はじめに
今回まとめてみたのは、ハードボイルドなイメージのある俳優です。
皆さんにとっての昭和を代表するハードボイルドな俳優は、きっと誰もが憧れたことがあった方達だと思います。
それではさっそく生まれた年代順に見ていきたいと思います!
最後までお付き合いくださいね~(^^)/
石原裕次郎
お父様が亡くなったショックから自暴自棄になって遊びまわっていた石原裕次郎さん。その遊び方はハンパではなく、家から金目の物を持ち出しては換金し、その金で銀座などへ繰り出していたとか。
その様子を心配したお兄様の石原慎太郎さんが、石原裕次郎さんの映画出演を後押しして俳優としてデビューすることになります。しかし、初めて日活撮影所に行った時は素肌にヨット・パーカーを羽織り、海水パンツにゴム草履履きといったいでたちだったそうです(笑)初めから大物だったのが判りますね!
また、石原裕次郎さんは相当なチェーンスモーカーであり、また大病を患う前は休暇中に朝食でビールを飲むほどの酒豪で、撮影所には「ビールは酒ではない、水である」という名分で冷蔵庫が置かれていたそうです(^_^)
今では当たり前の様になっているお正月ハワイですが、もともとは石原裕次郎さんが毎年正月に石原プロモーション所属俳優や交友のある有名人とともにハワイで過ごすことを恒例としたことが先駆けでした。
とにかく大物だった石原裕次郎さん。エピソードも豪快ですね(^^)/
原田芳雄
デビュー当時は純朴な青年風なイメージだったのですが、その後浅黒いワイルドなアウトロー風イメージへと変換を図り、その風貌を印象づけていった原田芳雄さん。若手の俳優達に多大なる影響を与え尊敬された人物でもあり、あの松田優作さんも仕種や台詞廻しに影響を受け、一時期はその一挙手一投足を研究し、模倣したとも言われています。
末期癌のなか、その辛い身体をおして仕事に臨んでいた姿には目頭が熱くなるものがありました。
ちなみに、原田芳雄さんは大の鉄道ファンであり、タモリさんとも鉄道の話題で大変盛り上がってました。鉄道模型の趣味については、かつて高価だったHOゲージ(16番ゲージ)の車両(国鉄80系電車)を自分の身の回りにあるものを駆使して作り上げたことから始まったそうです。
自分で作り上げてしまうくらいの情熱が素晴らしいですよね(^^)/
とにかく渋い役者さんでした。
松田優作
若き頃に黒澤明監督の自宅を訪問し、3日間座り込んで弟子入りを迫ったエピソードはあまりにも有名ですね。しかし、3日経っても黒澤明監督に会う事は出来なかったといいます。
後に松田優作さんは、「俺は一生かかっても必ず有名になってみせる。だが有名になっても黒澤監督の映画にだけは決して出んからな」と語っていたそうです。
自分が売れないのは一重瞼のせいだと思い二重の手術を受けています。その時、抜糸にもお金がかかると思っていた松田優作さんは、鏡を見ながら自分で抜糸を行ったとか。そのせいで後々まで痕が残ってしまったといいます。
原田芳雄さんを敬愛していた松田優作さんは、相当慕っていたそうで自宅も原田芳雄さんの隣に構えるほどでした。目標となる方をしっかり見据えているところが、松田優作さんの素晴らしいところだったのではないでしょうか?
尚、麻雀が非常に強かったそうで、負けた事はほとんどなかったと関係者が語っています。
松田優作さんは若くして亡くなられていますが、まさに語り継がれる伝説の俳優でした。
萩原健一
ご自身でも語っていたのは「ジェットコースターの様な人生だった」ということです。
大麻不法所持、2度の交通事故、恐喝未遂などで逮捕され、数々の女性と関係を持ち、そういった不祥事や女性問題が相次ぐ中、俳優としては素晴らしい評価を受けていた萩原健一さん。
やはり萩原健一さんといえば『太陽にほえろ!』の初代新人刑事マカロニでしょうか(^^)/
マカロニが殉職するシーンは、それはそれは見応えのあるシーンだったと思います。
歌手としても大活躍だったのは勿論ですが、やはり俳優としての萩原健一さんの功績が際立っている様に思います。
今までがジェットコースターの様な人生だった分、今後はメリーゴーランドの様な人生を送りたいと語っていましたね。
とはいえ、また萩原健一さんのピカイチな演技が見たいですね!