オフコースって「5人時代」「4人時代」が有名ですが…
「さよなら」「言葉にできない」「愛を止めないで」などのヒット曲で有名なオフコース。小田和正が所属していたグループとしてもあまりにも有名です。ミドルエッジ世代の皆さんが彼らを思い出すとき、「5人編成」もしくは「4人編成」の姿を思い浮かべると思いますが、実は彼らはメンバーチェンジを繰り返しておりデビュー時は3人編成でした。この記事では、3人編成だった時代のオフコースについて書いてみたいと思います。


とはいえ元々は「4人組」でした。
オフコースの原型は、1964年に神奈川県横浜市の聖光学院高校に在籍していた小田和正、鈴木康博、地主道夫、須藤尊史の4人が結成したグループで、文化祭で音楽を披露する目的で結成されました。

1967年、小田・鈴木・地主の3人がオフ・コースを名乗り始める!
高校卒業後、小田は東北大学に、鈴木は東京工業大学にそれぞれ進学。離れ離れになったものの、その後も活動は継続していました。そして1967年、須藤を除く小田・鈴木・地主の3人は“THE OFF? COURSE”と名乗り始めます。この名前は、聖光野球部OB会“オフコース (OF COURSE)”から取ったものです。

1969年、大学4年生になっていた彼らは社会人になる前の記念にと第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに出場。予選を順調に勝ち抜き、グランプリ大会では第2位を獲得しました。2位でも凄いことなのですが、ここで1位を取れなかった(ちなみに1位は「赤い鳥」でした)ことが彼らに音楽の世界に留まる決断をさせます。

1970年、「群衆の中で」でデビュー!!
1970年4月5日、小田・鈴木・地主の3人は東芝音楽工業よりシングル「群衆の中で」でデビューを飾ります。当時のグループ名は「ジ・オフ・コース」。作詞は当時の売れっ子作家・山上路夫、作曲はベティ・ディーンのペンによるフォークソングで、オリジナル曲ではありませんでした。レコーディングでも演奏はスタジオミュージシャンが行い、本人たちは歌唱のみでした。


小林和行が加入、地主道夫が脱退。
シングル「群衆の中で」でデビューはしたものの、売上は低迷し世間の注目を浴びることはありませんでした。そんな中、聖光学院の後輩であった小林和行がベースとして加入、4人編成となります。しかしその直後、今度は地主道夫が建築の道を志すために脱退(後に竹中工務店に入社)。再び3人編成となります。


一時的にまた4人組に、そして2人組時代が続いていきます…
1972年、今度は小田・鈴木・小林の3人編成に当時彼らのマネージャーであった吉田浩二を加えた4人編成で、シングル「おさらば」を発表しました。この曲からようやく「オフ・コース」名義が始まります。ちなみに吉田は、第1回東京音楽祭出演のために助っ人として加入しており、1972年5月13日に加入、5月19日に脱退とわずか6日間の在籍でした。加えて、小林も学業に専念するために脱退。以後、小田と鈴木の2人時代が長く続くこととなります。

たった二人になったオフコース。その後は…
小田、鈴木の二人となったオフコースですが、1973年にはファーストアルバム「オフ・コース1 ⁄ 僕の贈りもの」を発表。今までのシングルとは違い、このアルバムはオリジナル曲で占められていました。以後、オリジナル曲中心の音楽活動に移行した彼らは徐々に知名度を上げていき、サポートメンバーであった清水仁、大間ジロー、松尾一彦を加えた5人編成になってからはヒット曲を量産。日本を代表するバンドのひとつとなったのです。

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