解散時の「バンザイ!!、バンザイ!!」って何で言うの??
例年の解散風景
なぜ野田首相は解散に踏み切ったのか | nippon.com
2012年年11月16日、民主党の大敗が予想された衆議院選挙前の解散でも、議員の先生達は毎度お馴染みの「バンザイ!!バンザイ!!」というこの言葉を言っていた。しかし、解散=衆議院議員失職だというのに、いったい何で「万歳!」などと悠長なことを言っていられるのか??。
結論から言うと、ただの慣習だそうだ。敢えて理屈を付けるのならば、「出陣式の万歳」といったことだそうで、これをやることで国会に戻れるジンクスなんだとか。また、ついに隠居生活に入っている大物政治家の、中曽根康弘元首相は「明治憲法下、(解散の詔書を包む)紫のふくさに象徴される天皇陛下に万歳というのが始まり」と講釈し、「クビになり(選挙という戦場に)万歳、突撃すると気持ち」と・・・・自己流の解釈をされているそうな!!(やれやれ)。
元々は「万歳、万歳、万々歳!!」だった!?
中国皇帝の即位式の再現画像
상쾌한하루 :: 기황후 1회
そもそも、「万歳、万歳、万々歳!!」とは中国の皇帝を称える言葉で”三呼”と言い、中国皇帝が即位式などで臣下が皇帝に対し三度唱えることになっていたが、明治時代になって日本に定着したとされるそうだ。
元々、中国ではこの”三呼”は皇帝にだけ使っていて、皇帝以外は「千歳、千歳、千々歳!!」と言ったそうだ。ちなみに、韓国時代劇で朝鮮王が即位する場面でこの「千歳、千歳、千々歳!!」が使われていました。日本語字幕では「万歳、万歳、万々歳!!」となっていたが・・・やはり中国に対する遠慮でしょうか??
歴代の衆議院解散で、いつ頃から名称が付けられたのか??
歴史的に見ると、大正時代の中盤以降に政治状況などを揶揄したり批判する風潮が当時の知識人や言論界の中に着々と成長していた。所謂、大正デモクラシーが台頭する時期であり、当然、議会の解散においても当時の世相を反映させた通名を付けるようになったのだ。
記録として残る一番古い物は、「懲罰解散」!!
清浦 奎吾
清浦奎吾 - Wikipedia
虎ノ門事件(1923年(大正12年)12月27日に、日本の東京市麹町区(現: 千代田区)虎ノ門外において皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が無政府主義者の難波大助により狙撃を受けた事件)の責任を取り山本権兵衛内閣が総辞職し、後継首相として枢密院議長清浦奎吾に大命降下(天皇が法的な規定にも臣下の意向にも制約されずにみずからの意志のみで任命権を行使すること)があった。 本来、衆議院の任期満了までの選挙管理内閣であった。清浦内閣は、1924年1月7日に成立するが、外務・陸海軍大臣を除く、全閣僚が貴族院議員であり、かつそのうちの半数がかつて清浦が代表であった会派・「研究会」所属という顔ぶれであった。にもかかわらず、清浦内閣が、その後も政権続投を行おうとしたため、清浦内閣は、「貴族院内閣」または、「特権内閣」の蔑称を受け政党、言論界、そして国民世論から遊離しているとして、清浦内閣打倒による憲政擁護運動(第二次憲政擁護運動、第二次護憲運動)の高揚を見ることとなる。
したがって清浦内閣は議会に対し、懲罰する意味で1924年(大正13年)1月31日に衆議院を解散した。
戦後の解散劇も覚えておいても決して無駄でない
当時の吉田茂首相の愚痴がマイクに入ってしまった==「バカヤロー解散」!!
1953年(昭和28年)2月28日の衆議院予算委員会で、吉田茂首相と社会党右派の西村栄一議員との質疑応答中、吉田が西村に対して「バカヤロー」と発言したことがきっかけとなって衆議院が解散されたため、こう呼ばれる。
「バカヤロー」と書くと大声を出したような印象を与えるが、吉田は席に着きつつ非常に小さな声で「ばかやろう」と呟いたのみで、それを偶然マイクが拾い、気づいた西村が聞き咎めたために騒ぎが大きくなったというのが実態である。
「バカヤロー解散」の遠因は、吉田内閣の通産大臣池田勇人にあり、池田が「中小企業の一部倒産もやむを得ない」「貧乏人は麦を食え」など、度重なる問題発言を繰り返し、野党から通産大臣不信任決議案を提出され可決。窮地に追い込まれた吉田が、衆議予算委員会における執拗な質問に該当発言を連発したものである。
吉田茂元首相
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西村栄一
日本経済新聞 印刷画面
与党と野党が話し合いで解散が決定==「話し合い解散」!!
1958年4月18日に岸信介首相と鈴木茂三郎日本社会党委員長による党首会談で、野党が内閣不信任決議案を上程した時点で衆議院を解散することで合意する。
4月25日に衆議院に内閣不信任決議が上程され、社会党議員の河上丈太郎が内閣不信任の趣旨説明を行った後で採決を経ずに衆議院解散となった。
1955年の社会党再統一と保守合同による55年体制後の初の総選挙となった。
岸信介元首相
【首相真珠湾訪問】鳩山一郎、岸信介氏も真珠湾訪問 官房長官発表「確認した」 - 産経ニュース
鈴木茂三郎元日本社会党委員長
鈴木茂三郎 - Wikipedia
今も昔も政治家の不祥事は変わらず==「黒い霧解散」!!
今も”モリカケ”問題などで、自民党の支持率が低下しているが、過去にも同じような問題・事件が相次ぎ起こったことがあった。
1966年後半、自民党を中心に相次いで発覚した不祥事で、一連の事件で自民党への国民の信頼は失墜し永田町を「黒い霧」が覆っていると批判されたのだ。
10月20日、当時の佐藤栄作首相は衆議院予算委員会で綱紀粛正を所信表明。11月16日、自民党綱紀粛正調査会、「黒い霧」疑惑の調査結果をまとめる。
12月1日、自民党総裁選で佐藤首相は再選されるが、対立候補の藤山愛一郎が予想外の善戦で注目を浴びる。12月3日、佐藤が内閣改造、福永健司と宮沢喜一を起用して旧池田派を取り込む。党人事では、幹事長の田中角栄を福田赳夫に替えた。
その後低下した求心力を回復するため、佐藤内閣は12月27日に第54回国会が召集された初日に衆議院を解散した。日本国憲法下における召集時解散はこれが初めてであり、第54回国会は1日だけの会期となった。この解散を「黒い霧解散」と呼ぶ。
何か今の状況とそっくりだと思いませんか??!
佐藤栄作元首相
佐藤栄作氏。政治家。1901年生まれ。東…:日本のノーベル賞受賞者 写真特集:時事ドットコム
自民党反主流派の造反で内閣不信任案が可決され、「ハプニング解散」!!
少し前にも、野党が安倍首相に対して内閣不信任案(総理大臣として信用出来ないから辞任しろという要求の事)を提出していた記憶があるのですが、野党は不信任案が可決されるなんて最初から思っていないのが実際の本音のようだ。なぜなら、与党の人数が圧倒的に多いのだから多数決で否決されるに決まっているから・・・。
内閣不信任案の意味は「野党もしっかり仕事をしてますよ」という国民へのアピールという側面があるのだ。
1980年答辞に日本社会党を中心とする野党が提出した太平首相に対する不信任案もそのような状況でしたが、現在と比べ違う状況としては、与野党の議席差がそんなにないことだった。そして、自民党の派閥が党本部より優先する力関係にあったのだ。
”三角大福中”の争い
佐藤栄作元首相の後、自民党には5人の派閥の領袖(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘)による権力闘争が段々と過激になり、それぞれの派閥が合従連衡を繰り返し、1979年の首相指名選挙にまで争いが飛び火し、同じ自民党の大平正芳と福田赳夫が争うという前代未聞の出来事が起こった。
この自民党の権力闘争による内紛の影響で日本社会党の飛鳥田一雄委員長が中心とする野党の内閣不信任案に自民党の反主流派(福田派、三木派)を中心に自民党の反主流派は不信任案を巡って同調するか否かで混乱し、結局69人が本会議を欠席しまう。これにより内閣不信任決議案は賛成243票・反対187票で56票差で可決となってしまったのだ。
大平正芳元首相
大平正芳回想録 伝記編
飛鳥田一雄元日本社会党委員長
青春スクロール 母校群像記:朝日新聞デジタル
総選挙の結果も前代未聞だった!!
太平総理は不信任案の可決により辞任。衆議院は解散されたのだ。
慌てたのは野党だった。
まさか、総理が辞任して解散になるとは考えていなかったため選挙対策など全く怠っていたのだ。
そして、大平首相の総選挙序盤で急死するという緊急事態が起こり、それを受けて自民党主流・反主流両派は一転して融和・団結し弔い選挙の様相を見せて選挙戦を進めた。22日の投票で自民党は衆参両院で地すべり的大勝を収め、不信任案を提出した野党、特に公明党は大敗を喫した。これで6年間続いた衆参両院における与野党伯仲状態は完全に解消した。大平の死と引き換えに得た大勝利であった。
内閣不信任案もむやみに提出するもんではない!!