1981年から続くボクシングの名門ワタナベボクシングジム。
2018年時点の同ジムのパンフレットによれば世界、東洋太平洋、日本、男女合わせて15人の王者が在籍。複数タイトルを持つチャンピオンもいるため、その保有タイトル数は12を数えます。

ボクシングの名門「ワタナベボクシングジム」
同ジムに所属する船井龍一選手(1985年8月31日生まれ)もその一人。第39代日本スーパーフライ級王者(2017年3月22日戴冠)にしてWBOアジアパシフィック・スーパーフライ級王者(2018年6月14日戴冠)です。
次なる高みは世界戦!
ミドルエッジ編集部(ミド編)は船井選手にインタビュー。
真面目な印象の船井選手に、その変わらぬボクシング愛を伺いました。
きっかけは「ガチンコファイトクラブ」

船井龍一選手
-船井選手は33歳。ミドルエッジの読者層からすると若い世代ですがボクシング選手としては長いキャリアでいらっしゃいます。ボクシングを志したのはいつ頃からだったのでしょう。
「ボクシングを始めたのは高校1年の夏でした。当時は高校生になってボクシングを習う人が多かったように思います。僕は中学3年生の時に”ガチンコファイトクラブ(TBS)”を見たのがきっかけです。
番組はヤンキーがプロボクサーになる内容でしたが僕はプロボクサー=世界チャンピオンと思い込んでて『そんな簡単になれるのか?』って思いながら番組を見てました。見ながら『あ、プロボクサー=世界チャンピオンじゃないんだ』と気が付きましたけど(笑。
竹原慎二さんの広島弁怖いな~って思いながらボクシングというスポーツを知ったんです。しばらくして、畑山隆則さんと坂本博之さんの日本人同士の世界戦があって
※2000年10月11日 WBA世界ライト級タイトルマッチ 畑山隆則(王者)×坂本博之(挑戦者)
それを見て『ああ、ボクシングってカッコいい!』と思うようになりました。」
「小学校ではバスケットボールをやっていたんですが団体戦がすごく苦手で。集団の中でどう動いていいかわからなくてレギュラーにもなれず悔しい思いをしていた時に、スケートボードを趣味で始めたんですよ。」
-スケボー!バスケットにスケボーというと、当時のアーバンな若者を思い出しますね(笑。
「バスケットする人ってスケボー好きな人も多かったんです。僕も仲間と一緒に始めました。そしたら複数でやるバスケットより個人でやるスケボーの方が居心地がよくて。
『個人スポーツの方がいいな』って思っていた時にガチンコファイトクラブを見て、ボクシングにすごく興味が出て。高校に入ったらアルバイトでお金をためてボクシングジムに入りたいと思うようになったんです。
都立港工高(現・都立六郷工科高)に入ったらたまたまボクシングをやっている同級生がいて、その同級生に相談したんです。そしたら彼が『お前ん家の近くにワタナベボクシングジムがあるよ』と教えてくれたので、高校1年からワタナベボクシングジムに通うこととなりました。」
ワタナベボクシングジムに通い始めてからはボクシング一色の生活となった船井選手。
プロデビューは高校卒業後、19歳の頃でした。
-プロになる前、船井選手はアマチュアでも8戦を戦いました。アマチュアでオリンピックを目指す、プロになる。いずれに進みたいという考えがあったんですか?
「いやそれがそういう訳ではなくて。元来、自分自身に自信が持てず積極性も無い、そんな劣等感があったんですよ。だからボクシングは『強くなりたい』一心で始めたんです。」
「きっかけはガチンコファイトクラブですが、別にヤンキーだったわけでもなくて高校3年間はボクシングに打ち込みました。アマチュアでの8戦ですが戦績は4勝4敗、弱かったんですよ(笑。最初はただ興味があって始めたくらいですから体も細くて、でも『強い人になりたい』という憧れがあったから続けられたんです。」
ターニングポイントとなった高校卒業後の一年間
-高校1年からボクシングを始めて高校3年間はボクシングに打ち込み、19歳で見事プロデビューしました。
「実は高校卒業後に一度就職したんです。本当に弱かったし、自分に自信もなかったので…。」
-え!プロデビューした年ですよね?
「はい。ボクサーとしてチャンピオンになれる人はほんの一握りだし、自分なんか絶対に無理だと思っていました。高校卒業後は就職するか調理師専門学校に行くかで悩んでいたんです。でも、自分の周りにいるみんなが就職すると言うので、その流れに身を任せてしまったところがありました。」
-え!調理師専門学校??
調理師専門学校とガチンコファイトクラブ、あまりにもイメージのかけ離れた単語の登場に思わず聞き直してしまったミド編。
「はい(笑。でも結局就職をして、そこで一度ボクシングから離れました。
就職した会社での仕事は冷凍肉を倉庫に入れる作業だったんですが、毎日この同じ作業をしていたら『このまま死んでいくのか』『この仕事をするために俺は生きてきたのか?』と思うようになっちゃいまして(笑。
自分は何をやりたいのかと考えたら、やっぱりボクシングなんですよ。弱かったからボクシングをあきらめて就職したけれどやっぱり何か違う。こんな人生じゃないと。」
-社会に出てみて、真剣に自分と向き合うことになったんですね。ということはその仕事は…?
「3ヵ月で辞めました。そして再び実家からワタナベボクシングジムに通うようになり、アルバイトをしながらプロボクサーを目指す生活を始めました。」
プロテストに合格!デビュー戦にも勝利!!
3ヵ月の社会人生活を終え、プロボクサーを目指す生活を始めて6か月。
この年の12月、船井選手は見事プロテストに合格!
翌年の2月14日には、待望のプロデビュー戦を迎えることとなりました。
-ガチンコファイトクラブから始まったボクシング生活、ついにプロのリングに立つことが出来ました。
「それが本当にややこしいんですけど、実は19歳でプロテストに受かって翌年2月14日にデビュー戦をしたんですが、その翌月には調理師専門学校に入学しているんです。」
-え!調理師専門学校??(二度目)
「はい。高校卒業の時に就職か調理師専門学校で悩んだとお話ししましたが、その学校にも行きたくて、親に相談して入学試験を受けていたんです。
同じ時期にボクシングのプロテストも受けて合格しました。でも親からは入学したらボクシングは辞めるように言われまして。だから3月の入学前にデビュー戦を行ったんですよ。
デビュー戦を終えたら本当にリングを降りて調理師になるつもりでした。でも試合で勝利したんです!そしたら友達は『お前すげーな!』とか言ってくれて。それが嬉しくて、親にボクシングも続けたいと伝えました。だからまず調理師専門学校に1年間通い、卒業後にボクサー生活に戻ったんですよ。」
-ということは18歳で高校を卒業して就職、3ヵ月で退職してその年の12月にプロテスト合格。2ヵ月後にデビュー戦をして翌3月に調理師専門学校に入学!この年はまさしくターニングポイントだったのかもしれませんね。
「そうかもしれません、でもこれも一度働いた経験があったからなんですよ。働いてみて『この人生は送りたくない』と思ったからです。何かを残したいと思ったんです。例えば調理だったら美味しい料理でみんなを喜ばせたい。人に何かを与えることができる仕事に就きたいと思ったんですよね。
ボクシングと調理師専門学校、両方が大事でしたけれどもデビュー戦が決まって試合をするまでは、気持ちをボクシング一色に切り替えていました。そして試合を終えた後は気持ちを切り替えて学校に入学し、1年間通って調理師の資格を取りました。
通学している間もプロボクサーの資格は更新していたので、調理師専門学校卒業後には再びプロとして、調理師の資格を活かしたアルバイトで生計を建てながらボクシング中心の生活に戻ったんです。」
強いボクサーになるために大切だった20代
-調理師専門学校を卒業、再びプロボクサーとして高みを目指す日々が始まりました。
「日々の生活ということでは、毎日アルバイトが終わったら所属先のワタナベボクシングジムに行って…という生活ですね。
アルバイトはシフトに入らないとお金にならないし、20代当初はボクサーとしての稼ぎもなかったからアルバイトのシフトをかなり入れていたんです。だから『どっちが生活のメインなんだよ?』『本当にやりたい事はどっちなんだ?』と自問自答してしまう時もあってそれは辛かったですね。」
-船井選手はデビュー直後からの華々しいキャリア、という言い方よりも長く積み上げてきたものがいよいよ結実してきた、という言い方が出来るかと思います。デビューから14年、その間に道に迷うことはありませんでしたか?
「それは何回もありました。僕はプロ4回戦目の時に3敗していて…チャンピオンになるような選手は4回戦の時に3敗もしないし負けていないんです。しかも自分はまだまだ体も弱くて。『もうプロではやっていけないのかな』と思った事もあります。
でもリングに上がって応援してもらったり、試合を見に来てくれた人が『活力になったよ!』と言ってくれたりして。そういう声が嬉しくて、何だか本当に嬉しくて『続けたいな』って思うんです。それがあったから今日までずっと続けてこれました。」

好きなボクシングに夢中に打ち込んだ20代
「振り返るとあっという間の20代でしたね。周囲からは苦労しているように見えていたかもしれませんが自分は一瞬一瞬、一戦一戦すべて本気で取り組んできただけで苦労とは思わなかったです。
本当に大好きなボクシングをずっとやってきた20代。だから辞めるという選択はしなかった。自分は本当に弱かったんで強くなるには時間が必要だったんです。だから、今自分は7敗していますが、敗けている期間も自分にはとても重要でそれがあったから30代でチャンピオンになれたんだと思っています。」
リング上で親友と対峙、開眼した闘争心
-船井選手が仰る「弱さ」とは体力面、精神面いずれのことだったのでしょう。長くプロボクサーであり続けるための努力を続けてきたという点では、むしろ強いという印象を抱くのですが。
「そうですね…気持ちが弱かったんですよね。精神力はあったと思いますし練習もしていますが自信が無い。気持ちが弱かったと思います。」
-気持ちというのは「勝つための」気持ちでしょうか。
「はい。勝ちに貪欲になり切れていなかったんです。今は強くなれたと思うのですが、それも最近の事なんですよ。2016年に大阪でタイトルマッチがあって、僕は挑戦に失敗しています。
※2016年4月17日 日本スーパーフライ級タイトルマッチ 石井匠(王者)×船井龍一(挑戦者)
この試合は自分が優勢だったのですが、途中で相手選手が出血しました。それはパンチで切れたものだったのですが、パンチで切れると試合がストップになった時に僕の勝ちとなり、頭で切れた場合は判定になった時どちらが勝つかわからないんですね。
その時、パンチで切れたと言われたのに自分は『頭が当たった』と思っちゃって、試合中にもかかわらず相手選手に気の毒な気持ちになってしまって。そうしたらその気持ちが消えなくて、試合に判定で敗けて。その時『あーもう、本当に気持ち弱いな』って自分で自分が嫌いになってしまいました。」
親友との運命の対戦
「敗戦後もジムには通っていたのですが、その時に担当トレーナーさんが『お前まだ引退するなよ』と話しかけてくれてマンツーマンで指導をしてくれました。
情けない敗け方をした自分に期待をしてくれていることが嬉しくて沈んだ気持ちも浮上し、その後に2戦行いました。その次にまたタイトルマッチが決まったんです。
※2017年3月22日 日本スーパーフライ級タイトルマッチ
その相手が、僕がボクシングを始めるきっかけとなった高校ボクシング部の友人、中川健太選手(レイスポーツ)だったんです。」
-それはドラマチックな展開ですね!漫画のような、本当にそういうことがあるんですね!!
「はい。でも最初は本当に嫌でした、大親友ですから。中川選手とはジムは違うけど同じ世界にいて互いを応援しあう仲なんです。それに中川選手は一度引退していたんです。でも僕の試合を見て『あんなに弱かったお前がこんなに頑張っているから、俺も頑張る』と言ってくれて6年ぶりに復帰したんです。そして2016年にはチャンピオンに昇り詰めて。
そんなチャンピオンの中川選手に僕が挑戦することになったから、気持ち的には本当に嫌だったんです。けれど大阪の試合で自分は気持ちが弱い事に気が付いたから『ここで強い気持ちを出せないようなら自分は今後絶対チャンピオンにはなれない』と思ったんです。
なので、挑戦を決めてからは葛藤はありつつも相手を殺すくらいの気持ちをもって試合に挑みました。そうしたら何とか勝てて、そこからです。『中川にこれくらいの気持ちが持てるようだったら、他の誰に対してももっと強い気持ちでいける!』と。そこから自分は変わった気がします。チャンピオンとしても。」
-闘争心のスイッチが入った、と。ボクサーとしての大きなターニングポイントだったのですね。中川選手との対戦は31歳の時ですから「遅咲き」なのかもしれませんが、ひとつ高いステージに立つことが出来ました。この先の展望についてはどのようにお考えですか?
「中川選手のおかげで自分はここまで来れました。あの試合の後は勝てているので、これも本当に気持ちが強くなったからだと思っています。
プライベートではその頃に結婚もしまして、それもターニングポイントの一つだったと思います。身体のピークは36歳くらいかなと思っているので、あと2~3年は本気で頑張ります。」
船井龍一2回TKO勝ちで世界初挑戦へ「出来過ぎ」 - ボクシング : 日刊スポーツ
「闘争心が弱かったのは、それはボクサーとして不向きな優しさの表れだったのかもしれませんが、今までそれに気が付くことが出来ませんでした。それを気付かせてくれたのは同じジムの田口良一選手(第35代日本ライトフライ級王者(2013年4月3日戴冠)、第29代WBA世界ライトフライ級王者(2014年12月31日戴冠)、第23代IBF世界ライトフライ級王者(2017年12月31日戴冠))です。
田口くんは普段はホンワカしているんですが、リングに上がった時に目つきが変わるんです。後援者の方が『リングに上がると人殺しの目をする』と評しておられましたが、本当にそうだと思います。それまでの自分にはそれが無かったから大阪でのタイトルマッチに敗けたんだなと気が付けまして『自分もあの目をするんだ!』と思いましたね。リングの上では別人になる感覚です。今はそれができるようになりました。トランクスを履いて、ガウンを着たらそのスイッチが入る感じになります。」
ワタナベボクシングジムの系譜
-ワタナベボクシングジムは船井選手が仰るところの「強い」選手が大勢いると思うのですが、その方たちの影響はありましたか?
「それはありますね。世界チャンピオンの内山高志さん(第39代WBA世界スーパーフェザー級王者(2010年1月11日戴冠)、第35代OPBF東洋太平洋スーパーフェザー級王者(2007年9月8日戴冠))が、本当に誰よりも練習されてるんです。内山さんがジムに来られたら時からジムの空気がピリッとしますし、一緒に合宿に連れていってくださった事があるのですが『こんなに走るんだ!?』ってくらい走るんです。これくらい練習しないとチャンピオンにはなれないんだと、肌で感じることが出来ました。
そういう練習に対しての影響に加えて、大阪での敗戦と中川選手とのタイトルマッチを通して試合中の気持ちの重要さに気が付きました。普段の生活でもボクシングの事を考える時間が増えました。チャンピオンとしての責任感もありますし。そして何より応援してくれる皆さんに、また勝つ姿を見せたいという気持ちが強くなりました。」
-調理師を目指した頃の「人を喜ばせたい」という気持ちが今も。
「そうですね。もちろん自分が勝って喜びたいのもありますが、有名になりたいというより応援してくれる人たちと一緒に上のステージに行きたいんです。」
共感をチカラに
―ミドルエッジの読者層は親もいれば子もいて、自分本位の生活は後回しにすることも多い世代です。だから船井選手のように周りにも配慮されながらそれをエネルギーにして頑張る姿には共感すると思うのです。世界戦、応援しております。最後になりますが、そういえば調理のほうはその後…?
「家で作るくらいですね。趣味でカレーが大好きで将来はカレー屋を開きたいくらいなんです。だから自分でスパイスから何から用意して作っています。奥さんに食べてもらうんですが、けっこうシビアな感想が来ますよ(笑。あと、プリンも大好きなので、カレー屋でプリンも出したいですね。
今思えばですが、バスケをやる前はお笑い芸人に憧れていました(笑、結構ミーハーで中学の頃はギターもやってました。調理師専門学校に在学中も学校の仲間とバンドを組んで、当時流行っていたドラマ「NANA」の曲をライブで1回やってバンド解散しましたね。」
-え、あの濃厚な1年の間にバンドもされていたんですか!?
「はい(笑、よくよく思い出せばやりたいと思ったことはだいたいやってきてますね。シャイな性格なんですが目立ちたがりでもあるんですよ(笑。」
-本当に色々とドラマチックですね。ここまで来たら次は更に大きなタイトルを獲って上のステージに進んで多くの人の期待を喜びに変える…それを楽しみにしております!!