パティ・スミス
クイーン・オブ・パンクと称され、今でも多くのミュージシャンに多大な影響を与え続けているパティ・スミス。
「キース・リチャーズの顔を持った女性ロッカー」と称された中性的な顔立ちとともに激しい歌唱スタイルが、70年代にニューヨーク・パンクシーンで注目を集め、一躍時の人となります。
さて、そんなパティ・スミスですが、けっして順風満帆というわけではありませんでした。

パティ・スミスは、1946年にシカゴで生まれ、ニュージャージーで育っています。10代頃のパティ・スミスはアルチュール・ランボーやボブ・ディランなどに憧れており、彼らの愛人となることを夢見ていたそうです。詩人に憧れていたのですね。
しかし現実は厳しく、パティ・スミスは21歳の時に女の子を出産するのですが、経済的に育てることが出来ず養子に出しています。
パティ・スミスが詩をはじめとして芸術活動を始めるためにニューヨークに移るのはそれから2年後の1969年のことです。
そしてそのニューヨークで運命の男性と出会います。ロバート・メイプルソープ。後に一世を風靡することになる芸術的なカメラマンです。
ロバート・メイプルソープ
後にコレクターがもっとも欲しがる写真を撮る男となるロバート・メイプルソープは、1946年ニューヨーク州ロングアイランドに生まれています。パティ・スミスとは同い年ですね。
ニューヨークのクイーンズで育ち、ブルックリンにあるプラット・インスティテュートでアートを学ぶのですが、その在学中にパティ・スミスと知り合っています。

ロバート・メイプルソープ
2人が出会ったのは1967年の夏、共に20歳の時です。
アルチュール・ランボーやボブ・ディランのようなアーティストの愛人になることに憧れていたパティ・スミスにとっては、カメラマンとして歴史に名を残すことになるロバート・メイプルソープはうってつけの存在と言えるのでしょうが、当時は2人ともどこにでもいる無名の存在でしかありません。成功を信じていたにしても、お互いの将来のことなど想像すら出来なかったのではないでしょうか。
しかし、2人は付き合うようになります。
「パティ、僕らみたいに世界を見る奴なんて、誰もいないんだよ」ロバート・メイプルソープはパティ・スミスに出会った当初からそう語っていたそうです。
アーティスト同士、何か感じるものがあったのでしょうが、愛を感じるとてもいい言葉ですよね。

パティ・スミス&ロバート・メイプルソープ
パティ、僕らみたいに世界を見る奴なんて、誰もいないんだよ
何の当てもないまま、僅か16ドルのお金を握りしめてニューヨークに出てきたパティ・スミスは、ウエイトレスや店員などをしながら細々と暮らしていました。その生活ぶりはホームレスと変わらないほどに貧しいものだったそうです。
ある日、一晩だけでも泊めてもらおうと友人のアパートを訪ねたところ、友人は既に引っ越しており、代わりに住んでいたのがカメラマン志望の青年、ロバート・メイプルソープでした。
2人はこうして出会い、共同生活が始まりました。

パティ・スミス&ロバート・メイプルソープ
ロバート・メイプルソープは親身になって多くの悩みを抱えていたパティ・スミスを励まします。
つまり、「パティ、僕らみたいに世界を見る奴なんて、誰もいないんだよ」。ロバート・メイプルソープは口癖のようにこう言っていたそうです。
次第にロバート・メイプルソープらとの交流によって、パティ・スミスはアーティストの一員であることを自覚するようになります。
活動も詩作を中心としたものから、バックにギター、ピアノ、ドラムスと徐々にバンドの形態と変化していきます。
パティ・スミスの最初のシングルはロバート・メイプルソープが出資して自主制作された「
Hey Joe」です。
一方、ロバート・メイプルソープは次第にゲイに目覚めていきます。自分が何者なのか確かめたいということで、当時はゲイカルチャーのメッカであったサンフランシスコに行くことをパティ・スミスに提案します。
パティ・スミスは戸惑いサンフランシスコ行きを断ったものの、同性愛をテーマとした写真を撮るように勧めたのだそうです。
お互いの才能を伸ばしあっていた2人でしたが、別々の道を歩む日がやってきます。別れを切り出したパティ・スミスに「僕を捨てないでくれ」とロバート・メイプルソープは泣き叫んだとも伝えられています。
しかし、結果として2人が別れたことで、それぞれがそれぞれの道で成功することになるのですから、運命とは皮肉なものですね。
ホーセス
1972年に2人は別れてしまいます。その日はかつてパティ・スミスが愛人になりたいと憧れたアルチュール・ランボーの誕生日だったそうです。
その後、音楽活動を積極的に行うようになったパティ・スミスは、次第にニューヨークのアンダーグラウンドの世界で知られる存在となっていきます。
そして1975年に念願が叶いファースト・アルバムを発表します。

ホーセス
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「ホーセス」は、初期ニューヨーク・パンクのアーティストとしては最初にレコード・レーベルとの契約を得てリリースしたアルバムとなりました。
アルバムからは、ゼムのカヴァー曲「グローリア」がシングルカットされています。
この美しいアルバム・ジャケットを撮影したのはロバート・メイプルソープです。
この時期メジャーデビューしたとはいっても、まだアンダーグラウンドでの存在にしか過ぎなかったパティ・スミス同様に、ロバート・メイプルソープもまだ無名に近い存在でしたが、このジャケット写真は既にメイプルソープらしさが確立されています。
そして何より2人の友情は続いていたのですね。
その後、1975年「ラジオ・エチオピア」、1978年「イースター」と素晴らしいアルバムを連続して発表し、パティ・スミスの評価は高まります。
「イースター」からシングルカットされたブルース・スプリングスティーンとの共作「ビコーズ・ザ・ナイト」は、全米13位というヒットを記録しパティ・スミスはメジャーの仲間入りを果たしました。
一方のロバート・メイプルソープが写真家として花開くのは80年代に入ってからです。
ドリーム・オブ・ライフ
ロバート・メイプルソープは80年代のアートシーンを牽引したひとりといっても過言ではないでしょう。それほどまでに各メディアでセンセーショナルに捉えられ、多くの芸術家にも多大な影響を与えました。
人物を冷徹に物として捉えたような凄みを感じさせる作品ですね。そして、一躍ロバート・メイプルソープを有名にしたのが、リサ・ライオンとのコラボレーションによる作品です。
ボディビルダーのリサ・ライオンをモデルにした一連の作品は日本でも大きな話題となりました。
こうして成功を収めたロバート・メイプルソープですが、不孝が彼を襲います。1986年にエイズと診断されたのです。
その時、もしかするとロバート・メイプルソープは死を受け入れたのかもしれません。亡くなる直前に 自らの生涯を振り返ったかのような1冊の作品集を発表します。
タイトルは「Robert Mapplethorpe Patti Smith」。
80年代に入るとパティ・スミスは音楽活動から離れ、結婚をし幸せな生活を送っていました。カムバックは1988年。結婚・引退・出産を経て9年ぶりのアルバム「ドリーム・オブ・ライフ」を発表します。
ロバート・メイプルソープがエイズに侵されもう先が長くないと知らされたパティ・スミスは、この記念すべきカムバック作のジャケットの撮影を彼に依頼します。
家庭に入り幸せな生活を送っていたパティ・スミスと死を目前に控えたロバート・メイプルソープの最後のコラボレーションです。そこには、パンクの女王と言われた面影はなく、なんとも儚げな表情をしたパティ・スミスが写っています。

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ロバート・メイプルソープは1989年に此世を去ります。アルバム「ドリーム・オブ・ライフ」発表の翌年のことでした。
「パティ、僕らみたいに世界を見る奴なんて、誰もいないんだよ」ロバート・メイプルソープの声が聞こえてきそうですね。

パティ・スミス&ロバート・メイプルソープ