龍洙(チェ・ヨンス)も同様だった。
同じ選手でも実績が大きな選手やエース選手となると扱いが変わってしまうことがあるが、オシムは
「20点獲っていようが、30点獲っていようがエゴは許さない。」
とミスをしたら容赦なく走らせた。
しかし同じミスでも、前向きなトライや挑戦的な意図がみえるミスに対しては怒らず
「リスクを冒すこと」
「高い目標を持つこと」
「野心を持つこと」
を奨励。
こうしてオシムは、基本的にボールに集中し、本能的にプレーする選手にゲームのやり方を覚えさせていった。
それは
「考えて、走るサッカー」
と呼ばれた。
「陸上部なんじゃないかっていうくらい走らされましたね。
パスしたらとにかく走れっていうレベルからスタートして、最初の頃は怒られたくないから走るみたいなところもありました。
ただシーズンが始まると結果がついてきた。
勝てるようになって、やっぱり走るのって大事なんだなと思いました。」
(坂本將貴)
「練習は無茶苦茶キツくて勘弁してほしいってくらいでした。
練習メニューはこれまでやったことないようなメニューばかりだったので、まず理解するのに時間がかかりましたね。
練習パターンが豊富で毎回違うような練習が組まれるので、頭使うし、技術が伸びるし、飽きないですね。
厳しいけど楽しいというか・・・・
監督のいうようにやったら結果が現れました。」
(佐藤勇人)
「外からみると走ることに重きを置いているようにみえていたと思いますが、実際は考えることに1番重きを置いていました。
考えることをよく指摘されただけでなく、考えないとできないメニューも多かったです。」
(羽生直剛)

1回の練習時間は試合と同じ90分と決まっていた。
例えば、夜、練習していて終わるとオシムはすぐに
「ライトを切ってくれ」
と指示。
90分の間に100%の力を出し切ることを要求し、個人的な早出練習、居残り練習は禁止した。
「僕はすごいシュートがすごい下手くそで、居残り練習がダメだったんでシュート練習やらせてくれといいにいったことがあるんですよ。
そのときにお前に必要なものは俺の練習の中に詰まっているから、日頃の練習を100%やれば絶対にうまくなるから、だから100%でやれっていわれました。
それでももし足りないんだったら俺にいえと、俺が一緒にやるからと」
(巻誠一郎)
そして練習後、チームで食事するとき、オシムは少し選手から離れて位置に座った。
常に着かず離れず、適度な距離感で選手と接し続けた。

1週間のスケジュールをみると、基本的に休日はなかった。
通常、土曜に試合があった場合、日曜はリカバリートレーニング(疲労回復を促進させるための軽いトレーニング)、月曜日はオフ、火曜からまた次の試合に向けてトレーニングという流れとなる。
しかしオシムは、試合翌日、フィジカルコーチに、
「スピードアップしたり、スピードを落としたりしながら10分間走らせるように」
と本格的に走らせるよう指示。
これまではゆっくりジョギングをしていた選手は、
「嘘だろ?」
と驚き、心の中でブーブー文句いいながらも、監督がみているため走るしかなかった。
土曜日に試合をして日曜日の午前中にリカバリートレーニングを行なった後は、
「24時間以上、空くから、その間に体を休めればいいじゃないか」
と月曜日は夕方から練習。
これまでオフだった月曜日が練習日になった選手は
「夕方から練習すると練れない」
と抗議。
しかしオシムは、
「夜飲みに行こうとか考えているから嫌なのであって、サッカーにすべてを捧げるなら、練習して、休んで、練習するのが最も合理的だろう。
サッカーでメシを食っているんだから、サッカーにすべてを懸けろ」
と諭した。
火曜日からは2部練習。
9時半~11時まで練習し、食事をして、いったん帰宅して休んで、17時くらいからまた練習。
水曜日、大学生チームなどと練習試合が組まれ、選手は疲労を抱えたまま走り回った。
通常の試合形式だけではなく、8対11や9対11など変則的なゲームも行われた。
60分間ハーフの試合では、前半と後半で全員入れ替えし、全員が出場。
選手はウォーミングアップ30分と合わせて、試合時間と同じ90分間動いた。
木曜日も2部練習。
金曜日、試合前日は、敵チームを意識した練習。
オフェンスの練習では、ディフェンダーは相手チームのディフェンスの動きを研究し、それに似せて守り、つけるビブスも相手チームのユニフォームカラーにものをつけ、番号も相手チームの各ポジションの背番号と合わせた。
ディフェンス練習では、この逆のことが行われた。
時折、ピッチ上でボードを持ったオシムを選手が囲み、時間をかけてミーティングも行われた。
「1週間のトレーニングの中に次の試合のポイントが確実に落とし込まれていて、試合になったら同じようなシチュエーションが生まれて、自然とプレーできるんですよ」
(坂本將貴)
試合前のミーティングは、さながらオシムゼミで、理路整然と選手たちに指示が出た。
しかし試合が始めると一転、感情がむき出しになって、60歳を超えているとは思えない剣幕で
「ヤマ!」
「サカ!」
「イリアン!」
「コウジ!」
選手に檄を飛ばし、ジェフが点を獲るとガッツポーズ、獲られると
「なにしてるんだ!」
というように激しくジェスチャーした。

試合が終われば、また6日間のトレーニングが始まった。
休みがなくても191cmの巨体がノシノシと歩きながらこちらをみているので選手たちは懸命に頑張るしかなかった。
ハードなトレーニングと練習が毎日続くため、気が抜けなくなり、自然と練習前の準備と練習後のケアをしっかり行うようになった。
オシムがいう
「24時間サッカーに注ぎ込む」
というスタイルが出来上がっていった。
すると選手たちは明らかに逞しくなっていった。
厳しい練習やトレーニング、課題を突きつけられても、出てくるのは文句ではなく
「よーし、やってやる」
とポジティブなものに変化。
困難に遭っても腐らず奮起する癖がついた。
「練習は確かに1年目はキツかったし休みがなかった。
それで周りの選手から監督に訴えてくれといわれて「休みをください」っていいにいったんですよ。
そうしたら逆に説教を食らいました。
それで結果が出るようになると楽しいし、2年目、3年目は身体が慣れて、そんなにキツくならなくなった。
戦えるようになってきたんじゃないかなと思いながらシーズンを過ごしていました。」
(阿部勇樹)

サッカーの戦術や経験とは別に、オシムは非常に選手思いで、かつ言葉に力がある人だった。
基本的に寡黙だが、いいプレーをした選手に
「今のプレーはよかったぞ」
とさりげなく褒めた。
ピッチで怒鳴った後、少し落ち着いてから優しく声をかけることもあった。
悩む選手がいれば、
「勇気がなければ幸運は訪れないぞ」
「悩んだら自分にとって苦しい道を選べ」
とアドバイスした。
オシムの試合での選手起用基準は、明確でフェアなものだったが、実際に試合メンバーを決めるとき、いろいろなことを考えてしまい朝まで眠れないこともあったという。
またサッカーが好きでたまらない現役のサッカー小僧で、毎日、サッカーの試合をみていた。
よく選手やスタッフに
「昨日のあの試合、みた?」
と聞いて
「あのディフェンスはよかっただろう?」
などと楽しそうに話した。
どれだけの経験と実績を積んでも
『サッカーはコレッ』
という考えはなく、常に学び続け、変化し続けることを望んだ。
「サッカーには常に上がある。
もし完璧なやり方があったら、みても面白くないだろう。
ワールドカップもブラジルが負けるから面白い。
常に次のステップがあるということだ。
コレがすべてだと思った瞬間に、次はない。」
(イビチャ・オシム)
2003年、Jリーグは、1年の前半を1stステージ、後半を2ndステージとして、それぞれ順位を争い、最後に1stステージチャンピオンと2ndステージチャンピオンが戦い、勝ったほうが年間チャンピオンとなった。
1stステージ、2ndステージ、両方で優勝すれば、「完全優勝」といわれた。
ジェフは、1stステージ第1節、東京ヴェルディ戦、第2節、大分トリニータ戦と2連勝。
しかし3節でヴィッセル神戸に0-3で敗れるとオシムはメンバーの大幅チェンジを敢行。
ベテラン選手を外し、若手2人(2年目の羽生直剛、4年目の佐藤勇人)をスタメンに抜擢。
誰もが驚いたが、オシムがやろうとしているサッカーを実現するためには、技術があって、なおかつ走れなければならなかった。
こうして
2トップ 崔龍洙(チェ・ヨンス、韓国代表)、サンドロ・カルドソ・ドス・サントス
トップ下 羽生直剛
2ボランチ 阿部勇樹、佐藤勇人
ウイングバック 坂本將貴、村井慎二
3バック 茶野隆行、ゼリコ・ミリノビッチ(スロベニア代表)、斎藤大輔
GK 櫛野亮
という布陣が中心になっていく。

2003年4月26日、1stステージ第5節、ジェフはホームの市原臨海( 市原緑地運動公園臨海競技場)で岡田武史監督率いる横浜F・マリノスに3-1で勝利。
ジェフは、この後、市原臨海では、2005年11月11日の鹿島アントラーズ戦までリーグ戦31戦不敗という記録を樹立する。
市原臨海は、最寄り駅から徒歩30分もかかり、ピッチとスタンドの距離が遠く、設備的にも貧弱で
「Jリーグ最低のホームスタジアム」
と酷評されることも多かったが、オシムはこのアットホームなスタジアムを愛した。
ジェフは、親会社のJR東日本の関係でホームゲームを秋田や松本、国立競技場で行うことがあったが、オシムは
「それはおかしい。
なぜホームスタジアムで試合をしないのか」
とジェフの淀川隆博社長に疑問をぶつけた。
ホームで勝利すること、地元のサポーターを喜ばせることに非常に強い意欲を持っていた。

1st.ステージ6節、京都パープルサンガ、7節、セレッソ大阪戦に勝ったジェフは首位に浮上。
8節で名古屋グランパスに1-2で敗れ、一時陥落したものの、9節で鹿島アントラーズ、11節で柏レイソルに勝って再び首位。
2003年7月20日、首位ジェフは、13節で敵地に乗り込み、前年度チャンピオンで3位のジュビロ磐田と対戦。
前半にジュビロに先制ゴールを許し、0-1。
後半開始早々に得たフリーキックを崔龍洙(チェ・ヨンス)が、まさかのチップキック
(つま先をボールの下に潜り込ませて足の甲でボールを浮かせるように蹴るキック。
相手の頭上を超えるパスや、ゴールキーパーの頭上を超えるループシュートを蹴る際に用いられる)
でゴール。
その後、サンドロのゴールで逆転。
しかしそのわずか1分後、ジュビロのジヴコヴィッチがセットプレーからクロスを上げ、前田遼一が意地のヘディングゴールを決め、同点。
試合は、2-2のドローで終わった。
勝っていれば1stステージ優勝に大きく近づいたというものの、3位のジュビロの自力優勝の可能性を完全に潰し、2位の横浜F・マリノスと勝ち点1差で首位をキープ。
1stステージの残り試合は2試合で、敵地でのドローは勝ちに等しいと思われた。
しかし試合後のロッカールームでオシムは
「お前がクロスを上げさせたから試合に引き分けたんだ!!」
と怒声を響かせた。
ジヴコヴィッチをマークしていた坂本將貴への叱責だった。
その後、チームは室内練習場に移動しストレッチを行ったが、そこで坂本將貴はコーチから
「オシムさんが明日、ランチに誘っているぞ」
と伝えられた。
翌日、昼食をとりながらオシムにいわれた。
「いいプレーは誰もが覚えているがミスは意外と忘れてしまうから、その場で注意しなければならない。
ああいう1つのミスによって大事な勝ち点を失い、優勝を逃すことがある。
お前は影響力があるし、喋れるから、チームメイトに伝えてほしい。
だからあえてお前に厳しくいったんだ」

初優勝のプレッシャーからか、続く14節でジェフは清水エスパスに0-3で完敗。
1stステージ優勝を逃してしまった。
2ndステージも優勝争いを繰り広げながら一歩届かず、年間3位に終わった。
しかしジェフの躍進は大きな称賛を浴びた。
鋭いプレッシングと後方から選手が次々と飛び出し、大きな波が幾度も押し寄せるようなアタッキングサッカーは、Jリーグに旋風を巻き起こした。
特徴的だったのは、マンツーマンの守備からの反転速攻。
しつこくマークしていた相手を置き去りにして、一気に攻撃。
マンツーマンも守備というより、近くにいる相手を捕まえてインターセプトを狙う攻撃的なもので、ボールを奪ってそのまま出ていけば、相手を置き去りにできるし、それが敵陣であれば得点の確率は高くなる。
こういった捨て身の攻撃は、よく試合の残り時間がわずかになったときに負けているチームが行うで、守りを捨てて相手ゴールに向かって力を集中できるため、ゴールが生まれる可能性は高まる。
一方、ボールを奪われると、手薄になった自陣に一気に攻め込まれ、失点する可能性がある。
非常にハイリスクな戦法だが、ジェフは、アディショナルタイムではなくキックオフからそれを行い、最初から最後まで攻守両面でアグレッシブに戦った。

2005年年4月9日、トリニータ戦でジェフは開始2分と5分に連続失点。
失点に絡んだ水本裕貴は交替。
試合時間わずか10分でベンチに下げられた水本は衝撃を受けたが
「一生懸命やるしかない」
とショックを引きずらないよう、練習により積極的に取り組んだ。
オシムは一切、声をかけなかったが、4日後に行われたジュビロ戦に水本をスタメン出場させた。
もし水本が落ち込んだり、ふて腐れたままだったら、恐らく起用はしなかっただろう。
失敗に奮起する姿をみてチャンスを与えたに違いなかった。
「そこまで多くを語る人じゃないんですけど、いろんなことをみているというか、みられている感じがありました。
選手の言動や様子、プレーの細部までじっくりみていて。
ちゃんとみてくれているから、練習でいいプレーをすれば、試合に使ってもらえる。」
(水本裕貴)
2005年9月24日、オシムは、エスパルス戦に指を骨折していた巻誠一郎を出場させた。
試合後、そのことを記者に聞かれ、鋭く
「骨折して試合に出たらダメなんですか?
なんなら骨折したことでメダルをあげましょうか?」
と返した。
オシムの確固たる意志と洗練されたサッカービジョンは、選手だけでなくマスコミも鍛え、日本のサッカーを推していった。
9月25日、エスパルスに勝った翌日、台風が近づく中、ボール回し中心の練習を行い、9月26日は、急に休日となった。
いきなり休みといわれた選手は
「もう慣れました」
という感じで3週間ぶりの休日エンジョイした。
2005年11月4日、ジェフはナビスコカップの決勝に進出。
決勝戦を明日に控えた練習で、紅白戦が行われ、坂本將貴の横パスを補欠選手がインターセプト。
それをみたオシムは激怒。
「もう終わりだ」
と練習を止めてしまった。
こうして練習は10分くらいで終わってしまった。
2005年11月5日、ナビスコカップの決勝戦当日、ジェフの相手はガンバ大阪だった。
2チームとも勝てば初のタイトル獲得という顔合わせだった。
試合は両チームとも決め手を欠き、本戦90分、延長戦30分、合計120分を0-0で終え、PK戦に突入。
ガンバ大阪に負傷退場者が出ていたため、ルールでジェフも1人だけベンチに残さなくてはならず、オシムは
「俺はロッカーに戻るから、サカ、お前もベンチに戻れ」
と坂本將貴にベンチに残るよう指示し、自分はロッカーに引き上げた。
ユーゴスラビア代表監督時代、イタリアワールドカップでアルゼンチンにPK戦で敗れて以来、自分のチームのPKはみなくなっていた。
PK戦では、ガンバの1人目、遠藤保仁のキックをジェフのGK立石智紀がセーブ。
ジェフの5人目、巻誠一郎のキックが決まった瞬間、ジェフの初優勝が決まった。
J13年目で初のタイトル獲得だった。
ピッチに戻ったオシムは、優勝インタビューを受けた。
『なぜ胴上げを断られたんですか?』
「私の体重は重すぎるので選手たちがケガをしてしまいます」
『なぜPK戦をベンチで一緒にご覧にならなかったのは何故ですか?』
「私の人生の中でPK戦は悪いほうに傾いてきたのでみませんでした」
オシムがPK戦をみないことに対して、監督として無責任ではないかと批判的な意見もあった。
オシムは、それに対してよく
「心臓に悪い」
といっていたが、実際、オシムは心臓に持病があって、常時薬を持ち歩いていた。
他に糖尿病、高血圧をあって、よく頭痛やめまいが起こしていたが
「水を飲めば治る」
といって常にペットボトルを持っていた。
1シーズン制となった2005年シーズンの最終節で、ジェフは名古屋グランパスと対戦。
試合前の時点でセレッソ大阪と勝ち点2差の5位で、逆転優勝の可能性もあった。
試合終盤、グランパスに先制点を許したが、8分後に阿部勇樹がPKを決めて同点。
アディショナルタイムに坂本將貴が決勝ゴールを決めた。
最終的に2位のガンバ大阪が優勝し、ジェフは4位に終わったが、オシムは最後まで諦めなかった姿勢を評価した。

チーム予算が乏しく、毎年、有力選手が去り、毎年「戦力ダウンした」といわれ続ける中、ジェフは
2003年(監督就任1年目) 1stステージ3位、2ndステージ2位、シーズン3位
2004年 1stステージ7位、2ndステージ2位 シーズン4位
2005年 シーズン4位、ヤマザキナビスコカップ優勝、ホームスタジアム(市原緑地運動公園臨海競技場)リーグ戦31戦連勝(2003年1stステージ第5節~2005年第20節)
と結果を出し続け、
「ミラクル」
「マジック」
といわれた。
2006年も、前半戦を5位、ヤマザキナビスコカップ準決勝進出という好成績で折り返し、この後に始まったドイツワールドカップには巻誠一郎を日本代表に送り込んだ。
(阿部勇樹も日本代表候補として召集されていたが、最後に23人代表メンバーから漏れた)
ワールドカップ期間中、ジェフは岐阜県飛騨でのキャンプに入った。

日韓ワールドカップでフィリップ・トルシエ監督は、選手に軍隊のように命令通りに動くことを求めた。
マスコミの選手取材を禁止し、自身もテレビ1局の取材しか応じないなど厳しい管理体制をとった。
それに対しドイツワールドカップで日本代表の指揮を執ったジーコは、選手の自由、自律、創造、打開によるチーム力向上を目指し、練習も完全公開。
そのやり方は多くの支持を得た。
中田英寿、中村俊輔の2大司令塔に、高原直泰、小野伸二、稲本潤一、小笠原満男、遠藤保仁、加地亮、稲本潤一、柳沢敦らを加えたチームは「歴代最強」といわれ、ワールドカップ開始前に行われた試合で、欧州チャンピオンのギリシャに1-0、ブラジルに2-2、開催国ドイツに2-2という結果を出し
「十分にイケる」
と期待させたが、実際にワールドカップに入ると初戦のオーストラリア戦で1-0とリードしながら、ラスト6分間で3失点し、1-3の逆転負け。
その後、クロアチア戦0-0、ブラジル戦1-4。
結局、1分2敗で予選リーグ敗退。
トルシエジャパンのベスト16進出を大きく下回った。
その上、中田英寿が引退を発表。
暗いニュースが続き、日本は意気消沈した。
2006年6月24日、ワールドカップを総括する記者会見が成田空港近くのホテル日航ウインズで行われた。
ドイツから帰国したJリーグ初代チェアマンであり日本サッカー協会会長の川渕三郎は、
『次の日本代表監督は、(フィリップ・トルシエのように)オリンピック日本代表監督も兼任するのか』
という質問に対し、
『日本代表監督はオリンピック日本代表に協力するが、オリンピック日本代表監督はあくまで反町康治氏である』
と答えようとして、その中で、
「反町監督がオリンピックチームをみてもらい、そしてそのスーパーバイザーとして総監督という立場でオシムが・・・・
あっ!オシムがじゃない!
あの~オシムっていっちゃったね」
と口を滑らせてしまった。
それまでサッカー協会は時期日本代表監督については一切情報を明かさないと明言していた。
その組織のトップが、オシムと交渉中であることを明かしてしまった。
テレビカメラ6台、記者100人が入る会見場は、一瞬、静まり返った後、どよめいた。
川渕三郎は、顔を引きつらせて、しどろもどろになりながら釈明をはじめた。
「弱っちゃんったねオレ・・・
つい何となく話の過程で口走ってしまって・・・
これをまたウソをついて取り消すのも変な具合だし・・・
どうするかねえ…
あんまり頭が整理されていない段階で口走ってしまったんだけど・・
う~ん・・・ここで聞かなかった話にはならないだろうね。
う~ん・・・ちょっと田嶋(幸三)技術委員長と話をさせてください」
と会見を一時中断。
急遽、釜本邦茂(サッカー協会副会長)がマイクの前に立って場をつなぎ、その間、川渕三郎は、ジェフの淀川社長ら関係者に連絡し謝罪。
退席から10分後、川渕三郎がしょんぼりと再登場。
「史上最大の失言です。
シーズン中なので千葉の選手、関係者に十分に配慮しなければならない。
来週以降、田嶋が交渉を行います」

6月29日(川渕三郎会見から5日後)、ワールドカップを現地で観たオシムが帰国。
ジェフのクラブハウスにいくと100人を超える報道陣に加え、多くのサポーターが待ち構えいて、オシムに残留を訴えた。
午後の練習が終わった後、オシムは記者会見を行い
「日本代表監督への就任はそう簡単に決断できない。
責任が大きいし私は今ジェフに所属している。
共に戦っている仲間がいるのに1人で簡単には決められない」
と思い悩む表情をみせながら吐露。
記者会見を終え、夜、家に帰るためクラブハウスを出ると、待っていたすべてのファンの握手やサインに応じてから車に乗った。
6月30日、記者会見翌日、オシムは、ジェフのキャンプが張っている岐阜県飛騨市に移動し、夕方から指導。
7月1日、オシムは、急遽、練習開始時間を30分早めた。
「30分くらい」
と思いながらもスタッフや選手は準備し、9時に練習開始。
4対2の練習の最中、オシムはワールドカップ帰りの巻誠一郎に
「マキは代表に行ってからヒールパスが多くなったな。
まずはキチンと(パスを)つなごう」
とチクリと一言、釘を刺した。
2006年7月18日、オシムは川淵三郎と会談。
選手の起用法について
「古い井戸があります。
そこには水が少し残っています。
それなのに古い井戸を完全に捨てて新しい井戸を掘りますか?
古い井戸を使いながら、新しい井戸を掘ればいいんです。」
と表現した。
2006年7月21日(川渕三郎会見から約1ヵ月後)、日本サッカー協会が、イビチャ・オシムの日本代表監督就任を発表。
オシムは
「契約は結婚のようなもの。
だいたい初めはうまくいくが、その後がどうなるかはわからない」
「代表は車に例えられる。
全員がこの車を後押ししなければならない。
今、日本の車は一時的に止まっている。
だからこそ強く、全員で押さないといけない」
と述べた。
2006年11月3日、オシムの日本代表監督就任となって3ヵ月後、ジェフはナビスコカップの決勝戦で鹿島アントラーズと対戦。
試合終了直前、鹿島ディフェンスのスキを突いてジェフの水野晃樹が先制ゴール。
その後も攻撃の手を緩めず、2分後にセットプレーから阿部勇樹がゴールを決めた。
前年のガンバ大阪との決勝戦では、0対0からPK戦にもつれたジェフが、今年は2対0で快勝し、ナビスコカップ2連覇を果たした。
国立競技場で胴上げされたのは、オシムの息子、アマルだった。
川淵三郎の失言が発端となって、オシムは契約満了を待たずしてジェフの監督を辞任。
コーチだったアマルが監督に昇格した。
ジェフサポーターにとって、オシムが日本代表監督が選ばれたことは誇らしかったし、ジェフから多くの日本代表が選ばれることも期待されたが、何よりも喪失感が大きかった。
事実、オシムが去った後、ジェフは低迷。
ナビスコカップでは優勝したものの、2006年シーズンは11位。
屈辱の2桁順位は、オシムが監督になった2003年以降、初。
2007年は残留争いに巻き込まれながら、13位でJ1残留。
アマルは解任された。
2008年は奇跡的に残留したが、2009年にJ2降格。
この間に、キャプテンの阿部勇樹、選手会長の坂本将貴、水野晃樹、羽生直剛、山岸智、水本裕貴、佐藤勇人など、2006年に奇跡を起こしたメンバーの半数が他チームへ移籍した。
「オシムさんが辞めた後も、息子のアマル・オシムコーチが昇格して監督になっていたので練習は変わらなかったんです。
でもイビチャ・オシム監督ともう1回一緒にやりたいという思いが強かった。
だから自分が代表に入るためには何をしなければいけないかって考えていました。」
(阿部勇樹)
「みんなオシムさんに育てられた選手ばかりなので、ジェフでオシムさんのサッカーができないのであれば新しいところでトライしないとというのはありましたね。
あとオシムさん自身が『リスクを冒せ』と、ことあるごとにいっていましたから。
自分に関しては、京都の監督だった(加藤)久さんから『ウチでオシムさんのサッカーを実現させるために力を貸してほしい』といわれたのが大きかったですね。
京都の選手としてジェフと対戦するときは、正直、複雑な気持ちでした。
ブーイングはある程度、覚悟していたんですけれどかなり罵声も浴びせられました。」
(佐藤勇人)

川渕三郎の失言によって、2010年のワールドカップ南アフリカ大会に向けてドタバタの船出はとなった反面、オシムジャパンはサッカーファンのみならず一般の人からも注目度が高まり、「オシム語録」はブームとなった。
2006年8月4日、就任から約2週間後、オシムが最初の日本代表を千葉県に招集。
その人数は13人だったが
「11人以上いるので試合はできますよ。
この13人は90分間走れる選手。
それは冗談ですけど」
といい、この後、数名を追加招集。
日本代表初の「2段階召集」だった。
結局、召集されたメンバーは、ドイツワールドカップ経験者4名、海外組0人で、初招集や代表歴の浅い選手が大半を占めた。
以下は追加招集組の1人で日本代表初選出の鈴木啓太のコメント。
「オフだったので知り合いに会う予定を入れていました。
そしたら(浦和レッズの)強化部長からいきなり連絡がきて『明日から千葉にいってくれ』っていわれました。
ゴールデンエイジがいなかったことがすごく不思議でした。
僕たちの年代からすると、ずっと追いかけてきた高い壁みたいな人たちだった。
そんな人たちがいない代表って?って感じでした」
鈴木啓太は、オシムジャパンの全試合で先発出場し、オシムに「日本のマケレレ(クロード・マケレレ、フランス代表、レアル・マドリード、チェルシーで活躍をしたMF)」と評価されることになった。
この初召集で平成国際大学と練習試合を行われ、オシムは、先発メンバーだけを決め、
「ポジションは自分たちで決めろ」
と後は選手に任せた。
記者にその意図を聞かれ
「ここは軍隊じゃない。
命令など出しません」
と答えた。
翌日の練習で、8対8のミニゲームで3点しか入らなかったときも
「決定力不足では?」
と問われ
「シュート練習をして100点入れればいいのでしょうか?」
と答えた。

たくさんの色のビブスを使用するなどオシム独特の練習に苦戦する代表選手が多かったが、スタッフやコーチもオシムと組むのは初めての人間が多く、戸惑うことが多かった。
大熊清コーチもその1人だった。
「代表コーチは大変でした。
大変というか勉強になりました。
勉強になったけど意外なことはいろいろありました。
オシム監督には、練習のオーガナイズ(準備)、組み分けを練習前に1回しか教えてもらったことがないんです。
その1回も、メニューを1番から5番まで聞いて、グラウンドに到着して1番の準備をしてたら5番から始まって・・・
そんな感じだからピッチではオレが1番緊張してたと思う。
バスでグラウンドに行くのが憂鬱でね。
その日何があるかわかんないし先がみえないから。
オシム監督は途中でいろいろ練習の内容を変えるし。
監督から次はどうするかって聞いてからコーン並べるんでメニューからメニューの間隔が長くなるし。
オシム監督の頭の中には全部入ってるんですよ。
それをこっちがわからなきゃいけない。
監督から4人のグループを4組つくれっていわれて選手をわけていると、
「お前、組み合わせを考えてやってるか」
「これ適当じゃないぞ」
っていわれるんです。
「どんな意図があってこの組み合わせなんだ」
とかいわれるからこっちも必死ですよ。
スタッフミーティングのときも2回ぐらい「出て行け」っていわれました。
監督がいきなり「コーチはみんな出ていってくれ」っていうんですよ。
理由もいわずに・・・「なんで?」って。
監督がああやっていたのは間違いなくチームって緊張感が大切だと示すためでしたね。
仕事は何でも緊張感がなくちゃいけない、一生懸命やっても緊張感がないとマンネリ化すると思ってたんでしょうね。
でもオシム監督は根がすごいいい人だから厳しいけどみんなついていきました。
口悪いけど。
あれも意図的なのかな」
(大熊清コーチ)
通常、代表合宿の夕食は18時からだったが、あるときオシムは
「18時30分にしたい」
とスタッフに伝えた。
しかしそれがうまく伝達されず、選手やコーチ、スタッフは先に食べ始めた。
遅れてきたオシムは、それをみて怒り、部屋に帰ってしまった。
すぐに大熊清コーチは、オシムの部屋まで食事を持っていった。
しかしベルを鳴らしてもドアは開かず、少し部屋の前で待っていたが食堂に戻った。
30分くらい経ってからオシムが食堂に現れ、1人で夕食を食べ始めた。
するとくつろいでいた食堂がピリッとなった。

2006年8月8日、トリニダード・トバゴ戦の前日、オシムは
「歴史、戦争、原爆の上に立って考えないといけない。
負けたことから最も教訓を学んでいる国は日本だ。
それが今は経済大国になっている。
サッカーは何で他の強国と肩を並べることができないのか」
となぜか負けて学ぶことの重要性を説いた。
そして2-0で初陣を勝利で飾ると
「気がかりなことがあります。
サッカーは試合時間が90分間あります。
今日は90分間走り切ることができない選手がいた。
今日得た最も大きな教訓は走ることだ。」
と述べた。
2006年8月13日、イエメン戦の代表発表の記者会見では、
「負けたいと思う選手は1人もいない。
失敗から学ぶ姿勢がなければサッカーは上達しない。
もしいつも勝たないといけない危機感があったら子供たちはサッカーをしなくなる。」
とコメント。
この試合で阿部勇樹が初召集され、以後、試合では守備の中心となり、練習ではオシムの意図を伝える役割も担った。
イエメン戦のハーフタイムでオシムは
「後ろ6人で(ボールを)回してどうするんだ。
リスクを冒していかないと未来は開けないんだぞ。
人生も同じだ。」
とカツを入れた。
日本代表はイエメンに2-0で勝利。
2006年9月1日、日本代表は、エジプト戦のために現地入り。
到着直後に練習を行なった。
そ高温多湿の気候について聞かれ、オシムは
「感想をいって天気がよくなるならいうが、いってもよくならないのでいいたくない。」
2日後のサウジアラビア戦で、0-1で敗北。
「考えないでプレーしていること。
せっかくチャンスをつくれそうな状況なのに、ただ前に蹴っているだけ。
子供病とでもいうか、子供のようなプレーは恥ずかしかった。」

2006年10月1日、ガーナ戦の代表招集の記者会見で
『今回の代表合宿で欧州組の招集も考えましたか?』
と聞かれ、オシムは
「私の頭が理髪店にいくためだけに存在しているとでもいうのでしょうか?
彼ら(欧州組)も(代表招集の)考慮に入っています。
しかし彼らが旅行している(代表に招集されている)間に自分の仕事場が誰かに取られたらどうなるのか。
彼らは日本サッカーのショーウインドーです。
欧州で日本のサッカーをみせている彼らは貴重です。」
と答えた。
2006年10月03日、ガーナ戦の前日、
『FWの前線からのプレスはカギになるのか?』
と聞かれ
「私が発明したわけではないが、現代サッカーでボールを失った時点でFWが最初のDFになることは重要。
これはいい質問で、私がサッカー学校のテストでみなさんに出された問題に解答を出したみたいだ。
戦術という科目のね。」
と記者を評価。
翌日、ガーナ代表に0-1で敗れ
『オートマチズム(連動性)に問題があるのでは?』
と聞かれると
「私は結婚して40年になるが、まだ嫁とオートマチズムは取れていない。
なのに3ヵ月でどうやって選手間でつくるんですか?」
と答えた。

2006年10月9日、インド戦を前にした練習後、オシムは
「覚えていてほしいが、どの戦術を採用するかではなく、チームはあらゆることに対応できるようになることだ。
それは試合前でなく試合中に。
臨機応変に変えられるチームを目指している」
と発言。
2006年10月10日、インド戦の前日記者会見で
『インドは守備を固めてくると予想されるが』
と聞かれ、
「あらかじめ戦い方は決められない。
相手の出方によって対応する。
決して受け身じゃないが相手が変化すればこちらも変化する。
最初から決められない。
裏をかくというのはあるが。
ここは相手のホーム。楽勝と考えるのは失礼。
国際試合では相手をリスペクトするのが負けない秘訣だ。」
翌日の試合は3-0で勝利した。
「それまで試合前に監督に個人的に呼ばれたことはなかったんですが、インド戦の前に初めて呼ばれました。
そのときいわれたのは、「自信持ってやれ」って。
その言葉はそれからも何度かいわれたかな。
2010年、南アフリカのワールドカップ前にもね、手紙で」
(阿部勇樹)
2006年10月17日、JFA公認S級コーチ養成講習会で講師となったオシムが、日本代表やJリーグの監督などを目指す25人に講義を行った。
「バルセロナを目指してやろう、と選手にいい聞かせる権利はある。
ただバルセロナとは差があることを実感するだろう。
監督として知っておかなければいけないのは“何ができて、何ができないか”。
簡単なことではない。
客観的に自分、選手、サポーターをみる。
スポンサーは成績を上げることを考えるが、それを冷静にさせることができるのは監督だけなんだ。」

2006年11月12日、アジアカップ予選、最終戦、サウジアラビア戦を前に、日本はすでに突破を決めていたが、オシムは
「名誉のため、内容と共に結果を求めます。
どうしても勝たないといけないという試合ではないが名誉がかかっている。
(選手の)テストだけでは終われません。」
と発言。
3日後、日本代表はサウジアラビア戦に、3-1で勝利した。
試合後の記者会見で
『サウジの24番をもっと厳しくマークすべきだったのでは?』
と聞かれ、オシムは、
「これは極端な話だが、バルセロナと試合するとき、ロナウジーニョにマンマークしたとする。
その場合はマークする選手が必要以上に怯える。
相手を消すプレーしかしない。
でもロナウジーニョをマークする選手が前線に走ったとき、ロナウジーニョがその選手の守備にいけば、もはやロナウジーニョではない。
そんな対策もある。」
と回答した。
2006年11月26日、JリーグのFC東京 vs 浦和レッズ。
浦和レッズは勝てば優勝だったが0―0の引分。
観戦していたオシムは、
「一生懸命探すニワトリだけが餌にありつける。
浦和はこの試合に負けても次で勝つ(優勝する)チャンスがあった。
オール・オア・ナッシングでいく(攻める)べきだった。
選手の疲労や負傷でそうできなかったかもしれないけど・・」
とコメント。

2006年12月17日、横浜でクラブワールドカップ、インテルナシオナル(ブラジル) vs バルセロナ(スペイン)が行われ、1-0でインテルナシオナルが勝利。
観戦後、オシムは、
「一方(バルセロナ)はスペクタクルに見せ物として戦った。
一方(インテルナシオナル)は生活のためにスキルを実用的に使った。
1人でも走れない選手がいては勝てない。
現代サッカーの特徴があらわれた試合。
誰を指してのこととはいいませんが・・・」
とコメント。
バルセロナの走れない選手とは、おそらくロナウジーニョ!
2006年12月18日、Jリーグ・アウオーズ(Jリーグの年度表彰式)で浦和のDF、田中マルクス闘莉王がMVPを受賞。
オシムは、
「これからDFを目指す人に価値あること。
よい攻撃をするにはDFが創造的で危険な攻撃をしないといけない。
カンナバロ(イタリア代表DF)もMVPをとってるし、日本も世界のトレンドを追っている。」
とコメント。
オシムはディフェンスに、後方から試合をしっかりと組み立てることを望み、フィード(供給、前線へパスを送る)能力が高い上、リスクを冒して点を取りにいく闘莉王を日本代表に初選出していた。

2006年12月20日、アジアカップの組合わせが決定。
予選グループリーグ(4チームずつの4グループにわかれ、各グループ上位2チームが決勝トーナメントに進出)で日本代表はグループBに入った。
グループBは、日本、ベトナム、UAE(アラブ首長国連邦)、カタールで「死の組」と呼ばれたが、オシムは
「オーストラリアや韓国と同じ組でもよかった。
タフなグループを勝ち抜く経験ができる。」
と強気。
2007年2月13日、2007年度の日本代表の日程発表の記者会見で、報道陣に欧州組の招集について聞かれたオシムは
「皆さん方が(欧州組を)呼びたがってるのはわかるが、呼んだらどうなるか副作用も考えなくてはいけない。
大阪-東京と欧州-日本は違う。
(来ることで)レギュラーを失う可能性もある。
どうしたらいいか皆さんの知恵も借りたい。
欧州にいる人がスーパーマンならいいですけど。」
と慎重な姿勢を示した。
2007年2月16日、日本代表は千葉県内で流通経済大学との練習試合で初選出された矢野貴章のハットトリックもあり、5-2。
オシムは
「争いが激しくなって選択肢が増える。」
とコメント。
2007年2月19日、日本代表は、東海大との練習試合で、10-0。
途中、選手が1タッチ、2タッチでパスを急いだ理由を聞かれ、オシムは
「私は何もいっていません。
選手に聞いてください。
でも選手に秘密にするので他言するなといったこともあります。」

2007年2月23日、Jリーグ監督会議で、2日前に行なわれた欧州チャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦、セルティック(スコットランド) vs ACミラン(イタリア)戦について、オシムは、
「ACミランには、よい選手が9人もそろっている。
セルティックが勝つには、ナカムラがもう1人はいないと、1人では連係もできない。」
とコメント。
この試合で中村俊輔が所属するセルティックは、強豪ACミランに終始押され、中村俊輔は2度フリーキックを狙ったが得点は挙げられず、0-0で引き分けていた。
少し前、中村俊輔は、ウエイン・ルーニー、ライアン・ギグス、クリスチアーノ・ロナウドなどをそろえるビッグクラブ、マンチェスターユナイテッドと対戦し、193㎝のファンデルサール(オランダ代表)が一歩も動けないほど芸術的なフリーキックを決めていた。
2007年3月19日、オシムはペルー戦の代表メンバーを発表。
初めて欧州組(中村俊輔、高原直泰)が召集された。
2007年3月23日、ペルー戦の前日記者会見で、中村俊輔と高原直泰、欧州組の2人ばかりに質問が集中すると、
「2対9。
2人の方ではなく9人の方が優先権がある。
彼ら2人のためにチームがやるのか、彼らがチームに適応するのか、どちらがいいのでしょう。
皆さんに聞きたい。
2人も大事だが、私にとって、その他の選手も大事なんです。
帰ってきた2人を楽な状況にしたい。
過度の期待が周りからかかってると感じているかも。
彼らも人間ですよ!」
とクギを刺した。
翌日、日本代表はペルーに2-0で勝利した。

2007年5月15日、日本代表候補合宿で、FWの選出方法について聞かれ、オシムは
「1トップ、2トップ、3トップなど戦術上、いろいろなタイプが必要になる。
それに高原も入れている。
あと日本にどんなFWがいるでしょう。
趣味の問題もある。
まあ趣味について論議してもしようがないという欧州のことわざもある。
ただ大統領令とか何か外からの基準で代表が選ばれるのは良くない。
イケメンだけの代表とか見かけではなく、プレーで真の代表を呼ばないと。」
翌日、流通経大と練習試合を2つ行い、共に1-0の辛勝で終わると
「ケガをしないことが第1で、それは選手もわかっているはず。
この練習試合で犬死にするようなインテリジェンスに欠けた選手はいないはずだ。
プロは全力を出すのが当然だが、その状況をわかることも大事。」
と過密日程で疲労しモチベーションも上がらない選手を擁護した。
2007年6月1日、日本代表はモンテネグロに2-0で勝利。
この試合に、(5月26日にセルティックの試合で右足首を負傷し、日本代表に合流するため日本に帰国していた)中村俊輔はベンチ入りしなかった。
次のコロンビア戦に出場させるのか聞かれたオシムは
「私も出てほしいと思う。
けれど私は医者じゃないので。
大事なのは100%のプレーができる準備が間に合うか。
まあ、ナカムラさんは素晴らしいスター選手ですから、私がここで先発を予告すれば、あと1万5000人ほどは観客が増えるかもしれませんね。
政府がそういう政策なら、協力してもいいかもしれません。
そもそも日本では、1つのニュース番組でナカムラが毎回3本ぐらいゴールを決める。
私が日本に来てから1500日くらいですから、5000点近くみたことになります。
私が生涯でみたゴールよりはるかに多い」
とコメント。

2007年6月4日、コロンビア戦前日の全体練習後、オシムはピッチ上で全選手を集め、3分50秒間のミーティングを行った。
記者会見でその内容を聞かれ
「話の内容は選手に聞いてください。
秘密とはいっていないので選手は正直にいうでしょう。
彼らがあなた方(マスコミ)に話した内容で、どのぐらい私の話が伝わっているかがわかるでしょう。」
翌日、日本代表は、中村俊輔(セルティック、スコットランド)、中田浩二(バーゼル、スイス)と稲本潤一(フランクフルト、ドイツ)、高原直泰(フランクフルト/ドイツ)の4人の海外組、遠藤保仁、鈴木啓太、中村憲剛、中澤佑二、阿部勇樹、駒野友一、GKの川口能活が先発。
前半、ボール支配率は日本49・8%、コロンビア50.2%とほぼイーブン。
後半、オシムは中田浩二と稲本潤一を下げ、今野泰幸、羽生直剛を投入。
60分、左サイドで高原直泰がボールを奪ってドリブルで持ち込んでから、右斜め前の羽生直剛へパス。
羽生直剛はダイレクトで中村俊輔へ。
中村俊輔もダイレクトで遠藤保仁へ。
遠藤保仁からさらに
「高原さんがボールをとった瞬間に前へ出ていった」
とゴール前へ飛び出していた中村憲剛へボールがつながった。
中村憲剛はフリー。
しかしシュートはバーを越え、スタジアムにため息がこだました。
その後も日本代表は攻め続け、終了間際に、高原直泰がヘディングシュートを浴びせたが得点は奪えず、0-0のドロー。
強豪、コロンビアと引き分けた後、記者会見でオシムは
「立ち上がりは『神風システム』という形で臨んだ。
例えばアジアカップでもあるでしょうが、勝ち点1を争うような試合ならば、今日は10分で選手の誰かを交代させていた。
今日のような試合ではなるべく長い時間でプレーをみたいこともあったので、あの時間帯までプレーさせた。
フィジカルで準備できていない選手がいたということ。
でも直すのは簡単です。」
翌月9日にアジアカップ初戦、カタール戦が迫っていた。

2007年6月21日、外国特派員協会で会見したオシムは、ドイツワールドカップで現役を引退した中田英寿氏のカムバックについて聞かれ、
「彼がなぜ辞めたのかはわからない。
しかし明らかにワールドカップでの失望と関係がある。
長くプレーすることで名声を失うことを恐れたのだろう。
まだ若いしプレーできる。
彼が再びプレーすることを決意するのなら代表にも居場所はある。
代表の扉は開いている。」
と語った。

2007年6月23日、田中マルクス闘莉王、伊野波雅彦、水本裕貴、3名のアジアカップ日本代表メンバーがJリーグの試合で故障。
オシムは
「他の国は20日前後準備期間があるのに、日本は30日までリーグ戦がある。
疲れ切った選手とケガ人を連れて大会に挑むのは、斬新なアプローチというしかない。」
と愚痴った。
2007年6月28日、千葉県内で行われた4日間の代表合宿を終え、オシムは、
「日本は前回(2000年、レバノン)と前々回(2004年、中国)と2大会連続で優勝しており、優勝候補扱いされるのは避けられない。
しかし優勝候補扱いされるのは、トランプでジョーカーを引いたようなもの。
嬉しがるチームはいない。
優勝候補と呼ばれるのは、いい気分ではない。
対戦相手は、我々を目標として挑んでくる」
とアジアカップの3連覇は容易ではないとした。
そして先発メンバーを聞かれると
「ピッチの状態がどうなのか、どの対戦相手なのかでスタイルは変わる。
1番、気にするのは気温と湿度。
高温多湿で誰が走れるのか、走れないのか。
うまい選手でも走れなければプレーしない方がいい。
(気候が)先発メンバーにも影響してくる。
試合当日の気温で判断が変わるかもしれない。」
とはぐらかした。

2007年7月7日、タイ、マレーシア、ベトナム、インドネシアの4カ国の共同開催となった2007アジアカップが開始。
日本代表は、高温多湿の環境で「走る」サッカーができるのか、懸念されていた。
初戦を前にして記者会見で
『3連覇を目指すにはムードが足りないという声があるが・・・』
と聞かれたオシムは
「あなたが監督をやれば雰囲気が良くなるのでしょう。
そもそも私は自分の選手たちに「王者になれるなんていったことはない。
日本の報道陣は知っているでしょう。
どのくらい準備ができて、できなかったかを。
「タイトルを守る」という質問は良くない。
結果はやってみないとわからないんだから・・」
と厳しい表情で答えた。

2007年7月9日、日本代表は、試合終盤にカタールに追いつかれ、1-1のドロー。
オシムは
「お前たちはアマチュアだ。
オレはプロだから死ぬ気でやっている。
お前たちはそこまでやっていない。
今日は6-1の試合だった。
ボクシングでいうなら3階級上の力の差を見せつけられたはずだ。
勝ち点6でもおかしくない内容だった。
事故、あるいは不注意でこうなった。」
と集中力を切らした選手を厳しく叱責。
試合翌日、選手たちがランニングシューズを履いてリカバリートレーニングをしようとしているのをみたオシムは激怒。
「お前らサッカー選手なのになんでスパイクを履いてないんだ!」
とスパイクを履かせてフィジカルトレーニングを行った。

2007年7月12日、第2戦、UAE(アラブ首長国連邦)戦を前に、オシムはミーティングで
「恥をかきたくなければチャンピオンの誇りを持って1次リーグを突破しろ。
1位か2位かなんて関係ない。
最悪なのは1次リーグが突破できないことだ。」
とチームに檄を入れた。
翌日、気温30度、湿度87%という環境で行われたUAE戦で日本代表は3-1。
2007年7月15日、第3戦、ベトナム戦の前日、記者会見でオシムは
『試合中に(同組の)UAE vs カタール戦の経過を選手に伝えるか?』
と聞かれ、
「こういけばこうなるとか憶測を巡らすのは得策ではない。
何が起こっているか知った後、既に手遅れになっている可能性もある。
私を含めて代表スタッフはある程度の数学はできるので必要なことはわきまえている。」
と答えた。
そして翌日、日本代表はベトナムを4-1で下し、予選グループリーグを1位で通過した。

2007年7月20日、アジアカップ決勝トーナメント初戦(準々決勝)、ドイツワールドカップで敗れたオーストラリアとの試合を翌日に控え、オシムは、
「相手の身長、体重を気にするファンの多い国のチームとしては大きな問題だ。
問題は体の大きさとテクニックの両方になる。
我々の選手が大きければ下手になるだろうし、そういう選手はレスリングをすればいい。
しかしレスリングの試合でも多分、オーストラリアの方が強いでしょう。」
とオーストラリアのフィジカルの強さを表現。
そして試合は、オーストラリアに先制を許すも、同点に追いつき、PK戦に突入。
日本代表は、GKの川口能活は1人目と2人目を止め、キッカー4人が決め、PK戦を4-3で勝利。
オシムはPK戦に入る前に控え室に戻った。
「病気じゃなくてもPK戦は心臓に悪いから。
私は日本では死にたくない。
死ぬならサラエボで死にたいですから、みていて心臓発作を起こすわけにはいかない。」

7月25日、サウジアラビアとの準決勝で日本代表は、2度のビハインドに追いつく粘りをみせたが、最終的に2-3で負けた。
7月28日、3位決定戦で日本代表は韓国と対戦。
勝っても負けても最終戦になる両チームは、互いに譲らなかったが、後半、韓国の姜敏壽が2枚目のイエローカードを受け、退場。
10人となった韓国に対し日本は積極的に仕掛けたが、相手ディフェンスをこじ開けられず、同点のまま、延長戦へ。
延長戦でも、数的有利な日本は得点は奪えず、PK戦へ突入。
PK戦で、韓国は6人連続で成功し、日本は6人目が止められ、敗れた。
10人の韓国から点を奪えなかったオシムは
「チームのレベルアップは、個のレベルアップなしにはない。
サッカーはそういうスポーツです。
我々にも俊輔や高原のような優れた選手はいる。
でもそれだけでは足りない。
バルセロナですらコレクティブ(集団的プレーに優れている)なのですから・・」
と語った。
オシムジャパンは、トルシエ、ジーコと優勝していたアジアカップの連覇に失敗し、4位。
アジアカップの優勝チームは南アフリカワールドカップの前に開催されるコンフェデレーションズカップの出場権が、3位までに入れば、次回アジアカップの予選免除で本戦出場という特典が得られたが、どちらも手に入れることはできなかった。
セルジオ越後は、ニッカンスポーツのウェブサイト内に設置された自身のブログで、
「オシムは最低の監督」
と批判し、更迭を要求した。

アジアカップで評価を落としたオシムジャパンだったが、その後
8月22日、親善試合、カメルーン戦、2-0
9月7日、3大陸トーナメント(オーストリア開催、日本、オーストリア、スイス、チリが参加)オーストリア戦、0-0(PK4-3)
9月11日、3大陸トーナメント、スイス戦、4-3(トーナメント優勝)
10月17日、アジア・アフリカ選手権(アジアチャンピオンvsアフリカチャンピオン)、エジプト戦、4-1
と勝ち続けた。
勤勉で運動量が豊富で技術にも長けた選手が考えながら動いてボールを展開していくスタイルが日本代表に定着し始め、オシムは
「チームづくりが次の段階に進む」
と宣言。
しかし1ヵ月後、大きなハプニングが発生した。
2007年11月16日午前2時頃、オシムは、千葉県内の自宅でイングランド・プレミアリーグをテレビで観戦した後、倒れた。
アシマ夫人が発見し、息子のアマルが国内の関係者に電話したが深夜で連絡がとれず、海外の知人を経て国内の関係者が救急車を要請。
193cm、90kgの巨体を2階から下ろすのに手間取り、倒れてから搬送までに約1時間を要しながらも、順天堂大学医学部附属浦安病院に緊急入院。
夕方、日本サッカー協会は、東京都文京区のJFAハウスで緊急会見を開き、川淵三郎は、診断は急性脳梗塞で集中治療室で治療を受けていて
「意識はあったり、なかったり。
右手が少し動く程度」
「急性期のため症状が不安定で長期的展望についてはお話しする段階ではない」
とし
「本当にショックな出来事。
皆さんの関心事だが今は代表どうのこうのというよりもオシム監督に治って欲しい。
命を取り留めて欲しい」
と涙で声を詰まらせながらコメント。
その後、2度目のCTスキャンで出血が止まったことが確認され、顔のむくみもとれてくるなどオシムの容体は安定。
深夜には家族や協会スタッフが病院から帰った。
2007年11月27日、ワールドカップ南アフリカ大会のアジア3次予選が、翌年2月に迫る中、日本サッカー協会は、オシムの後任として、岡田武史と交渉に入ることを発表。
その数日後、オシムは完全に意識を取り戻した。
やがて66歳とは思えない勢いでリハビリをこなし、病室ではずっとサッカーをみた。
2008年5月、倒れてから7ヵ月後、記者会見が開かれ、オシムは、
「あちらの世界にいって戻ってまいりました」
と報告した。
2010年、史上初、アフリカ大陸で開催されたワールドカップで、前大会で1勝もできなかった日本代表は、ブブゼラが鳴り響くスタジアムで
予選リーグ
第1戦 カメルーン 1-0
第2戦 オランダ 0-1
第3戦 デンマーク 3-1
決勝トーナメント
1回戦 パラグアイ 0-0(PK 3-5)
と決勝トーナメント進出、ベスト16入りを果たし、日本のファンを熱狂させた。
岡田武史監督の力量と手腕は疑うべきもない。
また何事にもタラレバは禁物である。
しかし
「もしオシムが監督だったら・・・・」
それはケネディ大統領、織田信長、坂本竜馬を暗殺した黒幕、3億円事件やグリコ森永事件の犯人、古代エジプトピラミッドの謎、宇宙を支配するたった1つの数式などと同様、いつまでも考え続けてしまう確かめようのない「If」であり、ロマンである。
