聞いたことあるでしょ「アローン・アゲイン」
1972年にリリースされたバラード曲。歌っているのはギルバート・オサリバン。
当時聞いたことがない人でも、
CMソングとか、1986年の映画「めぞん一刻」
2004年のTBS「ホームドラマ!」のオープニングタイトルで、
知っている人もいるかもしれませんね。
正確にはタイトルは「アローン・アゲイン(ナチュラリー)」
歌詞の最後のことばそのものです。
少しかすれたオサリバンの声と、歩く速さのこころよいテンポ、
セピア色めいた、哀愁のある、ノスタルジーあふれる曲想、
イージーリスニングに近い、やわらかく明るいバラードのようですが
実は歌詞はかなり暗くて重いです。
教会で花嫁を待っていたのにドタキャンされて
自殺しようとしている人間の歌なんです。
親が亡くなった時のこととかも思い出されて
「またひとりぼっちになっちゃたんだ」
そういう歌です(涙
こんな暗い暗い歌詞なのに、こんなにヒットしたのは
やっぱりこの曲がそれでもなお魅力的だったからでしょう。
改めて聴くと、メロディラインは淡々としていて、
サビで歌いあげるような節回しもないのに
聴いている人間のなかにひたひたとうちよせてくる
静かな湖の波のような曲だと思います。
ギルバート・オサリバンという人

Gilbert O'Sullivan
名前に「O'」が入るので、アイルランド系ですね。
「アローン・アゲイン」で親の死についての歌詞があって、
自分のことではないかと取りざたされたそうですが
オサリバンの父は11歳の時に亡くなっていて、また父親は母親につらく当たっていたらしく
自分のことを歌ったわけではないと、当時のライナーノーツに書いています。
13歳でアイルランドからイギリスに移住。
おそらく当時大ブームだったビートルズの影響も多分に受けていたでしょう。1960年中盤、美術大学在学中にバンド活動を始めます。
1969年にMAMレコードと契約、「Mikado」で有名なオペレッタの作曲チームGilbert & Sullivanから本名とかけて、Gilbert という芸名で、1970年に「ナッシング・ライムド」でデビューします。
イントロから切ないです~。
歌詞もかなり難解で抽象的。
「僕の心の中の感情は、僕を決して否定しない
良しとすることをあえて選んで悪くすることだってある
賭けで勝った金なんて身につかないってよく言うだろ
古いものも新しいものも得るものもない
生まれるものも失くすものもない」
サビの「Nothing~」と繰り返し歌うとこなんか
ある意味中二病か、とも思いますけどね。今から考えると。
若い、まだ20代のオサリバンが感じていた社会への憤りというか、
不安とか欺瞞とかがシニカルに出てますね。
でも
「Nothing I couldn't say
Nothing why 'cos today
Nothing rhymed」
(口に出せないものなどない
今日だから、というものもない
韻を踏んで詠うものも)
なんて歌詞を、韻を踏んで歌ってるんですよね(^^)

Nothing Rhymed シングルジャケット
Gilbert O`Sullivan - EVERYBODY KNOWS - B-Side of ` Nothing Rhymed `1970. - YouTube
このシングルの入ったデビューアルバム「Himself」は、全英チャートで最高5位をマーク、
86週の長きに渡ってランクインするロングセラーとなり、
ギルバート・オサリバンの名が一気に広まりました。

Himself CD, Deluxe Edition, Import
Amazon | Himself | Gilbert O'Sullivan | 輸入盤 | 音楽
アローン・アゲイン、それから次々にヒットを
1972年の「アローン・アゲイン」はヒットし、同年のグラミー賞にノミネートされます。
同時期に発売されたアルバム「バック・トゥ・フロント」も全英でトップになります。
その後、オサリバンは次々にヒットを連発します。
「ゲット・ダウン」「クレア」「ウー・ベイビー」。
「ゲット・ダウン」は、「アローン・アゲイン」のバラード調とは違って
当時のリズムを意識したテンポアップロックの曲。
「クレア」は、当時プロデューサーであったゴードン・ミルズの3歳の末娘を歌った曲で
オサリバンがベビーシッターを引き受けた時
とてもなついてくれたことから生まれた曲だそうです。
歌詞の中に「レイおじさん」と出てくるのは、
オサリバンの本名「レイモンド」のこと。
日本では「アローン・アゲイン」の次になじみのある曲でしょうね。
プロデューサーとの決裂と、その後
そこまで親密につきあいのあったプロデューサーのゴードン・ミルズとオサリバンですが、
音楽性についての見解と、権利関係のもめごとから、決定的に決裂します。
ロイヤリティについてミルズが多く取り過ぎていたことが裁判沙汰になり、
1982年に結審しオサリバンが勝訴、ミルズが1986年に51歳で死去するまで
オサリバンがヒットを生み出すことはありませんでした。
長年にわたる裁判により、人間不信に陥っていたそうです。
係争中に自分をささえてくれたスウェーデン女性のアウゼと1980年に結婚、一人娘が生まれます。
裁判後、曲作りに意欲的になりますが、レコード会社との契約がうまくいかず
イギリスのチャンネル諸島にあるジャージー島に移り住み、
そこでマイペースな創作活動を始めるに至ります。
1990年代からの復活
なかなかメインのレコードレーベルが決まらなかった1980年代後半に
オサリバンはヨーロッパや日本の小さいレーベルと少しずつ契約を交わしていきます。
日本では1986年にキティレコードと契約、
日本のファンに向けたベスト盤がリリースされ、
それに続いてイギリスでもベスト盤の販売が開始されました。
国内外で、オサリバン復活を望む声はどんどん高まり、
TVのCMやドラマのテーマに使われたことで、オサリバンの知名度はまた広がり出します。
1991年、自宅スタジオでレコーディングされたアルバム「サウンド・オブ・ザ・ループ」では、
来生たかおとの競演も実現し、
翌92年の初来日にも来生たかおが飛び入り参加するというサプライズもありました。
いつまでも変わらない声とメロディと
オサリバンが破竹の勢いだった1970年代、彼はこのような評価を受けていました。
ポール・マッカートニー
「僕の後に続くアーティストはエルトン・ジョンとギルバート・オサリバンだ」
エルトン・ジョン
「ライバルなんていないけど、しいて言うならギルバート・オサリバンだろうか」
この2人にここまで言わせるのはすごいと思いますが
裁判で音楽活動が止まってしまった時期、この時間がもしあったら
オサリバンはどのような曲作りをしていたでしょうか。
今のオサリバンは、昔と変わらない、哀愁とノスタルジーあふれる音楽を
私たちに送り続けています。
あの空白期間があったからこそ、今もあのころと同じように
なつかしく美しい音楽シーンに、私たちはひたることができるのかもしれません。