ハリウッド製の超大作スペクタクル映画は子供心にもその凄さを感じた!!(1950年後半版)

ハリウッド製の超大作スペクタクル映画は子供心にもその凄さを感じた!!(1950年後半版)

1950年後半は、私がちょうど幼児期を脱しようとする時期であり、また外部からの刺激を積極的に取り入れようとしていた時期と重なります。ちょうどこの頃にハリウッド製の超大作スペクタクル映画が何本も封切され、両親と一緒に映画館に見に行きましたが、あまりの臨場感に恐怖感を憶えたことも多々ありました。そんな映画を年代別に集めてみました。


ウィリアム・ホールデン(William Holden, 1918年4月17日 - 1981年11月12日)は、米国出身の俳優。本名はWilliam Franklin Beedle Jr.。細菌学者を目指していたが、学生になった頃から演劇に興味を持ち、パサディナ・プレイハウスで演技を学ぶ。やがて舞台に立つようになり、パラマウントにスカウトされて映画デビュー。下積み後の39年「ゴールデン・ボーイ」で注目される。以降順調に見られたが、第二次大戦を挟んでその後低迷。だが、ハリウッドの光と影を映し出した名作「サンセット大通り」の売れない脚本家に扮して見事復活。アカデミーの主演候補に登った。以降は「第十七捕虜収容所」で主演賞を受賞した他、「喝采」、「麗しのサブリナ」、「ピクニック」、「慕情」、「戦場にかける橋」と、ハリウッドの一角を担う大スターとして大活躍。それと同時に実業家としても活動し、アフリカはケニアに1200エイカーにも及ぶサファリ・クラブの共同経営などにも参加した。ブレンダ・マーシャルとは41年に結婚するが、キャプシーヌと不倫関係になり70年に離婚。さすがに晩年は人気も下火になるが、69年の「ワイルドバンチ」、74年の「タワーリング・インフェルノ」。そして76年には再び「ネットワーク」で主演賞候補になるなど、老いても尚その実力を発揮していた。しかし実際は事業の不振、50年代から続いた呼吸器疾患、若い恋人との関係などと悩みも多く、重度のアルコール依存症だったという。そして81年、酔ったまま転倒して頭を大きく切ってしまい、出血多量が原因で急死。その発見は死後数日経ってからという悲しい結末だった。

ウィリアム・ホールデン(William Holden)

早川 雪洲(Sessue Hayakawa はやかわ せっしゅう、1886年6月10日 - 1973年11月23日)は、日本の俳優。千葉県出身。本名は早川 金太郎(はやかわ きんたろう)。1907年に21歳で単身渡米し、1910年代に草創期のハリウッドで映画デビューして一躍トップスターとなった。彼はアメリカとヨーロッパで主演男優としてスターダムにのし上がった最初のアジア系俳優だった。彼の「不気味でハンサムな」美貌と性的に魅力的な悪役というタイプキャスティングは、公然と人種差別が行われていた時代にアメリカ人女性の心を掴み、ハリウッドで最初の男性セックスシンボルの1人になった。日本人排斥運動や二度の世界大戦、私生活での混乱などによるキャリアの中断を挟みながらも、晩年の『戦場にかける橋』(1957年)でアカデミー助演男優賞にノミネートされるなど半世紀以上にわたって活躍した国際的映画俳優である。妻の青木鶴子もまたハリウッド草創期の人気女優であった。

早川雪洲(Sessue Hayakawa)

1958年の映画『十戒』はキリスト教徒には定番中の定番!!

『十戒』(じっかい、The Ten Commandments)は、1956年の米国の映画。歴史映画で「旧約聖書」の「出エジプト記」を原作として制作されたスペクタクル映画。純正ビスタビジョンで撮影されて、製作・監督はセシル・B・デミルでこれが最後の作品。主演はチャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナー、アン・バクスター、共演はエドワード・G・ロビンソン、イヴォンヌ・デ・カーロなど。聖書に書かれている紅海が割れ、その中をモーセなど出エジプトの民が海の中を進むクライマックスシーンはあまりに有名。

『十戒』(じっかい、The Ten Commandments)

タイトルにもなった「十戒」とは人類が神と交わした十の掟。これは、何とキリスト教、ユダヤ教、イスラム教にまで影響を及ぼしている。 ヒトが人として生きる基盤で3,000年前の掟にも関わらず、労働の行き過ぎ、偶像崇拝を否定している。

1 我は汝の神ヤーウェ、汝をエジプトより導いたもの、私の外、何ものも神するなかれ
2 汝、自らのために偶像を造って拝み仕えるなかれ
3 神ヤーウェの名をみだりに唱えるなかれ
4 安息日をおぼえて、これを聖くせよ
5 汝の父と母を敬え
6 汝、殺すなかれ
7 汝、姦淫するなかれ
8 汝、盗むなかれ。
9 汝、隣人に対して、偽りの証をするなかれ
10 汝、隣人の家に欲を出すなかれ

物語としては、エジプトの第19王朝ラムセス1世の時代にイスラエル民族に過酷な労働をさせ苦しめていた。そのイスラエル 民族の間に解放者が生まれるとの噂を聞き、新しく生まれた男子をすべて殺させた。
しかし、ヨシャベル(マーサ・スコット)の子は娘ミリアム(オリーヴ・デアリング)の予言を信じて、新しく生まれた男子をナイル河に流す。ちょうどその頃、ナイル河に水遊びに来ていた王女べシア(ニナ・フォック)のもとに、その男子は流れついた。子供のないビシアは侍女の メムネット(ジュディス・アンダーソン)に口止めをすると、自分の子供として育てることにし、その子を“水から引き出した”ゆえに モーゼ(チャールトン・ヘストン)と名づけた。
モーゼが青年になり若い王と呼ばれていたころ、ラムセス1世が死んで新しい王セティ(セドリック・ハードウィック)の時代に入って いた。モーゼはエチオピアを征服し凱旋する。しかし、これを快く思っていない者がいた。セティ の息子、ラムセス2世(ユル・ブリンナー)である。次のエジプト王はモーゼといわれていたが、 ラメシス2世はこれを阻止すべく、モーゼ出生の秘密をしりある計画を企てた...。

と、まあ全部記述しようとすると膨大な量のテキストになりそうなのでここらへんで止めときます。

『十戒』出演陣の横顔紹介

チャールトン・ヘストン(Charlton Heston, 1923年10月4日 - 2008年4月5日)は米国出身の俳優、社会運動家。身長191cm。妻は女優のリディア・クラーク、長男は映画監督のフレイザー・ヘストン(Fraser Heston)。
本名はJohn Charles Carter。12歳の時に両親が離婚。母(旧姓チャールトン)が再婚し、義父の姓のヘストンを貰ってチャールトン・ヘストンと名乗るようになる。高校時代に学生劇に出演して演劇に興味を抱き、ノース・ウエスタン大学で演劇を専攻。1944年には大学で知り合った演劇仲間の女学生リディアと結婚。直後に空軍に従軍して無線技師となる。除隊後に妻と共に劇団を旗揚げし、1947年、ブロードウェイ・デビュー。やがてTVで活躍し始め、ハル・B・ウォリスに認められて、1950年「虐殺の街」でスクリーン・デビュー。その2年後に「地上最大のショウ」に出演。以降“ミケランジェロの彫刻のような素晴らしい肉体”とセシル・B・デミルに絶賛され、「十戒」、「ベン・ハー」などのスペクタクル大作や歴史劇のヒーローとして絶大なる人気を獲得し、アカデミー主演賞に輝いてその後はスター街道を走り続ける事となった。1966年からは俳優組合の会長に5年間就任。1971年には「アントニーとクレオパトラ」で監督にも挑戦。俳優仲間からの人望も厚く、ハリウッドでの政治的リーダーとして強い影響力を示し、1977年にはその功績からジーン・ハーショルト友愛賞を授与されている。1998年からは全米ライフル協会の会長にもなった。近年も話題作への関わり合いが多い。ハリウッドの有名俳優としては珍しく離婚歴もなく、息子のフレイザーは監督になった。2002年、アルツハイマーの兆候があることを告白。治療に当たっていたが2008年に帰らぬ人となってしまった。

チャールトン・ヘストン(Charlton Heston)

スキンヘッドが強く印象に残る名優。本名はYuli Borisovich Bryner。モンゴル・スイス系の父とユダヤ・ロシア系の母との間に生まれる。ミュージシャンや曲芸師を経て俳優を志し、1940年頃に渡米。舞台やTVシリーズに出演したのち、1949年の「ニューヨーク港」で映画デビューし、1952年にブロードウェイ・ミュージカル“王様と私”でトニー賞を獲得。1956年にはその映画版で同じくシャム王に扮し、アカデミー賞主演男優賞に輝いた。その後も「十戒」や「追想」、「荒野の七人」「エスピオナージ」など幅広いジャンルで活躍。だが、ヘビースモーカーであることが祟り、1985年に肺ガンで惜しくもこの世を去った。また、同年まで延べ4000回以上に渡り、舞台版“王様と私”に出演し、王様役を演じ続けた。写真家や作家としての一面もある。4度結婚し、5人の子供をもうけた。
皆様、たばこはやめましょうね!!

ユル・ブリンナー(Yul Brynner)

アン・バクスター(Anne Baxter, 1923年5月7日 - 1985年12月12日)は米国出身の女優。帝国ホテルの設計などで日本でもあまねく知られている建築家フランク・ロイド・ライトの孫娘だそうだ。いかにも小生意気そうに見えるところが彼女の魅力の一つであり、エネルギッシュな活発さが彼女の所作全体を通して感じられる。また、外見はカワイ子ちゃんタイプであるにも関わらず、声がやや低目であり、ハスキーとまでは言えないとしても独自の魅力があった。小生意気そうに見えるのは、多分に「イヴの総て」(1950)で演じたイヴの印象が強烈であったからかもしれませんが、「剃刀の刃」(1946)でのアカデミー助演女優賞受賞など既に40年代にかなりの実績を積んでいたとはいえ、この役で彼女のビッグスターとしての地位は揺るぎないものになったと見なせるでしょう。同作品によってアカデミー主演女優賞にノミネートされながら、ベティ・デービスもまったく同じ作品で同じ賞にノミネートされ、「イヴの総て」を高く評価していた審査員の票が割れた結果、「Born Yesterday」(1950)のジュディ・ホリデイが漁夫の利を得たのは有名な話です。一説によれば、バクスターは、作品中で演じたイヴさながらにマキャベリ的な技巧を駆使して、助演女優賞ではなく主演女優賞に自分がノミネートされるよう工作したということだそうです。真偽のほどはともかくとして、今となっては、それはそれで面白い話ではあります。なお、作品中で彼女が受賞する「The Sarah Siddons Award」は、作品公開時は架空の賞でしたが(Sarah Siddons自体は、19世紀の実在の女優の名前です)、同作品の影響で数年後に実際にその名の賞が設けられます。Wikipedia(英語版)を参照すると、不思議なことにブライアン・デネヒーなどの男優も受賞しているようであり、また、たとえばクローデット・コルベールが1980年の受賞など、栄誉賞的な意味合いがあるようです。アン・バクスターも、1973年に受賞しているようであり、ということは架空の賞と実在の賞を、作品中と現実世界で二度受賞したことになります。因みに、2008年は、日本ではとんと見かけなくなったキャスリン・ターナーが受賞しているようです。

アン・バクスター(Anne Baxter)

1959年の映画『ベン・ハー』もキリスト教徒には定番中の定番で主演も『十戒』のチャールトン・ヘストンだった!!

『ベン・ハー』(Ben-Hur)は、1959年制作のアメリカ映画。ルー・ウォーレスによる小説『ベン・ハー』の3度目の映画化作品である。ウィリアム・ワイラー監督。主演は、チャールトン・ヘストン、共演は、スティーヴン・ボイド、マーサ・スコット、キャシー・オドネル、ジャック・ホーキンス、ヒュー・グリフィス、ハイヤ・ハラリートなど。同年アカデミー賞で作品賞・監督賞・主演男優賞・助演男優賞をはじめ11部門のオスカーを受賞。この記録は史上最多記録でその後長く続き、『タイタニック』(1997年)、『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(2003年)がようやく同じ11部門受賞で並んだが、現在もアカデミー賞の史上最多受賞作品の一つである。
映画は、ローマ帝国支配時代のユダヤ人王族のジュダ・ベン・ハーの数奇な半生にイエス・キリストの生涯を交差させて描かれているのであるが、見所は何と言っても、クライマックスの戦車競争のシーン。実物大に組まれた競技場のセットでの戦車競争シーンは見応えがある。
しかしまあ、実際にCGもない時代にあれだけの規模のセットを作ってしまうとは・・・。今ならあり得ないし、あれだけのエキストラを使うことも考えられない。
だが、この映画一本で倒産寸前だったMGMを一気に立て直すことができたそうである。まさにベン・ハー様々!!。

『ベン・ハー』(Ben-Hur)

映画の物語としては、紀元26年、ローマ帝国支配時代のユダヤにローマから一人の司令官が派遣される。彼の名前はメッサーラ(スティーヴン・ボイド)。メッサーラは任地のエルサレムで幼馴染のベン・ハー(チャールトン・ヘストン)との再会を喜び合う。ベン・ハーは貴族の子でユダヤ人とローマ人ながら2人は強い友情で結ばれていた。
しかし、2人の立場はエルサレムでは支配者と被支配者。そのことが2人の友情に亀裂を生むことになる。その折も折、新総督が赴任してきたときおこなわれたパレードでベンの妹(キャシー・オドネル)が屋上で見物していたが、寄りかかった石製の手すりが崩れて瓦が落下して危うく総督にぶつかりそうになるという事件が起きたことで、ベン・ハーはメッサーラに総督暗殺未遂の濡れ衣をきせられ、家族離散、自身は当時奴隷以下の扱いの罪人にされるという憂き目にあう。護送中、苦しむ彼に一杯の水をくれた男がいた。その男こそがイエス・キリストであるということをベン・ハーはまだ知らなかった。その水を飲むとなぜかベンは体力を取り戻し、再び生きる気力を取り戻したのであった。罪人であるベンを介抱しようとするキリストをローマ軍の兵士は殴ろうとするが不思議な雰囲気に圧倒されてとりやめる。この段階で物語はベンが大きな力によって加護されていることを示唆する。
罪人としてガレー船のこぎ手(番号で呼ばれ、船が沈没すれば捨てられる捨て駒である)とされたベン・ハーは海戦において司令官アリウス(ジャック・ホーキンス)の命を救うという大殊勲をあげ、彼を見込こんだアリウスは養子にとりたてる。のちにベンは戦車競走の新鋭としても注目されることになる。ユダヤへ戻って家族を探していたベン・ハーは母(マーサ・スコット)と妹が死んだという報に涙し、メッサーラへの復讐の鬼と化したのであった。
やがてエルサレムでの戦車競走で不敗のメッサーラに挑むことになるベン・ハー。激闘の末、ライバルのメッサーラを倒したベン・ハーは、瀕死のメッサーラから母と妹がハンセン病に感染して隔離場所にいることを知らされる。当時はハンセン病の効果的な治療法がなかったので、]ベンは偉大な霊力を持つと人々の間で信じられていたイエス・キリストのもとに二人を連れて行きその御力に縋った。すると奇跡が起こり二人は完治した。三人はキリストに感謝し物語りは幕を閉じる。

『ベン・ハー』出演陣の横顔紹介

2回目の登場になりました。体つきなどからアーノルド・シュワルツネッガーとも比較されがちです。
この写真は、ちょうどアカデミー賞でオスカー像を持っている時の写真です。

チャールトン・ヘストン(Charlton Heston)

スティーヴン・ボイド(Stephen Boyd、本名:William Millar、1931年7月4日 - 1977年6月2日)は、北アイルランド出身で米国で活躍した俳優。
保険会社や旅行会社で働きながら夜や週末に演劇を続け、劇団に入り、3年の間舞台に立つ。その後ロンドンに出て、ウエイターなどで生活費を稼ぎながらチャンスを狙っていたところ、The Arts Council Midland Theatre Companyに参加するチャンスを得る。また、BBCにも出演するようになった。
1956年、20世紀FOXと契約を結び、アイルランド人スパイを演じた"The Man Who Never Was"で映画デビュー。そして3年後、『ベン・ハー』でチャールトン・ヘストン扮する主人公の宿敵を演じ、強烈な印象を残した。
1960年代後半からはヨーロッパ映画に出演することが多くなっていった。
1977年6月2日、心臓発作により45歳で死去。

スティーヴン・ボイド(Stephen Boyd)

ヒュー・グリフィス(Hugh Griffith, 本名: Hugh Emrys Griffith, 1912年5月30日 - 1980年5月14日)は、イギリス・ウェールズ出身の俳優。
イギリスのウェールズにあるアングルシーに生まれる。スランゲヴニにある地元の高校にて大学入学資格を得ようとするが、英語の試験に落第したため高校卒業後、大学進学を断念し銀行関連の仕事に就き、ロンドンに移り住む。ロンドンで演劇に親しむ機会があり、第二次世界大戦に従軍した後に王立演劇学校で学ぶチャンスを得る。1940年代からイギリス映画に出演しはじめ、1950年代にはハリウッド映画にも出演するようになる。1959年の『ベン・ハー』でアカデミー助演男優賞を受賞。『トム・ジョーンズの華麗な冒険』でもアカデミー賞にノミネートされた。1980年に故郷にあるバンガー大学から演劇と芸術に対しての功績が認められ名誉学位を贈呈された。同年、心臓発作を起こしロンドンにて死去した。

出演陣や製作スタッフの超~豪華さにぶっ飛んだ映画「西部開拓史(How the West Was Won)」は私の映画概念を完全崩壊させた - Middle Edge(ミドルエッジ)

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