ライブ活動を卒業した氷室京介
2016年5月23日に東京ドームで『LAST GIGS』を行い、ライブ活動を卒業した氷室京介。最期の雄姿を見届けようと、詰めかけた観衆は約5万5000人。超満員に膨れ上がったこのコンサート会場は、かつて、1988年4月5日にBOΦWY解散ライブをした場所でもありました。
氷室京介の歴史を語るうえで、BOΦWYは欠かすことができません。それは『LAST GIGS』で、ソロコンサートでありながら、「DREAMIN'」「B・BLUE」「ONLY YOU」といったBOΦWY時代の代表曲を歌ったことでも明らか。デビューからわずか6年ほどで解散した同バンドですが、その印象はあまりにも鮮烈。後続のバンドに多大なる影響を及ぼし、未だに再結成を望む声が後を絶たない現状を鑑みれば、まさしく“伝説のバンド”と呼ぶにふさわしいでしょう。

BOΦWYが解散した伝説の場所で、ライブ活動に終止符を打った氷室京介。
氷室京介|KYOSUKE HIMURO LAST GIGS Special Site|Warner Music Japan
ビーイング総帥・長戸大幸氏が結成した『スピニッヂ・パワー』
そんな華々しいBOΦWY時代に比べて、あまり多く語られていないのが氷室の『スピニッヂ・パワー』時代です。
スピニッヂ・パワーとは、ビーイング総帥・長戸大幸氏の肝いりで結成され、1978年~1980年にかけて活動した歌謡ロックバンドのこと。ビーイングといえば、90年代前半にTUBE、B'z、ZARD、WANDS、大黒摩季らを輩出し、一大ムーブメントを起こした音楽制作会社として有名ですが、スピニッヂ結成は、同社が誕生するわずかばかり前に遡ります。
作曲家でもあった長戸氏は、1978年、当時流行りのディスコサウンドを取り入れた楽曲『ポパイ・ザ・セーラーマン』をプロデュースするにあたり、バンドメンバーを集めます。ポパイを動かす元気の源といえば…?そう、ほうれん草をおいて他にありません。ということで、バンド名を『スピニッヂ・パワー』(=ほうれん草の力)と命名したというわけです。

90年代前半に一大ブームを巻き起こしたビーイング。その総帥・長戸大幸によって、『スピニッヂ・パワー』は産声を上げる。
Being Global Audition
『ポパイ・ザ・セーラーマン』のヒットが、『ビーイング』誕生のきっかけに
『ポパイ・ザ・セーラーマン』は、キングレコードの洋楽レーベル「セブン・シーズ」よりリリースされ、売上40万枚という、なかなかのヒットを記録します。ここで得た利益を開業資金として、長戸氏は同年に『ビーイング』を設立。同時に同社預かりとなったスピニッヂを人気グループにすべく、この若かりし日のビーイング代表は、西へ東へと奔走することとなり、その中で、当時高校生だったヒムロック少年を見つけ出すに至るのでした。

『ポパイ・ザ・セーラーマン』:スピニッヂ・パワー
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アマチュアバンド『デスペナルティ』として活動していた氷室京介
長戸氏が氷室を知るきっかけになったのは、ヤマハ主催の『EastWest‘79』でした。
このコンテストに氷室は、アマチュアバンド『デスペナルティ』のボーカル・寺西修一(本名)として参加。彼の活躍もあり、デスペナルティは見事入賞を果たします。声良し、顔良しの氷室に、無限の可能性を感じたのか。長戸氏は、ただちにこの少年ボーカリストを地元・群馬県高崎市から東京へと呼び寄せて、契約書にサインさせます。
その後、長戸氏の意向により『デスペナルティ』は解散。かくして氷室は、スピニッヂへと加入させられることとなったのです。
7枚目のシングル『HOT SUMMER RAIN』からメインボーカルを担当

スピニッヂ・パワー時代の氷室京介
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晴れて、スピニッヂの一員となった氷室は、6枚目のシングル「BORO BORO BORO」にコーラスとして参加。これが実質的なレコードデビューとなります。さらには、長戸氏がパーティーで知り合ったという、当時中学3年生の三原順子(現:三原じゅん子)のファーストシングル『セクシー・ナイト』でもコーラスを担当。
メインボーカルを務めるようになるのは、スピニッヂ7枚目のシングル『HOT SUMMER RAIN』から。BOΦWY・ソロ時代とは一味違う、爽やかさの中に憂いを帯びた氷室のボーカルは、一聴の価値ありです。
忌野清志郎のシャウトが、氷室のロック魂を焚き付ける!
しかしながら、アイドル然としたスピニッヂでの活動が肌に合わなかったらしく、氷室は、わずか半年あまりでバンドを脱退してしまいます。
やることもなくプラプラと過ごし、地元・群馬へ戻ろうかと思っていた最中。たまたま当時付き合って彼女から、『RCサクセション』のコンサートチケットを渡され、東京での思い出作りにと会場へやってきたのをきっかけに、彼の人生は一変することに。

忌野清志郎がいなければ、BOOWYは存在しなかった?
忌野清志郎 The FILM 公式さんのツイート: "【絶賛配信中!】映画『 #忌野清志郎 ロックン・ロール・ショー The FILM ~#1入門編~』全国主要ポータルサイトにて配信中!GW最後の日曜日、スマートTVやPC、スマホやタブレットで清志郎の軌跡を体感しよう!https://t.co/nUEFGq3xdu https://t.co/pwOdEV1Ziu"
壇上には溢れんばかりのエネルギーで、観客を魅了する清志郎。眼前にいる本物のロックスターが放つ圧倒的カリスマに、氷室は心奪われます。自分もあんなふうに歌いたい…。情熱を取り戻した氷室は、地元で顔見知りだった布袋寅泰を呼び出し、バンド結成を打診。こうして、BOOWYは結成へと至ったのです。
以降のBOOWY及び氷室京介の活躍はご存知の通り。今ではすっかりその部分のみが語られていますが、しかし、その“前史”として、若き日のヒムロックが初々しく歌う、『スピニッヂ・パワー』という印象的な歌謡ロックバンドが存在したことも、記憶にとどめておくべきでしょう。
こじへい