高田 渡
いつの間にかフォーク界の巨匠などと呼ばれるようになった高田 渡。デビュー当時を知る人にとっては、この名称に違和感を覚える人がいるかもしれません。確かに当時から人気はありました。が、フォーク界でも吉田拓郎や井上陽水のようなメジャーな存在ではありませんでしたし、なによりフォークソング自体がマニアックでしたから、人気があったと言っても極々一部でのことです。しかし、しかしです。極々一部での人気とはいえ、今日までずっと続いている。これはかなりスゴイことですよ。大ブレイクすることなく何十年も忘れられそうになりながらも忘れられることがなかった。何十年もです。スゴイ。フォーク界の巨匠の名に恥じないです。

高田 渡
広く注目を集めるようになったのは、2000年に入ってからでしょうか。インタビューや対談などを収めた書籍が多くが出版されるようになり、01年「金鳥120時間マット」、04年「養命酒」、16年「ガリガリ君」と、高田渡の曲がCMでもよく使われるようになっています。
そして何と言っても高田渡の日常とライヴ映像を撮影したドキュメンタリー映画「タカダワタル的」が2004年に公開されたことが大きかったように思います。
晩年の再評価は喜ばしいことですが音楽はやはり初期、70年代の作品が圧倒的に素晴らしいです。
ごあいさつ
高田渡がフォークシンガーとして活動を開始したのは1968年のことです。アマチュアながらも既に後に代表曲となる「自衛隊に入ろう」や「事だよ」を歌っていたといいますからスゴイですね。
URCレコードからカップリングアルバムを含む2枚のアルバムと3枚のシングルをリリースした後、キングレコードが新たにつくったレーベルであるベルウッド・レコードに移り心機一転して活動を始めるのですが、その第1弾が名盤中の名盤との誉れ高いアルバム「ファーストアルバム ごあいさつ」です。

ごあいさつ
このアルバムには「自転車にのって」「銭がなけりゃ」「 生活の柄」といった高田渡の代名詞的な名曲がてんこ盛りです。ティン・パン・アレーがバックを務めていますが、どこをどう切っても高田渡。そんなアルバムに仕上がっています。
高田渡の若いころの映像はあまり残っていないようなので、どのようなものであっても貴重といえば貴重です。当たり前ですが若い!晩年の映像慣れしているので、ちょっとした驚きがありますね。そして、ハンサムっちゃハンサム。歌は相変わらずで、生涯この感じで押し通したんですよね。
系図
「ごあいさつ」のファンは多い。が、1972年4月にリリースされた「系図」の熱烈なファンがこれまた多い。この2枚のアルバムは、どちらが良いか?ではなく、どちらも良いが正解。そう断言できるアルバムなのですよ。
高田渡の歌を生活臭いとかオシャレじゃないとかという人がいますが、そう、それは確かにそう。好き嫌いがはっきりする音楽だろうと思います。ただね、「系図」「ミミズのうた」「酒」「69」、、、中毒性があるんですよね。

系図
パーソナルは、高田 渡(Vo・G)、武川雅寛(Vn)、池田光夫(Bn)、細野晴臣(B・P)、若林純夫(G・Vo)、シバ(Hca)、村瀬雅美(B)、村上 律(Bj)、駒沢裕城(G)、中川イサト(G)、いとうたかお(G・Vo)、他と知る人ぞ知るではありましょうが、ニヤリとするメンバーが入ってます。
当時の映像でないのが残念ですが、それでも「系図」が観れるのはありがたい!です。
石
「ごあいさつ」が良いか、それとも「系図」か。高田渡を語る際には確かに大事な問題ではありますが、そこにベルウッド・レコードからの3枚目のアルバム、1973年リリースの「石」も入れないことにはファンは黙っちゃいないでしょう。ベルウッド3部作とも言われるこの3枚。甲乙つけがたいとはまさにこのことですよ。

石
このアルバムにも「私は私よ」「ものもらい」「私の青空」など印象深い曲が目白押しです。バックを務めるのはお馴染みのフォーク畑のミュージシャンに加えて、ディキシー・キングズや柳田ヒロといった腕達者で個性的なミュージシャンがサポートしています。
ないんだ。それにしてもないんです。若き日の高田渡の動画はない。ヒゲがないころの高田渡。せめてひげが黒いころの高田渡が観たいのですが、それは贅沢というものかもしれません。観れるだけで最高です。
FISHIN' ON SUNDAY
高田渡に海外録音というのは似合わないのではないか?あの日本人独特の世界観は日本でないと作れないのではないか?素人考えではそう思います。が、高田渡は素人ではありませんし、今回のアルバムは細野晴臣、中川イサトとのトリオ編成ということですから、ロサンゼルス録音というのもアリなのでしょう。
アルバムには、ヴァン・ダイク・パークスが参加しています。う~ん、ロサンゼルスといいヴァン・ダイク・パークスといい、これは高田渡というよりも細野さんの趣味のような気がしますが、実はそうでもないんですよね。

FISHIN' ON SUNDAY
もともと高田渡はアメリカ音楽に興味を持っていた。1971年に参加していた武蔵野タンポポ団はジャグ・バンドでしたしね。アメリカでのレコーディングの話は何年も前から出ていたようで、それがついに実現したという訳です。
レコード会社をフィリップス・レコードに変え、3年ぶりとなるアルバム「FISHIN' ON SUNDAY」。高田渡は当時27歳です。
アルバム発売後はヒルトップ・ストリングスバンドを結成して精力的に活動しています。
ヴァーボン・ストリート・ブルース
高田渡&ヒルトップ・ストリングス・バンド名義で1977年にフォーライフレコードよりリリースされた「ヴァーボン・ストリート・ブルース」。ヒルトップ・ストリングス・バンドとのライブ活動は高田渡にとって非常に充実したものだったようです。

ヴァーボン・ストリート・ブルース
小室プロデュース。といっても哲哉ではなく等です。小室等にプロデュースされたアルバム「ヴァーボン・ストリート・ブルース」。残念ながら商業的には成功とは言い難い結果でしたが、高田渡にとっては思い入れが強いアルバムのようです。2001年に刊行された唯一のエッセイ集に同名のタイトルを付けているくらいですからね。
70年代に高田渡が残したアルバムは以上の5枚となります。80年代、90年代はスタジオアルバムは僅かに各1枚しかリリースしていません。不遇の時代へと突入していくのですが、さて、ご本人は不遇と思っていたのかどうか。思っていないでしょうね。そこにまた憧れるわけです。
2005年4月16日、高田渡は心不全により56歳で亡くなりました。亡くなる10日ほど前の4月3日、北海道白糠町で行われた最後のライブ映像が残されています。
高田渡の曲は個性が強い。そのため聴きにくいと感じる人も多いことでしょう。しかし、よく聴いてみてください。優しい曲ばかりなのですよ。そして高田渡の生き方は多くの人々を魅了して止みません。あえて時代から取り残されようとした男、高田渡。今の時代にこそ聴いて欲しいミュージシャンのひとりです。