第1回プロ野球ドラフト会議(1965年)で1位指名を受けた選手のその後【パ・リーグ】

第1回プロ野球ドラフト会議(1965年)で1位指名を受けた選手のその後【パ・リーグ】

日本のプロ野球において新人を獲得する制度としてドラフト会議が1965年から開始されました。ドラフト以降で1位指名を受けた選手はセパ両リーグ合わせて毎年12名。野球のスーパーエリートでもあるこのドラフト1位指名の選手がどうだったかを追ってみました。


1965年度新人選手選択会議(ドラフト会議)

球団は連盟に獲得希望選手名簿を提出。名簿内では希望順に1番から12番も記載。
1位指名選手限定で、希望順1番が他球団と重複でなければ指名交渉権確定。重複した場合は抽選。
抽選で外れた場合は希望順2番、駄目なら3番と進行・・・以下、再度の重複があればその度に抽選。
2位以下の指名選手はウェーバー方式と逆ウェーバー方式を採用。
ウェーバー方式による指名順は近鉄 - サンケイ - 東京 - 広島 - 阪急 - 大洋 - 西鉄 - 阪神 - 東映 - 中日 - 南海 - 巨人
指名選手数は1球団30名まで。

選手間では不評だった「ドラフト制度」

1965年のパ・リーグのドラフト1位選手

南海ホークス1位:牧憲二郎(投手:高鍋高校)

プロ入りまで

高鍋高校ではエースとして活躍。1965年には甲子園に春夏連続出場を果たす。春の選抜では、1回戦で野崎恒男投手を擁する向陽高に敗退。同年夏の選手権は、2回戦(初戦)で保原高の岡正光、準々決勝で東邦高の北角富士雄と投げ合うが、いずれも完封で降し勝ち上がる。準決勝では銚子商と対戦。銚子商のエース木樽正明から1点を先制するが、8回に追いつかれ9回裏サヨナラ負けを喫する。同年の岐阜国体にも出場し準々決勝に進むが、岩崎忠義のいた津久見高に延長10回裏サヨナラ負け。

プロ野球での実績

<現役生活>
1966年~1976年

<成績>
3勝5敗

1970年に阪急ブレーブスへ移籍。1972年には20試合に登板。9月からは先発陣の一角として起用され、2完投を含む3勝を記録してリーグ優勝に貢献した。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでも3試合に登板、4回2/3を無失点に抑える。しかしその後はあまり活躍できず、1976年限りで引退した。

引退後

1980年に、寮長となる。

東映フライヤーズ1位:森安敏明(投手・関西高校)

プロ入りまで

関西高校在学中には、平松政次(岡山東商→大洋)、松岡弘(倉敷商→ヤクルト)とともに岡山三羽ガラスと呼ばれた。同年代では堀内恒夫や鈴木啓示、木樽正明ら速球派投手らが名を連ねている。
1965年の春季中国地区高等学校野球大会で優勝。夏の甲子園予選では、倉敷商を引き分け再試合で下した岡山東商と東中国大会決勝で対決。平松との投手戦の末、延長11回1-2xでサヨナラ負けを喫し甲子園出場の途を絶たれる。

プロ野球での実績

<現役生活>
1966年~1970年

<成績>
58勝69敗

<主なタイトル>
なし

<表彰>
なし

1970年7月 黒い霧事件

プロ野球関係者が金銭の授受を伴う八百長に関与したとされる一連の疑惑および事件。新聞報道などをきっかけに、1969年から1971年にかけて相次いで発覚した。

日本野球機構は八百長への関与について「(野球協約第355条が規定する)『敗退行為』に該当する」との見解を発表。関与が疑われた現役選手には永久出場停止(追放)、長期間の出場停止、年俸減額などの処分を下した。

本人は無実を主張するも、永久追放。

1970年7月30日、球界を永久追放されてしまいました。

江夏豊が、「オレより速い」と認めた男。

西鉄ライオンズ1位:浜村孝(内野手・高知商業高校) 

プロ入りまで

高知商業では2年生の時、1964年夏の甲子園予選南四国大会準決勝に進むが徳島商に敗退。この大会で3本塁打を放ち注目される。同年の秋季四国大会決勝に進出、同期のエース江本孟紀が好投し、小坂敏彦のいた高松商を降し優勝を飾る。翌1965年の第37回選抜高等学校野球大会への出場を決めたが、部の不祥事で出場辞退。夏の県予選も出場停止処分を受けた。

ドラフトの順位で、江本孟紀が入団拒否?

浜村孝の同期、江本孟紀も同年のドラフト会議で西鉄ライオンズに4位指名されるが、江本は4番でエースだったのに、3番を打っていた浜村より下位指名だったことに納得がいかず、入団拒否をしたとされる。(後に、江本本人はこれを否定している。)

プロ野球での実績

<現役生活>
1966年~1977年

<成績>
415試合 930打席 203安打 13本塁打 打率.218

<主なタイトル>
なし

<表彰>
なし

入団2年目の1967年には、船田和英の故障もあって遊撃手に定着。豊田泰光の背番号7を受け継ぎ、1969年までレギュラーとして活躍。しかし打撃面で伸び悩み、1970年のシーズン後半には、菊川昭二郎にポジションを譲る場面が多くなる。

同年オフ、広野功と共に、高橋明、田中章、梅田邦三とのトレードで読売ジャイアンツへ移籍。1971年には12試合に先発出場。しかしシーズンオフに事故で右手小指を切断し、1972年に二軍で復帰するものの、同年限りで引退した。

1976年に太平洋へ復帰し、登録名は戸籍上の「浜村孝」とした。翌1977年は一軍に入れず、同年限りで再び引退。

引退後

ロッテオリオンズでコーチを1988年から1992年まで務めた。ロッテ退団後は、地元で浜村海産の代表として活動している。

阪急ブレーブス:長池徳二(外野手・法政大学)

長池 徳士

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プロ入りまで

徳島県立撫養高等学校ではエースとして1960年秋季四国大会決勝に進出、高橋善正のいた高知商を降し、翌1961年の春の選抜出場を決める。しかし選抜では2回戦(初戦)で松江商に敗退。夏は県予選準々決勝で城南高に敗れ、甲子園には届かなかった。3年生時に南海ホークスのテストを受けたが、鶴岡一人監督に「使い物になるには4年はかかるな。遊びに行ったつもりで大学行ってこい。」の言葉により、鶴岡の母校法政大学経営学部へ進学した。

法大では外野手に転向する。東京六大学リーグでは在学中3度の優勝を経験した。1964年秋季リーグで首位打者を獲得。同年10月には、東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に六番打者、右翼手として出場している。4年生の1965年春季リーグではエース里見忠志(河合楽器)を擁し優勝に貢献。直後の全日本大学野球選手権大会に出場するが、1回戦で中京大に敗退している。リーグ通算60試合出場、217打数62安打、打率.286、3本塁打、30打点。ベストナイン3回。法大時代は通算3本塁打の成績が示すとおり長距離砲というわけではなかった。同期には外野手の鎌田豊がいる。

大学を卒業したら南海入団の約束になっていたが、その年からプロ野球はドラフト制度を導入。阪急ブレーブスが1965年のドラフトで1位指名を行う(南海は2位指名の予定だった)。ドラフト制度の目的には高騰する一方だった契約金の抑制もあり、南海と3000万円が約束されていたにもかかわらず、1000万円に抑えられた。希望球団に入れず、契約金も抑えられたことで「ホンマ、えらいもん(ドラフト制度)ができよったすよ」と長池は苦笑混じりに振り返っている。

プロ野球での実績

「ミスターブレーブス」と呼ばれるほどの活躍を見せた。
1967年から1975年にかけて阪急の不動の四番打者を務め、通算338本塁打は現在も球団記録である。

<現役生活>
1966年~1979年

<成績>
1449試合 4872打席 1390安打 338本塁打 打率.285

<主なタイトル>
本塁打王=3回(1969、1972~1973)
打点王=3回(1969、1973~1974)

<表彰>
最優秀選手=2回(1969、1971)
ベストナイン=外野手で6回(1967、1969~1973)、指名打者で1回(1975)
オールスターゲームMVP:3回 (1967年 第2戦、1970年 第1戦、1971年 第2戦)
日本シリーズ敢闘賞:2回 (1968年、1969年)
パ・リーグプレーオフMVP:1回 (1975年)
パ・リーグプレーオフ敢闘賞:1回 (1974年)
日本プロスポーツ大賞 殊勲賞:1回 (1971年)

本塁打王に3回、打点王に3回輝き、4番打者を務めた9年間(1967年 - 1975年)の全てのシーズンで「25本塁打以上」を記録(うち40本塁打以上が4回)。安打に対する本塁打の比率が非常に高い打者であったが、打率を残せる打者でもあり、「打率.300以上」を4回クリアしており、うち3回のシーズンで40本塁打を同時に達成している。

引退後

1980年から1982年まで阪急一軍打撃コーチ、1983年から1984年まで毎日放送野球解説者、1985年には広岡達朗監督に請われ西武ライオンズ一軍打撃コーチ、1987年から1988年まで南海ホークス一軍打撃コーチ、1989年から1992年まで日本テレビ・福岡放送・ラジオ日本野球解説者、1993年から1995年まで近藤昭仁監督の下、横浜ベイスターズヘッド兼打撃コーチ。1996年には日本テレビ・ラジオ日本野球解説者。1997年から1998年まで再び近藤の下で千葉ロッテマリーンズヘッド兼守備コーチ、ヘッドコーチを歴任。2004年にはオリックスの宮古島キャンプで臨時打撃コーチを務めた。

コーチとしての手腕は高く、秋山幸二・金森栄治(西武)、佐々木誠(南海)、鈴木尚典・石井琢朗・波留敏夫(横浜)、小坂誠・福浦和也(ロッテ)を育てた。

ロッテ退団後は1999年から福岡放送の野球解説者に復帰し、現在に至る。2009年までは日本テレビ野球解説者、2012年まではラジオ日本・ラジオ関西野球解説者も兼任していた。また、1999年から2005年までスポーツニッポン野球評論家も兼任していた。

東京オリオンズ:大塚弥寿男(捕手・早稲田大学)

プロ入りまで

浪商高校では3度甲子園に出場。1960年、2年生の時に、1年生エース尾崎行雄とバッテリーを組み、夏の甲子園に出場。2回戦で法政二高の柴田勲投手に完封負け。翌1961年は春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では準々決勝でまたも法政二高に敗れる。夏の選手権は準決勝で、三度目の対決となる法政二高を延長11回の熱戦の末、2-4で破り決勝に進出。決勝では桐蔭高に1-0で降し優勝。高校同期に大熊忠義三塁手、住友平二塁手、2学年下に高田繁外野手がいた。

卒業後は早稲田大学へ進学。高校、大学いずれも主将をつとめる。東京六大学野球リーグでは在学中2度優勝。1964年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で駒大に敗れ準優勝。宮本洋二郎、江尻亮、八木沢荘六らとバッテリーを組み活躍。リーグ通算87試合出場、328打数80安打、打率.244、0本塁打、25打点。ベストナイン3回。1965年第6回アジア野球選手権大会日本代表。

プロ野球での実績

<現役生活>
1966年~1972年

<成績>
229試合 320打席 57安打 4本塁打 打率.178

<主なタイトル>
なし

<表彰>
なし

1年目から一軍の試合に出場し、2年目には醍醐猛夫と併用され、37試合で先発マスクを被った。3年目には71試合に出場するが、打撃面での不振が響き、醍醐の壁は破れず、1972年に引退した。

引退後

引退後は夫人の実家の経営する会社に就職した。
2008年11月14日、胃癌のため死去。65歳没。

近鉄バファローズ:田端謙二郎(投手・電電九州)

プロ入りまで

鎮西高校では1963年、2年生の時にエースとして夏の甲子園県予選決勝に進むが、九州学院に惜敗。翌年夏は県予選準決勝で池田純一のいた八代東高に敗れ、甲子園には出場出来なかった。
卒業後は電電九州に入社。1965年に国鉄の大分鉄道管理局(現・JR九州硬式野球部)に補強されて都市対抗野球に出場。1回戦では優勝候補であるサッポロビールの佐藤元彦と投げ合い完封勝利、準々決勝でも同じく優勝候補の全鐘紡を完投で降す。準決勝で住友金属に敗退するが、大分鉄道管理局チームは小野賞を受賞し(田端個人への表彰ではない)、田端も全鐘紡を抑えた本格派投手としてプロから注目される。

プロ野球での実績

<現役生活>
1966年~1971年

<成績>
26登板 1勝7敗

<主なタイトル>
なし

<表彰>
なし

引退後

引退後は近鉄で打撃投手を1989年まで務めた。

まとめ

第1回ドラフトの1位選手(パ・リーグ)は、事件に巻き込まれ、悲劇の永久追放となった森安投手、ミスターブレーブスとして大活躍した長池選手を輩出した一方、あまり実績を残せないまま、引退をした選手も数多かった。
ちなみに、この年の、近鉄バファローズの2位指名が、かの317勝を挙げた、「投げたらアカン」で有名な、鈴木啓示投手である。必ずしも1位指名の選手が活躍するとは限らないドラフトの面白さが、この年に既に現れている。

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