第1次世界大戦後、南東ヨーロッパ、バルカン半島の3民族(セルビア人、スロベニア人、クロアチア人)によって「セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国」がつくられた。
約10年後にユーゴスラビア王国に改名。
第2次大戦でナチス・ドイツの占領下となったユーゴスラビアは、パルチザンによる抵抗運動を繰り広げ、自力で独立、解放を果たした。
パルチザンのリーダー、チトーが大統領となって、多様な民族の共存を目指し、ソ連とは一線を画した社会主義国家の建設を推し進めた。
こうして6つの国(スロベニア、クロアテチア、ボスニア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)、7つの国境、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つユーゴスラビア連邦が誕生した。
北部のスロベニア、クロアテチアは、工業地域で比較的豊か。
宗教はカトリック。
文字はラテン文字。
南部のセルビア、モンテネグロ、マケドニアは農村地域で貧しかった。
宗教はギリシア正教とイスラム教。
文字はキリル文字。
歴史、文化、経済が異なる民族を1つの国に統合しようとするとさまざまな反発が生じた。
特に中央集権化を進めようとするセルビアと、連邦国家を主張するクロアチアの対立は深刻だった。
1941年5月6日、イビチャ・オシムは、そんなユーゴスラビア連邦の構成国の1つ、ボスニアの首都、サラエボで生まれた。
北にスロベニアとクロアテチア、東にセルビア、南にモンテネグロとマケドニアがあるボスニアは、ユーゴスラビア連邦の真ん中に位置し、その中でもサラエボは、ムスリム人44%、セルビア人31%、クロアチア人17%、宗教はイスラム教40%、ギリシャ正教31%、カトリック15%、プロテスタント4%と多種多様な文化が渦巻く民族の交差点で、ユーゴスラビア連邦の中で最も異民族間の結婚が多い街だった。
オシムの家は、決して裕福ではなかったが、切り詰めた生活の中で幸福に育った。
子供のころから運動も勉強もよくできる目立つ存在で、幼なじみで今もサラエボに住むランコ・コバチは
「まるで神様からの贈り物のような人間さ」
という。
娯楽はほとんどなく、必然的にサッカーが子供の遊びとなり、靴下を丸めたものをボールにして遊んでいた。
学校でもサッカー狂いの体育教師と日が暮れるまでサッカーをした。
13歳で地元のサッカークラブ、ゼレズニカールに入団。
18歳でゼレツニカール・サラエボと契約しプロ選手になった。
同時にサラエボ大学にも入学。
運動、勉学共に優秀なオシムは、奨学金をもらい、ボランティアで家庭教師をして食事を馳走になるなどして食費を浮かせた。
後に妻となるアシマも数学を指導したことで知り合った。
教授から研究職に就くことを勧められていたが、本人は数学の道に進むことを望んでいた。
やがてサッカーの出場給が鉄道工だった父親の3倍にもなり
「数学かサッカーか」
と大いに悩む。
20歳、大学を中退し、数学者になる夢を断念しサッカーに専念。
「私がプロ選手になったのは家庭の事情からだ。
母は望んでいなかったけど、お金を稼いで両親を喜ばせたかった。
でも母は逆に悲しんだかもしれない。
医者やエンジニアなど堅実な仕事を望んでいた。
実際、私の友人の多くはそういった職業を選んだ。
私が幸福だったのは両親が自由を与えてくれたことだ。
なにもいわず私の決断を受け入れてくれた。
私はサッカーから人生のすべてを学んだよ。
サッカーは人生の大学だ。
これほど素晴らしい大学はない。」
(イビチャ・オシム)
華麗なドリブルとチャンスを逃さない決定力を持つFW(フォワード)としてユーゴスラビアのスター選手となった。
ニックネームは「シュトラウス」
ワルツのように華麗なプレーがその理由だった。
23歳でユーゴスラビア代表として東京オリンピックに参加し、初来日し日本戦で2得点。
24歳で学生時代から交際していたアシマと結婚。
後に2男1女を授かった。
1970年、29歳でフランスリーグに移籍し、RCストラスブール、スダン、ヴァランシエンヌ、ストラスブールと各チームで10番を背負った。
1978年、37歳で現役引退。
選手生活12年間で85得点。
驚くべきことに1枚のイエローカードも受けたことがないフェアなプレーヤーだった。
その後、故郷サラエボに戻り、古巣ゼレツニカール・サラエボのユースチーム監督となり、翌年にはトップチームの監督に昇格。
1990年、49歳でユーゴスラビア代表監督に就任。
ボスニア人、モンテネグロ人、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、モザイク国家といわれたユーゴスラビアの代表メンバーを束ね上げていった。
ユーゴスラビアの代表監督は、民族間対立の狭間に立たされるという宿命があった。
メディアは、自民族の活躍に偏った報道を行い、記者会見も3つくらいにわかれて行われた。
オシムは外部から「自分たちの民族を使え」と圧力をかけられたが、屈することなく自分が信じる選手を起用し続けた。
このときの代表メンバーの中に、ドラガン・ストイコビッチ(日本でもプレーしJリーグ史上最高の外国人選手の1人といわれている)、デヤン・サビチェビッチ(ACミラン、「天才」「悪魔のドリブラー」と呼ばれた)もいた。
「オシムはチーム構成のスペシャリストだ。
どれだけ苦境に立たされても必ず正しい解決策を見つける。
育成術も一流で選手の能力最大限引き出せる」
(ユーゴスラビア代表、ドラガン・ストイコビッチ)
1990年6月、イタリアワールドカップで、ユーゴスラビア代表は準決勝に進出し、アルゼンチン代表と対戦。
試合は本戦で決着がつかずPK戦にもつれたが、ユーゴスラビア代表の9名のキッカーのうち7名が拒否。
もし外したとき、自分や自分が属する民族が他民族から非難されるのを恐れたためだった。
それはユーゴスラビア連邦代表の独特の重圧だった。
オシムは、PKを拒否しなかった2人に加え、3人を選んだ。
そして拒否しなかった2人は入れ、蹴りたくないといった3人は外し、試合に敗れた。
しかしワールドカップ、ベスト8という快挙は、国と民族の垣根を超え、ユーゴスラビア連邦のすべての人に歓喜をもたらした。
オシムは、このときすでに強いチームをつくって優勝させる「優勝請負人」としてだけでなく、格上を倒して観る者を胸を熱くさせる「感動請負人」という稀有な才能を発揮させていた。
ユーゴスラビア代表は、ワールドカップを終えた後、ヨーロッパ選手権に入ったが、同時期、並行するようにユーゴスラビア内で民族間の軋轢が激化。
サッカーでも、セルビアのクラブとクロアチアのクラブとの試合で開始早々、サポーター同士の衝突が起こり、ピッチ内にまで乱入するというハプニングが起こっていた。
9月12日、ユーゴスラビア代表 vs 北アイルランド、2対0
10月3日、スロベニア、クロアチア国家連合案を発表(スロベニアとクロアチアが連邦から離脱すれば両国の選手もユーゴスラビア代表から離脱となる)
10月31日、ユーゴスラビア代表 vs オーストリア戦、4対1
12月23日、スロベニアで国民投票が行われ88%が独立に賛成
1991年3月27日、ユーゴスラビア代表 vs 北アイルランド、4対1
3月31日、クロアチア人とセルビア人が銃撃戦
5月1日、ユーゴスラビア代表 vs デンマーク戦、1対2
5月2 日、クロアチア人とセルビア人が武装衝突
5月16日、ユーゴスラビア代表 vs フェロ諸島、7対0
6月26日、セルビア系住民が反対する中、クロアチアが独立宣言
7月、クロアチア軍とユーゴスラビア連邦軍が武力衝突(クロアチア紛争)
とユーゴスラビア代表がヨーロッパ選手権の予選を戦う中、ユーゴスラビア連邦は分裂していった。
そしてついにオシムの故郷、ボスニアのサラエボでも内戦が勃発した。
ボスニアのアリヤ・イゼトベゴヴィッチ大統領は、ユーゴスラビア連邦に残留しないことをと宣言。
しかしセルビア民主党のラドヴァン・カラジッチは、議会でイスラム教徒である大統領を激しく非難。
大統領は
「地獄の門が開くのを感じた」
という。
ボスニアは、イスラム教徒44%、セルビア人31%、クロアチア人17%という民族構成で、独立が残留か国論は二分され、民族間の緊張が高まった。
1992年2月29日、ボスニア独立の賛否を問う住民投票を行われ、90%以上が賛成。
それに反対するセルビア人勢力が大規模な軍事行動を開始。
この過程で、セルビア人以外の民族に対する虐殺が行われた。
例えばある40歳代だった男性は、セルビア人兵士に連行され、腕に囚人番号を入れ墨され、その後数週間、収容所のような場所で強制労働と拷問の日々を送った。
30代前半だった女性は、結婚し就学前の男児、女児、乳児がいたが、数人のセルビア人兵士に家を襲われ、家財を奪われ、男児を射殺された上、強姦された。
蛮行は他民族に対してだけではなく、民族主義者ではないセルビア人、他民族へ蛮行を拒否したセルビア人も暴力や殺害の対象となった。
あるセルビア人老人はイスラム教徒の友人や隣人らと離されるのを拒んだため、その場で死ぬまで殴られ、遺体はみせしめとして路上に放置された。
こうしてセルビア人勢力とユーゴスラビア軍は、ボスニアの6割以上を制圧。
カラジッチは首都:サラエボに入った。
4月5日、サラエボで民族共存を求める平和デモが行われ、何千人もの市民が議事堂を占拠。
その中にはセルビア人も含まれていた。
セルビア人勢力がデモ隊に発砲し、犠牲者が出る中、カラジッチは街の外の高台に逃れた。
そしてサラエボに対し、街の周辺から砲撃。
1日平均329回、最も多かった日には37777回の砲撃が行われ、サラエボのすべての建造物が被害を受け、35000棟以上が完全に破壊された。
街周辺には狙撃兵もいて、砲撃に加え、多くの人命が失われた。
やがてセルビア人勢力は町の中へ侵攻し、一部を支配下に置いた。
街中で衝突が繰り返され、一般市民が銃弾の雨にさらされた。
サラエボが包囲されたとき、オシムはユーゴスラビアの首都:ベオグラードにいた。
サラエボの自宅には妻:アシマと長女:イルマが取り残されていたが、帰る術はなく連絡も取れなかった。
1992年5月22日、ユーゴスラビア代表は予選を勝ち抜き、ヨーロッパ選手権の本戦まであと3ヵ月と迫っていた。
オシムは各民族の精鋭を束ねる監督して苦悩したが、故郷の惨状を見過ごすことはできず、手塩にかけて育ててきた代表チームから去ることを決意した。
辞任会見では
「これは個人としての意思表示で私自身が決めたことです。
私がサラエボに対してできる唯一のこと。
それが代表監督を辞めることです。
サラエボで今何が起こっているかみなさんご存じでしょう。」
と涙を浮かべながら語った。
その後、欧州サッカー連盟(UEFA) 、国際サッカー連盟(FIFA) は、国連のユーゴスラビアに対する経済制裁に同調する形でユーゴスラビア代表の出場を認めないことを決定。
予選を突破していたユーゴスラビア代表は、ヨーロッパ選手権に出場できなかった。
この後、オシムは
1990年~ パルチザン・ベオグラード(セルビア)
1992年~ バナシュナイコス・アテネ(ギリシア)
1994年~ シュトルム・グラーツ(オーストリア)
といずれも低迷に苦しむチームを優勝へと導いていった。
1994年10月、国連軍のヘリでオシムの妻:アシマがサラエボを脱出。
2年半ぶりにウィーンで夫婦は再会。
痩せ細ったアシマにオシムは言葉を失った。
ボスニアの内戦は、3年半以上にわたりボスニア全土で戦闘が繰り広げられ、その結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、侵入、略奪、破壊、暴行、、強制追放、強制収容、拷問、強姦、殺人、大量虐殺なども行われ、第2次世界大戦以降のヨーロッパで最悪の紛争となった。
「ユーゴスラビアはバラバラにわかれてしまった。
もう戦争は繰り返してほしくない。
でもわからない。
バカな人間はいつの世にもいる。」
(イビチャ・オシム)
Jリーグのジェフユナイテッド市原(現:千葉)は、ジョゼフ・ベングロシュ監督が2002年のシーズン終了後、退任。
後任監督が決まらないまま年が明け、韓国キャンプはコーチ陣が指揮していた。
キャンプに入って2週間後、就任が決まったオシムが韓国入りし、残りの1週間を指導した。
選手は、まるで陸上選手のように徹底的に走らされた。
それはコーチが
「本当にこれをやるのか」
と思うような練習量で、彼らは選手が疲労をため、ケガをすることを恐れた。
キャンプの打ち上げで、オシムが
「帰ったら本格的な練習をやろうか」
といったとき、全員が
「これは大変なことになるな」
と思った。
実際、この後、数ヶ月間、休みがなかった。
2003年2月11日、ジェフユナイテッド市原(現:千葉)は、61歳のイビチャ・オシムの監督就任を正式に発表。
それまでジェフは、ヤン・フェルシュライエン、ゲルト・エンゲルス、ニコラエ・ザムフィール、ズデンコ・ベルデニック、ジョゼフ・ベングロシュと5人の外国人監督が続いていた。
1993年(Jリーグ発足) 8位
1994年 9位
1995年 5位
1996年 9位
1997年 13位
1998年 16位
1999年 13位
2000年 14位
2001年 3位
2002年 7位
3年連続残留争いなど優勝とは無縁だった。
果たして6人目の外国人監督は、就任会見で
「とても危険なチームをつくりたい」
といった。
チーム全体が、現状に満足し、挑戦していないと感じたオシムは、チームを根本的に改革していくため、まず21歳の阿部勇樹をキャプテンに抜擢。
阿部勇樹は、中学生のころからジェフのジュニアユースでプレーするジェフ一筋の選手で、それまで先輩選手を立ててあまり前に出ようとしてなかった。
阿部は最初は嫌で仕方なかったが、試合を重ねるごとに頭角を現し、譲りがちだったFKを自ら蹴るなど積極的に攻撃に参加するようになった。
戦う姿勢が変わったことに加え、本職の守備的MFに加え、複数のポジションを経験させられ
「ポリバレント(ユーティリティープレイヤー、いくつものポジションをこなす選手)」
といわれるようになったことも強みになった。
「僕自身「できること」と「できないこと」を整理してました。
サイドバックをやっても長友佑都選手みたいにできるかっていうとできない。
タイプが違います。
誰かの真似じゃなくて、僕は僕のやり方でやれればいいんじゃないかという考えでプレーしていたから、それがよかったんでしょうね。
別のポジションでプレーすると「誰かの代役」っていわれちゃうじゃないですか。
別に代役じゃないし自分は自分。
自分が「代役」といわれたらそう思ってたし、他の人がそういわれたら「関係ないじゃん、自分らしくやればいいじゃん」って話をしていました。
そして僕は「自分が出来ることをしっかりやっていた」から、オシム監督は違うポジションでも使ってくれたのかなぁと考えています。」
(阿部勇樹)
オシムは、練習メニューを、その日、そのとき、現場で決めた。
たとえ前日に
「明日は・・・の練習をするつもりだ」
と聞いていても、当日になると変更されるため、スタッフは準備が大変だった。
練習時間が突然、変更されることもあり、選手もそれに対応しなければいけなかった。
「前もって何も決められないことは初めは戸惑いました。
しかしそれで結果が出たので・・」
(ジェフスタッフ)
オシムは、チームに3色しかなかったビブス(着る人の役割や所属を一目で伝えられるカラーゼッケン)を10色に増やし、オリジナルの練習が行った。
選手は、ビブスの色が多く、新しいことだらけでついていくので精一杯だった。
例えば「3対1のボール回し」は、最初は自由な状態でスタート。
徐々にタッチ数の制限やボール保持する3人に「1-2-3のの順番にしか回せない」などというルールが追加されていった。
「3色のチームにわかれたパス練習」では、3色のビブスで3チームにわかれ、数個のボールを使ってパス練習を行う。
すべてのパスをワンタッチで行い、リターンパスは禁止。
最初は、ビブスの色に関係なくパスを回す。
やがて
・同色のビブスの人へのパスを禁止
・青-白-赤の順でパスを回す
などのルールが追加される。
パスはワンタッチで行わなければならないので、パスを受ける前に周囲をみてパスする相手やコースを準備しておく必要がある。
紅白戦も、Aチームの前線は黄色、中盤は赤、ディフェンスは緑のビブス、Bチームも3色のビブスを着て、合計6色のビブスと複雑なルールを使って行われたため、何がなんだかわからなくなり、頭が疲れてしまう選手が続出した。
「マルチゴール4対4」は、コーンで小さなゴールは5つつくって、守備側、攻撃側にわかれての4対4。
4人で守るべきゴールは5つ。
1人が1つのゴールを守っていても1つが空いてしまうため、動き続けなければならない。
攻撃側は、ただ横1列に並んで攻めるのではなく、
・誰か1人が前に出れば、守備側は警戒してマークを絞ってきて、ゴールが空く。
・ボールを持っている選手が右サイドに走りこんで相手を引きつけから左サイドにボールを展開すれば数的優位をつくることができる。
・ボールを持っていない3人がスペースに走り込み、その動きに相手が釣り出されて生まれたスペースに、さらに他の選手が走り込むと、また別の守備側の選手が釣り出される。
などテクニックを使う。
このとき大事なのは、スペースに走り込むとき、本気で狙っているという気持ちを持って、強くハッキリ動くこと。
そうでないと相手は釣られないし、味方にも意図が伝わらない。
オシムは
「強く走る」
「ハッキリ走る」
「相手を惑わすランニングをしろ」
「本気で狙え」
と指導した。
またシュートを決めた選手よりも走って囮になった選手を、
「9割は彼の得点だ」
と称えた。
それは試合でも変わらず、だから選手は犠牲心を持ってチームのために走ることができた。
ハーフコートを使った4対4では、オシムは
「とにかく速く攻める」
「全部、速く速く速く、フィニッシュまで」
「いま、・・が仕掛けたときもう1人裏に回ってやるとか・・・・」
「うちはレアルマドリードじゃないんだから」
「なんで1歩を惜しんでるの?
ボール持ってない選手はもっと1歩を動かそう」
「ボール持ったら早く仕掛けよう。
なんでゆっくり仕掛けるの。
ゆっくりしかけたら相手は全然こわくない」
とスピードを維持したままボールを回し、走ることを要求。
ある選手がセンターリングを上げると、表情を険しくして
「ストップ!」
と練習を止めた。
そして
「なんで上げたの?
そこから中に入って勝負かけてみろ。
2対1になるだろ?
なんでセンターリング上げたの?」
と詰め寄った。
そして日本語で答えようとする選手を
「説明なんていらない!
仕掛けろっていってるんだ。
わからないんだったら家に帰っていいから」
と遮った。
思慮の浅いプレーには非常に厳しかった。
選手は練習でミスをすれば罰で走らされた。
コーチやトレーナーも人数合わせのためにゲーム形式の練習に参加することがあったが、ミスをすれば、選手と同じようにオシムに怒られ、走らされた。
それはジェフの得点王、エースストライカーの崔龍洙(チェ・ヨンス)も同様だった。
同じ選手でも実績が大きな選手やエース選手となると扱いが変わってしまうことがあるが、オシムは
「20点獲っていようが、30点獲っていようがエゴは許さない。」
とミスをしたら容赦なく走らせた。
しかし同じミスでも、前向きなトライや挑戦的な意図がみえるミスに対しては怒らず
「リスクを冒すこと」
「高い目標を持つこと」
「野心を持つこと」
を奨励。
こうしてオシムは、基本的にボールに集中し、本能的にプレーする選手にゲームのやり方を覚えさせていった。
それは
「考えて、走るサッカー」
と呼ばれた。
「陸上部なんじゃないかっていうくらい走らされましたね。
パスしたらとにかく走れっていうレベルからスタートして、最初の頃は怒られたくないから走るみたいなところもありました。
ただシーズンが始まると結果がついてきた。
勝てるようになって、やっぱり走るのって大事なんだなと思いました。」
(坂本將貴)
「練習は無茶苦茶キツくて勘弁してほしいってくらいでした。
練習メニューはこれまでやったことないようなメニューばかりだったので、まず理解するのに時間がかかりましたね。
練習パターンが豊富で毎回違うような練習が組まれるので、頭使うし、技術が伸びるし、飽きないですね。
厳しいけど楽しいというか・・・・
監督のいうようにやったら結果が現れました。」
(佐藤勇人)
「外からみると走ることに重きを置いているようにみえていたと思いますが、実際は考えることに1番重きを置いていました。
考えることをよく指摘されただけでなく、考えないとできないメニューも多かったです。」
(羽生直剛)
1回の練習時間は試合と同じ90分と決まっていた。
例えば、夜、練習していて終わるとオシムはすぐに
「ライトを切ってくれ」
と指示。
90分の間に100%の力を出し切ることを要求し、個人的な早出練習、居残り練習は禁止した。
「僕はすごいシュートがすごい下手くそで、居残り練習がダメだったんでシュート練習やらせてくれといいにいったことがあるんですよ。
そのときにお前に必要なものは俺の練習の中に詰まっているから、日頃の練習を100%やれば絶対にうまくなるから、だから100%でやれっていわれました。
それでももし足りないんだったら俺にいえと、俺が一緒にやるからと」
(巻誠一郎)
そして練習後、チームで食事するとき、オシムは少し選手から離れて位置に座った。
常に着かず離れず、適度な距離感で選手と接し続けた。
1週間のスケジュールをみると、基本的に休日はなかった。
通常、土曜に試合があった場合、日曜はリカバリートレーニング(疲労回復を促進させるための軽いトレーニング)、月曜日はオフ、火曜からまた次の試合に向けてトレーニングという流れとなる。
しかしオシムは、試合翌日、フィジカルコーチに、
「スピードアップしたり、スピードを落としたりしながら10分間走らせるように」
と本格的に走らせるよう指示。
これまではゆっくりジョギングをしていた選手は、
「嘘だろ?」
と驚き、心の中でブーブー文句いいながらも、監督がみているため走るしかなかった。
土曜日に試合をして日曜日の午前中にリカバリートレーニングを行なった後は、
「24時間以上、空くから、その間に体を休めればいいじゃないか」
と月曜日は夕方から練習。
これまでオフだった月曜日が練習日になった選手は
「夕方から練習すると練れない」
と抗議。
しかしオシムは、
「夜飲みに行こうとか考えているから嫌なのであって、サッカーにすべてを捧げるなら、練習して、休んで、練習するのが最も合理的だろう。
サッカーでメシを食っているんだから、サッカーにすべてを懸けろ」
と諭した。
火曜日からは2部練習。
9時半~11時まで練習し、食事をして、いったん帰宅して休んで、17時くらいからまた練習。
水曜日、大学生チームなどと練習試合が組まれ、選手は疲労を抱えたまま走り回った。
通常の試合形式だけではなく、8対11や9対11など変則的なゲームも行われた。
60分間ハーフの試合では、前半と後半で全員入れ替えし、全員が出場。
選手はウォーミングアップ30分と合わせて、試合時間と同じ90分間動いた。
木曜日も2部練習。
金曜日、試合前日は、敵チームを意識した練習。
オフェンスの練習では、ディフェンダーは相手チームのディフェンスの動きを研究し、それに似せて守り、つけるビブスも相手チームのユニフォームカラーにものをつけ、番号も相手チームの各ポジションの背番号と合わせた。
ディフェンス練習では、この逆のことが行われた。
時折、ピッチ上でボードを持ったオシムを選手が囲み、時間をかけてミーティングも行われた。
「1週間のトレーニングの中に次の試合のポイントが確実に落とし込まれていて、試合になったら同じようなシチュエーションが生まれて、自然とプレーできるんですよ」
(坂本將貴)
試合前のミーティングは、さながらオシムゼミで、理路整然と選手たちに指示が出た。
しかし試合が始めると一転、感情がむき出しになって、60歳を超えているとは思えない剣幕で
「ヤマ!」
「サカ!」
「イリアン!」
「コウジ!」
選手に檄を飛ばし、ジェフが点を獲るとガッツポーズ、獲られると
「なにしてるんだ!」
というように激しくジェスチャーした。
試合が終われば、また6日間のトレーニングが始まった。
休みがなくても191cmの巨体がノシノシと歩きながらこちらをみているので選手たちは懸命に頑張るしかなかった。
ハードなトレーニングと練習が毎日続くため、気が抜けなくなり、自然と練習前の準備と練習後のケアをしっかり行うようになった。
オシムがいう
「24時間サッカーに注ぎ込む」
というスタイルが出来上がっていった。
すると選手たちは明らかに逞しくなっていった。
厳しい練習やトレーニング、課題を突きつけられても、出てくるのは文句ではなく
「よーし、やってやる」
とポジティブなものに変化。
困難に遭っても腐らず奮起する癖がついた。
「練習は確かに1年目はキツかったし休みがなかった。
それで周りの選手から監督に訴えてくれといわれて「休みをください」っていいにいったんですよ。
そうしたら逆に説教を食らいました。
それで結果が出るようになると楽しいし、2年目、3年目は身体が慣れて、そんなにキツくならなくなった。
戦えるようになってきたんじゃないかなと思いながらシーズンを過ごしていました。」
(阿部勇樹)
サッカーの戦術や経験とは別に、オシムは非常に選手思いで、かつ言葉に力がある人だった。
基本的に寡黙だが、いいプレーをした選手に
「今のプレーはよかったぞ」
とさりげなく褒めた。
ピッチで怒鳴った後、少し落ち着いてから優しく声をかけることもあった。
悩む選手がいれば、
「勇気がなければ幸運は訪れないぞ」
「悩んだら自分にとって苦しい道を選べ」
とアドバイスした。
オシムの試合での選手起用基準は、明確でフェアなものだったが、実際に試合メンバーを決めるとき、いろいろなことを考えてしまい朝まで眠れないこともあったという。
またサッカーが好きでたまらない現役のサッカー小僧で、毎日、サッカーの試合をみていた。
よく選手やスタッフに
「昨日のあの試合、みた?」
と聞いて
「あのディフェンスはよかっただろう?」
などと楽しそうに話した。
どれだけの経験と実績を積んでも
『サッカーはコレッ』
という考えはなく、常に学び続け、変化し続けることを望んだ。
「サッカーには常に上がある。
もし完璧なやり方があったら、みても面白くないだろう。
ワールドカップもブラジルが負けるから面白い。
常に次のステップがあるということだ。
コレがすべてだと思った瞬間に、次はない。」
(イビチャ・オシム)
2003年、Jリーグは、1年の前半を1stステージ、後半を2ndステージとして、それぞれ順位を争い、最後に1stステージチャンピオンと2ndステージチャンピオンが戦い、勝ったほうが年間チャンピオンとなった。
1stステージ、2ndステージ、両方で優勝すれば、「完全優勝」といわれた。
ジェフは、1stステージ第1節、東京ヴェルディ戦、第2節、大分トリニータ戦と2連勝。
しかし3節でヴィッセル神戸に0-3で敗れるとオシムはメンバーの大幅チェンジを敢行。
ベテラン選手を外し、若手2人(2年目の羽生直剛、4年目の佐藤勇人)をスタメンに抜擢。
誰もが驚いたが、オシムがやろうとしているサッカーを実現するためには、技術があって、なおかつ走れなければならなかった。
こうして
2トップ 崔龍洙(チェ・ヨンス、韓国代表)、サンドロ・カルドソ・ドス・サントス
トップ下 羽生直剛
2ボランチ 阿部勇樹、佐藤勇人
ウイングバック 坂本將貴、村井慎二
3バック 茶野隆行、ゼリコ・ミリノビッチ(スロベニア代表)、斎藤大輔
GK 櫛野亮
という布陣が中心になっていく。
2003年4月26日、1stステージ第5節、ジェフはホームの市原臨海( 市原緑地運動公園臨海競技場)で岡田武史監督率いる横浜F・マリノスに3-1で勝利。
ジェフは、この後、市原臨海では、2005年11月11日の鹿島アントラーズ戦までリーグ戦31戦不敗という記録を樹立する。
市原臨海は、最寄り駅から徒歩30分もかかり、ピッチとスタンドの距離が遠く、設備的にも貧弱で
「Jリーグ最低のホームスタジアム」
と酷評されることも多かったが、オシムはこのアットホームなスタジアムを愛した。
ジェフは、親会社のJR東日本の関係でホームゲームを秋田や松本、国立競技場で行うことがあったが、オシムは
「それはおかしい。
なぜホームスタジアムで試合をしないのか」
とジェフの淀川隆博社長に疑問をぶつけた。
ホームで勝利すること、地元のサポーターを喜ばせることに非常に強い意欲を持っていた。
1st.ステージ6節、京都パープルサンガ、7節、セレッソ大阪戦に勝ったジェフは首位に浮上。
8節で名古屋グランパスに1-2で敗れ、一時陥落したものの、9節で鹿島アントラーズ、11節で柏レイソルに勝って再び首位。
2003年7月20日、首位ジェフは、13節で敵地に乗り込み、前年度チャンピオンで3位のジュビロ磐田と対戦。
前半にジュビロに先制ゴールを許し、0-1。
後半開始早々に得たフリーキックを崔龍洙(チェ・ヨンス)が、まさかのチップキック
(つま先をボールの下に潜り込ませて足の甲でボールを浮かせるように蹴るキック。
相手の頭上を超えるパスや、ゴールキーパーの頭上を超えるループシュートを蹴る際に用いられる)
でゴール。
その後、サンドロのゴールで逆転。
しかしそのわずか1分後、ジュビロのジヴコヴィッチがセットプレーからクロスを上げ、前田遼一が意地のヘディングゴールを決め、同点。
試合は、2-2のドローで終わった。
勝っていれば1stステージ優勝に大きく近づいたというものの、3位のジュビロの自力優勝の可能性を完全に潰し、2位の横浜F・マリノスと勝ち点1差で首位をキープ。
1stステージの残り試合は2試合で、敵地でのドローは勝ちに等しいと思われた。
しかし試合後のロッカールームでオシムは
「お前がクロスを上げさせたから試合に引き分けたんだ!!」
と怒声を響かせた。
ジヴコヴィッチをマークしていた坂本將貴への叱責だった。
その後、チームは室内練習場に移動しストレッチを行ったが、そこで坂本將貴はコーチから
「オシムさんが明日、ランチに誘っているぞ」
と伝えられた。
翌日、昼食をとりながらオシムにいわれた。
「いいプレーは誰もが覚えているがミスは意外と忘れてしまうから、その場で注意しなければならない。
ああいう1つのミスによって大事な勝ち点を失い、優勝を逃すことがある。
お前は影響力があるし、喋れるから、チームメイトに伝えてほしい。
だからあえてお前に厳しくいったんだ」
初優勝のプレッシャーからか、続く14節でジェフは清水エスパスに0-3で完敗。
1stステージ優勝を逃してしまった。
2ndステージも優勝争いを繰り広げながら一歩届かず、年間3位に終わった。
しかしジェフの躍進は大きな称賛を浴びた。
鋭いプレッシングと後方から選手が次々と飛び出し、大きな波が幾度も押し寄せるようなアタッキングサッカーは、Jリーグに旋風を巻き起こした。
特徴的だったのは、マンツーマンの守備からの反転速攻。
しつこくマークしていた相手を置き去りにして、一気に攻撃。
マンツーマンも守備というより、近くにいる相手を捕まえてインターセプトを狙う攻撃的なもので、ボールを奪ってそのまま出ていけば、相手を置き去りにできるし、それが敵陣であれば得点の確率は高くなる。
こういった捨て身の攻撃は、よく試合の残り時間がわずかになったときに負けているチームが行うで、守りを捨てて相手ゴールに向かって力を集中できるため、ゴールが生まれる可能性は高まる。
一方、ボールを奪われると、手薄になった自陣に一気に攻め込まれ、失点する可能性がある。
非常にハイリスクな戦法だが、ジェフは、アディショナルタイムではなくキックオフからそれを行い、最初から最後まで攻守両面でアグレッシブに戦った。
2005年年4月9日、トリニータ戦でジェフは開始2分と5分に連続失点。
失点に絡んだ水本裕貴は交替。
試合時間わずか10分でベンチに下げられた水本は衝撃を受けたが
「一生懸命やるしかない」
とショックを引きずらないよう、練習により積極的に取り組んだ。
オシムは一切、声をかけなかったが、4日後に行われたジュビロ戦に水本をスタメン出場させた。
もし水本が落ち込んだり、ふて腐れたままだったら、恐らく起用はしなかっただろう。
失敗に奮起する姿をみてチャンスを与えたに違いなかった。
「そこまで多くを語る人じゃないんですけど、いろんなことをみているというか、みられている感じがありました。
選手の言動や様子、プレーの細部までじっくりみていて。
ちゃんとみてくれているから、練習でいいプレーをすれば、試合に使ってもらえる。」
(水本裕貴)
2005年9月24日、オシムは、エスパルス戦に指を骨折していた巻誠一郎を出場させた。
試合後、そのことを記者に聞かれ、鋭く
「骨折して試合に出たらダメなんですか?
なんなら骨折したことでメダルをあげましょうか?」
と返した。
オシムの確固たる意志と洗練されたサッカービジョンは、選手だけでなくマスコミも鍛え、日本のサッカーを推していった。
9月25日、エスパルスに勝った翌日、台風が近づく中、ボール回し中心の練習を行い、9月26日は、急に休日となった。
いきなり休みといわれた選手は
「もう慣れました」
という感じで3週間ぶりの休日エンジョイした。