沖縄アクターズスクールの基本情報

沖縄アクターズスクールを設立された" 牧野正幸"さんは、父親が映画監督の「マキノ雅弘」母親が映画女優の「轟夕起子」という家庭に生まれました。
そして、従弟には俳優の「長門裕之と津川雅彦の兄弟」
この凄い血筋の中、" 牧野正幸"さんは父親の理想からはほど遠く「父の中にある “才能” という物差し」を意識しながら育ったと語られています。
1971年 30歳の時、遊び仲間だった俳優の"渡哲也"さんに誘われて初めて沖縄の地を踏み「沖縄の子は眼が面白い。眼が違う。」と感じたそうです。
沖縄に魅力を感じた牧野さんは、翌年 移住 されます。
那覇市内でオープンさせたナイトクラブを人気店にした後、沖縄に遊びに来た友人の俳優"川地民夫"さんの「「平尾昌晃がやっている芸能学校がすごく儲かっているぞ。おまえも考えてみたらどうだ」という言葉がキッカケになり、「沖縄アクターズスクール」を設立。
1600人の応募の中から85人を入学させ、1983年4月に開校。
紆余曲折を経て、牧野さんが見いだした"安室奈美恵"さんがブレイク 「沖縄アクターズスクール」の名が一躍世間の注目を集めます。
その後、規模を拡大し2000年に大阪校・りんくう校、2001年には横浜校を開校していました。
90年代の音楽シーンを席巻した沖縄アクターズスクール出身者
■安室奈美恵

"安室奈美恵"さんと牧野さんの出会いは、安室さんがまだ10歳の頃だそうです。
友達の付き添いでスクールへやってきた安室さんの「日本人離れした容姿」と「シャープな身のこなし」に強く惹かれ、「これ以上才能のある子には、これから何年も出会うことができないだろうという予感がした。」と著書に書かれています。
当時のスクールは借金だらけで火の車、スターを作り上げるために必死だったそうです。
そうして安室さんは、学費無料の特待生として「沖縄アクターズスクール」でレッスンに励む事になります。
「沖縄アクターズスクール」には、20人ほどの選抜グループ「SUPER MONKEY'S」があり、その中から1991年に選抜された女子5人男子2人のメンバーでグループを結成。メンバー全員が琉球空手の初段をもっていて、地元番組のオープニングで空手パフォーマンスを演じている所が東京のTV局のスタッフの目にとまり全国ネットのTVへ出演。
全国出演をキッカケに女子5人の「SUPER MONKEY'S」となる。
1994年 「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」と改名し安室さんメインの体制へ。
1995年「TRY ME 〜私を信じて〜」がヒットする迄、何度かメンバーチェンジがされています。
グループ名の由来は、スクールの校長"マキノ正幸"さんの「君たちはまだタレントではなく猿の段階、でもただの猿(モンキー)じゃかわいそうだから”スーパー・モンキーズ”にしよう!」の一言がきっかけだそうです。
TVで見かけたこの頃の安室ちゃんは、その言葉のように真っ黒な顔でおサルさんのような印象でしたが、妙に惹きつけられ素人目にも「売れるんじゃないか」と感じたのを覚えています。
1996年9月 「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」としての活動を終了し”安室奈美恵” "MAX"として完全に独立
ソロとしてデビューすると、「茶髪のロングヘアー・ミニスカート・細眉・厚底ブーツ」といった安室ちゃんのファッションスタイルを真似する「アムラー」が続出。社会現象となり流行語大賞にもノミネートされましたね。
結婚、出産そして、離婚。様々な困難の中でも一人の女性として又、アーティストとしても「自分の生き方」を貫き、多くの作品を残して
2018年9月16日 引退
引退後は「若手のプロデュースをするのでは?」といった噂があり、何かプロジェクトが動いている可能性も考えられます。
ただ、引退時に安室さん専属の弁護士から「引退後は一般人となる為、取材行為はお断り。もし行えば法的措置をとります。」という「自粛要請」が各報道機関に出されているので、現在の安室さんの情報は出ていません。
■MAX(マックス)

"安室奈美恵"さんと同じく、沖縄アクターズスクールの選抜メンバー入りし「SUPER MONKEY'S」→「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」として活動。
1995年 安室さんを除く4人のメンバーで「MAX」結成、5月10日 「恋するヴェルファーレダンス 〜Saturday Night〜」でデビュー。
1996年9月 「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」としての活動を終了し「安室奈美恵」「MAX」として完全に独立。
MAX (音楽グループ) - Wikipedia
1997年 6thシングル「Give me a Shake」が、オリコンシングルチャートで初登場1位を獲得すると、その年の「紅白歌合戦」に初出場。
「MAX」は、90年代を代表する女性グループとして一世を風靡します。
人気は絶頂期を迎え、その地位を確立したかにみられた「MAX」でしたが、2002年 メインボーカルを務める"MINA"の結婚と妊娠が発覚。
表向きは円満に開かれた記者会見でしたが、グループ内は険悪なムードだったそうです。
子どもの頃から苦楽を共にしてきたメンバーの結婚を本人の口からではなく、スタッフから教えられた事で関係がギクシャクし結果、"MINA"は「MAX」を脱退。
2002年7月 同じく沖縄出身の新メンバー"AKI"が加入するも、人気を盛り返すことが出来ず"AKI"はソロ転向のために6年で脱退。
当時、「MINAがいないMAXを認めない」というファンが多かったといいます。
「MAX」を脱退後、地元・沖縄で専業主婦をしていた"MINA"とメンバー3人は、6~7年音信不通だったそうです。
それだけ「心にしこり」があったのでしょうね。
そんなメンバーの心を動かしたのが"AKI"の脱退。再び3人体制になり"MINA"を呼び戻そうという決断に。
2008年10月 "MINA"が復帰しオリジナルメンバーとなる。
"MINA"復帰後も、"REINA"の入籍・妊娠・活動休止 "NANA"の入籍など、それぞれが女性としての人生を歩みながらも、「MAX」として25周年を迎えました。
MAX (Playlist) - YouTube
■SPEED(スピード)

1992年から1995年頃「SPEED」の前身となる「BRAND-NEW KIDS」として8人組ユニットで活動。
1995年春 「BRAND-NEW KIDS」から4人のメンバーが選抜されグループが結成される。
当時の沖縄アクターズスクールの出身者は、「ライジングプロダクション」からデビューしていた事から、ライジングプロ代表の"平哲夫"氏からは、「できるだけ若くて、歌って踊れる四人の(女の子の)チームを作ってくれ」という要望だったそうです。
が本当の所、牧野氏的には"今井絵里子"さんと"島袋寛子"さんの2人でデビューさせる予定だったとか。
"上原多香子"さんと"新垣仁絵"さんに関しては、歌を歌ったことはなかったけれど、「ビジュアル面で上原さん」「ダンス面で新垣さん」を加入させたという話しです。
1995年11月 TV番組「THE夜もヒッパレ」内でグループ名を公募。
1996年8月5日「Body & Soul」でメジャーデビュー。
当時、メンバー全員が小・中学生だった事で大きく注目されましたね。
SPEED - Wikipedia
デビューの頃に取材をしたインタビュアーによると、「並のグループとは違う印象があった。何においてもレベルが違った。」という程、R&Bやファンクの影響が大きい楽曲を当時まだ小中学生が唄って踊っているという事が凄くセンセーショナルでした。
「SPEED」の存在が広く認知されるようになるとファッションにも注目が集まります。ストリートファッション全盛期だったこともあり、「SPEEDみたいな格好してる」子達が続出。
1997年 5thシングル「White Love 」がダブルミリオン
抜群の人気を誇り相変わらずヒットを飛ばしていた「SPEED」も円熟期を迎え、メンバーがソロ活動を始めます。
これは元から既定路線で、「SPEED」は早い段階での解散が考えられていて、ソロ活動はその準備期間だったそうです。
2000年3月31日 音楽番組「ミュージックステーション」で生ライブを披露し解散
解散までの活動期間 3年8か月で、シングル11枚、アルバム6枚の計17枚、ミュージック・ビデオ4本をリリース。
以降、各メンバーはソロ活動を行いながら再結成を幾度か繰り返し新作も発表されてきました。
解散は正式に発表されていないものの、メンバーのスキャンダルやそれぞれの歩む道に違いがありすぎる為、再活動は難しい状況のようです。
■新垣 仁絵
ヨガのライセンスを取得し講師としても活動中?(所属事務所を退所しているため消息不明)
2013年 一般男性と結婚。
■上原 多香子
女優として活動。
2018年10月10日 演出家の"コウカズヤ"氏と再婚し出産。
2020年 庭園デザイナー"石原和幸"氏に弟子入り、芸能界を引退し庭師として活動か?との噂。
■今井 絵理子
女優として活動。
2004年 175RのSHOGOと結婚、出産(2007年 離婚)
2016年 参議院議員通常選挙に自由民主党公認で比例区より立候補し、初当選以来、議員として活動。
”SHOGO”さんとの間に生まれた「礼夢(らいむ)」さんは、先天性難聴のため生まれつき耳が聞こえないのですが、障害を乗り越えてプロレス団体「ヒートアップ」のプロテストに合格、16歳でプロレスラーとしてデビューが決まりました。
12月7日がデビュー戦となります。
■島袋 寛子
アーティスト、女優、プロデュースと幅広く活動。
2017年2月11日 俳優"早乙女友貴"氏と結婚。
■DA PUMP(ダ・パンプ)

幾度となくメンバーチェンジを繰り返してきた「DA PUMP」ですが、初期メンバーは全員が沖縄県および沖縄アクターズスクール出身者です。
1996年 "ISSA" "SHINOBU" "YUKINARI" "KEN"の4人組で「DA PUMP」が結成されました。
沖縄アクターズスクールには、先ず"YUKINARI" と "KEN"が通い始め「KEN&YUKINARI」を結成、地元のTV番組にバックダンサーとして出演していました。
その後、"ISSA" と"SHINOBU"が合流し「DA PUMP」の前身となる「KOOZ(クーズ)」を結成。
1ヵ月後には「Billy The Kids」と改名し路上ライブ等で上京までの期間活動する。この頃から人気が高く、「出待ち」の女の子がいたそうです。
1997年6月 グループ名を「DA PUMP」に改名し「Feelin' Good -It's PARADISE-」でデビュー。
グループ名には「音楽にのって飛び跳ねる仲間」という意味が込められているそうです。
続いて10月にリリースされた「Love Is The Final Liberty」は、初の週間チャートTOP10入りし確実にファンを拡大。
2000年 「if…」をリリース 最大のヒット曲となり「DA PUMP」は絶頂期を迎えます。
以降、徐々に低迷期を迎え 2006年4月に"SHINOBU"が脱退を発表。
2007年「デビュー10周年記念コンサート」のリハーサル中に"ISSA"が右足を骨折、4年ぶりのツアー公演が中止となる。
現在も激しいダンスパフォーマンスで魅せてくれる"ISSA"ですが、完治したわけではなく歩く時は右足を引きずられています。(凄い、プロ根性です。)
その後、メンバーの脱退、加入を繰り返し最大9人体制の時もありましたが、初期メンバーは"ISSA"だけになってしまいました。
2014年頃には解散寸前まで追いつめられメンバーで話しあった結果、「ショッピングモールでの無料ライブ」を決行。
会場の設営もメンバー自ら行ないながら、地道に全国を回ります。
2018年6月「U.S.A.」リリース 「ダサかっこいい」と話題になり再ブレイク
DA PUMP - Wikipedia
沖縄アクターズスクールで”安室奈美恵”の相手役を演じた”知念里奈”

"知念里奈"さんは、小学5年生の時から「沖縄アクターズスクール」に通い、中学生の時は父親の転勤で大阪へ引っ越した為、大阪から週末になると沖縄まで通われていました。
中学3年生になると、家族と離れ 沖縄へ戻り祖母と暮らしながらレッスンへ励む毎日を過ごされています。
最初はお稽古事のつもりで始めた「ダンスと歌」が、中学生になる頃には「歌手」を夢みるように。
知念さんが在籍していた頃、すでにデビューが決まっていた"安室奈美恵"さんや"MAX" "SPEED"が一緒だったそうです。
「沖縄アクターズスクール」では毎年「定期公演」を行っていて、1992年5月に沖縄本島で上演されたミュージカル「ピーターパン」で、安室さんが務める主役「ピーターパン」の相手役「ウェンディ」を知念さんが務めました。
中学卒業後、デビューが決まり、15歳で単身上京。
1996年7月 ドラマ「学校の怪談R」で芸能界デビューし、10月21日「DO-DO FOR ME」で歌手としてもデビュー。
1997年「第39回日本レコード大賞」最優秀新人賞を受賞。
1998年4月 5枚目のシングル「Wing」をリリース オリコンシングルチャートで5位となり自身最大のヒット曲。
以降もコンスタントにシングルをリリースし「THE夜もヒッパレ」にレギュラー出演など、活躍されていた"知念里奈"さんですが、"安室奈美恵"さんを筆頭に先にデビューした先輩達が大ブレイクしていた時期でもあり、歌手としてはブレイクとなりませんでした。
2003年頃から歌手としての活動は少なくなり、活動の場がミュージカルなど女優業へ。
2005年8月 モデル"中村健太郎"さんとの「できちゃった結婚」を発表(2007年離婚)
2016年7月 ミュージカル「ミス・サイゴン」の共演者 ”井上芳雄””さんと再婚。
現在、TVでお見掛けする事はありませんが、子育てと両立しながら女優・歌手として活動。
2019年12月には、「高卒認定試験」に合格したことをInstagramにて報告されています。
2児のママとは思えない、昔のまま可愛い"知念里奈"さん気になりませんか?
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「Folder」としてデビュー”三浦大知” ”満島ひかり”

1997年「Folder(フォルダ」は、小中学生の男女7名で結成されました。
その中に現在、ソロアーティストとして人気の”三浦大知”さん、独特の個性で人気の女優”満島ひかり”さんが在籍されていました。
デビュー当初から1999年3月まで、子供番組「ポンキッキーズ」とタイアップし「Folder」のメンバーが入れ替わりながらレギュラー出演。
1997年8月 「パラシューター」でデビュー。
1998年に発売された「REMIXES」は、予約注文だけで「1万枚」を突破。
DAICHI(三浦大知)のボーイソプラノを活かしたハイトーンでパワフルな歌唱力と、女子メンバーのハーモニーの高さ、キレのあるダンスパフォーマンスで人気を集めました。
子供のグループながら、「ジャクソン5」を彷彿させるレベルの高さに大人までもが注目していましたね。
2000年4月 女子メンバー5人だけで「Folder5」として、1stシングル「SUPERGIRL」をリリース。
DAICHI(三浦大知)が変声期に入ったことを理由に「Folder」と自身の芸能活動は休止することを発表。
2003年 「Folder5」解散。
■三浦大知
子どもの頃から"マイケルジャクソン"に影響を受け、踊ることが好きだった"三浦大知"さん。アニメや戦隊もののTV番組を観ながら主題歌に合わせて体を動かしている様子をみて母親がスクールでレッスンを受けることを勧めたそうです。
三浦さんが6歳の時 「沖縄アクターズスクール」の門をたたきました。
父親が自衛官だった為、転居が多く自宅から90分もかけてレッスンに通っていた事もあったそうです。
「Folder」のメインボーカルとして順調に活躍されていた三浦さんですが、少年から大人へと成長する段階で「変声期」を迎え、芸能活動を休止。
これまでの様に「ハイトーンボイス」が出なくなり、喉を守る為に周囲が自粛させたという事です。
休業期間中は、普通の中高生として生活。それでもやはり体を動かしたい!そんな気持ちが込みあげ、ダンスのレッスンに励む日々を続け、徐々にボイストレーニングも始めたそうです。
復帰前には、ニューヨークで本場のダンスパフォーマンスを学び
2004年 三浦大知として復活ライブ(in.原宿アストロホール)
2005年3月30日 「Keep It Goin' On」をリリース ソロデビュー。
以降はご紹介するまでもなく、ダンスと歌で多くのファンを魅了するアーティストとして活躍されています。
日本語の曲で海外でヒットできたら一番いい、母国の言葉でちゃんと音楽として評価されることができた時に、「日本の音楽やったぜ!」って思える気がすると語り、夢は「グラミー賞を獲ること」だそうです。
■満島ひかり
10歳の時に「沖縄アクターズスクール」が主催した「安室奈美恵を目指せ!NEW・SUPER MONKEY'Sオーディション」で優勝し、無料で1年通学できる権利を獲得した事が、"満島ひかり"さんがスクールに入るキッカケになります。
が、この時 友達に付いて行っただけだったそうです。
11歳の時に"篠山紀信"氏が撮影したスクールのメンバーの写真集「少女たちのオキナワ」では、満島さんが写真集の1ページ目を飾られています。
この時、篠山さんから「笑うな!君には笑顔が似合わない」と言われたそうですが、11歳の女の子に中々難しい注文ですね。(笑)
ダンスユニット「「Folder」から「Folder5」へ、そして解散。
2003年9月から本名の「満島ひかり」名義で、司会・グラビアタレントとして活動。
「沖縄アクターズスクール」に通い出してすぐの頃に映画出演をした経験がある満島さんは、グループが消滅してしまった後、自然と気持ちが映像へ向いたと語っておられます。
その気持ちのままに幾つかオーディションを受け、「これが最後!」と挑んだドラマ「ウルトラマンマックス」のオーディションに合格。
ところが、ついた役がアンドロイドの役だったため、当時は「何で私だけがロボットなんだろう」とストレスがたまったそうです。(いま思えば貴重な経験)
そんな日々を過ごしていた19歳の頃、このドラマの"実相寺昭雄"監督から、「君、芝居を続けるといい。役者に向いているよ」と声をかけられ、「とにかく役者をしっかりやろう!」と心に決めた満島さん。
2009年1月31日公開の映画「愛のむきだし」で「もはや狂気とも呼べる領域に達した満島の芝居に全てが圧倒された」と園監督に言わしめた演技が高く評価され、一躍注目を浴びることとなります。
この作品で「報知映画賞」「ヨコハマ映画祭」「毎日映画コンクール」など、その他多くの映画新人賞を受賞。
以降、次々と話題作に出演し実力派女優の地位を獲得されています。
8月26日に放送されたFNS歌謡祭での、"中島みゆき"さんの曲「ファィト」の歌唱、素敵でしたね。
「y'z factory」としてデビュー”山田優”

「y'z factory」は、「沖縄アクターズスクール」のデビュー予備軍「B.B.WAVES」の派生ユニットとして結成されました。
ユニット名の「y'z」は、メンバー"山田優" "屋宜由佳" "伊敷優香" 3人のイニシャルが「Y」であることから付けられています。
1999年10月 Brand-New Start(c/w:「Love me the most」)でデビュー。
テレビ東京の番組「おはスタ」に「おはガール」としてレギュラー出演するも、ブレイクする事なく
2002年1月31日 解散。

"山田優”さんは、小学生時代に友達から誘われ「沖縄アクターズスクール」に申し込み合格。
ちなみに、弟でタレントの"山田親太朗"さんもスクールを1999年に卒業されています。
「初代ミス沖縄」でモデルという母親をもつ山田さんですから、美しさはピカイチだったと思います。満島さんと同じく、写真集「少女たちのオキナワ」に登場されています。
2002年から「y'z factory」として活動する傍ら、ファッション雑誌「CanCam」の専属モデルとして活動をされていた(2009年2月卒業)山田さんは、「y'z factory」解散後 モデル、女優として活躍されています。

そして何といってもコレ!
2012年3月14日 ドラマ「貧乏男子 ボンビーメン」の共演がキッカケで4年間交際されていた俳優の"小栗旬"さんと結婚。
3児のママとなられていますが、まだまだモデルとして注目されInstagramを更新する度、話題になっています。
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沖縄アクターズスクール デビュー予備軍「B.B.WAVES」に所属”misono”

"misono"さんは、「沖縄アクターズスクール」が展開していた「全国オーディション」の関西地区で合格し、スクールの沖縄本校や大阪校に在籍されていました。
ちなみに「全国オーディション」の(東京地区)合格者には、芸能界を引退された"木下優樹菜"さんもおられます。
そして"misono"さんはご存知の通り、歌手"倖田來未"さんの実妹です。
在籍当時は、"山田優"さんも所属されていたトップ集団「B.B.WAVES」に所属。
オーディション合格者として1年間の在籍だったようです。
その後、エイベックスのオーディションに合格。
2002年8月7日に「day after tomorrow」としてデビュー。
「期待の大型新人」として大々的に売り出され人気を獲得。その年の「第44回日本レコード大賞」新人賞を受賞。
2003年からは、オリコンチャートの常連になり順調だったはずですが、
2005年8月 活動を休止。
休止理由として、「松田聖子さんの娘"SAYAKA"さんが、day after tomorrowの"北野正人"さんと同棲」というスキャンダルが報じられた為と囁かれています。
2006年3月29日 「VS」でソロデビュー。
ソロデビュー後は、下降線を辿っていく"misono"さんですが、「クイズ!ヘキサゴンII」などのバラエティ番組の出演で再ブレイク。
芸能界を引退された"島田紳助"さんに当時、見込まれていた"misono"さんはバラエティタレントとしての地位を確立します。
「ウチが、ウチが」口癖でしたね。(笑)
最終的にバラエティ番組の「おバカタレント」のイメージが強い"misono"さんですが、SNSで何か発信する度に炎上、「うるさい、かまってちゃん、メンヘラ、悲劇のヒロイン、自己チュー」など書き込まれるそうです。
現在は、2017年に結婚されたロックバンドHighsidE(ハイサイド)のドラム"Nosuke"さんの「精巣がんによる胚細胞腫瘍」による闘病や"misono"さん自身の「メニエール病」を公表され、活動を制限されています。
ジャネット・ジャクソンに憧れ 沖縄アクターズスクールに通っていた 女優”黒木メイサ”

"黒木メイサ"さんは、"ジャネット・ジャクソン"に憧れ10歳の頃から「沖縄アクターズスクール」でレッスンを受けられていました。
中学2年生の時に東京から来たスカウトマンが黒木さんの姉に声をかけ、その時に見せたプリクラに写っていたメイサさんに興味を持ったことから芸能界入りが決まりました。
デビューの為「沖縄アクターズスクール」を卒業。
中学卒業後に上京、2004年 ファッション雑誌「JJ」のモデルとして登場。
以降、モデル、女優として活躍されています。
"黒木メイサ"さんと言えば、カネボウ化粧品「KATE」のCMが印象的です。
2012年 元「KAT-TUN」の"赤西仁"さんと結婚。
当時の赤西さんはジャニーズ事務所の所属であり、黒木さんが妊娠2か月という事が世間を騒がせていました。
その後、赤西さんはジャニーズ事務所を退所されソロとして海外でも活躍、色々な噂があったものの2人の子供に恵まれておられます。
現在の"黒木メイサ"さんは、「できちゃった婚」で発生した違約金を払うために仕事を受けているとも噂されていますが、ハワイにセカンドハウスを購入しご家族でハワイに移住されているようです。
Instagramをボチボチ更新されています。
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沖縄アクターズスクールの現在<沖縄からの新たな挑戦>
90年代の音楽シーンに次々とアーティストを送り込みヒットを飛ばしてきた、「沖縄アクターズスクール」の代表"マキノ正幸"氏と「ライジングプロダクション」の社長"平哲夫"氏の協力関係は、90年代後半に終わりを告げました。
次々とヒットを飛ばす中、マキノ氏は「俺は自分でやるって思ったんです。だって、出来るじゃないですか。ぼくは育てられるんだから、後は売ればいいんだから」と考え、平氏もそれを悟られていたようです。
「マキノさんから来た条件が、ちょっと受けられるようなものではなくなった。マキノさんはきっとぼくじゃなくて、他ともやりたがっていたんじゃないですか」
その後の「沖縄アクターズスクール」は、大手プロダクションとタッグを組み「全国オーディション」を展開しましたが、再び音楽シーンを席巻できるような才能を見いだす事はできませんでした。
現在の「沖縄アクターズスクール」はというと、
沖縄県宜野湾市の米軍キャンプに近い場所にあり、看板もない白い洋風の民家がスタジオ兼自宅になっています。
そしてこの新たな「沖縄アクターズスクール」で、"マキノ正幸"代表が4人組女性グループ「プレシャスJ」をプロデュースされています。
「プレシャスJ」メンバー
三浦キキョウサーシャ:ボーカル(高音パート)
城間鈴花:ボーカル(低音パート)
伊佐ゆいか:ダンス
下門由希奈:ダンス
牧野氏の著書「沖縄と歌姫」には、メインボーカルを務める"三浦桔梗"さんという「安室奈美恵を超える才能を発見し、これから改めて沖縄と歌姫が世界に羽ばたくときがやってくる」と書かれています。
その"三浦桔梗"さんは、日本人の父とイギリス人の母の元に生まれ10歳から沖縄で育たれています。豊かな声量と高音域の持ち主で流暢に英語の楽曲を歌えるそうです。
2019年「ラストチャンス」と位置づけ、「プレシャスJ」を世界進出も視野に入れプロデュースするマキノ氏と平氏が20年ぶりに再会しタッグを組むことが報じられました。
時代が変わっても音楽は消えない!
才能を見いだし磨き上げることに力を注いだ"マキノ正幸"代表と、真から歌とダンスが好きで集まった子供たちが上手くマッチしたのが、90年代だったのでしょうね。
"安室奈美恵"さんがデビューした頃とは時代が変わった今、「プレシャスJ」と"三浦桔梗"さんが世界へ羽ばたけるのか。
現在のところ情報がないのですが、マキノ氏のラストチャンス「沖縄アクターズスクール」最後の出身者になるかもしれない「プレシャスJ」の名前が出てくることを見守りたいと思います。
最後までおつき合い頂きありがとうございました。