イビチャ・オシム 永遠のif

イビチャ・オシム 永遠のif

世界を憂う哲学者のごとき容貌 相手の意図を瞬時に見透かす鋭い眼と自分の本心は明かさないしたたかさ 並のチームで格上に勝利する挑戦的な策略家


第1次世界大戦後、南東ヨーロッパ、バルカン半島の3民族(セルビア人、スロベニア人、クロアチア人)によって「セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国」がつくられた。
約10年後にユーゴスラビア王国に改名。
第2次大戦でナチス・ドイツの占領下となったユーゴスラビアは、パルチザンによる抵抗運動を繰り広げ、自力で独立、解放を果たした。
パルチザンのリーダー、チトーが大統領となって、多様な民族の共存を目指し、ソ連とは一線を画した社会主義国家の建設を推し進めた。
こうして6つの国(スロベニア、クロアテチア、ボスニア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)、7つの国境、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つユーゴスラビア連邦が誕生した。
北部のスロベニア、クロアテチアは、工業地域で比較的豊か。
宗教はカトリック。
文字はラテン文字。
南部のセルビア、モンテネグロ、マケドニアは農村地域で貧しかった。
宗教はギリシア正教とイスラム教。
文字はキリル文字。
歴史、文化、経済が異なる民族を1つの国に統合しようとするとさまざまな反発が生じた。
特に中央集権化を進めようとするセルビアと、連邦国家を主張するクロアチアの対立は深刻だった。

1941年5月6日、イビチャ・オシムは、そんなユーゴスラビア連邦の構成国の1つ、ボスニアの首都、サラエボで生まれた。
北にスロベニアとクロアテチア、東にセルビア、南にモンテネグロとマケドニアがあるボスニアは、ユーゴスラビア連邦の真ん中に位置し、その中でもサラエボは、ムスリム人44%、セルビア人31%、クロアチア人17%、宗教はイスラム教40%、ギリシャ正教31%、カトリック15%、プロテスタント4%と多種多様な文化が渦巻く民族の交差点で、ユーゴスラビア連邦の中で最も異民族間の結婚が多い街だった。
オシムの家は、決して裕福ではなかったが、切り詰めた生活の中で幸福に育った。
子供のころから運動も勉強もよくできる目立つ存在で、幼なじみで今もサラエボに住むランコ・コバチは
「まるで神様からの贈り物のような人間さ」
という。
娯楽はほとんどなく、必然的にサッカーが子供の遊びとなり、靴下を丸めたものをボールにして遊んでいた。
学校でもサッカー狂いの体育教師と日が暮れるまでサッカーをした。
13歳で地元のサッカークラブ、ゼレズニカールに入団。
18歳でゼレツニカール・サラエボと契約しプロ選手になった。
同時にサラエボ大学にも入学。
運動、勉学共に優秀なオシムは、奨学金をもらい、ボランティアで家庭教師をして食事を馳走になるなどして食費を浮かせた。
後に妻となるアシマも数学を指導したことで知り合った。

教授から研究職に就くことを勧められていたが、本人は数学の道に進むことを望んでいた。
やがてサッカーの出場給が鉄道工だった父親の3倍にもなり
「数学かサッカーか」
と大いに悩む。
20歳、大学を中退し、数学者になる夢を断念しサッカーに専念。
「私がプロ選手になったのは家庭の事情からだ。
母は望んでいなかったけど、お金を稼いで両親を喜ばせたかった。
でも母は逆に悲しんだかもしれない。
医者やエンジニアなど堅実な仕事を望んでいた。
実際、私の友人の多くはそういった職業を選んだ。
私が幸福だったのは両親が自由を与えてくれたことだ。
なにもいわず私の決断を受け入れてくれた。
私はサッカーから人生のすべてを学んだよ。
サッカーは人生の大学だ。
これほど素晴らしい大学はない。」
(イビチャ・オシム)
華麗なドリブルとチャンスを逃さない決定力を持つFW(フォワード)としてユーゴスラビアのスター選手となった。
ニックネームは「シュトラウス」
ワルツのように華麗なプレーがその理由だった。
23歳でユーゴスラビア代表として東京オリンピックに参加し、初来日し日本戦で2得点。
24歳で学生時代から交際していたアシマと結婚。
後に2男1女を授かった。
1970年、29歳でフランスリーグに移籍し、RCストラスブール、スダン、ヴァランシエンヌ、ストラスブールと各チームで10番を背負った。
1978年、37歳で現役引退。
選手生活12年間で85得点。
驚くべきことに1枚のイエローカードも受けたことがないフェアなプレーヤーだった。
その後、故郷サラエボに戻り、古巣ゼレツニカール・サラエボのユースチーム監督となり、翌年にはトップチームの監督に昇格。

1990年、49歳でユーゴスラビア代表監督に就任。
ボスニア人、モンテネグロ人、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、モザイク国家といわれたユーゴスラビアの代表メンバーを束ね上げていった。
ユーゴスラビアの代表監督は、民族間対立の狭間に立たされるという宿命があった。
メディアは、自民族の活躍に偏った報道を行い、記者会見も3つくらいにわかれて行われた。
オシムは外部から「自分たちの民族を使え」と圧力をかけられたが、屈することなく自分が信じる選手を起用し続けた。
このときの代表メンバーの中に、ドラガン・ストイコビッチ(日本でもプレーしJリーグ史上最高の外国人選手の1人といわれている)、デヤン・サビチェビッチ(ACミラン、「天才」「悪魔のドリブラー」と呼ばれた)もいた。
「オシムはチーム構成のスペシャリストだ。
どれだけ苦境に立たされても必ず正しい解決策を見つける。
育成術も一流で選手の能力最大限引き出せる」
(ユーゴスラビア代表、ドラガン・ストイコビッチ)

1990年6月、イタリアワールドカップで、ユーゴスラビア代表は準決勝に進出し、アルゼンチン代表と対戦。
試合は本戦で決着がつかずPK戦にもつれたが、ユーゴスラビア代表の9名のキッカーのうち7名が拒否。
もし外したとき、自分や自分が属する民族が他民族から非難されるのを恐れたためだった。
それはユーゴスラビア連邦代表の独特の重圧だった。
オシムは、PKを拒否しなかった2人に加え、3人を選んだ。
そして拒否しなかった2人は入れ、蹴りたくないといった3人は外し、試合に敗れた。
しかしワールドカップ、ベスト8という快挙は、国と民族の垣根を超え、ユーゴスラビア連邦のすべての人に歓喜をもたらした。
オシムは、このときすでに強いチームをつくって優勝させる「優勝請負人」としてだけでなく、格上を倒して観る者を胸を熱くさせる「感動請負人」という稀有な才能を発揮させていた。

ユーゴスラビア代表は、ワールドカップを終えた後、ヨーロッパ選手権に入ったが、同時期、並行するようにユーゴスラビア内で民族間の軋轢が激化。
サッカーでも、セルビアのクラブとクロアチアのクラブとの試合で開始早々、サポーター同士の衝突が起こり、ピッチ内にまで乱入するというハプニングが起こっていた。

9月12日、ユーゴスラビア代表 vs 北アイルランド、2対0
10月3日、スロベニア、クロアチア国家連合案を発表(スロベニアとクロアチアが連邦から離脱すれば両国の選手もユーゴスラビア代表から離脱となる)
10月31日、ユーゴスラビア代表 vs オーストリア戦、4対1
12月23日、スロベニアで国民投票が行われ88%が独立に賛成
1991年3月27日、ユーゴスラビア代表 vs 北アイルランド、4対1
3月31日、クロアチア人とセルビア人が銃撃戦
5月1日、ユーゴスラビア代表 vs デンマーク戦、1対2
5月2 日、クロアチア人とセルビア人が武装衝突
5月16日、ユーゴスラビア代表 vs フェロ諸島、7対0
6月26日、セルビア系住民が反対する中、クロアチアが独立宣言
7月、クロアチア軍とユーゴスラビア連邦軍が武力衝突(クロアチア紛争)

とユーゴスラビア代表がヨーロッパ選手権の予選を戦う中、ユーゴスラビア連邦は分裂していった。
そしてついにオシムの故郷、ボスニアのサラエボでも内戦が勃発した。

ボスニアのアリヤ・イゼトベゴヴィッチ大統領は、ユーゴスラビア連邦に残留しないことをと宣言。
しかしセルビア民主党のラドヴァン・カラジッチは、議会でイスラム教徒である大統領を激しく非難。
大統領は
「地獄の門が開くのを感じた」
という。
ボスニアは、イスラム教徒44%、セルビア人31%、クロアチア人17%という民族構成で、独立が残留か国論は二分され、民族間の緊張が高まった。
1992年2月29日、ボスニア独立の賛否を問う住民投票を行われ、90%以上が賛成。
それに反対するセルビア人勢力が大規模な軍事行動を開始。
この過程で、セルビア人以外の民族に対する虐殺が行われた。
例えばある40歳代だった男性は、セルビア人兵士に連行され、腕に囚人番号を入れ墨され、その後数週間、収容所のような場所で強制労働と拷問の日々を送った。
30代前半だった女性は、結婚し就学前の男児、女児、乳児がいたが、数人のセルビア人兵士に家を襲われ、家財を奪われ、男児を射殺された上、強姦された。
蛮行は他民族に対してだけではなく、民族主義者ではないセルビア人、他民族へ蛮行を拒否したセルビア人も暴力や殺害の対象となった。
あるセルビア人老人はイスラム教徒の友人や隣人らと離されるのを拒んだため、その場で死ぬまで殴られ、遺体はみせしめとして路上に放置された。
こうしてセルビア人勢力とユーゴスラビア軍は、ボスニアの6割以上を制圧。
カラジッチは首都:サラエボに入った。
4月5日、サラエボで民族共存を求める平和デモが行われ、何千人もの市民が議事堂を占拠。
その中にはセルビア人も含まれていた。
セルビア人勢力がデモ隊に発砲し、犠牲者が出る中、カラジッチは街の外の高台に逃れた。
そしてサラエボに対し、街の周辺から砲撃。
1日平均329回、最も多かった日には37777回の砲撃が行われ、サラエボのすべての建造物が被害を受け、35000棟以上が完全に破壊された。
街周辺には狙撃兵もいて、砲撃に加え、多くの人命が失われた。
やがてセルビア人勢力は町の中へ侵攻し、一部を支配下に置いた。
街中で衝突が繰り返され、一般市民が銃弾の雨にさらされた。

サラエボが包囲されたとき、オシムはユーゴスラビアの首都:ベオグラードにいた。
サラエボの自宅には妻:アシマと長女:イルマが取り残されていたが、帰る術はなく連絡も取れなかった。
1992年5月22日、ユーゴスラビア代表は予選を勝ち抜き、ヨーロッパ選手権の本戦まであと3ヵ月と迫っていた。
オシムは各民族の精鋭を束ねる監督して苦悩したが、故郷の惨状を見過ごすことはできず、手塩にかけて育ててきた代表チームから去ることを決意した。
辞任会見では
「これは個人としての意思表示で私自身が決めたことです。
私がサラエボに対してできる唯一のこと。
それが代表監督を辞めることです。
サラエボで今何が起こっているかみなさんご存じでしょう。」
と涙を浮かべながら語った。
その後、欧州サッカー連盟(UEFA) 、国際サッカー連盟(FIFA) は、国連のユーゴスラビアに対する経済制裁に同調する形でユーゴスラビア代表の出場を認めないことを決定。
予選を突破していたユーゴスラビア代表は、ヨーロッパ選手権に出場できなかった。
この後、オシムは

1990年~ パルチザン・ベオグラード(セルビア)
1992年~ バナシュナイコス・アテネ(ギリシア)
1994年~ シュトルム・グラーツ(オーストリア)

といずれも低迷に苦しむチームを優勝へと導いていった。

1994年10月、国連軍のヘリでオシムの妻:アシマがサラエボを脱出。
2年半ぶりにウィーンで夫婦は再会。
痩せ細ったアシマにオシムは言葉を失った。
ボスニアの内戦は、3年半以上にわたりボスニア全土で戦闘が繰り広げられ、その結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、侵入、略奪、破壊、暴行、、強制追放、強制収容、拷問、強姦、殺人、大量虐殺なども行われ、第2次世界大戦以降のヨーロッパで最悪の紛争となった。
「ユーゴスラビアはバラバラにわかれてしまった。
もう戦争は繰り返してほしくない。
でもわからない。
バカな人間はいつの世にもいる。」
(イビチャ・オシム)

Jリーグのジェフユナイテッド市原(現:千葉)は、ジョゼフ・ベングロシュ監督が2002年のシーズン終了後、退任。
後任監督が決まらないまま年が明け、韓国キャンプはコーチ陣が指揮していた。
キャンプに入って2週間後、就任が決まったオシムが韓国入りし、残りの1週間を指導した。
選手は、まるで陸上選手のように徹底的に走らされた。
それはコーチが
「本当にこれをやるのか」
と思うような練習量で、彼らは選手が疲労をため、ケガをすることを恐れた。
キャンプの打ち上げで、オシムが
「帰ったら本格的な練習をやろうか」
といったとき、全員が
「これは大変なことになるな」
と思った。
実際、この後、数ヶ月間、休みがなかった。
2003年2月11日、ジェフユナイテッド市原(現:千葉)は、61歳のイビチャ・オシムの監督就任を正式に発表。
それまでジェフは、ヤン・フェルシュライエン、ゲルト・エンゲルス、ニコラエ・ザムフィール、ズデンコ・ベルデニック、ジョゼフ・ベングロシュと5人の外国人監督が続いていた。

1993年(Jリーグ発足) 8位
1994年 9位
1995年 5位
1996年 9位
1997年 13位
1998年 16位
1999年 13位
2000年 14位
2001年 3位
2002年 7位


3年連続残留争いなど優勝とは無縁だった。
果たして6人目の外国人監督は、就任会見で
「とても危険なチームをつくりたい」
といった。

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