伊東浩司はアトランタオリンピックで200mで準決勝進出、マイルリレーでは5位入賞を果たした。
出番がなかったバルセロナオリンピックの悔しさを見事に晴らした。
しかし100mを9秒台で走る選手と一緒に200mを走り、自分と世界のトップの力の差を実感した。
次に自分がすべきことも次の目標もわからなかったが、とりあえず国体に出て100mで優勝した。
同大会では高校1年生の末續慎吾(九州学院高)が少年Bの100mで優勝した。
「何をやったらいいのだろう?」
悩み続け出た答えは
「世界での経験が少ない」
ということだった。
またアトランタで前半の100mで引き離されたことから、スタートと序盤の走りに磨きをかけるため1997年の冬は国内外の室内大会の60m走に出場した。
そして1997年2月の群馬国際室内60mで5位ながら6秒63の日本新記録を樹立。
朝原宣治が5日前にドイツで出したばかりの日本記録を1/100秒速かった。
優勝はアトランタオリンピック100mの金メダリスト、ドノバン・ベイリーだった。
その後も2月19日の日中対抗室内の北京大会で伊藤浩司が6秒61を出すと、3月1日のドイツの大会で、朝原宣治が6秒55をマークした。
伊東浩司は、東海大学の先輩で共にオリンピックに3回出場した経験のある宇佐美彰朗(マラソン、メキシコ、ミュンヘン、モントリオール)、高野進(400m、ロサンゼルス、ソウル、バルセロナ)に3度目のオリンピックを目指したときの経験や心構えなどを聞いた。
2人は共に
「4年のスパンで考えず1年1年の積み重ね」
と答えた。
また
「今までやったことのないことを練習に取り入れた」
ともいった。
筋肥大で尿道結石
伊東浩司はどんどん海外へ出ていった。
4月にアメリカで3試合行った。
自分で荷物を持って申し込みをして出場料を払いエントリーした。
紐を張ったコースで走ったり、スターティングブロックがないコースでは人に頼んで押さえてもらった。
記録は発表されないので、聞きに行きにいった。
いろいろ自分でやることで妙な達成感があった。
アメリカでは尿道結石で救急車で運ばれたことがあった。
グラウンドで練習中に急に腹痛になり倒れこんだ。
病院に着くと隣に刃物で刺された人がいた。
検査のために尿を出さなくてはならないのだが
練習で発刊していたため尿が出ず尿管にカテーテルを挿れた。
尿道結石の痛みは点滴で治った。
原因は「筋肥大」と診断された。
筋が尿管を圧迫しているという。
帰国後も治療法はなく、いつも薬を持ち歩くようになった。
Wコウジ
アメリカから帰国後、静岡国際に出て、5月には大阪グランプリ。
直後に韓国の釜山で行われた東アジア大会に出場。
釜山から東京に戻り1泊した後、アメリカへ行き、さらにヨーロッパという世界一周転戦の旅に出た。
オレゴン州の試合では、相部屋になった外国選手が女の子を連れ込んできたので眠れずボロボロだった。
遠征中、ホテルは基本的に同じ大会に出る選手同士の相部屋だった。
日本人選手はいなかったので伊東浩司は孤独だった。
その後、サンフランシスコ経由でスペインのセビリアに入った。
サンフランシスコの空港で6時間待ち、イギリスのヒースロー空港でも5時間待った。
やっとセビリアに入り紙に書いてある通りに行くと大会事務局があるホテルがなかった。
タクシーで回ってやっと見つけた。
スペインの後はフランス、イタリア、モスクワと回った。
ほとんどグランプリ大会で、同じメンバーで伊東浩司は後方を走った。
最後のモスクワではハンマー投げの室伏広治に出会い、ダブルコウジで帰国した。
1ヶ月近くの遠征から帰国して3日後、全日本実業団選手権の200mに出場し小野田貴文(七十七銀行)に敗れた。
日本人選手に敗れたのは3年ぶりだった。
さらに1か月後のアテネ世界選手権では、200mの1次予選で落ちた。
足にマメができていた時点で「ダメだ」と思った。
いつもオーダーメイドのシューズなのに靴ズレが起きたということは、バランスを崩して悪い走りになっている証拠だった。
4×100mリレーも、準決勝で38秒31の日本新、アジア新記録を出しながら決勝には進めなかった。
10月の日本選手権の200mでも伊東浩司は決勝前に右脚が痙攣し棄権した。
高地トレーニング
1998年2月、伊東浩司は、単独でアメリカに行き、ニューメキシコ州アルバカーで高地トレーニングを行った。
日本では長野オリンピックが行われ、鈴木博美が開会式で聖火リレーを行っていた。
午前中はアパートからレンタカーで15分ほどのところにある高校で練習。
午後はウエイトトレーニングを行った。
40日間の滞在の終わり頃、練習場にトイレがなかったので原っぱで小便をしていた。
すると尿が真っ赤だった。
初めての血尿だった。
高地から下りてきた伊東浩司は速かった。
しかし4月にはわき腹が痛くなって走れなくなった。
高地トレーニングで呼吸筋を痛め、肋間神経痛だった。
春の兵庫リレーカーニバルの200mでは予選落ち。
静岡国際の200mでは決勝に残ったものの最下位。
大阪グランプリの100mは10秒61で6位だった。
焦った伊東浩司は、試合をキャンセルし、鳥取のワールドウイングスにいって小山裕史にバランスを修正してもらった。
そして6月の全日本実業団対抗戦の200mで3年ぶりの優勝。
100mでも2位だった。
その後のドイツでは、例の腹痛が始まり病院へ運ばれた。
医者は手術することを薦めたが、伊藤浩司は試合があるので断った。
そして「たとえ死んでも文句はいいません」というような文面の書類にサインし退院し試合に出た。
100m 10秒00
帰国後、間もなくアジア選手権に出場。
アジア記録を持つ伊東浩司は200mで優勝した。
7~8月は鳥取にこもった。
ワールドウイングスでトレーニングを行い、自分の筋肉の質や骨格、可動域を考え、競歩の感覚を取り入れたすり足のような走りを研究した。
初動負荷トレーニングマシンで臀部、大腿二頭筋、広背筋群を徹底的に強化。
これに股関節の柔軟性を高めるトレーニングを組み合わせた。
1ヵ月のトレーニングで筋肉が異常に発達し、東京まで車で帰った翌日、川崎市選手権の200mで20秒43。
アジア選手権より速かった。
その数日後、南アフリカのヨハネスブルクで行われた第8回ワールドカップに出場。
200mはフランク・フレデリクスが19秒97で優勝。
伊東浩司は3位と同タイムの20秒40で4位。
南アフリカから帰国して2日後のスーパー陸上の200mでは、20秒61で2位。
9月末から5日間にわたって行われる日本選手権は12月のバンコク・アジア大会の選考会を兼ねていた。
伊東浩司は200mの予選で20秒16の日本新、アジア新記録を出した。
100mは、予選で10秒41、準決勝で10秒10の大会新記録。
そして決勝では10秒08で朝原宣治の持つアジア記録と同タイムだった。
1998年12月6日、タイのバンコクで開かれた第13回アジア大会が始まり、初日、女子マラソンで高橋尚子が日本最高記録で優勝した。
12月13日、伊東浩司は100mの予選を10秒03。
そして2時間後に行われた準決勝で伊東浩司は、追い風1.9mの好条件の中、中盤からグッと加速し、他を大きく離してフィニッシュ。
最後は体を前に倒さず胸を張るように余裕を持ってトップで走り抜けた。
そして事件が起こった。
速報表示の数字は「9秒99」だった。
スタジアムはどよめいた。
伊東浩司は大きく跳びはね、歓喜のガッツポーズを繰り返し、スタンドも熱狂した。
しかしほどなく公式記録は「10秒00」に訂正された。
国際大会では、コンピューター画像処理によるゴール前写真で分析した公式計時のほかに、ゴールライン上に赤外線を当て選手が通過した際に自動的にタイムが出る非公式の電光計時も行っている。
後者の難点は、脚でも腕でも最初に選手の体の一部が赤外線に触れた時点でゴールと判定してしまうこと。
国際陸連のルールでは、フィニッシュは「胸の通過時点」
この誤差が生じた結果だった。
アジア人が初めて10秒の壁を破る歴史的瞬間はお預けになった。
観衆の歓声は大きなため息に変わった。
しかしアジア人が初めて9秒台をノックした瞬間だった。
それにしても伊東浩司が後の備え最後は流したことが惜しまれた。
もし決勝がこの日行われていたら9秒台が出た可能性が高い。
しかし決勝は翌日だった。
結局、伊東浩司は10秒05で優勝した。
100m決勝の翌日(12月15日)の4×100mリレーでは、アンカーで走り日本は優勝し2連覇した。
12月17日の200mの準決勝で20秒41の大会タイ記録。
12月18日の決勝は20秒25の大会新記録で圧勝した。
伊東浩司は第13回アジア大会の全競技を通してMVP(最優秀選手)に選ばれた。
賞金は10万ドルだった。
19年間破られなかった
桐生祥秀(左)と伊東浩司(右)
伊東浩司の10秒00は、アジア記録としては2007年にサミュエル・フランシスの9秒99に塗り替えられた。
日本記録としては、2017年9月9日に、桐生祥秀が日本人初の9秒台となる9秒98を出すまで19年間破られなかった。
栄光の裏側
タイから帰国すると、成田空港でマスコミに取り囲まれた。
テレビではワイドショーにまで取り上げられていた。
そのまま記者会見をして、テレビ局に直行。
大晦日は高橋尚子とNHKの紅白歌合戦にも出演した。
新聞、雑誌、テレビ、アジアチャンピオンになった後、取材陣の数は急激に増え、知名度も上がった。
どこに行っても
「あ、伊東浩司だ!」
といわれ、おちおち買い物も出られなくなった。
「次は9秒台を出してやる」
と思いながらもアジア大会以前の環境で練習や試合ができることはもうなかった。
マスコミに対してストレスを感じることも多かった。
試合前にもアップのときからカメラに追いかけられた。
誰もいないスペースを探し
「なんでコソコソしないといけないのだろう」
と腹が立った。
走ったの後も次のレースがあるのに質問攻めにあった。
試合の度に9秒台を期待されるのは苦痛だった。
出せるものなら早く9秒台を出して楽になりたかった。
1999年になると精神的に追い詰められ始めた。
どこへも行けず家にこもるようになった。
常にイラつき、強い不信感があった。
3月に行われた第7回世界室内選手権の200mの準決勝で、伊藤浩司は1番外側の6レーンに入った。
するとトラックの外側に並ぶスポンサーの広告フェンスの隙間からカメラが狙っていた。
すぐ目の前のことだった。
伊東浩司は審判員に「レースに集中できないから」といってカメラマンにどいてもらった。
しかしスタートするときにはまた元の位置に戻ってカメラを向けていた。
それでも伊東浩司は20秒63のアジア新記録で2着となった。
決勝では20秒95で5着。
1着はフランク・フレデリクス。
20秒10の大会新記録だった。
伊東浩司は60mのときもカメラでカシャカシャ撮られた。
走り終え記者に囲まれ
「スタート遅れましたね?」
と聞かれ
「あれでは気になって出られませんよ」
と答えた。
すると翌日、新聞には
「決勝に残れなかったのはマスコミのせい」
と書かれた。
世間やマスコミからの注目度が上がれば上がるほど自分の殻に閉じこもってしまい誤解を招くこともあった。
シドニーオリンピック
オリンピックに的を絞り、1999年は早々にシーズンを終え、腰の治療に専念した。
腰のケガが完治した後、練習を再開したが、左脚ハムストリングスを痛めた。
春の試合はすべてキャンセルし調整を続けた。
世間がオリンピック、オリンピックと盛り上がっていく中、焦った伊東浩司は、6月、鳥取で行われた全日本実業団対抗に強行出場。
9ヵ月ぶりの試合だったが100mの予選を10秒38、準決勝を10秒45で走ったが、決勝は辞退した。
その後、練習中に左脚ふくらはぎが肉離れを起こす。
シドニーオリンピックを控えて、いつケガをするかわからない時限爆弾を背負った状態で、綱渡りのような恐る恐るの練習が続いた。
9月9日のスーパー陸上では100mで10秒26で3位。
200mは練習でも1本も走っていなかった。
30歳で迎えた3度目のオリンピック。
9月22日、男子100mの1次予選と2次予選を3着で通過。
準決勝は2組あり、各組上位4名が決勝に進める。
伊東浩司は10秒39で7着だった。
9月27日、200mの1次予選は20秒75で2着。
4着までが準決勝に進める2次予選で20秒56で4着。
準決勝は20秒67で7着。
8着は末續慎吾だった。
9月29日、4×100mリレーでは2走となり準決勝で38秒31のアジアタイ記録を出し3着で決勝進出。
決勝は38秒66で6位。
セミのような人生
中学1年生からおよそ20年の競技人生で、華やかだったのは一瞬。
伊東浩司は、セミのような人生だったという。
しかしその鳴き声は強烈で、後世にインパクトと輝きを残した。
陸上競技の練習は地味で、楽しいのは記録が出たときや試合に勝ったときで、それが次の苦しい練習に耐える原動力となる。
伊東浩司は、中学で全国で1番になったプライド。
高校、大学で走れず「伊東は終わった」と陰口を叩かれたことへの反骨心。
プライドと反骨心が20年間の競技生活を支えた。
帰国後、入社10年目前後を対象とした3泊4日の富士通の社員研修会に参加。
人前で話すことやリーダーシップをとることは、同世代のサラリーマンよりうまかったが、経済の話題となるとまったくわからなかった。
同僚の苅部俊二は、指導者になるために契約社員になって大学院に通っていたが、伊東浩司は現役引退後も会社に残り仕事を続けるつもりだった。
しかし2001年、地元である兵庫県神戸市の甲南大学で陸上部の指導者となった。