増田恵子
どちらかと言えば、ピンク・レディー時代には、ミー派の方が多かったのではないでしょうか?勿論、当時からケイちゃんは美しかった!ファンも多かった!しかし、美しさが増すのはピンク・レディー解散後、ソロになってからのように思えます。
もっと早くに気付いておけばなぁ!

増田恵子
セクシーなケイちゃんに迫ってみます。
ピンク・レディー
ケイちゃんこと増田恵子を語るうえで、やはり避けては通れないのがピンク・レディーですね。増田恵子がピンク・レディーのケイとしてデビューしたのは1976年のことでした。

ピンク・レディー
ピンク・レディーは1976年8月に発売されたデビュー・シングル「ペッパー警部」がいきなり60万枚という大ヒットとなり、続く「S・O・S」、「カルメン'77」もオリコン1位を記録します。
更に1977年6月に発売された4枚目のシングル「渚のシンドバッド」は、ピンクレディーにとって初めてのミリオンセラーとなり、社会現象を巻き起こします。
その後もご存知のように「ウォンテッド(指名手配)」、「UFO」、「サウスポー」、「モンスター」と大ヒットを連発します。
ピンク・レディーの全盛期となると、1977~78年の2年間でしょう。
その後はアメリカ進出を果たすなどの活躍もありましたが、1980年9月1日に解散を発表します。そして2人はソロとして活動することになります。
ソロ
ピンク・レディー解散後にソロ歌手として、「すずめ」を発売します。これがケイちゃん人気と曲の良さもあり、26.7万枚という好セールスを記録します。
ソロ歌手として幸先の良いスタートを切った増田恵子は続く「ためらい(作詞・作曲:松任谷由実)」、更には「らせん階段(作詞・作曲:竹内まりや)」、「女優(作詞・作曲:桑田佳祐)」と立て続けにニューミュージック系のアーティストとコラボしていきます。
ただ、みんな良い曲だったのですが人気は徐々に低迷していき、1986年頃からは芸能活動はほぼ休業状態となってしまいます。
活路を見出す!ということだったのでしょう。1990年に入ると嬉しいことに増田恵子はセクシー路線に舵を切ります。もしかすると、元相方のミイちゃんが映画「コールガール」でヌードを披露していたことも影響していたのかもしれません。
セタナムール
1990年11月に「C'est un amour(セタナムール)」という写真集とビデオを発売します。これが、もう、ファンには嬉しい待ってましたと言いたい素晴らしい出来栄えなんです。

セタナムール―増田恵子写真集
ハードな内容ではありません。だからこそイイ!上品です。美しいです。何とも言えない色気が漂っています。大人のための写真集といった趣ですね。

セタナムール―増田恵子写真集
増田恵子はこの当時33歳ですかね。

セタナムール―増田恵子写真集
写真集には写真集の良さがありますから比較することは難しいのですが、写真集と同名のビデオ。これがまた捨てがたいといいますか、お宝ですね。
白の下着がセクシーです。今では、もう見ることは出来ないですねぇ。
いゃ、ケイちゃん頑張っていたんです。ではでは、更にセクシーな動画をお楽しみください。
この時期、もっと写真集とかイメージビデオとかバンバン出しておいてくれたら良かったのにと残念でなりませんが、これしかないんですよね。
ただ、翌年にはVシネマ「コードネームK レディ・コネクション」で主役を務めています。

コードネームK レディ・コネクション
水着のシーンですが、やっぱり美しいですねぇ。
この時期、Vシネマにもバンバン出演してくれていたら良かったのにと残念でなりませんが、これしかないんですよね。悔しいです。
次のVシネマへの出演は2002年の「難波金融伝ミナミの帝王19 闇の裁き」となり、現時点ではそれが最後となっています。
最近でもピンク・レディーを再結成するなどし、変わらぬ美貌で元気な姿を見せてくれている増田恵子ですが、人妻となったいまでは、セクシー映像を見ることは難しいでしょうね。