70年代阪急黄金時代を牽引した、ほまれ高き日本人は最強助っ人【ボビー・マルカーノ】

70年代阪急黄金時代を牽引した、ほまれ高き日本人は最強助っ人【ボビー・マルカーノ】

1975年にベネズエラからやってきた浅黒く精悍な体つき、強肩で守備範囲も広い愛称”ボビー”で慕われた助っ人外人選手ボビー・マルカーノ。入団時から中心選手として大活躍をしました。晩年はヤクルトへ移籍しましたが、引退後は巨人でルイス・サンチェの通訳として2年間活躍していましたが、39歳の若さで肺がんが原因でこの世を去りました。


阪急黄金時代の助っ人ボビー・マルカーノ

ボビー・マルカーノってどんな選手

ボビー・マルカーノ
1951年6月7日生まれ
177cm 75Kg
右投げ右打ち
ポジション 二塁手

ボビー・マルカーノはベネズエラのカラカス高から地元球団に入団後、1969年にシンシナティ・レッズに入団しました。3Aのチームを渡り歩き、1974年にエンゼルス傘下の3Aソルトレイクシティで3割2分4厘、12本塁打、91打点の成績を残しいよいよ大リーグへ昇格か、と期待に胸を膨らませていたが、球団から通告されたのは「メキシカンリーグか日本の阪急ブレーブスのどちらに行くか」と言われました。

なぜ、阪急ブレーブスがここで出てきたのか。実は当時阪急ブレーブスの上田監督が広島時代の同僚でエンゼルスのスカウトをしていたフィーバー平山に助っ人を探してもらっていた。そこで白羽の矢が立ったのがボビー・マルカーノでした。

エンゼルス球団は阪急ブレーブスからのトレードマネー欲しさに、ボビー・マルカーノが選択しないメキシカンリーグを持ち出し、阪急ブレーブスを選択せざるえない状況をつくった。ボビー・マルカーノは不服ながら、阪急ブレーブスの年俸750万円に惹かれ承諾した。3A時代の年俸は330万円で倍以上の年俸はすでに結婚していた妻の兄弟たちを養うために必要でした。

23歳で異国の地日本で野球をすることになったボビー・マルカーノはみんなに愛され「ボビー」の愛称で呼ばれました。ボビーは1年目から6番セカンドで出場し、大活躍しました。2割9分8厘と惜しくも3割には届きませんでしたが、23本塁打を記録し、ベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞(現在はゴールデングラブ賞)を獲得し、パリーグ前期優勝に貢献しました。

さらにパリーグプレーオフでは、プレーオフ首位打者と優秀選手を獲得し、3勝1敗で後期優勝の近鉄バファローズを破りパリーグ優勝にも貢献しました。日本シリーズに挑んだ阪急ブレーブスは、セリーグ初優勝の広島カープを相手に4勝0敗2引き分けと圧倒的な強さで優勝しました。

プロでの成績

プロ生活(日本球界):11年
試合数:1313試合
通算打率:.287
打数:4938打数
安打数:1418安打
本塁打:232本
打点:817打点

主なタイトル
打点王1回(1978年)
ベストナイン4回(1975,77,78,79年)
ダイヤモンドグラブ賞(1975,76,78,79年)
日本シリーズ技能賞1回(1976年)

阪急ブレーブスの中心選手として日本人のような助っ人

ボビー・マルカーノは1976年では4番長池の後の5番を打ち、2割7分1厘、25本塁打、64打点と活躍しパリーグ2連覇、そして日本シリーズでは長嶋ジャイアンツと対戦し、4勝3敗と2年連続日本一と貢献しました。

1977年も5番を打ち、パリーグ3連覇に貢献し、日本シリーズでは再び長嶋ジャイアンツと戦い4勝1敗で破り日本一3連覇を達成しました。1978年4年目のシーズンでは、パリーグ前期優勝に貢献し、さらに完全優勝を狙った最後の近鉄との一戦で近鉄のエース鈴木啓示からボビー・マルカーノは2ランホームランを放ち、マジック1とし、次戦勝利し、完全優勝を決めパリーグ4連覇を決めました。この年ボビー・マルカーノは94打点をあげて打点王を獲得しました。

1978年の日本シリーズは日本一4連覇を目指し初優勝を目指すヤクルトスワローズと対戦しました。この年ヤクルトの本拠地である神宮球場は大学野球があったために、ホームゲームは後楽園球場で行われました。3勝3敗で第7戦は後楽園球場で行われました。この試合には世紀の中断がありました。ヤクルト大杉のホームランがポールの外だからファールと上田監督は1時間19分の抗議を行いました。結局阪急ブレーブスは0対4で敗れ4連覇は達成できませんでした。

阪急ブレーブスには福本、蓑田、長池、山田、加藤など好選手が揃ったのもあるが、ボビー・マルカーノ入団と共に阪急黄金時代ができたと言っても過言ではないはずです。どうしてボビーはどうしてみんなに愛され、活躍することができたのでしょう。

ボビー・マルカーノは妻や家族を養わなければならない青年は、日本で成功するという単純な野望を抱き、他の助っ人選手とは違い、郷に入れば郷に従えと練習や調整など全てチームに従ってきました。イライラが溜まることもあったが、腹に収めることで、周りの日本人選手が助けてくれて、チームにいや、日本に順応し日本人以上に日本人らしい愛される選手となりました。

ヤクルトスワローズへの移籍

ボビー・マルカーノは1979年、1980年と85打点以上と活躍していたが、1981、82年は4番を打つが70打点は超えず力が衰えていったのは明らかであった。そして1982年のシーズンオフに阪急ブレーブスはブーマーを加入させることをきっかけにヤクルトスワローズへ移籍となりました。

1983年には5番セカンドで200本塁打を阪神タイガースの小林繁から放ちました。この年は25本塁打、78打点を記録しましたが、チームは最下位になりました。1984年には打率は3割に到達しましたが、本塁打数はわずか15本、チームは5位に甘んじました。1985年は95試合と出場試合も減り、打率は2割9分9厘と残しましたが、ヤクルトは開幕から最下位と低迷し、ボビー・マルカーノは自由契約となりました。

引退後のボビー・マルカーノ

なんとか1500本安打を達成したかったボビー・マルカーノでしたが82本足りず自由契約となり3球団目で彼を獲得するチームはありませんでした。引退後は、巨人軍が抑え投手サンチェの通訳として旧知の仲で、英語、スペイン語を話し、日本球界に精通するボビーを雇いました。
ボビーは通訳の傍らトレーニングを欠かさず、選手として雇って欲しいと売り込みは続けていました。サンチェは巨人に2年間在籍して帰国、同時にボビーも母国に帰国しました。この時ボビーは36歳でした。

残念なことに1990年11月13日、自宅でボビーは肺がんが原因で息をひきとりました。享年39歳と若すぎる死でした。ボビーはまた日本で仕事をしていたいと言っていましたが、ボビーの本当の夢は大リーグでプレーすることでした。その夢も叶うことなくこの世を去りました。

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