たこ八郎  ボクシング狂時代  少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位  傷だらけの栄光

たこ八郎 ボクシング狂時代 少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位 傷だらけの栄光

学校は週休2日。公園から危険遊具撤去。体罰オール禁止。オッサンは子供をみただけで不審者。洗濯機の安全性も高まって、脱水が終わってもフタがなかなか開かないから、手を突っ込んで指が折れそうになることもない。少子高齢化の日本では、過去の中国の1人っ子政策のように、子供は安全に大事にソフトに育っていく。そんな時代だからこそ、たこ八郎のようにクジけずハードに生きていきたいモノです。


アシド戦から2ヵ月後、世界ウェルター級タイトルマッチで死亡事故が起こった。
12R、すでにグロッキーだったチャンピオン:ベニー・パレットが、挑戦者:エミール・グリフィスにTKOされ、意識不明となり脳手術の甲斐なく亡くなった。
すでにグロッキーだったチャンピオンがロープによりかかったまま打たれ続けたのが直接的な原因だが、その前の試合で強烈なKO負けをしており、そのときの脳のダメージも回復し切っていなかったことも間接的な原因と考えられた。
事故後、アメリカでは「ボクシング禁止論」が巻き起こった。
1対1で長時間殴り合うボクシングはとても危険で、例えば前から強いパンチを顔面に受けると、脳が頭蓋骨の後頭部側に激突し、さらに反動で前側にもぶつかる。
いわゆる脳震盪の状態に陥ったり、脳が腫れ、出血し血腫ができると記憶喪失、脳梗塞、動脈瘤、血管破損なども起こり、多くのボクサーは何らかの脳損傷に苦しむことになる。
脳のダメージの度合いによっては死に至ることもあり、試合直後は、変わった様子がなくても、数日後、突然倒れることもある。
試合後、控室でトレーナーに負けたことを詫び、頭が痛いと訴えていたボクサーが、倒れこみ、そのまま意識が戻らず数日後亡くなったこともある。
ボクサーは、厳しい体重制限があるため、禁欲的な生活を強いられる。
勝つためには激しい練習が必要で、肉体的にも精神的も苦しい思いをしなければならない。
そして試合では命がけで戦う。
その上、何の保証もないため、常に将来の生活に不安を抱えている。
その上、健康を損なう危険性も高く、底辺から頂点に這い上がるサクセスストーリーには必ず悲話もつきまとった。
ボクシング禁止論は、このときに始まったことではなかったが、世界タイトルマッチでのチャンピオンの死がつくった波紋は大きかった。
マスコミは
「合法的殺人」
と強く非難し、議会でボクシング禁止法案を通すべきと主張した。
これがカナダやイギリスにも飛び火。
トロントはボクシングのラジオ放送を中止。
BBC(イギリスの公共放送)もタイトルマッチの放映を中止。

日本のマスコミも
「戦後、世界で194名、年間10名以上のボクサーが試合が原因で死亡し、うち6名が日本人」
「対岸の悲劇ではない」
「興行本位に猛省のとき」
「急務の健康管理」
「レフリーにも資格審査の必要」
とこの問題を取り上げた。
医学界も反応し、日本ボクシングコミッションドクターの医学博士ら数人が
「プロボクサーの災害に関する研究」
をまとめた。
それによると1956~1961年の5年間で、外傷を受けたボクサーは310人。
外科が178人、眼科42人、耳鼻咽喉科31人、内科9人、泌尿器科1人。
圧倒的に多い外科の大部分が、頭部外傷。
脳障害が最も危険な症状とされ、死亡者のほとんどがこれに該当した。
死亡しなくとも脳障害や視力障害でリングを去る者も多かった。
脳障害はボクシングを辞めた後も尾を引くことがあった。
真っ直ぐ歩けなかったり、酒に酔ったようにろれつが回らない肉体的障害。
記憶力が低下したり、怒りっぽくなったり、威張ったり、嘘をついたり精神的障害。
これらは「進行性障害」といわれ、いわゆる「パンチドランカー」といわれる状態だった。
彼らは、脳障害を防ぐために、定期的に脳波検査を受けることを薦めた。

日本フライ級チャンピオンの野口恭は、積極的に協力した。
試合前、翌日、1週間後の3回、頭部に12本の針を刺して脳波を測定するテストを行った。
その結果、試合前、正常だった脳波は、翌日には打たれた影響で乱れ、数日間ゆっくり休養すると正常に回復していた。
現実的に健康管理はボクサー自身に、試合でのストップするか否かはレフリーに任せられる。
この時期の日本ボクシングは、何度ダウンしても起き上がってくれば、選手の意志を尊重し戦わせるのが普通で、流血してもよほどのない限り続行した。
もし中途半端に試合が止まろうなら、観客は
「もっとやれ」
「バカ野郎、金返せ」
と抗議しモノを投げた。
日本のボクシングは、後にも先にもこれ以上ないだろうというくらい熱狂していた。
「清作みたいにメッタ打ちにされて血を噴いてもレフリーストップになならいのは、今しかないかも知れん」
ベニー・パレットの事故後、一連の流れをみながら笹崎たけし会長はいった。
ファイティング原田の世界挑戦を進める一方、斉藤清作の次の相手については日本の上位ランカーと考えていた。
「清作。
これから上位ランカーとやっていくには今までと同じような戦法じゃ通用しないかもしれないぞ」
「はあ」
「確かに客は喜ぶよ。
人気も出る。
しかしオリンピック選手じゃあるまいし国民の要求に応えてばかりいるとバカをみることもある。
少し自分を大事にすることも考えろ」
「はい」
斉藤清作うなずいたが戦い方を変えるつもりはなかった。

ベニー・パレットの事故から1ヵ月後、斉藤清作は、中村剛との対戦が決まった。
日本フライ級は、チャンピオンが野口恭、1位がファイティング原田、2位が海老原博幸、そして3位が中村剛だった。
野口恭は、世界チャンピオンのポーン・キングピッチとのタイトルマッチを控え、ファイティング原田はその勝者に挑戦することが決まっていた。
斉藤清作にとって、初めての上位ランカーとの対戦、初めてのメインイベンターで、試合2週間前になると、練習後、飲み歩くのをやめ、原田家に帰って寝酒だけ飲んで寝た。
原田家は、この1年で様変わりした。
カマドがあった土間にはコンクリートが打たれ、新しいキッチンができていた。
回転代つきの最新型テレビ、電気冷蔵庫、2層式電気洗濯機など最先端の家電がそろった。
屋根はまだ藁だったが、ファイティング原田のファイトマネーで改造されるのは時間の問題だった。


試合1週間前の練習後、斎藤清作はファイティング原田にいった。
「中村に負けたらやめる。
逃げ足達者なやつに負けるほど恥ずかしいことはない。
逃げ専門、判定専門のボクシングなんてプロじゃない。
どっちがプロか思い知らせてやる」
中村剛は、ヒット&アウェイの技巧派。
打っては離れ、相手のパンチはステップバックでかわし、回り込んでパンチを入れ、またスッと離れる。
相手は追い切れず、ポイントを失い続け、中村剛は、ほとんど打たれることなく、多くの判定勝ちを積み重ね、日本ランキング3位になった。
一部の専門家はその戦い方を
「ボクシングの教科書」
とほめたが、一般のファンにはあまり人気がなく、接戦での判定勝ちが多かったことから
「写真判定男」
というニックネームをつけた。
ファイティング原田はいった。
「相打ちで行くんだ。
ヒット&アウェイの泣き所はそこだよ。
自分より数段タフなやつに合わせて打ってこられるのが厄介なんだ。
もちろん打たなきゃ勝てないから打ってくる。
そこへ必ずパンチを乗っけてく。
後はラッシュだ。
お前が中村のパンチで倒れるわけがない。
相手はお前のパンチでグラつくよ。
どうだ?」
「俺はいい友達を持ったよ」
試合当日、斉藤清作は初めから打って出た。
打たして誘い込む戦法は積極的に売ってこないボクサーには通用しない。
中村剛は足を使った。
カウンターでポイントを稼ごうとする意図を感じた斉藤清作は、そのカウンターを顔にもらいながら、かまわずボディにパンチを合わせた。
斎藤清作は、顔面を打たせながら、徹底的にボディを打った。
中村剛は、カウンターでも前進を阻めず、打つと退がる暇もなく倍のパンチを返され、クリンチに逃れた。
試合が進むほど、中村剛の足は鈍りクリンチが多くなった。
あまりにクリンチばかりでいらだった斉藤清作が下手投げで投げ飛ばすシーンもあり、果敢に打ち合おうとしない中村剛に野次や罵声が飛んだ。
試合は最終ラウンドまでもつれたが、斉藤清作の圧勝だった。
試合の次の日、原田家を訪ねると、3日前にエドモンド・エスパルサに判定負けし休養中のファイティング原田がパジャマ姿でいた。


1962年5月30日、蔵前国技館で、日本フライ級チャンピオン:野口恭が、世界フライ級チャンピオン:ポーン・キングピッチに挑戦。
もし野口恭が負ければ、ファイティング原田がポーン・キングピッチに、そして斉藤清作は、日本チャンピオンである野口恭に挑戦することが決まっていたが、結果は、野口恭の判定負け。
その後、 すぐに ポーン・キングピッチ vs ファイティング原田戦は5ヵ月後の10月10日と決まったが、野口恭介 vs 斉藤清作戦は、野口恭介がポーン・キングピッチ戦で左拳を痛めたため、
「秋頃までに」
ということになった。
斉藤清作は、それまで数戦、メインイベンターとして、ランキング下位や外国人選手相手にノーガード戦法で凄絶に打ち合い、勝ち続けた。
斉藤清作のブルファイトは、ファイティング原田のラッシュや海老原博幸のカミソリパンチに負けないインパクトがあり、、ファンを熱狂させた。
メインイベンターのファイトマネーは、1試合20万円。
祝儀を加えると30万円に達することもあった。
しかし相変わらず住まいは4畳半のアパートで、電化製品も裸電球と畳の上に置いた白黒だけで、ファイトマネーは夜の街に消えた。

日本ランキング2位、日本チャンピオンでさえないファイティング原田の世界挑戦について
「時期尚早」
「完全に格下」
というマスコミの論調に、本人は
「ナニクソ!」
と死に物狂いで練習した。
チャンピオンが来日し、羽田空港に迎えにいったときも、握手をしようと手伸ばしたが、ポーン・キングピッチに無視された。
「ナメやがって、この野郎、絶対に勝ってやる」
試合当日、リングでコールされたとき、ファイティング原田は笑っていた。
「苦しい練習を積み重ねてきて、それをやっと発散できるんだ。
楽しくないはずないじゃないか」
一部の専門家は、プロ2年半、19歳のファイティング原田のキャリア不足、テクニック不足、パンチ力不足を指摘し、ポーン・キングピッチ有利と予想していた。
しかし斉藤清作は、ファイティング原田の勝利を信じていた。
ゴングが鳴ると、ファイティング原田は、相手コーナーに向かって突進。
ポーン・キングピッチは2、3歩前に出たところで奇襲のフックを顔面にもらい後退。
ファイティング原田は猛然とラッシュ。
11R、ファイティング原田は、右ストレートでポーン・キングピッチをロープまでフッ飛ばすと狂った風車のようにラッシュ。
ポーン・キングピッチは少しずつ落ちていき、2分59秒、ファイティング原田のKO勝ち。
日本人で2人目の世界チャンピオンとなった。


ポーン・キングピッチ戦から2ヵ月後の12月、年明け早々に行われるリターンマッチに向け、ファイティング原田は、伊豆下田の蓮台寺で強化合宿が行った。
これに日本タイトル挑戦を控えた斉藤清作も参加。
朝7時から約1時間、ロードワーク。
斉藤清作は、ファイティング原田の後方を、両脇を締めて胸の前に拳を揃えた姿勢で走った。
その後、朝食。
ファイティング原田の朝食は、トースト3枚、ハム2枚、大根おろし。
ちなみに昨日の夜は、トースト2枚、鶏のから揚げ、卵スープ、果物だった。
ポーン・キングピッチ戦後、自由に食べ、数週間後に練習を再開したとき、体重は57.1kg。
この合宿に入った時点で54.4kg。
試合まで1ヵ月でフライ級のリミット、50.8kgまで落とさなければならなかった。
朝食後、軽く仮眠をとって練習再開。
シャドーボクシングやサンドバッグを3分間やって1分間休むことを繰り返す。
昼食後、午後はスパーリング。
斉藤清作はヘッドギアをつけずにマウスピースだけくわえて打たれる訓練を重視。
普通は顔面に向かってくるパンチを、かわす練習をする。
その場合、いかに最小限の動きでかわすかが課題となる。
しかし斉藤清作は、いかにパンチを殺すかを磨いた。
首を柔らかくしてパンチの破壊力をそぐのである。
フックを受けるとブンッと顔が回転し、ストレートやアッパーを受けると頭が後方に折れるが、そういう派手な動きはパンチ力をそぐと共に相手の対する演技となった。
すごいパンチを入れたはずなのに効かない、俺のパンチでは倒れないというマイナスの暗示を植えつけるのである。
17時に夕食となり、20時には就寝。
酒を飲まなければ寝られない斉藤清作は、みんなが寝静まったのを見計らって、隠しておいた一升瓶を出した。
宿舎を抜け出して飲み屋にいくこともあった。

合宿中、ポーン・キングピッチ戦の日程が正式に決まった。
試合は1月12日。
場所は敵地タイ。
時間は、現地時間の19時半、日本では21時半開始だった。
「日本とタイは時間が違うんですか?」
(斉藤清作)
「なにいってるんだ。
フィリッピンへいっただろう」
(ファイティング原田)
「あ、そうだ。
時間、そういえば違ってたっけ」
みんなが爆笑したので斉藤清作が
「そんなにおかしいですか?」
と聞くとまた爆笑された。
「でも不思議だな。
どうして時間、違ってんのかな」
「そりゃお前、地球が丸いからだよ。
回っているからだよ」
「地球が丸いから時計も丸いのかな?
四角い時計もあるから、それは違うな。
地球が回るから時計の針も回るんだね」
「何をブツブツいってるんだ」
「むずかしいな。
ついていけねえな、俺。
ずっと時間は回ってるんだね。
時間は過ぎるんじゃなくて回るものなんだ。
違ってっかな」
「お前、たまに気に利いたこというんだよな。
なかなか哲学的だよ」
「たまにこう、何が何だかよくわかんなくなっちゃうんだよね。
こんがらがっちゃって」
みんなまた爆笑。
昔から人を笑わせることは好きだったので、笑われることはよかったが、最近では別に笑わせようと思ってなくても笑われることが多く、どうしてか疑問だった。
自分でも笑わせようと思っているのか、無意識なのか、わからないときもあった。
ひょっとすると自分は笑いの天才ではないかと思うこともあったが自信はなかった。

1962年12月28日の朝、ファイティング原田は、笹崎たけし会長らと共に羽田空港からタイへ出発。
そして夜になると後楽園で、日本フライ級チャンピオン:野口恭 vs 挑戦者:斉藤清作戦が行われた。
「殺されるつもりで打たれ、殺すつもりで打ち返す」
そう誓っていた斉藤清作は、ゴングが鳴るといきなり右フックをヒットさせラッシュ。
前進してくる斉藤清作に野口恭は、左アッパーと右フック。
それを顎にもらいながら斉藤清作は、右より左が弱いことに気づいた。
サウスポーの野口恭にあり得ないことだった。
(左が治っていない!)
その後、わざと不用意に接近し、ワンツーを受けてみて相手の左拳の故障を確信した。
3R、野口恭は左を出すたびに顔を歪めうめき声をもらした。
斉藤清作は心を鬼にして容赦なく攻めた。
打たれても打たれても執拗に前に出てくる型破りのボクシングにチャンピオンの華麗なテクニックは徐々に狂い始めた。
野口恭は果敢に打ち合ったが、やがて右目が完全にふさがり、ノーガードの相手にパンチを外すようになった。
チャンピオンの意地で倒れず戦い続けた野口恭だったが、10Rの死闘の後にレフリーが挙げたのは斉藤清作の手だった。
勝ち名乗りを受けた後、斉藤清作は、野口恭介に向かって深々と礼をした。
腰に巻かれたチャンピオンベルトはズシリと重かった。
「チャンピオンになった感想は?」
「ラッキー、もっけもんです」
笑いが起こったが
「実力だぞ」
という声も飛んだ。
こうして22歳の斉藤清作は35戦目で第13代全日本フライ級チャンピオンとなった
これで笹崎ジムは
・東洋太平洋ミドル級チャンピオン:梅津文雄
・日本ミドル級チャンピオン:斉藤登
・世界フライ級チャンピオン:ファイティング原田
・日本フライ級チャンピオン:斉藤清作
と4人のチャンピオンが在籍することになった。
次の日、マスコミは、斉藤清作の闘志を称えると共に野口恭の故障を伝えた。
斉藤清作は、自力ではなく、まるで棚ボタでチャンピオンになったような気になり、また野口恭が気の毒に思えた。
「勝ちは勝ちだ。
みんなどこか悪くて、爆弾を抱えてて、それでも勝負しなくちゃならないのがプロなんだ。
言い訳ナシだ」
思い直し、部屋のある一升瓶に手を伸ばした。
そして不意に思った。
「ボクシングをやめたい」

数週間後、斉藤清作は、意を決し由利徹の家を訪ねた。
由利徹は斉藤清作と同じ宮城県出身。
大工の家の9人兄弟の次男として生まれ、ピストン堀口に憧れたが、新宿の大衆劇場「ムーランルージュムーランルージュ新宿座」の芝居に感動し、中卒で上京。
ムーランルージュに入団した翌年、大日本帝国陸軍に入って中国華北地方へ赴任し悲惨な体験をした。
帰国後、ストリップ劇場のコントで活躍。
本来は喜劇役者になろうと考えておらず、2枚目の役者や歌手を目指していた。
「ガキの頃は、お袋やお父っつぁんに人に笑われるような人間になっちゃいけないよっていわれたけどね。
それじゃ食ってけないんでね。
一生懸命笑ってもらえるような芝居やります」
その人柄から多くに慕われ、テレビドラマやバラエティー番組、映画にも出演。
「オシャ、マンベ!」
のギャグが有名でサインを求められたとき書く言葉は、
「子供の涙は虹の色、喜劇役者の涙は血の色」
とそのドタバタ喜劇ぶりから想像もつかない言葉だった。
斉藤清作にしてみれば由利徹は、崇め畏れる大御所で、相手にしてもらえるのは日本チャンピオンという肩書きがある今だけという思いがあった。
王座を陥落する前に行かなければ滑り落ちてからではもう遅い。
渋谷区笹塚の住宅街にある由利家にいき、玄関に出てきた夫人にオドオドと告げた。
「あの、僕、斉藤清作といいますけど、先生はいらっしゃいますか」
「おりますが・・・」
夫人が消えた奥から
「斉藤清作?
聞いたことあるな」
という声を聞いた斉藤清作はワクワクした。
「ボクサーの君が俺に何の用かね」
着物姿でやってきた大御所に斉藤清作は身を強張らせた。
「あの、ボ、僕を弟子にしてください」
いきなりいって、カッパ刈りの頭頂部を由利徹に向け、深く頭を下げた。
「君は近頃フライ級で活躍しているカッパボクサーだな」
「はい、間違いありません」
「弟子になりたいとはどういうことかね」
「弟子にしていただけたら僕、ボ、ボクシングやめます」
緊張で舌をもつれ、尿意がもよおし、脚はふるえていた。
「俺は弟子をとらねえんだよ」
「お、お願えします。
僕、仙台苦竹村の出身です。
腺性に弟子入りしたくて東京へやってまいりました」
斉藤清作は土下座して声を張り上げた。
「まあ、上がりなさい」
「ありがとうごぜえます」

由利徹は応接間に入って、夫人に運んできた酒を斉藤清作のお猪口についだ。
「君はチャンピオンになったばかりじゃないか」
「はい」
「何を考えているのかね。
弟子にしてくれたらボクシングやめますだって?
冗談じゃないよ、君」
由利徹は厳しいまなざしを向けた。
「僕、ボクシングが嫌いなんです」
「好きも嫌いもないよ。
それで喰ってるんだろう」
「はあ」
「チャンピオンになったんだろう」
「はい」
「甘ったれるな。
君のような男に負けた前のチャンピオンはどう思うかね」
「・・・・・・」
「ろくに防衛もしないような野郎に負けた男はさぞかし悔しいだろうよ」
「・・・・・・」
「君のボクシングはテレビでみて知っているよ
なかなかのファイトぶりじゃないか。
打たれて打たれも前へ出る。
いいねえ」
「どうか僕を弟子に・・」
「ブルファイターっていうんだろう。
下手な闘牛士の手に負えない。
ジョー・メデル(「ロープ際の魔術師」といわれファイティング原田をKOした)あたりとやらせてみたいね。
ありゃ、名闘牛士だから」
「ボ、僕を弟子に・・・」
「うっせえ。
何べんいったらわかるんだ。
俺のファンだからっていちいち弟子にするわけにはいかねえんだ」
「才能あると思ってるんです」
「ボクシングの才能だろう」
「ボクシングの才能はないです」
「なくてチャンピオンになれるか」
「なれたんです。
どういうわけか。
運がよくって。
部屋掃除、庭掃除、便所掃除なんでもやります。
小間使い、小僧、丁稚、そう思って使ってください。
師匠!」
「師匠?
おい、ちょっと待てよ」
斉再び土下座する藤清作を由利徹を立たせソファーに座らせた。
「困った野郎だな。
じゃ、こうしよう。
とにかく今はダメだ。
君はチャンピオンなんだからファンもジムも許すわけがない。
ファンを見捨てるようじゃ役者としても失格だよ。
とにかく今はボクシングを続けなさい。
今のうちにウンと多くのファンをつくっておくことこそ大事だ。
できるだけ長く防衛して、そしてボクシングができなくなったらもう1度来てみなさい」
「ボクシングができなくなったら弟子にしていただけるんですね」
「わからん。
それはそのときだ」
「わかりました。
よろしくお願えします」
斉藤清作は、額をテーブルに打ちつけしばらく動かなかった。
その後、斉藤清作はボクシングに打ち込み、由利徹は、斉藤清作のファンとなり、リングサイドまでいくこともあった。

タイのバンコクでファイティング原田が、初防衛戦となるポーン・キングピッチのリターンマッチにのぞんだ。
笹崎ジムでは、斉藤清作を含むジム仲間と報道陣がラジオを取り囲み、6000km離れた場所で行われている試合の模様をかじりついて聞いた。
8Rと9Rにファイティング原田のパンチでポーン・キングピッチが倒れたが、レフリーはダウンを取らなかった。
そして終盤、ポーン・キングピッチが反撃し優勢になり、判定勝ち。
タイトルを失ったファイティング原田は、帰国後、バンタム級に転向を表明した。
翌日、ジムで顔を合わせた斉藤清作とファイティング原田は、軽く汗を流した後、赤坂の焼肉屋にいった。
「お前は日本チャンプ、俺はただの男になったよ。
会長は次にお前にポーンへ挑戦させたいといってる」
「まさか」
「何がまさかだ。
お前はもうれっきとした世界ランカーだよ。
次の発表で9位にはランクされるはずだ。
飛行機の中で何べんも次は清作だって・・・」
「次は海老原だよ。
俺は日本で十分だよ。、
俺に世界チャンピオンなんて似合わないよ」
「なにいってるんだ。
ポーンにも勝つ自信があるっていってたじゃないか」
「あるよ。
でも自分はこれでいいと思ってる」
斉藤清作は
(原田だけには・・・)
と由利徹に会いにいったことや、ボクシングをやめた後、喜劇役者になりたいことを打ち明けた。
「やめた後のほうが長いからな」
ファイティング原田はいった。
「役者なら、片目でもずっとやっていけるし」
「片目?」
(とうとういってしまった)
斉藤清作はそう思いながら
「こっちの目、みえねえんだ」
といってしまった。
「何だと?
お前・・・」
「うん、昔っから」
「・・・・・」
笑顔でいう斉藤清作に唖然としたファイティング原田はテーブルに視線を落とした。
しばらくして
「知らなかった」
とつぶやき、さらに目を伏せた。
「黙ってろよ。
相手に知られたらヤバいから」
「当たり前だ」
軽くいう斉藤清作にファイティング原田は目を濡らしながら精いっぱい答えた。
焼き肉を出ると斉藤清作は馴染みのクラブへ向かった。
一郎あんちゃんとはよくいくが、笹崎たけし会長に飲みに誘うことを禁じられていたのでファイティング原田は1度も連れていったことがなかった。
(今夜は特別だ。
明日からは誘わない)
片目で世界ランカーになった男は、そう心に決め、2階級制覇に向かうファイティング原田の新しい門出を祝って大いに飲んだ。

1963年2月19日、ファイティング原田がタイでタイトルを失った1ヵ月後、世界ランキング9位の斉藤清作はノンタイトル戦で、世界フライ級10位、東洋太平洋フライ級チャンピオン、「タイの稲妻小僧」チャチャイ・チオノイと対戦。
「タイトル防衛戦のつもりでいけ」
そうハッパをかける笹崎たけし会長には、「勝てば世界挑戦という目論見があった。
一方、斉藤清作は、チャチャイ・チオノイはいずれ間違いなく世界を制するとみていて、この強敵に勝つことは大きな誇りになると燃え、ヘアスタイルをカッパ刈りから丸坊主に改めた。
「世界ランキングではお前のほうが格上だぞ」
と茂野貞夫トレーナーがいう通り、ランキングでは上にいたが、東洋太平洋チャンピオンという肩書きは日本チャンピオンより格上。
斉藤清作は、挑戦者サイドである青コーナーからリングに上がった。
1R、斉藤清作はノーガードで前進。
的確なパンチをもらって首を後ろに折られながら踏み込んでパンチを放つがチャチャイ・チオノイはもうそこにいない。
斉藤清作は追ったが俊敏なチャチャイ・チオノイにパンチが流れ、体制が崩れたところにパンチをもらい鼻血が噴き出した。
2R、斉藤清作はいつもの打たせて打つボクシングができない。
打とうと出れば打たれ、追えば追いつめる前に打たれるか、クリンチされてしまう。
3R、やっと斉藤清作のパンチが決まる。
4R、気負って飛び込んでいく斉藤清作に、チャチャイ・チオノイはわずかにステップバックした足を踏ん張って右ストレート。
これが顎に命中。
腰の入ったパンチをもらった斉藤清作は棒立ち。
さらに右ストレートが2つ顎を打ち抜き、斉藤清作の膝が折れた。
これまでどれだけ打たれても決して倒れなかった男が、ついに倒れた。
観客がどよめいたが、カウント8で立ち上がると声援を送った。
斉藤清作は何事もなかったように攻め始め、チャチャイ・チオノイはクリンチに逃れた。
ラウンド終了のゴングが鳴ってコーナーに戻った斉藤清作は呆然としていた。
効いたパンチではなくタイミングを合わされたパンチだったが、自分がダウンしたことが信じられなかった。
「まだいけるか」
「もちろんです」
笹崎たけし会長に吐き捨てるように答えた。
セコンドについたファイティング原田はタオルで顔を拭ってワセリンを塗った。
鼻に内出血があり、目も腫れていて、思いつめた表情のファイティング原田は一言も発せなかった。
「さあ、いけ」
ゴングと共に笹崎たけし会長に送り出された斉藤清作は突進。
しかしチャチャイ・チオノイはそれをかわし、機をみて集中打を浴びせ、接近戦になるとクリンチ。
そういう展開が続いた。

6R終了後、戻ってきた斉藤清作に笹崎たけし会長は、試合を止めるとを告げた。
「これ以上やってもムダだろう」
斉藤清作は激しく首を振った。
「まだやれます。
これからです」
「これからこれからって打たれてばかりじゃないか」
鼻は真っ青で、みえない左目が完全につぶれたのはいいとしても、頼りの右目も半分ふさがっていた。
「やめたらどうだ。
もうみえないんじゃないか」
ファイティング原田にいわれても
「大丈夫。
やれるよ。
あのクリンチは減点だよ」
と返した。
「あと1回だけだぞ」
笹崎たけし会長はいわれ
「本気はこれからだ。
見せ場をつくってやる。
最終ラウンドまであと4回ある。
必ずとらえてみせる」
そうつぶやいて斉藤清作は立ち向かっていった。
そこへチャチャイ・チオノイのカウンターパンチが突き刺さった。
顔面が左右、後方に弾かれ、鮮血が散った。
(2度とダウンはしない)
斉藤清作は足を踏ん張ってパンチを受け、連打が止むと突進。
右目がますますふさがって視界が狭まり、目の前しかみえない。
少しでも左右にステップされると相手は消え、やっと目の前にとらえても先にパンチを浴びた。
斉藤清作はそれでも前に出た。
「やらせてください。
最後までやります」
ラウンドが終わりコーナーに戻ると試合放棄をいわれる前にいった。
「・・・・・」
笹崎たけし会長は無言。
「もういいよ、清作」
肩に置かれたファイティング原田の手を斉藤清作は払いのけた。
続行か、ストップか、笹崎たけし会長が判断を迷っているうちに8R開始のゴングが鳴った。
斉藤清作は飛び出した。
そのフックをブロックしたチャチャイ・チオノイは、ワンツーからアッパーを突き上げた。
斉藤清作の体がのけ反った瞬間、笹崎たけし会長はリングにタオルが投げ入れ、ゴングが鳴らされた。
それでも斉藤清作はレフリーを押しのけ、チャチャイ・チオノイに襲いかかろうとしたが、相手はすでに背中を向けていた。
怒りに顔を歪め、投げ入れられたタオルをグローブですくい上げ、自コーナーに投げ返した。
「やれる。
まだやれる」
必死の形相で叫ぶ斉藤清作をみて笹崎たけし会長は首を振った。
チャチャイ・チオノイがレフリーに手を挙げてもらっている横で斉藤清作は、自コーナーのイスを蹴飛ばした。
「これからってときにどうして!」
「半殺しにされたのか!」
笹崎たけし会長は怒鳴った。

控え室に戻っても斉藤清作の怒りは収まらず壁を蹴った。
ファイティング原田がなだめてイスに座らせ鼻血をタオルで拭った。
その周りを記者が取り囲んだ。
「見せ場はこれからだった」
『チャチャイのパンチはどうでした?』
「俺には効かなかった」
『完敗ですか?』
「7回まではね。
10回やりゃわかんなかったよ」
『チャチャイはKO賞ないのかって余裕しゃくしゃくでしたが』
「KOじゃないよ、TKOだよ。
(殴り倒されて10カウント以内に立てなかったKO(KnockOut)負けと、第3者に試合を止められるTKO(TechnicalKnockOut))負けは、ボクサーにとってまったく違う)
冗談じゃないよ。
クリンチ賞でもやってくれ」
8R 44秒 TKO負け。
4回戦で1度、バッティングによるTKO負け(当時のルールではバッティングで試合続行が不可能と判断された場合、血を流した方が弱者であると負傷したほうがTKO負けとなった)を喫して以来、スリップダウン以外したことがなく、プロ3年で初めてレフリーのカウントを聞いた。
(この埋め合わせは必ずする。
10Rまでやらなきゃ勝負はわからないってことを見せつけないと気がすまない)

1963年4月14日、チャチャイ・チオノイ戦から2ヵ月後、斎藤清作は、ビリー・ブラウンとノンタイトル戦で判定勝ちして再起を飾った。
この後、前王者の野口恭との初防衛戦が決まり、試合が近づくにつれ、毎晩、自分が敗れる夢をみるようになり、うなされて起きて、ホッとした。
今回は日本チャンピオンのタイトルがかかっていた。
無様に負けたチャチャイ・チオノイ戦に続き、野口恭に負けてタイトルを失えば、やっぱり棚ボタのラッキーチャンピオンだったと笑われてしまう。
不安になればなるほどジムでトレーニングに熱を入れ、練習に打ち込むことで恐れや不安から逃れようとした。
試合前夜、
「野口の拳が治っていなければいいのに」
と願い、その後、自分嫌悪に陥った。

1963年5月17日、ビリー・ブラウン戦から1ヵ月後、タイトルを賭けて日本フライ級チャンピオン:斎藤清作と前王者、日本フライ級2位:野口恭とのリターンマッチが行われた。
試合前、茂野貞夫トレーナーは斎藤清作に
「野口の左は治っていないようだ。
いったん治っていたのをこないだ、また痛めたらしい」
と耳打ち。
すると斎藤清作の恐れは和らぎ
(片手で勝てると思っているのか)
と怒りがわき出し
(倒す)
と拳を握り締めた。
1R、両者の頭と頭がぶつかり、斉藤清作の額が割れた。
それは右側の髪の毛の生え際あたりで、血が右目に落ちてきた。
1R終了後、笹崎たけし会長に
「深いですか」
と聞くと
「前半で勝負しろ」
と返ってきた。
2R、傷が深いことを悟った斉藤清作は、ドクターストップを避けるために一気に攻めた。
野口恭のパンチで出血が増え、ほとんどみえなくなった。
野口恭も不調で、左右にステップしてサイドから攻撃すればよいのに、相手に容易に接近を許し、足を止めて打ち合い、真っ直ぐ後退してロープやコーナーに詰まった。
4R途中、レフリーが試合を止めて斉藤清作の額をドクターにチェックさせた。
「まだ大丈夫でしょう」
ストップをかけてもよいレベルの負傷だったが、止めると圧倒的に試合を進めているチャンピオンがTKO負けになってしまうので、判断は難しい。
ドクターの手当てを受けて視界がよくなった斉藤清作は、渾身のパンチを浴びせた。
5R、これ以上傷が開いて出血が増えるとTKO負けになってしまうと判断した斉藤清作は、最終ラウンドのつもりで打って出た。
野口恭も勝負を賭けてきたが、左のパンチを出すたびにうめき声が出てマウスピースがむき出しになった。
斉藤清作はグローブで血を拭いながら相手を追い、もはや体に触れて戦うしかないとばかりにコーナーに押し込んで、歯を食いしばって連打した。
ゴングが鳴って、引き返す斉藤清作をレフリーが引き止めてドクターのところへ連れていった。
「大丈夫ですよ」
斉藤清作は主張したが、レフリーはドクターに状態を聞いた。
ドクターが答えを出しかねていると
「これからだぞ」
「まだまだイケるぞ」
「やらせろ」
と熱狂した観客の野次が飛んだ。
そのとき野口恭のセコンドがレフリーに歩み寄っていった。
「棄権します」
斉藤清作は、5R TKO勝ちで初防衛に成功した。
試合後、野口恭の拳は全治2、3年という報道が出た。
事実上の引退だった。
それを知って
「しょうがないよ」
とつぶやく斉藤清作の額の傷も、長さ3.5cm、深さ3mmで骨まで達していて、少なくとも1ヵ月の休養が必要とされた。
以後、チャンピオンとして招待が増えたこともあり、毎晩、飲み歩いた。
1晩に2、3件重なることもあったが、どうせ誘いがなくても飲んでいると開き直って飲み、フラフラになって部屋に帰った。

野口戦から2ヵ月後、15連勝中の新人で、日本フライ級7位の高山勝義戦と対戦。
「タオルは投げないで」
7R終了後、何もできず打たれ続けた斉藤清作は笹崎たけし会長に懇願した。
これまで打たせたのは作戦で、若く勢いのある相手を徹底的に疲れさすのに7Rかかった。
期せずチャチャイ・チオノイ戦と同じ展開で、斉藤清作は、あのときの悔しさと決意を思い出した。
(あのときも10Rまでやってたら勝負はわからなかったってことを証明してやる)
8R、高山勝義の手数が減り、足もスピードと動きを失っていた。
クリンチに逃れる高山勝義の耳元で
「お前のパンチは効いてないぞ」
とささやき、マウスピースを吐き捨ててニヤリと笑った。
高山勝義の顔が引きつり、怒りをこめたパンチを繰り出した。
斉藤清作は平然とそれを受け、一気に反撃。
足を失った高山勝義はかんたんに接近戦を許してしまい、コーナーに押し込まれ、クリンチ。
そしてホールドを強引に振りほどかれ膝から倒されてしまった。
斉藤清作の反撃開始に待ってましたとばかりに観客は熱狂した。
久しぶりの拍手と声援を浴びた斉藤清作は内からエネルギーが湧き出てきた。
「この瞬間のためにボクシングをやってきた」
9R、高山勝義はますます失速し、斉藤清作の攻撃が炸裂。
フックでマウスピースをフッ飛ばされた。
しかしラウンド終了間際、頭と頭がぶつかり、斉藤清作は額から出血。
右目に血が入ってきた。
「古傷ですか?」
ゴングが鳴りコーナーに戻り尋ねたが、笹崎たけし会長は無言で処置をした後、
「あと1回だ」
といった。
「倒さないと負けるぞ」
茂野貞夫トレーナーの声に斉藤清作はうなずいた。
(倒せる)
試合は最終ラウンドまでもつれ込んだ。
斉藤清作は、右でロープまでフッ飛ばして反動を利用してアッパーを突き上げた。
高山勝義は腰を落としかけながらクリンチ。
レフリーが割って入る。
グロッキーの高山勝義にとどめの1発を叩き込もうとした瞬間、不意に視界がボヤけた。
ラウンド前半、止まっていた血が右目を覆っていた。
高山勝義を追ってパンチを繰り出すがことごとく空を切った。
終了のゴングが鳴って、逆転KOを逃した斉藤清作は判定で負けた。
早々とリングを下りた。
頭は自然と垂れて足は定まらずフラフラだった。
「ノンタイトルだ。
気にするな」
茂野貞夫トレーナーは斉藤清作の耳元でいった。
「あのバッティングさえなければ倒せていたかもしれない」
という悔いが残った。
出血したのは野口恭とのリターンマッチで受けた古傷で全治2週間とされた。
こうして斉藤清作の体は、新たな爆弾を抱えることになった。

高山勝義戦から1ヵ月後、斉藤清作はタイのフライ級チャンピオン:パンチップ・ケオスリヤと対戦。
ノーガード戦法で前進し玉砕した。
インファイトに持ち込もうと大きなモーションで踏み込み、まったくディフェンスがないためカウンターパンチをもらった。
これはいつものことだが、この試合は後半になっても打たれっぱなしで完璧な敗戦を喫した。
返り血でパンチップ・ケオスリヤも真っ赤になり、斉藤清作の見せ場は、8Rに口から血を吐きながら決めた右のロングフックを3発だけだった。
何度も自分に
「これからだ」
といい聞かせたが、最後まで体がいうことを聞かなかった。
高山勝義戦は負けたものの、最後まで相手を追い続け、あわや逆転と期待させたが、今回の試合はいいところをみせられなかった。
(追い込みがきかなくなってきたな)
(自分はもう終わっているのではないか)
(俺は今度こそダメになる)
試合後、自分の部屋に帰って酒を飲むと次々にネガティブな考えが浮かんできて頭がいっぱいになった。
1人、布団に入りこらえていると、やがて睡魔がそれを追いやって安らかになり
(このまま目が覚めないかもしれない)
と考えながら眠りに落ちていった。

次の日の15時、電話で起こされ、出てみると笹崎たけし会長で、ジムに呼び出された。
夕方、ジムにいき、1週間後に試合を控え、汗をかいているファイティング原田を横目に事務室に入った。
「そこに座れ」
(笹崎たけし会長)
「体の具合はどうだ。
どこも悪くなうようだが」
(茂野貞夫トレーナー)
「はい、別に・・」
(斉藤清作)
「悪くないようにみえてわるいこともある。
どういう意味かわかるな」
「さあ」
「君に精密検査を受けてもらいたいんだ」
「えっ検査?
なんですか、それ」
「脳の状態を調べてもらうんだ。
最近はコミッションのほうでもうるさくなってきたもんでね。
ボクサーの健康管理が何より優先するという考え方さ」
「僕がどうして検査を」
「どうして?
それはお前が1番よく知っているだろう」
「大丈夫ですよ、僕は」
斉藤清作は動揺を必死に抑え答えた。
「あれだけ打たれて平気なやつはいないよ。
それに君の場合、これまでの蓄積がある。
何れ検査をしなければと思っていた。
別に恥ずかしいことじゃないだろう。
ひどいノックアウトを喰った場合は、誰でもやってるんだ」
「僕はノックアウトされていません」
「だから余計にいけないんだよ」
「手遅れにならないうちに、ここらで検査しておいたほうがいい」
「検査は受けません」
「お前・・・」
「とにかく受けてもらう」
「嫌です。
検査なんか受けるとよけいにおかしくなりそうですから」
「バカ者!
君にはなにをいっても通じないのか!」
「チャンピオンになってから勝てなくなった原因は何だと思う?」
「・・・・・」
「6回戦の頃のお前なら世界チャンピオンとやっても勝てたかもしれない。
俺は本気でそう思ってる。
4回戦の頃は原田より強かった。
それも確かだ。
しかし誰もが将来性は原田にあるとみた。
理由はお前のボクシングの短命を予想できたからだ」
「わかってます」
「わかっているなら検査を受けろよ」
「・・・・・」
「心配してるのは俺たちだけじゃない。
他のジムの連中もコミッション関係者もあんなボクシングしかできないんならやめさせたほうがいいとまでいってきている。
これまでお前のファンだった客の中にもみちゃいられないという人もいるんだよ」
「お願いです。
検査だけは勘弁してください。
お願いします」
「こわいのか」
「いえ・・・」
「そうだろう、お前。
もう自分でわかってるんじゃないのか」
「本当になんでもないんです
次の試合は必ずちゃんと勝ってみせますから」
「そこまでいうなら仕方ない。
今回だけは見送ろう。
ただし次の試合であんなボクシングをやったら、そのときは覚悟しろ」
梅津文雄が東洋太平洋ミドル級王座から、斉藤登が日本ミドル級王座から、そしてファイティング原田が世界フライ級王座から陥落し、斉藤清作は笹崎ジムで唯一のチャンピオンだった。
ジムを出ると外は夜になっていた。
「もうすぐ終わる。
俺のボクシングは終わる」
斉藤清作はつぶやいた。


1963年11月14日、 堤五郎に判定勝ちし2度目の防衛に成功。
日本フライ級タイトルマッチで、チャンピオンの斉藤清作は、アマからプロに転向した新鋭、堤五郎と対戦。
高校時代のサウスポースタイルにスイッチするなど、これまでにないこともしながら乱打戦を制して2度目の防衛に成功。
故郷の人々に薦められ、苦竹駅から実家まで約2kmを徒歩でパレードを行い錦を飾った。
1964年4月2日、
3度目の防衛戦で、飯田健一に10回判定で敗れ、タイトルを失った。
飯田健一と壮絶な打撃戦の末、判定負けし王座陥落。
1964年4月3日、飯田健一戦の翌日、引退を表明。
24歳。
41戦32勝10KO8敗1分。
KO負けは1度もなかった。
引退届を出したときは
「負けて嬉しい」
という心境だった。

1964年4月4日、引退した翌日、由利徹の家を訪ね、再び土下座すると意外なほどあっさり認められた。
由利徹の家で住み込みの内弟子となり、付き人をしながら、由利徹の舞台で脇役として出演し演技を仕込まれていった。
由利徹は、行きつけの飲み屋「たこ九」から、
「多古八郎」
という芸名をつけようとしたが、斎藤清作が、
「先生、タコって漢字、僕、書けねえ」
って訴えたため
「たこ八郎」
となった。
公演後の打ち上げで由利徹が、女優を口説いて断られ
「カックン」
とやっているのをみて、酔ったたこ八郎は静かに笑った。
「由利徹ってのは、やっぱ日本一だね。
喜劇役者ったら由利徹しかいないね。
あんなにできる人、いない。
古典を知ってるから。
新しいもんだけじゃなく古いもんも知ってて、それが全部できていて、それを崩したりできるの。
動けるんだもん。
忠臣蔵の山崎街道でも、赤城の山の所作でもちゃんとやれるの。
赤城なんて、島田正吾、辰巳柳太郎をちゃんと使い分けるからね。
両方できんの」

内弟子になって半年後、体に異変が起き始めた。
夜、寝ていると寝小便をするようになった。
排便コントロールを失って小便に大便が加わることもあった。
車に乗ると揺られてすぐに眠ってしまい、気がつくと失禁していて、車のシートがビショビショになっていた。
師匠と一緒にタクシーに乗っているときに後部座席で漏らしてしまい、シートに溜まった小便があふれて由利徹の靴に入ったこともあった。
あまりに寝小便の布団を干してばかりなので、由利の息子は
「自分がやったと思われるから止めてくれ」
と懇願した。
記憶障害と言語障害も出てきて、まったくセリフも覚えられず、なんとか覚えても満足にしゃべれなかった。
3年間、ノーガードで戦い、パンチを浴び続けた結果、脳と硬膜の間に血種ができて脳を圧迫することで起こったパンチドランカー症状の可能性が高かった。
「ボチボチ起きて掃除でもしてんのかなと思ったら、とんでもない、まだグーグー寝てんだ。
(部屋のドアを)開けたらよぉ、オシッコの臭いがプンプンすんだよ。
寝ションベンが大人のションベンだから、もうスゲエんだよ」
(由利徹)
「KO負けした選手は3ヵ月間から半年、試合ができないとか、いまは健康管理がキッチリしてますが、昔はないんですよ。
たこさんの時代は、1週間に2回試合したり、傷だらけのまま次の試合に出たりしてドンドン体をダメにしていっちゃう」
(渡嘉敷勝男)

「師匠にこれ以上迷惑はかけられない」
26歳の斉藤清作は入門1年で由利徹の家を出た。
「いつでも戻ってこいよ」
由利徹はそういって送り出した。
直後、一郎あんちゃんが列車事故で死亡し、心の拠り所を失った。
たこ八郎は、由利徹の家を出た後、10年以上、友人の家を転々としながら、浅草のストリップやキャバレーでコントを演じた。
夜になると飲み歩き、居候している家に戻って寝ると寝小便。
友人達は決して邪険にせず
「たこちゃん、大丈夫か」
と面倒をみた。
売れていないのに毎晩、新宿ゴールデン街に飲み歩けたのも、多くの人にオゴッてもらえたから。
とても元プロボクサー、元日本チャンピオンにみえない容姿から、数人のチンピラにケンカを売られ、次々に眠らせ、留置場に入れられ
「過剰防衛だから気をつけるように」
と諭され釈放されたこともあった。
以後、腹が立つとズボンのポケットに手を突っ込むようにした。
パンチドランカーで住所不定、すごく困った人であるにも関わらず、なぜか多くの人に愛された。

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