脚の曲がった女の子
ベガの左前脚は不自然に内側に曲がっている。これはベガをご存知の方なら誰もが知っているのではないでしょうか。ベガは1990年3月8日、父・トニービン、母・アンティックヴァリューとの間に産まれました。母のアンティックヴァリューはノーザンダンサーの直仔で、ノーザンダンサーは当時20世紀最高の種牡馬と称されていました。
アンティックヴァリューはノーザンダンサーの血を求めていた社台グループの創始者・吉田善哉により輸入された期待の繁殖牝馬だったのです。しかしこのアンティックヴァリューには、脚部が不自然に内側に曲がる「内向」という身体的特徴がありました。ベガも母のアンティックヴァリューの身体的特徴を受け継いでしまったのです。
競走馬失格?
母の内向という身体的特徴を受け継いでしまったベガ。その特徴はベガの成長と共にどんどん顔を出してきます。牧場でも「競走馬としてデビューするのは難しいのではないか」という声も聞こえ始め、育成調教も満足にできないような状況でした。しかし、坂路調教を開始したところ思ったほど脚部に影響がないことがわかり、競走馬としてのデビューも見え始めます。
元々は社台グループの一口馬主クラブ・社台レースホースの募集馬となる予定でしたが、脚部の内向がどんどん表面化してきたため募集は中止となります。結局、吉田善哉の妻である吉田和子の個人所有馬となり栗東・松田博資厩舎に入厩することになりました。
無事競走馬デビュー

1992年9月、松田博資厩舎に入厩したベガ。松田は脚部不安のこともありゆったりと調教を進めていきました。調教を進めながら厩舎スタッフはベガの柔軟性と1度教えただけのゲート試験を1発合格してしまう頭の良さに注目します。「もしかしたら」そんなスタッフの期待も高まる中、いよいよ待望のデビュー戦を迎えます。
1993年1月、坂路コースで強めの調教をしてみたところ、オープン馬と見間違うほどの動きと好タイムを記録します。この動きを見た調教師の松田は、その週にデビューさせることを決めました。舞台は京都競馬場の芝1800m戦。
デビュー戦の鞍上は松田厩舎所属の若手騎手・橋本美純に決まりました。レース当日は単勝6.6倍の4番人気。いくら坂路で好時計をマークしたとはいえ、まともな追い切りは実質この1本だけ。ファンもまだ半信半疑でした。レースは先行して勝ち馬に2馬身半の差を付けられたものの2着に粘ります。この結果は厩舎スタッフの期待を更に高めることに。
相棒・武豊

期待の高まった厩舎でしたが、2戦目も厩舎所属の橋本美純を騎乗させるつもりでいました。ところが、2戦目を前にした調教に橋本騎手は遅刻してしまいます。これに調教師の松田は激怒。そこにたまたま通りがかった武豊に騎乗を依頼したと言われています。これにより武豊騎手とのコンビが誕生したのです。
そして迎えた2戦目は1月の京都競馬場、芝の2000m。レースは道中先団に取りついたベガは直線あっさりと抜け出し2着馬に4馬身差をつける圧勝。レース後武豊は、松田に対して「この馬、オークス勝てますよ」と話したと言います。この2戦目以降引退するまで全てのレースで武豊騎手が手綱を取ることになります。まさにこのレースからベガの相棒は武豊となったのです。
まずは1冠、桜花賞制覇
初勝利の後、ベガの左前脚に異常が見られたため松田は春の最大目標をオークスに定めようとしていました。しかし、ベガの左前脚は順調な回復を見せたため、3戦目に桜花賞トライアルのチューリップ賞を使うことに。
レース当日はまだ1勝馬の身でありながらその素質の高さを買いファンはベガを単勝2.6倍の1番人気に支持します。そしてまたベガもファンの期待に応えます。レースでは1600m戦でも先団に取りつくスピードを見せ、直線でもあっさりと抜け出し2着馬に3馬身差をつけて快勝して見せたのです。
そしていよいよGI・桜花賞に挑みます。桜花賞の最終追い切りで坂路を51秒2という猛時計で駆け上がったベガの調子は日増しに上がっていきました。迎えたレース当日、単勝2.0倍の圧倒的1番人気に支持されたベガ。ファンはベガの勝利を信じて疑いませんでした。そしてまたベガもファンの期待を裏切りません。
レースは今回もまた楽々と先団に取りつき、逃げ馬を見ながら直線に向くとすぐ先頭に躍り出ます。最後はユキノビジンとマックスジョリーが猛烈な勢いで追い込んできますがユキノビジンの追い込みをクビ差しのいでGI初勝利を飾ります。
オークスも制し2冠馬に
桜花賞の勝利後、ベガに海外遠征プランが持ち上がります。陣営はもしベガがオークスも勝った場合、フランスのヴェルメイユ賞に挑戦すると明かしたのです。栗東所属の関西馬であるベガにとってオークスは初となる関東圏でのレース。東京競馬場までの初の長距離輸送により発熱と食欲不振を起こしたベガをマスコミも大きく取り上げます。
その影響もあり、オークスのレース当日は単勝1番人気ながらオッズは3.4倍。桜花賞時のような圧倒的1番人気とはなりませんでした。しかしベガの体調はこの時すでに回復していたのです。レースではいつもどおり先団を追走したベガは最後の直線、ラスト200m手前あたりで先頭を走るユキノビジンを捉え1馬身4分の3の差をつけ快勝。見事2冠を達成しました。
海外遠征断念、狂いだした歯車
オークスも制し、2冠を達成したベガでしたが、レース後歩様に乱れを生じ放牧に出ることに。そして更なるアクシデントがベガを襲います。放牧先で右肩に筋肉痛を発症したのです。これにより計画されていた秋の海外遠征は断念することに。この時すでに運命の歯車は少しづつ狂いだしていたのです。
秋の目標を牝馬クラシック最終戦のエリザベス女王杯に定めたベガは、トライアルレースのローズステークスから始動することに決めました。しかしここでもまたアクシデントが。牧場の装蹄師が装蹄ミスをしてしまいます。蹄鉄を装着する際に人間でいうところの深爪をしてしまったのです。これにより調整に狂いが生じてしまったベガはローズステークスの回避を余儀なくされます。狂いだした歯車はもう修正不可能なところまできていました。
ベガはベガでもホクトベガ~!!
ローズステークスの回避を余儀なくされ、ぶっつけでエリザベス女王杯に臨むことになったベガ。しかしベガの調子はなかなか上がってきません。なかなか満足のいく調教を行うことができなかったのです。陣営が試行錯誤を繰り返し10月も半ばを過ぎた頃からようやく調子を上げていきます。何とかエリザベス女王杯出走までこぎ着けました。
レース当日は、ベガが中間の調整過程に狂いが生じたこともあり、ローズステークスを勝って勢いに乗るスターバレリーナが1番人気に。ベガはそれに次ぐ2番人気でレースを迎えます。レースではいつも先団につけていたベガがこの日は中団より後ろを追走することに。最後の直線、懸命に追い上げますが3着までが精一杯。勝ったのは9番人気の伏兵・ホクトベガでした。ベガは3冠牝馬になり損ねてしまいます。
競馬中継でホクトベガがゴールした瞬間、アナウンサーが叫んだ言葉が今でも耳に残っています。「勝ったのはベガはベガでもホクトベガ~!!」
成績不振、そして引退へ
牝馬3冠を逃したベガでしたが、その後も1度狂ってしまった歯車が元に戻ることはありませんでした。エリザベス女王杯後に臨んだ古馬との初対決、有馬記念で9着に敗れると年明け初戦の産経大阪杯も1番人気に支持さるも9着に惨敗。結果的にラストランとなってしまった宝塚記念も13着に敗れてしまいます。
宝塚記念のレース後、左前脚に骨折が判明。一旦放牧に出ましたが、そのまま引退することが決まり、繁殖牝馬となることになりました。通算成績は9戦4勝、うちGI2勝。全ての能力を発揮できぬままベガのわずか1年半という短い競走馬生活は幕を閉じたのです。
第2の馬生スタート、受け継がれる血

繁殖牝馬となり、第2の馬生をスタートしたベガ。やはり並みの馬ではありませんでした。初年度と2年目の相手は社台グループが社運を賭けて導入した期待の新種牡馬・サンデーサイレンス。初年度の種付けを行う頃にはサンデーサイレンスの初年度産駒が早くも爆発的な活躍を見せていました。
そして誕生した長男の名は、アドマイヤベガ。この長男が早くも結果を出します。GI・日本ダービーを勝ったのです。次男・アドマイヤボスもGⅡ・セントライト記念を勝つなどの活躍を見せ、三男・アドマイヤドンは父をティンバーカントリーに替え、芝・ダートのGIを合わせて7勝もする大活躍を見せます。
その下となるキャプテンベガは重賞にこそ手が届かなかったものの、重賞戦線で息の長い活躍を見せ、ベガは繁殖牝馬としても底知れないポテンシャルを見せたのです。ベガは最後の産駒となったヒストリックスターを産んだ翌年の2006年8月16日、くも膜下出血のためこの世を去りました。まだ16歳という若さでした。
結局ベガが残した産駒はわずかに5頭。最後の産駒となったヒストリックスターは不出走に終わりましたがそのまま繁殖牝馬となり、ディープインパクトとの間にハープスターという怪物牝馬を誕生させます。ベガの血は脈々と受け継がれているのです。
その秘めたるポテンシャルは計り知れず
たらればになってしまいますが、もしベガがもっと長生きして産駒を輩出していたらあと何頭のGI馬が誕生していたのか。もしディープインパクトとの間に産駒が誕生していたらどんな凄い馬になっていたのか。それはもう知る由もありません。本当にその早過ぎる死が残念でなりません。
競走馬として、繁殖牝馬としてベガのその秘めたるポテンシャルを計り知ることはできませんでした。今なお輝き続ける1等星・ベガの血をこの先も絶やすことなく受け継いでいって欲しいと願わずにはいられません。