ミドルエッジの読者世代なら誰もが日々触れて育ったのが作曲家・小林亜星さんの制作された楽曲。歌謡曲はじめCMソング、子供向けの歌、特撮アニメの歌とその作品ジャンルは多岐にわたります。
2019年8月7日、それらの楽曲がCDアルバム『小んなうた 亞んなうた 〜小林亜星 楽曲全集〜』として、日本コロムビアから4タイトル同時発売となりました。
この発売を記念して、ミドルエッジ編集部(ミド編)は小林亜星さんにインタビューの機会をいただきました。
ついつい口ずさんでしまったCMソングからいまでも歌えるアニメ主題歌まで、私たちを楽しませてくれた楽曲の数々を生み出した小林亜星さんの音楽のルーツに迫ります!
作曲家・小林亜星さん

それでは、小林亜星さんのインタビュー記事をご覧ください!
-元々大学では医学部に進み 医者を志すはずだった小林亜星さん。
どのようにして音楽と出会い作曲家の道を志したのか、幼少期の頃からお聞かせください。
音楽との出会いは5歳の頃。当時、日本で初めてのジャズ音楽でコロムビアから発売された「アラビヤの唄」を聴いて夢中になりました。
戦時中は長野に集団疎開しましたが、まわりに何も娯楽がないものですからハモニカを吹いては同級生に聴かせていましたね。戦後は進駐軍向けのラジオ放送(FEN:極東放送網)が始まって、そこで再びジャズ音楽にのめりこんだんです。
戦前にもジャズレコードはありましたが、戦争の間にアメリカではジャズが随分と進化を遂げていたんですね。レス・ブラウンの「センチメンタル・ジャーニー」を聴いてたまげたものです。
-戦前と戦後でアメリカのジャズ音楽が全く変わっていた、というお話は初めてです。
戦後は慶應義塾普通部(男子中学校)に進まれていましたが、当時は楽器なども演奏されていましたか?
今でいう中学1、2年の頃ですかね。当時はまだハモニカしか吹けませんでしたが、慶応の同級生とスチールギターを自作してバンド活動を始めていました。
当時、新橋のガード下には進駐軍向けのクラブ「ニッカポッカ」があって、出演したことがあります。これが非常にウケたのですが先生に見つかって停学になったりしましたね(笑。
-慶應義塾高等学校に進まれましたが、やはり音楽の道にのめりこんでいくことに?
中学の頃のギターは父親に止められてしまいました、真面目に勉強しろと。そしてそのまま慶応義塾高校に進むのですが高校の第1期生だったんです、つまり先輩がいない。
すると高校の先生から「声が低い」という理由でコーラスに誘われるんです。1年生だとまだ声変わりの最中ですから、声が低いのがいなかったんですね。それでコーラスを始めたら今度は譜面が読めるようになってクラシックが楽しくなってしまった(笑。
日本を代表する作曲家になる人物が同じクラスに3人
高校で同じH組のクラスメイトには、クラシック音楽の林光と電子音楽の冨田勲がいたんです。
-林光さんはクラシック、冨田勲さんはシンセサイザー。ジャンルは異なれどいずれも日本を代表する作曲家です。
そうなんです。当時は、放課後になると毎日のように音楽談義。でも3人とも志すジャンル違うから喧嘩にならなかった(笑。
-大学では医学部に進まれました。
医学部に入って大学一年のときには朝鮮戦争が始まってしまいました。すると戦争に赴いてくる人たちのために(息抜きの)クラブがたくさん出来たんですね。だけど音楽を演奏出来る人が足りないもので、ビブラホンを演奏してバンド活動を始めたんです。
当時、横浜の「WAC(Woman's Army Club)」という看護師さんや将校の奥さんが集まるクラブでバンドをやっていました(学校もいかないで)。
「1001(センイチ)」というアメリカのスタンダード・ナンバーを記した譜面集(海賊版)が闇市で売っていて、それを手に入れて教科書代わりに丸暗記していました。クラブで一晩演奏すると3,000円。当時の初任給が8,500円ですからずいぶんといいお金になりました(笑。
バンドにのめりこんでしまったものだから大学は途中で医学部から経済学部に転部してしまって、それはもう父親をガッカリさせてしまいました。
卒業後、就職するも…
卒業後は紙の会社に営業で入りました。営業とはいっても当時は紙がまったく足りない時代で、断るのが営業といった感じで。
ところがそこで「自分が好きなことと真剣に向き合わないといけない」と気付くんです。
そこでやっぱり自分には音楽だと。
服部正先生に師事
当時、NHKの連続ドラマや映画音楽をやっていた服部正先生に弟子入りしました。弟子入りの時は本屋で住所録を調べて訪ねて行って、自分の曲を収めたテープと譜面を置いて行きまして、1週間後に連絡をいただきました。
服部先生からは音楽の基礎を教わったり勉強すべき本を教えていただきましたが、何よりも音楽の道を志すうえでの心構えを教わったことが大きかったです。
「アーティスト(芸術家)という言葉は、決して自分で口にすべき言葉ではない。他人が呼んでくれる言葉である。」と。
-いまはアーティストやタレントという言葉がとてもカジュアルに用いられている気がします。
当たり前の基本がきちんと出来た上で、まずは技術を磨いて職人になる。技術の裏付けがあった上に自らの感性をのせて、それが評価されたときに芸術家(アーティスト)と呼ばれるんですね。

音楽家としての心構え
NHKで楽曲アレンジの仕事から始まった
NHKでまず音楽部のアレンジの仕事をやらせていただいて。しばらくしてTBSでもアレンジャーの仕事を始めました。そのうち「夜のしらべ」という番組でクラシックをポップスに自由にアレンジさせていただいて。
ここでアレンジャーとしてのキャリアは最高峰になるんですけれど、そのままアレンジャーになる気は無かったんです。アレンジは論理的な左脳を使うんで、そればかりになるとメロディを生み出す右脳が駄目になっちゃうんです。
逆もまた然りで、右脳ばかりを使っていると左脳が駄目になっちゃいます。ではどちらも出来るバランスのいい人間がいるだろうと考えて、自分は作曲家になろうと思いました。
アレンジの仕事を全て辞めて作曲家の道へ
アレンジの仕事を辞めても、有難いことにいろんな人から作曲の仕事をいただけるようになりました。
これは今回のCDアルバムについてもいえることなのですが、作曲も歌によって創り方が異なるんです。例えばCM(コマーシャルソング)ならメロディ、歌詞、歌い手を選ぶところ全てが自分の責任で、歌を聴いた人が商品を買ってくれたり商品名を覚えてくれないといけない。
これが流行り歌(歌謡曲)となると歌い手、作詞家、プロデューサーにディレクター、アレンジャーと複数のセクションとの共同作業。それぞれのパートで満点の仕事が出来た時にはじめて歌がヒットするんです。
-数多くのCMソングでも、私たちの世代では「この木なんの木」が非常に印象深いです。
日立の「この木なんの木」は商品名も企業名もないですからね。
広告代理店の意見もあるだろうけどCMソングの場合には必ず経営者、社長と仲良くならないと良いものができない。社長が何を大事にしているかが大事です。
「この木なんの木」では、当時日立の三代目社長と親交を深めてその意を汲み取って。そうでなければあんな大胆なCMは創れませんでした。
作詞家・阿久悠さんとの思い出
-先日、阿久悠さんの長男・深田太郎さんを取材させていただきました。
歌においては作曲家とタッグを組む作詞家の巨人であった阿久悠さんですが、小林亜星さんの目にはどう映っていましたか?
阿久悠の長男・深田太郎がエッセイ『「歌だけが残る」と、あなたは言った――わが父、阿久悠』を刊行! - Middle Edge(ミドルエッジ)
初めて阿久さんにお会いしたのはコロムビアのスタジオでしたね。マネージャーさんに紹介されまして。
当時、”貴女に抱かれて私は蝶になる~”という「白い蝶のサンバ」がヒットしていました。その詞を書いた方だと思って挨拶したのを憶えています。第一印象は顔の怖い人だなと(笑、実際は全然怖くなかったですけどね。
カップヌードルのCMで初めて一緒に仕事をしました。それからは親しく飲む間柄になって、赤坂でよくご一緒していましたね。あるときは二人で作品を創ろうということで伊豆の温泉にひと月合宿したのですが、実際は二人で飲んでるだけで何もせずに帰ってきた事もありました(笑。
「昭和の親父」を印象付けたドラマ「寺内貫太郎一家」
-話が変わってしまうのですが、ドラマ「寺内貫太郎一家」に主演。西城秀樹さんとの激しい親子喧嘩など、昭和の頑固親父を印象付けるドラマでした。
その頃はTBSでドラマ番組の音楽を3つ任されていました、時代劇や現代劇など。それでドラマ班の人とは仲が良かったんです。
あのドラマでは太ってて貫禄のある俳優が求められたもので、高木ブーさんやフランキー堺に声がかかったんですがスケジュールが合わず、それで急に白羽の矢が立ったというわけです(笑。
脚本の向田さんには「あんなスケベそうな人嫌だわ」と言われたのですが、床屋で頭を坊主にしたら気に入られて。演技に関してはド素人だから、稽古しようにも大して効果はないのかなと居直っていましたよ(笑。
今回発売のCDアルバムについて
-いろいろと質問させていただきましたが、今回のCD4シリーズは「歌謡曲」「コマーシャルソング」「こどものうた」「アニメ・特撮主題歌」と区分されました。それぞれのジャンルで異なる作曲手法を用いたのでしょうか?
振り返って各ジャンルで創り方が異なるのは事実ですが、いざ作曲をするときには結局目の前の作品に集中しているんです。これは毎回違うことを考えないと出来なくて「こう考えれば大丈夫」というものはないんですね。
-今回は子供向けだからこう創ろう、というのではなく?
そうですね。そうじゃないとみんな似てきちゃうもんね。
『小んなうた 亞んなうた 〜小林亜星 楽曲全集〜』
最後に、これから音楽を志す若い人たちに向けて
「音楽は感性だけで創るもんじゃないよ。勉強しないと、研究なくして良いものは生れないんだから。」
と仰った小林亜星さん。
御年87歳、まだまだ元気に日本の音楽シーンを見守っていただけたらと思います。
