鶴瓶だもの

笑福亭鶴瓶。
本名 :駿河学。
なにげに押尾学と似ている。
1951年12月23日、大阪府中河内郡長吉村長原(現:大阪市平野区長吉長原)の4軒長屋で、5人兄弟の末っ子として生まれ、3人の姉たちに化粧されたり水着を着せられたりしながら大きくなった。
クリスマスにツリーをねだると母親は
「つくったる」
とタンスを上のほうの段は小さく、下のほうの段は大きく引き出しツリー型にし、靴下などを飾りつけた。

浪速高校では、ボクシング部に入ったが、練習で目を傷め退部。
後年、赤井英和が同校同部に入ったので、2人は学校的にも部活的にも先輩後輩の関係である。
(ちなみに学校的な先輩に林家ぺーがいる。)
赤井英和が浪速高校に入った頃、学校の近くを女性が通るとどこからともなく奇声や机やベランダの手すりを叩く音が起こり、やがて大合唱となるという習わしがあったが、これも鶴瓶が始めたという。
その後も、鶴瓶のボクシング好きは変わらず、現在もボクシングジムで練習することがある。
ボクシング部をケガで退いた後、友人たちと落語研究会を立ち上げ、「浪速亭無学」を名乗り、授業が自習になると教卓の上に座布団を敷いて落語をした。
通常の授業中も教卓の前の席で下半身裸で座っていたり、裸で職員室を駆け抜けたりしてみんなを笑わせた。
浪花高校の同級生:杉本は、校則により中学まで丸坊主だったため「チンネン」というあだ名がついた。
しかし髪の毛を伸びるとすごいクセ毛で天然パーマであることがわかった。
あだ名は「チンネン」から「チンゲ」になった。
杉本は、自分の髪の毛、わき毛、陰毛を抜いて3点セットにして
「どこの毛?」
と当て合いをさせた。
授業をサボって友人と18歳以上限定の映画を観ていた鶴瓶は、客席に生活指導の教師を発見。
「田中来てるぞ」
「ホンマか?」
みんなで相談し逃げることにした。
暗闇の中、通路を歩いていくといきなり教師に腕を引っ張られた。
「学校いったら俺が来てたこというなよ」

ある授業で鶴瓶は教師を怒らせてしまった。
教師が黒板に書いているとき、鶴瓶が手に入れた小銭で
「チャンチャカチャンチャン」
と鳴らすと
45人全員が
「チャンチャン」
と続いた。
「静かにせい」
教師は振り返っていった。
そして教師が再び黒板に向かうと鶴瓶は机を太鼓のように
「トントコトントン」
と叩くと45人全員が
「ドンドン」
と続いた。
71歳の青木先生は再び振り返って
「エエかげんにしろー」
と怒鳴った。
しかし歯の噛み合わせなのか、空気が入ったのか
「エエ加減にしろ」
の後に
「ピィッ~」
という音が鳴った。
「エエ加減にしろぉピィッ~」
鶴瓶は「ピィッ~」が気に入り、その後もピィッ~ピィッ~いわせ続けた。
ある授業では「ダルマさんが転んだ作戦」が決行された。
青木先生が黒板に向かって書いているとき全員が音を立てないように少しずつ机を前進させていく。
青木先生が振り返ると止まり、黒板に書き出すと再び前進。
最後は机と黒板で青木先生を挟んだ。
「何の意味があるんや。
何をしとるんや。
後ろ行け」
青木先生が再び黒板を向かうと、鶴瓶たちは今度は一気に教室の1番後ろま下がった。
振り返った青木先生は唖然とした。
「情けない。
誰がそこまで行けいうた。
中途半端にしろぉ-ピィッ~」
ある授業では青木先生が黒板に書き出すと鶴瓶の合図で全員が学生服のホックを頭の上で止め、本を持って読んでいるフリをした。
青木先生が振り返ると全員が本を読んでいた。
「先生は本読めいうてないやろ。
誰が本読めいうた。
本を置け」
46人全員が一斉に本を置くと首がなかった。
「首ィ、ピィッ~」

鶴瓶は授業が終わるとわからないところを青木先生に質問を(するフリを)した。
すると青木先生は一生懸命に教えてくれた。
鶴瓶はさらに質問をした。
体が小さくて歩くのが遅い青木先生は、職員室に帰る前に次の授業開始のチャイムが鳴り、そのまま次の授業へ。
次のクラスも鶴瓶から申し送りを受けていて、授業後、質問攻めにした。
青木先生は、職員室に帰れずに延々と教え続けた。
鶴瓶たちは、喫茶店で学校をサボっていても、朝起きて熱があっても、青木先生の授業があれば学校にいった。
「最後の青木の授業やで。
どうする?」
卒業前、みんなで青木先生の最後の授業をどうするか相談した。
「青木が黒板に字書きおるやろ。
それで振り向きよるやろ。
ほな全員でな、バーンってカバンを投げるねん」
「死んでまうがな」
「青木が黒板に字書きおるやろ。
それで振り向きよるやろ。
ほんなら誰もおらへんねん」
「それもうやったがな。
同じことやったら青木に失礼や」
これまで1回もしていないことを考えた結果、
「マジメに受ける」
ということになった。
おそらく「ピィッ~」は聞けないだろうが、これまでの感謝と謝罪の気持ちを込めて
「青木のいうことをすべて一言一句もらさずノートにつける」
ということになった。
「いよいよ最後になりました。
今日は自習にしてもええねんけれど、社会に出る君たちにせん越ながら言葉を贈らしてもらう。
これは授業じゃないからリラックスして聞いていなさい。
『風の日には風の中を、雨の日には雨の中を』
東北の方のお坊さんで相田みつお先生という方がおられる。
この人の言葉や。
『幸せは自分の心が決める』
エエ言葉やな。
先生、コレ好きや。
・・・・・ノートはつけんでええねん」
しかし鶴瓶たちは黙々とノートをとり続けた。
「・・・・・こんなんもある。
『中途半端にぶら下がっていないで落ちてみろ』
これもエエ言葉や。
人間いうのは悩んだときには・・・・
どこか悪いのか?」
しかし鶴瓶たちは黙々とノートをとり続けた。
「『負ける人のおかげで勝つ人がおる』
これもエエ言葉やな。
なっ?
・・・・オイ、マジメにしろ!!」
しかし鶴瓶たちは黙々とノートをとり続けた。
「『イライラするんやにんげんやもん 』
これもエエ言葉や。
・・・・ノートはつけんでええの。
ノートはつけんでええのってノートに書いてどうすんの?」
しかし鶴瓶たちは黙々とノートをとり続けた。
「駿河、なにしとるんや?」
「1年間、先生困らせてきたんで、今日だけはみんなで一生懸命授業聞こう思って・・」
「座れ。
アホか。
13クラスある3年生の中で、このクラスが1番ペケ。
私の50年の教師生活の中でも、このクラスが1番ペケ。
そやけども先生はこのクラスが好きや。
オイッ、いっつも来るの楽しみにしてたんやど。
オイッ、今日でワシの授業最後やないか。
なあ、今日来るの楽しみにしとったんや。
オイッ、いつもの通りしろよ。
オイッ、いつもの通りしろよ。
いつもの通りしてくれ。
オイッ、いつもの通りしろ!!ピィッ~」

修学旅行で浪速高校は女子高と同じホテルになった。
鶴瓶と同部屋になった宮本がいった。
「駿河、女おるぞ。
しゃべりにいこう」
「アカン、無理や」
廊下では生活指導の教師が立ってバリケードをしていた。
「方法がある」
「なんやねん方法て」
宮本は押入れをあけてみせた。
「みてみい」
すでに天井が開けてあり、天井裏の太い梁がみえた。
「アレを伝っていったら下が女の子の部屋や」
「お前、頭おかしいんか。
こんな天井ぶち破ってどうすんねん。
でもまあ、ここまでやったんやからいこか」
男子校の2人は天井裏を進み、女子高の部屋の上からトランプする様子を覗いた。
しかし教師による点呼があるため帰らなければならなかった。
暗闇の中、鶴瓶はいった。
「帰ろか」
「ホコリで手が滑る」
宮本が答えた。
「どっか持つとこないの?」
「ちょっと待って。
体勢整える。
痛い痛い」
「ちょっと頼むで。
はよ帰らな怒られるがな」
「ちょっと待ってくれ。
痛い痛い。
イテテイテテ・・・」
「・・・・・・・」
「イテテ、ウッ、お先」
宮本は下に落ちた。
「ギャー」
女子高生たちは叫んだ。
天井裏に戻ろうとする宮本を鶴瓶は引き上げた。
そのとき宮本はベニヤ板で腹に傷を負ったが2人は急いで自分たちの部屋に戻った。
「布団かぶっていびきかけぇ」
鶴瓶の指示で全員が眠った。
鶴瓶の隣では宮本が
「痛い痛い」
とうなっていた。
3分もたたずに生活指導の教師が部屋に来た。
怒っていた。
「駿河、出てこい。
向こうの部屋で人間が落ちてきたいうてはる。
駿河出てこい。
お前や。
お前にに決まってる」。
(なんで決まるねん。
旅のしおりに駿河落ちるって書いてあんのか)
鶴瓶は必死に笑うのをこらえ寝たフリを続けた。
後にわかったことだが、宮本が鶴瓶の体育パンツをはいていたため、天井に戻るときにお尻に書いてあった「駿河」という名前をみられていた。
「電気つけるぞ。
俺はつけるいうたらつける」
そういって教師は1枚1枚布団をめくって
「違う」
「違う」
「違う」
と1人1人顔を確認していった。
教師は鶴瓶の隣まできた。
宮本は痛みに顔を歪めていた。
「・・・違う」
(なんでやねん)
次にめくられた鶴瓶は座らされた。
「なにかあったんですか?」
「シラこいなワレ」
「なにかあったんですか?」
「向こうの部屋で人間が落ちてきたいうてはる。
お前や」
「知りません」
「お前や」
「知りません」
「お前や」
「知りません」
「ほなそのお前の頭のクモの巣はなんや!」
「知りません」
鶴瓶はなんとかごまかせるかもと思ったが、直後、隣の宮本が痛みに耐え切れず暴れ出したため無理だった。
あのねのね

多くの同級生が桃山学院や近畿大学を受験する中、鶴瓶は、
「いったん過去を捨てたい」
と友人が誰も受けていない英和大学、京都外大、関西外大、京都産業大学、関西大学を受験した。
「ここへ集まってくれたのは他でもない。」
京都産業大学の入学試験の昼休み、食堂で鶴瓶は突然、他の受験生を前に演説を始めた。
大学受験という人生をその後の左右する大事なときに、緊張すればするほど笑ってしまう真面目なときほどふざけたくなる癖が出た。
試験に向け勉強している人の迷惑も顧みず、鶴瓶は食堂を歩きながら演説を続けた。
そしてカレーライスを食べている女性2人組を発見。
「勉強している人もおりゃ、こうやってカレー食ってるヤツもおる」
そういって1人の頭をガシッとつかんだ。
怒られても仕方がない行為。
しかし女性は、鶴瓶を見上げニコッと笑った。
瞬間、鶴瓶は恋に落ちた。
この男子校のノリと鶴瓶の笑いを理解し受け容れた女性こそ、後の玲子夫人だった。
鶴瓶は、英和大学、京都外大、関西外大にも合格したが、
「彼女に会えるかもしれない」
と京都産業大学を選んだ。
頭のいい人間に対抗心を持っていた鶴瓶は、受けていない京都大学の合格発表会場に行き、落ちていそうな生徒の隣で
「あった!」
と合格したフリをして胴上げされるという悪戯を慣行。
その場にいたNHKに取材され、その模様が夕方のニュース番組で流れ、親戚から祝電が届いた。

京都産業大学入学直後、麹町六角の三木半旅館でアルバイトを開始。
そこで1学年上の清水国明と出会った。
清水国明は福井県の実家がギターの修理をやっていたため、福井に帰る度にギターを大阪に持って帰り、お金に困るとそれを鶴瓶に売りに行かせて、また実家に帰った。
鶴瓶がガールズバーのサンドイッチマンのアルバイトを、喫茶店でサボりながら終えて帰ると
「みんなで食おう」
と清水国明にお金を取り上げられた。
あるとき清水国明は突然消えた。
そしてしばらくして大きな鮭を何匹も持って鶴瓶の部屋に現れた。
聞けばソ連行きの貨物船に乗り込んでいたという。
その後、しばらく清水国明は鶴瓶の部屋に住んだ。
鮭は部屋に吊るされ、2人は毎日鮭茶漬けを食べた。
夜になると清水国明はカーテンを外してくるまって寝ていたが、やがて鶴瓶の布団を奪い取った。
鶴瓶はしばらくその部屋に戻れなくなった。

鶴瓶は「落語長屋」という京都産業大学の落研(落語研究会)に入り、「童亭無学」を名乗った。
「国際経済論」の授業を受けていたとき、同じクラスの美和と共に玲子が教室に入ってきた。
(うわぁ)
鶴瓶はすぐに美和に玲子を紹介してもらい、2人を落研(落語研究会)のマネージャーに誘った。
落研に入会した玲子は、マネージャーにもかかわらず「レモン亭円(れもんていまどか)」という高座名をつけられた。
鶴瓶は「玲子ちゃん」にゾッコンだった。
「ある日、大教室に呼び出したんです。
『落語やったる』と。
イザやったらひっくり返るくらい笑ってね。
そんときのパワーはこれまでで1番だったと思いますよ。
好きな子を笑わしたろうと必死でしたから。
まだ付き合う前で」
原田伸郎が「落語長屋」の説明会にいってみると、鶴瓶が落語をしていた。
「うまいなあ」
「こんな先輩がいるなら楽しそうだな」
と思い
「1年生の原田伸郎といいます。
よろしくお願いします」
と挨拶すると
「俺も1年やねん」
といわれた。
鶴瓶は三木半旅館のアルバイトを原田伸郎に紹介し、原田伸郎は清水国明と出会った。
朝5時に起きて布団を上げ、朝食の配膳、部屋の掃除を行い、その後大学に行こうとするが、三条大橋の手前のパチンコ屋に入ってしまい、お金が無くなると橋を渡らず三木半に戻り、ギターを弾いたり落語をやった。
鶴瓶と原田伸郎は、面白さ、笑いを競い合った。
「原田、玲子が引っ越しよったんや」
とある夜、鶴瓶は原田伸郎を連れて玲子の引っ越し先まで出かけ、
「ああ、玲子は勉強しとるんかなあ。
もうすぐテストやしなあ」
と独り言をいいながらずっと2階の部屋の電気を見つめていた。
そして電気が消えると
「あっ玲子が寝よった。
帰ろか」
といった。

清水国明、原田伸郎、玲子、鶴瓶は「あのねのね」を結成した。
鶴瓶は
「玲子は原田伸郎を好きなんかもしれない」
と疑い心配して練習をみているだけだったが、
「お前も歌え」
と清水国明にいわれて入り、
「ファンキーモンキーベイビーズのあの人みたいに」
後ろで踊っていた。
あのねのねは、丸山公園音楽堂で行われたヤマハ・ライトミュージックコンテスト京都大会に出て、「ひょっこりひょうたん島」を演奏。
清水国明、原田伸郎をバックに玲子がボーカル。
鶴瓶は客席で踊っていた。
そして6組中6位になった。
玲子にゾッコン

「僕とつき合うてくれへんか」
「今つき合うてる人がおるねん」
意を決し告白した鶴瓶だったが、あえなく散った。
以後、玲子を無視し続けた。
2ヵ月後、落研でコンパが開催され、鶴瓶は大いに騒いでいたが、ふと部屋の隅でしょんぼりしている玲子をみつけた。
「円、どないしてん」
話しかけると酔った玲子はからんできた。
「なんで私を無視するんですか?」
「彼氏とはどうなってん」
「私、フラれてしもてん」
「ほんなら付き合うてくれへん?」
鶴瓶は玲子のアルバイト先と下宿先の行き来は、必ずついていった。
当時、玲子の下宿先ではパンツ泥棒が出ていたため疑われたが、玲子1番の鶴瓶は送り迎えを続けた。
やがてパンツ泥棒はパンツ泥棒は捕まった。
近所の電気店の店員だった。
「よかった」
玲子は鶴瓶にそういったが、犯人が捕まってよかったというより、鶴瓶が犯人じゃなくてよかったようないい方だった。
「この人に何かあったら何人(なんびと)たりとも許さないって人でしょうね。
ほんまにこの人が死ぬんやったら俺が先に死んだろうと思いますね。
それは30年間変わらないです」
「初めてのセックスは嫁」
テレビでもラジオでも玲子夫人に対する想いを公言する鶴瓶。
しかし玲子夫人も鶴瓶に負けず劣らずの人物だった。
「(付き合って)10年後、1980年12月23日に結婚する」
鶴瓶にそうプロポーズされた後、黙って1人、鶴瓶の実家にいき鶴瓶不在のまま一泊した。
交際や将来の結婚を認めてもらうためにいったというが驚くべき行動力だった。
あるとき清水国明が河原町のビルの屋上ビアガーデン:バルで歌う仕事を見つけてきた。
玲子が酔っ払った客の前で歌うことが許せなかった鶴瓶は反対したため、あのねのねは2人で出演した。
「30分を2回やって1人2000円やぞ」
清水国明は原田伸郎にそういっていたが、自分は5000円をもらっていた。
実際にステージに立ってみると誰もこっちをみていないし聴いていなかった。
なんとかこっちを向かそうと落語の小咄を「魚屋のオッサンの唄」という歌にした。
「魚屋のおっさんの唄です。
♪魚屋のおっさんが屁をこいた。
ブリ♪」
これがドカンとウケた。
以後、ギャグソングを連発。
「赤とんぼの唄」も誕生した。
あのねのね目的にビアガーデンに通うファンが現れるほど人気が出て、アマチュアバンドながら近畿放送(現:KBS)ディレクターにラジオ出演をオファーされた。
さらにそれがきっかけになってMBSの人気テレビ番組、「ヤングおー!おー!」に出演。
キャニオンレコードからレコードも出た。
京都の芸能事務所:ペップミュージックにも入ると、やしきたかじんや河島英五もいた。
黒メガネ、アフロヘアー、オーバーオール 異色の落語家

鶴瓶は
「いずれ大学を辞めてプロの落語家になる」
と公言していたが、落研の先輩2人に
「いつになったら落語家になるんや」
とからかわれ、
「俺がどないしようと俺の勝手やないか。
お前らにガタガタいわれる筋合いはないわ。
お前らにいわれんでも辞めるときが来たら辞めるんじゃ」
と2人を便所に連れ込み殴打。
大学を2年の終わりで中退した。
その後、落語の道をあきらめ普通に就職しようとする鶴瓶に玲子はいった。
「私は芸能人の奥さんになろうとは思わへん。
でも結婚のために自分の夢を求めていかんと、やめてサラリーマンになるっていうのやったら、もう私のことは忘れてもええから」
その後、落語家になる決意を固めた鶴瓶に
「よかろー」
とたった一言、四国弁で返した。

きっかけは安井金比羅宮で米朝一門の落語会が開かれたときだった
高座に上がった6代目笑福亭松鶴が
「あっ!」
と固まった後、僧侶を指して
「あの坊さんの頭みたらネタ忘れてもた。
オチだけいうて降りま」
と本当にオチだけをいって2分ほどで降りてしまった。
それをみた鶴瓶は
「エライ人や」
と思い弟子入りを決めた。
そして松鶴の楽屋に通いつめ入門を乞うた。
松鶴に何度も断られたが、ようやく許された。
鶴瓶の父は息子が芸人になることに反対だった。
鶴瓶は
「親父さんを連れてこい」
という松鶴の自宅へ
「友人を殴ってケガをさせてしまったから一緒に謝りにいって」
と父親をだまして連れていった。
父親は途中でだまされたことに気づいたが大人の対応を取った。
しかし内心は怒っていた。
その気配を感じ取った鶴瓶は
「今日からお願いします」
と切り出した。
自宅に帰らず住み込んでしまえば怒られずに済むからである。
しかし松鶴に
「弟子になったら親子ではなくなってしまう。
今日はゆっくり水入らずで過ごしてきなさい」
といわれてしまい父子で帰宅せざるを得なくなった。
松鶴宅を出た途端、父親は近くにあったゴミ箱のフタで息子を殴った。

入門4日目、20歳の鶴瓶は、落語会で木戸番(入場受付)をしていた。
ある夕刊紙の記者が、名前も会社名も名乗らずに素通りで入場しようとした。
鶴瓶はそれが新聞記者であることはわかってたが、当たり前のように青田(無料、顔パス)で入場する横柄な態度に我慢できなかった。
「おたく、いつもタダで入っていきはるけどどなたさんですか?
あのう、いっぺんくらいお金払ってはいったらどうですか?」
「お前誰や」
記者は、持っていた下足札を鶴瓶に投げつけた。
「松鶴の弟子です」
まだ名前もなく、そういうしかない鶴瓶に記者は吐き捨てるようにいった。
「お前、辞めさせたるわ
ちょっと来い」
鶴瓶は松鶴の楽屋に連れて行かれた。
松鶴は持ち場を離れた弟子を注意した。
鶴瓶は事の次第を説明した。
すると松鶴は新聞記者にいった。
「この子は将来、あんさんらが取材で世話になる子や!
そうなったらお前どうすんねん。
アホ!
カス!
去ね(いね)!」

相手は落語会を主宰する新聞社の記者。
自分は入門数日の弟子。
師の男気に鶴瓶は感動した。
以後、
「おやっさん」
と慕い続けた。
たとえ酔った松鶴にいきなり傘で刺されても、階段から突き落とされても、とにかく何をされても
「おやっさんについていく」
と揺らがなかった。
その反面、師匠の愛犬をコタツの中に入れてフラフラにさせ
「これがホンマのホットドッグや!」
というなど決してただのいい子ちゃんではなかった。

笑福亭一門の1番弟子は、笑福亭仁鶴。
2番弟子は、笑福亭鶴光だった。
「1番弟子は品格のある人
2番目からずっと品格ナシが続いて、僕の1つ上が7代目になった品格のある人」
そういう11番目の弟子の鶴瓶は、黒メガネ、アフロヘアー、オーバーオールだった。
この落語家らしからぬスタイルは、散々、師匠や先輩から改めるようにいわれたが決して譲らなかった。
師匠にとがめられ散髪代を渡されても髪を切らずに酒代に使い
「金を落としてしまいましたわ」
といった。
そして電車の中で綺麗な女性の股間をみながらオーバーオールの中で自慰行為を行った。

高島屋大阪店ホールで行われた落語コンクールで、鶴瓶は、古典落語にオートバイに乗った人物を登場させるなどアレンジを加えて演じた。
審査員だった松鶴と香川登枝緒は
「時代錯誤も甚だしい」
「こいつの落語は落語やおまへん
現にワタイ(落語の)稽古つけてない!」
と酷評した。
しかし松鶴は会場を出るとき
「お前のが1番よかった」
と鶴瓶を褒めた。
あるとき鶴瓶は、高座にラジカセを持ち込み、笑いが欲しいシーンでスイッチを入れて笑い声を出し、客をあおるアイデアを披露し松鶴に叱られた
そういう松鶴も若手時代に高座でバレリーナに扮して先代から怒られていた。
弟子の中で鶴瓶は師匠(松鶴)の付き人として最も行動を共にし最も可愛がられテレビでの共演も多かった。
しかし決して松鶴から落語の稽古をつけられることはなかった。
鶴瓶は何度も稽古をつけてくれるよう直訴したが松鶴は逃げ続けた。
これは松鶴が鶴瓶の素質を分析し「捨て育て」によって個性を伸ばすため、あるいは古典の言葉ではなく現代の言葉で笑いを創っていったほうが良いと判断したためなど諸説ある。
裸芸と超能力を駆使

鶴瓶は笑福亭一門が集まる宴会で必ず裸踊りを披露した。
局部に蛍光塗料を塗って暗闇の中を走り回ったり、全裸に脱ぎかけのワイシャツ1枚で袖の部分だけ引っかかっている状態で踊ったり、陰部に貼ったガムテープではがしたりまた貼ったりするなどの裸芸を持っている。
あるとき芸人同士の飲み会でそそのかされ、全裸で店外に出た途端、鍵を閉められ、約1時間半、全裸のまま屋外へ放り出されたこともある。
桂南光と2人で交番の壁に向かって小便をしているところを警官に見つかり取調べを受け、2人とも本名ではなく芸名を名乗ったためさらに怒られた。
「僕は世にいう露出狂などでは断じてない。
僕の場合、決して快感のためにやっているわけではないからだ。
ただ快感を得るためにではないにしろ、例の部分を露出することにさして抵抗を感じていないことだけは事実かもしれない」

何としてでも活動の場が欲しかった鶴瓶は、超能力(透視とスプーン曲げ)ができることを松鶴に打ち明けた。
鶴瓶の超能力(実はイカサマ)をみた松鶴は驚愕し
「ウチに超能力を使う弟子がおる」
と自らTVに鶴瓶を売り込んだ。
スプーン曲げは力任せにやっていただけだが信じきって必死になって売り込む松鶴に便乗して鶴瓶は業界に顔を売り、これがTV、ラジオと進出する足場となった。
上岡龍太郎は、鶴瓶の超能力を信じず、かつそんなインチキを平気でする人間性を疑ったが、鶴瓶に真相を打ち明けらるとその心意気に大いに賛同した。
明石家さんま

まだ名前ももらっておらず本名の「杉本(高文)」と呼ばれていた明石家さんまは、ある落語会で下半身裸で舞台の袖から顔だけを出して、客席の綺麗な女性をみながら自慰行為をしている鶴瓶を目撃した。
その落語会で明石家さんまは1番手、鶴瓶は2番手を務めた。
落語会が終わった帰り道で偶然、2人は一緒になった。
「自分、杉本いうの?」
「どこ出身?」
18歳の杉本少年は優しくしゃべりかけられ、鶴瓶と2人で心斎橋を歩いて帰り、途中で大判焼きを1個オゴってもらった。
明石家さんまは、この世界に入って初めて先輩にオゴッてもらったことに大感動した。
しかしその後、事あるごとに
「あのときオゴってやったな」
としつこくいわれ続け
「たかが30円の大判焼き1個のせいで一生いわれ続けるんや」
と感動と感謝はやがて後悔に変わっていった。
鶴瓶家

鶴瓶がプロの落語家を目指して悪戦苦闘をしていたとき、原田伸郎はまだ大学生で旅館でアルバイトをしていた。
アルバイトの後、学校に行かずにパチンコを打っていると、有線で「赤とんぼの唄」がかかった。
「うれしいわ」
と思っていると15分後にまたかかった。
「なにコレ!!」
驚いていたが、しばらくするとまたかかった。
「こりゃ売れるん違うか」
その後、大学にファンが来るようになり、あのねのねは1973年度日本有線大賞大衆賞を受賞した。
原田伸郎はネタに詰まる
「なんかええネタないか」
と鶴瓶に電話し落語の小咄などを教えてもらい、それを歌にした。
こうしてつくられた局の中に「つくばねの唄」などヒット曲もあった。
「こんなんエエのか!!」
鶴瓶はレコード、コンサート、テレビ、ラジオとドンドン活躍の場を広げていくあのねのねをみて大きな喜びと共に軽い怒りと嫉妬も覚えた。

ラジオの公開収録がホテルのプールサイドで行われ、鶴瓶はプールの中のたくさんの人を前にしゃべっていた。
しばらくすると遠距離恋愛中の玲子をプールの中にみつけた。
大学卒業後、玲子愛媛県松山市の実家に戻り会社勤めをしていたが、親は鶴瓶との交際を認めなかった。
(何してんねん。
間に合わんんか)
鶴瓶は、玲子が数日前から有休をとって大阪に来ていることはわかっていたが、この日のこの時間には空港に向かっていなければならないはずだった。
鶴瓶の視線に気づいた玲子は手を振り返した。
そして帰りの飛行機のチケットを細かくちぎって紙吹雪のように捨てた。
「わたしもう帰られへん」
こうして2人は同棲を始めた。
1974年10月12日、鶴瓶は玲子夫人と結婚した。
「(付き合って)10年後、1980年12月23日に結婚する」
とプロポーズしたが、玲子が妊娠したため6年早い結婚だった。
結婚式は大阪府交野市の郡津神社で行われ、仲人は松鶴 がつとめた。
親が承諾していなかったので玲子側の参加者はいなかった。
松鶴はスピーチで
「ウチの弟子は13人いてまっけどこいつが1番アホだ。
おしまい!」
とだけいい会場を後にした。
大卒初任給平均は78700円の時代に、あのねのねの祝儀は300000円。
結婚式、披露宴の代金を支払ってもまだ余るほどの金額だった。

鶴瓶と玲子は長女と長男を授かった。
長男の駿河太郎は、ロックバンド「sleepy dog」のボーカル、そして俳優。
反抗期の太郎が玲子にキツく当たるのをみた鶴瓶は口の周りが血だらけになるまで殴った。
「ある朝、引きずり回してボコボコに殴ったら『ウー』いうてね。
『何、ウー言うとんねん』と蹴っとばしてから『血ぃふいて、はよ学校いけ』って送り出しました」
長女は駿河章子。
有限会社 バグケット( http://www.bugket.com/06bugket.com.html )の代表取締役。
鶴瓶は1度だけ長女にも手を出した
「勉強なんかせんでもいいんですけどダラダラした生活されるのが嫌なんですよ。
そのときは娘が電話しながらテレビみて寝とったんです。
『電話かテレビ、どっちかにせぇ』っていうたら知らん顔して。
もう1度怒鳴ったら娘が初めて僕をにらんだんです。
受話器を取り上げてパーン殴ったら『ギャー』っていいましたよ」
そして鶴瓶は娘を突き放した。
「これ以上は怒らん。
あとは自分で生きていけ」
すると長女は正座して
「また、たたいてください。
ちゃんとしますからたたいてください」
といった。
「泣きそうでしたよ。
でも怒ってたたいた人間が泣いたらアカンし必死にこらえました。
翌朝、娘から『おはよう』って声を掛けてくれたんでホッとしました」
鶴瓶一家は、毎年、休暇をハワイの別荘で過ごす。
あるとき休暇ではないときに別荘をいってみると、別荘を管理している人間と、その家族が勝手に住みついていた。
くつろいでいたその家族は鶴瓶の突然の訪問にパニックになった。
ミッドナイト東海 ラジオで相談者の父親とケンカ

鶴瓶は東海ラジオの深夜番組「ミッドナイト東海」のパーソナリティに抜擢された。
鶴瓶の「ミッドナイト東海」は名古屋からの放送だったが、同じ時間帯、裏では「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」が東京から配信されていた。
鶴瓶の兄弟子:笑福亭鶴光がパーソナリティをつとめるオールナイトニッポンは深夜ならではの下ネタを含めたハイテンショントークで圧倒的な人気を誇っていた。
現在においても笑福亭鶴光はオールナイトニッポンの「レジェンド」と呼ばれている。
どちらかというと同じ匂いのする2人だが、意外に鶴瓶は
「こんばんは。
笑福亭鶴瓶でございます」
と普通のトーンで3時間の生放送をスタートさせた。
「あの男(笑福亭鶴光)はほんまにねえ、すごいですよね。
いまだにそうですから。
AKBに『エエかエエかエエのんか』とかいわせたんでしょ。
最低な男ですよね。
菅井きんさんに『乳頭の色は・・』いうた男ですから。
ビックリしましたよ。
あんなことされるとどんなことをしても負けてしまうやろということでね。
違うようなことをやったんです。
普通にしゃべるような状態でやったんです」
鶴瓶は、番組の企画づくりから行い、事前に番組でかかるレコードはぜんぶ聞き、ゲストのことも調べた。
織田信長以来、名古屋には大阪に対する拒否感があるのか、最初はハガキがまったく来ず、鶴瓶は自分あてにハガキを書いて出した。
名古屋で人気のロックシンガーがゲストに来たことがあった。
アーティストはメディアに出ないほうがかっこいいという風潮のせいか、そのロックシンガーは、まるで「出てやっている」とでもいいたげな態度をとった。
会話もかみ合わず、ついに鶴瓶がキレた。
「出ていけ!コラ」
「なんやと、コラ!」
ロックシンガーも応戦。
罵声が生放送の電波に乗って空に伝わっていった。

番組の終わりに「四畳半のコーナー」という企画があった。
それはリスナーと鶴瓶が直接、電話でしゃべるコーナーだった。
通常はブースの外でスタッフがいったん話を聞いて問題ないか確認してからタレントにつなぐが、鶴瓶は本当にダイレクトに電話をとった。
夏休みの1週目、中学生2年生の男子から電話がかかってきた。
「本当は地元の中学に行きたかったのに、9月の中頃から高知県の全寮制の学校に転校することになってしまった」
「なんで?」
聞けば医者である父親が、医者にするために嫌がる息子を全寮制の学校に入れようとしているという。
息子は医者にもなりたくなかった。
「そんなことあんのん?
それやったら・・・」
と鶴瓶がいいかけると
「アッ、ゴメン。
切る」
と中2男子はいった。
「なんで切るねん。
お前からかけてきたんやんか」
「親父が部屋に入ってきたから・・・」
「だったらお父さんと代われ」
こわい反面、心の中では何か強い力が噴出していた。
「誰だ、お前は?」
35歳くらいの電話口の父親は最初からケンカ腰だった。
「ごめんなさい。
これラジオなんですよ」
22歳の鶴瓶は状況を説明した。
「息子さんが学校のことで悩んでいて、こうやって電話をかけてくれて、ぼくが中に入るのもアレやからもう電話を切ります。
さっきお話を聞いたんですけど今からしゃべったってください」
「お前に指図されることない」
「それはそうですけど・・・・」
鶴瓶は中2男子の悩んでいる状況を伝えようとした。
それを父親は遮った。
「お前はなんだ?
こんな時間に電話かけてきて、お前、誰だ?
「笑福亭鶴瓶と申します。
息子さんが、こっちに電話をかけてきてくれたんです」
「笑福亭鶴瓶?
知らん。
あっ、お前、あのモジャモジャ頭のやつか?」
「あ、そうです」
「お前、どこの大学や?」
「いや、京都産業大学の中退」
「そんなやつにそんなことをいわれてもなぁ」
ついに鶴瓶はキレた。
「なにぬかしとんねん、アホンダラ。
あのな、コレ電波流れとんのや!
俺もな、低姿勢でちゃんとこうやって話しとんねん。
そんなに人気はないけどリスナーも聞いとるんや!
あなたの息子さんが悩んどることを聞いてあげて、あんたが出たときも『おたくの家のことやからぼくはよお解決せんけど今、電話を切った後に解決してあげたらどうですか』というとるだけやないか。
何も悪いことないやないか!」
父親は反論したが
「お前な、自分とこの子どもの精神的な病気もよう治さんとなに他人の体を診とんねん。
コラァ!
アホンダラ!
こっちは生放送やっとんねん!
いつでも来い、コラァ!」
そして最後は
「千種区の・・病院には行くなぁー!」
と叫んだ。
この後、番組を降ろされかけたが、
「鶴瓶を辞めさせるな」
と署名活動が行われたり起こったり、中高生を中心にたくさんの養護の声が寄せられたため、番組に復活した。
鶴瓶は名古屋の中高生のよきアニキだった。
当時、「ミッドナイト東海」のリスナーで13歳だった少女に鶴瓶は自身初めてサインを書いた。
40年以上経って50歳代となったその女性とまだ交流を続けている。
鶴瓶はサインでも写真でも求められたら基本的に断らない。
それどころか自ら積極的に声をかけ、家に上がり、トイレや風呂を借りてしまう。

『ミッドナイト東海』に出演していたとき、鶴瓶は東海ラジオ放送の食堂でアルバイトをしていた当時まだ無名の漫画家:鳥山明と顔見知りになった。
鳥山明は、「Dr.スランプ」単行本第1巻に鶴瓶が登場させた。
それを読んだリスナーが、鶴瓶のラジオ番組にその切り抜きを添えて投稿。
鶴瓶は
「鳥山明さん、聞いとる?」
と発言。
リアルタイムで聞いていた鳥山明は驚いてペンを落としそうになった。
そして
「是非お電話ください」
と連絡先を書いたハガキを送った。
その後、2人の対談が実現した。
エビス顔の悪魔

鶴瓶は名古屋へ行くため、明石家さんまは東京へ行くため、まだ大阪にいた2人はよく同じ新幹線に乗った。
鶴瓶は、ファンに会うと、会釈し、愛想を振りまき、決してサインや握手を断らず、差し入れのおにぎりをもらえばすぐに頬張った。
「兄さん、それはあきまへんで」
たとえ悪意はなくても何か入っているかもしれない。
高いプロ意識からファンからもらった食べ物は食べない明石家さんまは、注意しつつもファンを信じることができる鶴瓶に感心した。
しかし電車が出てファンがみえなくなると鶴瓶は食べかけのおにぎりをそのまましまった。
「もう食べまへんの?」
明石家さんまの問いに鶴瓶はただ笑顔で返した。
あるとき新幹線の中で、鶴瓶が
「13号車でヘアピンを借りる」
「1号車のAの席の人の靴を片方借りてくる」
と指示を出し、明石家さんまが借りることができればお金をあげるという「借り物ゲーム」が流行った。
明石家さんまが靴を持ってきたため、鶴瓶は確認に行くと、本当に指示通りの場所で片方だけ靴を履いたサラリーマンがいた。
このとき鶴瓶は明石家さんまの人間性を認めた。
しかしお金は払わなかった。

一時期、「イタズラ電話ゲーム」も流行った。
鶴瓶は番組の罰ゲームで、深夜、横山やすしに電話をかけさせられた。
「横山やけど・・・・」
「南海電話の始発は何時ですか?」
「横山やすしと知っての狼藉かぁ」
寝ていた横山やすしは怒り狂い、鶴瓶はあわてて電話を切った。
あるとき
「弟子にしてください」
という電話をもらった鶴瓶は、とにかく師匠に会わそうと
「・・・・に来てください」
と答えたが、実は電話をしたのは明石家さんまで、
「鶴瓶兄さんはもう弟子をとろうとしている」
という噂を流した。
明石家さんまは玲子夫人にも
「水道局ですけど、風呂の水が流れっぱなしになっていますからみてください」
「電話局ですが、1m離れて鍋のフタ叩いてみてください」
などとイタズラ電話を入れた。

鶴瓶が明石家さんまのラジオ番「ヤングタウン」に出演。
まだ松竹と吉本は共演NGの時代で、河内家菊水丸が大阪千里丘の毎日放送から車で出て兵庫県西宮市の鶴瓶が建てたばかりの家を訪れるという企画だった。
パジャマ姿の鶴瓶が家の前で待っていると、それらしき車が近づいてきたので、パンツを脱ぎ尻を広げ肛門丸出しで待った。
「プップー」
しかし車は親愛のクラクションを鳴らして通り過ぎていった。
鶴瓶のまだ知らぬ近所の人だった。
河内家菊水丸は到着すると怒られた。
「お前ら遅いから町内の人の車に向かってズボンずらしてみせてしもうたやないか!
引っ越してきてまだ半月や!」
河内家菊水丸には落ち度も、どうすることもできなかった。
鶴瓶は、関西芸能界の先輩からも所属事務所を問わず可愛がられ、松竹所属であるにもかかわらず吉本の番組にも出演した。
吉本と松竹が強く対立していた当時、異例のことだった。
また自身がベテランになった後は、あらゆる事務所の若手とも交流した。
事務所や世代の壁を超える、いや無くす存在だった。

しかし鶴瓶はただの優しいYesManではない。
「フォークとロックの会」というライブイベントの司会をしたとき、あるロックバンドのギタリストのチューニングが遅れ、鶴瓶はトークでつないだ。
しかしロックバンドは謝るどころか鶴瓶の質問を無視し続けた。
そしてベーシストから
「俺はお前が嫌いや、嫌いやねん」
といわれ、鶴瓶はベーシストが鼻血が出すまでマイクで殴り続けた。
後日、このベーシストと偶然再会して話す機会があり
「しばし心のなかの汚点がスッと洗い流されるようなさわやかな気持ちにひたった」
と語っている。
イベント会社社長の若手芸人をバカにした態度が気に入らず、出演せずに劇場を後にしたこともあった。
後年、スターとなった鶴瓶に同じ企画会社から仕事が入ったが
「売れていない弱い立場の芸人には平気で高飛車に命令をしておいて、少し売れてくるとたちまち態度を変える。
僕はそんな方と一緒に仕事をしたくないんです」
と直接いって仕事を断った。
カメラに股間を押しつける

1975年、23歳の鶴瓶は東京12チャンネル(現:テレビ東京)の深夜生放送番組『独占!男の時間』で、東京初進出。
その初仕事は「セクシー美女による温泉リポート」という企画だった。
しかし本番前、横柄で傲慢な態度の番組スタッフに、
「山城(新伍)さんに使ってくれっていわれたからお前を使ってやったんだ」
といわれ
(コイツに目にものみせてやる)
と反骨心がムラムラと沸き上がった。
そして生放送の本番が始まった。
「続いては温泉リポートです。
どんな美女が登場するでしょか?」
とアシスタントが紹介すると、カメラが美女の足元をとらえ、そのままゆっくり上がっていくと、実は鶴瓶だった-というオチだった。
しかしカメラが腰元辺りを捉えた瞬間、鶴瓶は巻いていたタオルを外し、そのままカメラに接近。
股間をレンズに押しつけた。
生放送のスタジオは悲鳴と怒号に包まれた。
こうして鶴瓶の東京進出は失敗した。
スタッフ全員全裸で中森明菜を待つ

1976年、MBSヤングタウンを担当。
鶴瓶はスタジオに現れると全裸になってからハガキの選定作業に入るのが常だった。
ヤンタンは、関西の黄金番組でほとんどの学生は必ず聞いていたという番組。
あるとき電話コーナーの冒頭に
「鶴瓶さん、私のこと覚えてます?」
といわれ
「覚えてるよ」
といったが
「え、まだペンネームもいってないのに・・」
と突っ込まれどうしようもなかった。
中森明菜をゲストに迎えるに当り、鶴瓶の提案で鶴瓶を含めスタッフ全員が全裸で中森の入りを待った。
これは先に入ったマネージャーによって発覚し、中森明菜は全員がパンツをはくまでスタジオに入ろうとしなかった。
鶴瓶は「ギャグベスト3」というコーナーで、下ネタを連発し2度ほど謹慎、放送出演停止処分を受けたこともあった。
また放送中に大便をしたこともあった。
カメラに肛門をどアップで撮らせ、社長が大事に育てていた錦鯉を踏み殺す

「11RM」「23時ショー」と並んで「独占!男の時間」もお色気色が濃い番組で、それはドンドン過激になっていった。
当時。ミヤケン(宮本顧治、政治家、文芸評論家)の
「商業テレビは女性を軽視した番組、女性の裸体を売りにした番組が多い」
という発言をきっかけに、テレビではポルノ番組追放キャンペーンが展開されていた。
女性だけでなく鶴瓶の裸体まで放送した『独占!男の時間』は、その格好の対象となり打ち切りが決まった。
最終回で、納得できない山城新伍は
「(局の上層部、個人名)は、『男の時間』の裸は低俗だというが裸に高級も低俗もあるか」
と批判。
しかも2年前に事件を起こした鶴瓶をゲストに呼び、番組前に
「鶴瓶、今日でこの番組も終わりやしな。
なにをやってもかめへんで。
お前の好きなようにやり」
といった。
鶴瓶はカメラにお尻を突き出し、グーっと開いて肛門をどアップで撮らせ、スタジオから逃亡。
その後、テレビ局の外にあった噴水池に裸で飛び込んだが、ここで意図せず中川順社長が大事に育てていた錦鯉を踏んで殺してしまった。
鶴瓶は
「鉄砲玉の時代ですから・・いくしかない」
「気がついてら鯉が浮いてた」
といっているが、東京12チャンネルに無期限出入り禁止処分となった。
処分後、鶴瓶は明石家さんまで電話を入れた。
「俺は鯉に負けんのか。
鯉よりは頑張ってると思うで」
Ep2につづきます。