ハリウッド製の超大作スペクタクル映画は子供心にもその凄さを感じた!!(1950年後半版)

ハリウッド製の超大作スペクタクル映画は子供心にもその凄さを感じた!!(1950年後半版)

1950年後半は、私がちょうど幼児期を脱しようとする時期であり、また外部からの刺激を積極的に取り入れようとしていた時期と重なります。ちょうどこの頃にハリウッド製の超大作スペクタクル映画が何本も封切され、両親と一緒に映画館に見に行きましたが、あまりの臨場感に恐怖感を憶えたことも多々ありました。そんな映画を年代別に集めてみました。


超大作映画は、こういった大劇場で見たいものです。
臨場感がぜんぜん違います!!。

映画を映す側が窪んでいるのが特徴です。

70mm映画上映も可能なシネマ劇場

1950年後半の超大作映画といえば、『ジャイアンツ』(原題:Giant)からかな!?

物語は、テキサスにおける古い時代(牛の放牧)から新しい時代(石油文明)への30年に及ぶ流れである。
大牧場主ビック・ベネディクト(ロック・ハドソン)と東部から嫁いだレズリー(エリザベス・テイラー)の夫婦の多彩な人生を描く中に、二人に生まれた3人の子供、使用人のレズリーに恋心を持ったジェット・リンク(ジェームズ・ディーン)の生き様を織りまぜて、アメリカ社会における色々な問題点を浮き彫りにしている。例えば、大牧場主や石油王という財力の社会の意味、南部に残る人種差別と使用人の非人間的扱いの社会、また第二次世界大戦の戦争によって若い命が失われるという悲惨な状況・・・などである。

『ジャイアンツ』出演陣の横顔紹介

ロック・ハドソン(Rock Hudson、1925年11月17日 – 1985年10月2日)は、米国出身の俳優。本名はRoy Harold Scherer Jr.。5歳の時に父が家出し8歳の時には母が再婚。10歳から働きに出るという恵まれない環境で育つ。高校を卒業すると海軍に入隊して飛行機の整備士としてフィリピンに駐屯。46年の除隊後、俳優を志して家出した父のいるLAへ渡る。トラックの運転手や郵便配達人のバイトをしていた時にスカウトされ、48年「特攻戦闘機中隊」の端役で映画デビューする。翌年にはユニヴァーサルと契約。アクション・スターとして売り出されるがうまく行かず、ラヴ&コメディの二枚目俳優として再スタートを切り人気者となった。その後代表作となった「心のともしび」、「ジャイアンツ」、「武器よさらば」といった大作に主演。57年から7年間もの間、マネー・ランキングの上位に顔を出し、59年からはドリス・デイと共演して「夜は楽しく」、「「恋人よ帰れ」などで話題となった。71年からはTVシリーズ「署長マクミラン」に主演している。55年に結婚しているが3年後に離婚。ハリウッドを代表する二枚目スターとして知られていたが実はホモセクシャルで、AIDSによって85年に死亡。AIDS患者となった最初の有名人として話題になった。

ロック・ハドソン(Rock Hudson)

エリザベス・テイラー(Dame Elizabeth Rosemond Taylor, DBE、1932年2月27日 - 2011年3月23日)は、英国出身の女優。少女時代から米国の映画会社MGMで子役として映画出演していて、成人後には「ハリウッド黄金時代」(en:Hollywood's Golden Age) を代表する大女優の一人となった。世界的にもっとも有名な女優の一人であり、優れた演技力、美貌、豪奢な私生活、そして珍しいスミレ色の瞳で知られていた。
本名はElizabeth Rosemond Taylor。美術商をしていた父の関係で39年に渡米し、ビバリーヒルズに住む。女優志望だった母に夢を託され、ご近所のツテを頼って42年にユニヴァーサル作品“There's One Born Every Minute”の端役で映画デビュー。翌年MGMと契約し、スタジオ内の学校に通いながら「家路」に出演。以降「緑園の天使」、「若草物語」、「陽のあたる場所」、「ジャイアンツ」等々、幼い頃から醸し出していた大人の雰囲気で映画ファンを魅了し、“リズ”の愛称で親しまれた。50年代後半からは名実共に円熟味を増し、「愛情の花咲く樹」、「熱いトタン屋根の猫」、「去年の夏突然に」と3年連続でアカデミー賞にノミネートされ、60年には「バタフィールド8」で主演賞を受賞。63年には「クレオパトラ」に出演。撮影中に大病を患ったりしたが、66年には「バージニア・ウルフなんかこわくない」で2度目のアカデミー賞を受賞。70年以降はさすがに年と共に人気にも陰りが見え始めるが、80年代からはブロードウェイへ進出。そこでも成功を収めて舞台女優として活躍し、TVにも積極的に出演。87年にレジョン・ドヌール勲章を受けるほか、香水“パッション”、“ホワイト・ダイヤモンズ”を売り出すなどした。84年からはエイズ撲滅運動に目を向け、翌年研究財団AmFARを設立。91年にはエリザベス・テイラー・エイズ財団も設立し、その功績を称えて93年にアカデミーのジーン・ハーシ賞を受賞した。さて、エリザベス・テイラーといえば結婚遍歴が付き物。15歳の頃から共演者や大富豪の息子たちとの噂は絶えることなかったが、最初の結婚は18歳の時の50年、ホテル王の息子、コンラッド・ヒルトン・ジュニアと。しかし1年と経たずに離婚。52年に撮影先で知り合ったマイケル・ワイルディングと結ばれ二人の息子が生れるが、プロデユーサーのマイケル・トッドと恋に落ちて57年に離婚。その3日後にトッドと結婚するが彼が飛行機事故で58年に死亡。落ちこんでいた彼女を(当時デビー・レイノルズと結婚していた)歌手のエディ・フィッシャーが励まし、不倫関係に発展。59年に世の非難の中結婚した。その後「クレオパトラ」で共演したリチャード・バートンといい仲になり、こちらも大スキャンダルとなったが(当時のバートンはもちろん妻子持ち)64年、リズ離婚後の9日目に再婚。リチャード・バートンとは以降多数の作品に共演するが、74年、彼のアルコール中毒がもとで離婚。翌年よりを戻して再婚するがわずか10ヶ月ではたまた破局。76年に上院議員、ジョン・ワーナー、91年にはラリー・フォーテンスキーと再婚したがいずれも離婚し、結婚回数はバートンとの二度の結婚を含めて8回となった。11年、うっ血性心不全のため死去。79年の人生だった。

エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor)

ジェームズ・バイロン・ディーン(James Byron Dean、1931年2月8日 - 1955年9月30日)は、米国出身の俳優。ジミー・ディーン(Jimmy Dean)とも呼ばれる。
幼き頃に母を亡くし、叔母夫婦の元に預けられる。49年、再婚した父に引き取られてカリフォルニア州サンタモニカに渡り、ジュニア・カレッジ演劇科に入学。50年、父の勧めでカリフォルニア大学の法学部に進むが演技への執着から演劇科へ移行。エキストラとして活動を始める。が芽が出ずニューヨークへ移りブロードウェイの舞台のチャンスを得た(この頃アクターズ・スタジオにも入学。同期にはポール・ニューマンやマーロン・ブランドがいた)。そこで『背徳者』の出演中、監督エリア・カザンの目に止まり「エデンの東」へ大抜擢される。微妙に揺れるティーン・エイジの青年を魅力的に演じ一挙にスター・ダムにのしあがる。その後、爆発的な人気と共に「理由なき反抗」、「ジャイアンツ」と主演するが「ジャイアンツ」撮影終了間際の55年9月30日、愛車ポルシェ・スパイダーで正面衝突し事故死。24歳の若さでこの世を去った。

ジェームズ・ディーン(James Dean)

『ジャイアンツ』と同じ年に公開された『戦争と平和』も大作中の大作だ!!

レフ・トルストイの小説「戦争と平和」の映画化で1956年に製作・公開されたイタリアと米国の合作映画。出演は、オードリー・ヘプバーン、ヘンリー・フォンダ、メル・ファーラー。

『戦争と平和』(せんそうとへいわ、原題:War and Peace)

1812年のナポレオン率いるフランス軍の帝政ロシア侵攻を縦糸に、ロシア貴族の三つの家族を含む500人の人物を横糸に、文豪トルストイが1865年から1869年にかけて執筆した大河ドラマを基にして、1956年にハリウッドが全力をあげて製作したドラマである。
4巻にも渡る長い小説を、他はできるだけ省いて、ベズコフ伯爵の庶子であるピエール (ヘンリー・フォンダ)、彼の無二の親友アンドレイ公爵(メル・ファーラー)、そしてロストフ伯爵家の娘ナターシャ(オードリー・ヘップバーン) の三人の愛情の縺れを中心に描いている。

実は、同様の題材で1967年にソ連が威信をかけた7時間の作品を作成していますが、当時では、オードリー・ヘップバーンが出演したこの作品が「戦争と平和」の初めての映画化のようです。

『戦争と平和』出演陣の横顔紹介

ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda、1905年5月16日 - 1982年8月12日)は、米国国の映画俳優、製作者。俳優のジェーン・フォンダとピーター・フォンダは2番目の妻との間の子。本名はHenry Jaynes Fonda
彼は印刷工場を営むイタリア系移民の長男として生まれ、幼い頃から絵や文学の才能に恵まれ、12歳の時にはニュース映画で映画デビューを果たす。新聞記者を目指して大学でジャーナリズムを専攻するが2年目に中退。 20歳の時、マーロン・ブランドの母親ドロシー・ブランドの薦めでアマチュア劇団「オマハ・コミュニティ・プレイハウス」に参加し、25年に初舞台を踏む。 舞台のシーズンが終了すると、小売信用会社の事務員として働き始めるが、演劇の魅力に魅せられたフォンダは、仕事を辞めて俳優になることを選び、28年にはジョシュア・ローガン、ジェームズ・スチュワート、マーガレット・サリヴァンらが参加する「ユニバーシティ・プレイヤーズ・グループ」に入団。フォンダはサリヴァンと恋に落ち31年に結婚するが、長くは続かず2年後に離婚する。 離婚後はローガンやスチュワートらと共にニューヨークに移り、アパートを借りて共同生活をしながら、地方の舞台への出演や舞台装置家として働いていた。34年のレビュー『ロウ・アンド・ビホールド』でのパフォーマンスが高い評価を獲得し、翌年には『運河のそよ風』の主役に抜擢される。 この舞台の成功によってハリウッドに招かれ、同作の映画版でハリウッド・デビューを果たし、誠実な好青年のイメージが好評を博して続く『東への道』(35)や『丘の一本松』(36)でも似たようなキャラクターを演じる。 しかし、タイプキャストを嫌うフォンダはフリッツ・ラング監督のスリラー『暗黒街の銃弾』(37)や、ウィリアム・ワイラー監督のコスチューム・ドラマ『黒蘭の女』(38)などで固定したイメージに囚われずに様々な役をこなしてゆく。 36年にはニューヨーク社交界の大物シーモア家の娘フランシスと再婚。2人の間にはジェーンとピーターが生まれた。 39年には青年時代のリンカーンを演じた『若き日のリンカーン』と、南北戦争を舞台にした恋愛ドラマ『モホークの太鼓』の2本のジョン・フォード監督作に相次いで出演。 20世紀フォックス社と7年の専属契約を結び、40年には再びフォードと組んでジョン・スタインベックの小説の映画化『怒りの葡萄』に出演。当り役となった主人公トム・ジョードを熱演して初のアカデミー主演男優賞にノミネートされた。 41年にはパラマウント社に貸し出されてスクリューボール・コメディ『レディ・イヴ』に出演し、シリアスな顔でドタバタ演技を披露して観客を大いに笑わせる。 第二次世界大戦中は海軍に入隊。武功を上げて青銅星章と大統領感状が与えられる。 除隊後は再びフォード監督と組んで、OK牧場の決闘を詩情豊かに描いた『荒野の決闘』(46)でワイアット・アープを好演。 翌年の『逃亡者』(47)と48年の『アパッチ砦』でもフォードと組んで、フォード映画には欠かせない俳優の一人となる。 47年にはフォックスとの専属契約を破棄して、親友ジョシュア・ローガンの舞台劇『ミスタア・ロバーツ』に出演。軍隊での経験を生かした彼の演技は舞台と共に絶賛されてトニー賞の主演男優賞を獲得し、7年もの間ロバーツ役を演じつづけた。 55年の映画版『ミスタア・ロバーツ』でもロバーツを演じたが、フォンダは演出を担当したフォードのやり方に満足できずに、二人は激しく対立してしまい、これがフォードと組んだ最後の映画となってしまう。 好調な俳優活動とは反対に、フランシスとの夫婦関係は悪化し、50年にフランシスは家庭を顧みずに浮気を繰り返す夫を苦に自殺。フォンダは子供達を動揺させないために母親は心臓発作で死んだと教えた。 50年代は『シーソーの二人』や『ケイン号の叛乱』などの舞台や、テレビ・シリーズ『胸に輝く銀の星』など映画以外のメディアでも幅広く活躍。 映画ではアルフレッド・ヒッチコック監督のセミ・ドキュメンタリー・サスペンス『間違えられた男』(56)や、自ら製作を務めた骨太の法廷ドラマ『十二人の怒れる男』(57)などの興行成績を度外視した質の高い作品に出演して名演技を披露する。 60年代に入ると『ベスト・マン』(64)や『未知への飛行』(64)で手堅い演技を見せ、68年にはセルジオ・レオーネ監督の『ウェスタン』では冷酷非常な殺し屋を演じて新境地を開拓。 70年代以降は主演作は減り『ミッドウェイ』(76)、『テンタクルズ』(77)、『スウォーム』(78)、『メテオ』(79)などのオールスター映画にゲスト出演する。 フランシスとの間に生まれたジェーンとピーターは父親の後を追って俳優になるが、母親の死の真相を知った二人と父親の関係は次第に悪化し、ジェーンとピーター共に俳優として成功した後も、過激な振る舞いでマスコミを賑わせてフォンダを悩ませた。 やがて、二人は父親と和解し、ピーターは自分の監督作『ワンダ・ネヴァダ』(77)に父親をカメオ出演させ、ジェーンは年老いた父親のために『黄昏』(81)を企画。 娘と初共演した今作で、フォンダはキャサリン・ヘプバーンを共演者に迎えて年老いた頑固な老夫婦を熱演。フォンダは念願のアカデミー主演男優賞を獲得し、これが遺作となって授賞式の5ヵ月後にこの世を去った。

ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda)

オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、英国人で、米国の女優。本名はAndrey Kathleen Ruston。貿易商の父とオランダ貴族出身の母の下に生まれ、5歳の時に戦争のためイギリスへ渡りロンドン郊外の寄宿学校に通う。10歳の時、両親が離婚したのをきっかけに、母と共にオランダに移住しバレエのレッスンを始めた。以後、戦火の中、モデルなどをして生計を立て、48年、単身ロンドンに渡りマリー・ランバート・バレエ学校に入学。プロとして舞台デビューを果たす。50年に端役として映画に出演。以降、数本の作品に出演した後、51年、撮影中に『ジジ』の原作者であるコレット女史と出会い、同作のブロードウェイ公演で主役に抜擢される。その舞台を見たウィリアム・ワイラーにより53年「ローマの休日」にて主役の座を獲得。作品の大ヒットと共にアカデミー主演女優賞を受賞し、一大ブームを巻き起こす。以後はスター街道を突き進み「麗しのサブリナ」、「尼僧物語」、「ティファニーで朝食を」、「暗くなるまで待って」でアカデミー主演女優賞にノミネートされた。メル・ファーラーとの間にショーンをもうけた後、68年に離婚。翌年精神科医と結婚するも一児を残してこちらも離婚に至っている。晩年はユニセフに親善大使として参加。ソマリアで難民救済に力を注いでいた。93年直腸ガンのため、63歳でこの世を去った。しかし今なおCMなどに彼女の映像が使われているように、“永遠の妖精”はいつまでもその清純な美しさで我々を魅了し続けてくれるであろう。

オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)

メル・ファーラー(Mel Ferrer、1917年8月25日 - 2008年6月2日)は米国の俳優、映画監督、プロデューサー。本名はMelchior Gaston Ferrer。NY社交界の名士の息子として生まれる。名門プリンストン大を中退後、在学中から続けていたプレイ・ハウスを卒業。メキシコで子供向けの本を執筆した後、ヴァーモントの出版社に勤務しながら演劇に身を投じていた。やがて主役を演じるようになって会社を退職、ブロードウェイなどに出演するようになる。その傍らでは放送局に入ってDJからNBCのディレクター兼プロデューサーになる。映画界へは監督として45年にコロムビアと契約。しかし役者への道を捨てきれなかったのか同年俳優としてもデビューした。私生活では4度の結婚歴があり、中でも54年にブロードウェイで共演したヘプバーンとの結婚は当時話題になり、幾つかの作品で共演や製作を手掛け、息子も誕生したが68年に離婚。その他、カトリーヌ・ドヌーブなどとの噂もあった。08年6月に90歳で死亡。

メル・ファーラー(Mel Ferrer)

今世紀の戦争物で必ず上位に食い込む『戦場に架ける橋』が1957年に公開!!

1957年公開の英・米合作映画。第30回アカデミー賞作品賞受賞作品。巨匠D・リーンが、第二次大戦を背景に戦争の愚かさと人間の尊厳を描き出した不朽の名作。主演は、アレック・ギネス、ウィリアム・ホールデン、早川雪洲。

『戦場にかける橋』(せんじょうにかけるはし、The Bridge on The River Kwai)

タイとビルマの国境近くにある日本軍の捕虜収容所では、連合軍捕虜を使って、国境に流れるクワイ河に橋を架ける準備が進められていた。だが、英軍大佐(アレック・ギネス)はジュネーヴ協定に反するとして、所長(早川雪洲)と対立。一方、米軍捕虜の海軍少佐(ウィリアム・ホールデン)は脱走を試み、辛くも収容所を後にした。英軍大佐の気骨に共感した所長は、捕虜の恩赦を条件に再度協力を要請。捕虜たちに生きがいを与えようと考えていた大佐はこれを承諾し、こうして建設工事が始まった。だが同時に、生き延びた米海軍少佐の手引きによって、連合軍による架橋爆破作戦も開始されようとしていた・・・。
戦後50年を過ぎ、次第に明らかになってきた戦中当時の証言によれば、日本軍の行った捕虜を使っての労役にはもっと非人道的なものがあり、この映画で描かれているような事は絵空事でしかないのだろうが、その事実とこの作品の良さは別次元で語られるべきであろう。我々にはもはやこの“戦争映画”は寓話としてしか観る事ができないかもしれないが、その寓話は非常に感動的で、人間ドラマとしての素晴らしさ、スペクタクルの醍醐味を持っているのだ。アカデミー作品・監督・脚色・主演男優(アレックス・ギネス)・編集・撮影・音楽賞受賞。脚本のM・ウィルソンとC・フォアマンは当時赤狩りの疑いをかけられていたためクレジットを削除されていたが、1984年のアカデミーで改めてこれを表彰、後に製作されたドルビー改訂版ではクレジットも復活した(C・ウィリンガムは元々クレジットされていない)。

『戦場にかける橋』出演陣の横顔紹介

アレック・ギネス(Sir Alec Guinness, CH, CBE、1914年4月2日 - 2000年8月5日)は、英国の俳優。
本名はAlec Guinness de Cuffe。学生時代に演劇の虜となり、卒業後数ヶ月広告会社に勤めるがその後演劇学校に入る。34年通行人役で舞台に立ち、やがてジョン・ギールグッドに認められ彼の劇団に参加。『ハムレット』などに出演してその実力をメキメキと発揮して行く。第二次大戦は海軍に入隊。戦後の46年、「大いなる遺産」で本格的に映画デビュー。翌年には「オリヴァ・ツイスト」で強烈な印象を残す。57年“THE HORSE'S MOUTH”でアカデミー主演賞にノミネート。57年には「戦場にかける橋」で英軍大佐を演じて同賞を受賞。翌年には“THE HORSE'S MOUTH”の脚本を手掛け同脚本賞候補に昇り、更に翌年にはこれまでの功績を称えてサーの称号が与えられた。以降は準主役級の役から次第に脇役にまわるようになるが円熟味を増した演技力で確実に役柄を捉えて好演。77年には「スター・ウォーズ」でジェダイ・マスターのオビワン・ケノービを演じて若い映画ファンにも親しまれた。80年、アカデミー名誉賞を受賞。38年に舞台女優と結婚。一人息子も舞台俳優に。00年、肝臓ガンのためこの世を去った。

アレック・ギネス(Sir Alec Guinness)

ウィリアム・ホールデン(William Holden, 1918年4月17日 - 1981年11月12日)は、米国出身の俳優。本名はWilliam Franklin Beedle Jr.。細菌学者を目指していたが、学生になった頃から演劇に興味を持ち、パサディナ・プレイハウスで演技を学ぶ。やがて舞台に立つようになり、パラマウントにスカウトされて映画デビュー。下積み後の39年「ゴールデン・ボーイ」で注目される。以降順調に見られたが、第二次大戦を挟んでその後低迷。だが、ハリウッドの光と影を映し出した名作「サンセット大通り」の売れない脚本家に扮して見事復活。アカデミーの主演候補に登った。以降は「第十七捕虜収容所」で主演賞を受賞した他、「喝采」、「麗しのサブリナ」、「ピクニック」、「慕情」、「戦場にかける橋」と、ハリウッドの一角を担う大スターとして大活躍。それと同時に実業家としても活動し、アフリカはケニアに1200エイカーにも及ぶサファリ・クラブの共同経営などにも参加した。ブレンダ・マーシャルとは41年に結婚するが、キャプシーヌと不倫関係になり70年に離婚。さすがに晩年は人気も下火になるが、69年の「ワイルドバンチ」、74年の「タワーリング・インフェルノ」。そして76年には再び「ネットワーク」で主演賞候補になるなど、老いても尚その実力を発揮していた。しかし実際は事業の不振、50年代から続いた呼吸器疾患、若い恋人との関係などと悩みも多く、重度のアルコール依存症だったという。そして81年、酔ったまま転倒して頭を大きく切ってしまい、出血多量が原因で急死。その発見は死後数日経ってからという悲しい結末だった。

ウィリアム・ホールデン(William Holden)

早川 雪洲(Sessue Hayakawa はやかわ せっしゅう、1886年6月10日 - 1973年11月23日)は、日本の俳優。千葉県出身。本名は早川 金太郎(はやかわ きんたろう)。1907年に21歳で単身渡米し、1910年代に草創期のハリウッドで映画デビューして一躍トップスターとなった。彼はアメリカとヨーロッパで主演男優としてスターダムにのし上がった最初のアジア系俳優だった。彼の「不気味でハンサムな」美貌と性的に魅力的な悪役というタイプキャスティングは、公然と人種差別が行われていた時代にアメリカ人女性の心を掴み、ハリウッドで最初の男性セックスシンボルの1人になった。日本人排斥運動や二度の世界大戦、私生活での混乱などによるキャリアの中断を挟みながらも、晩年の『戦場にかける橋』(1957年)でアカデミー助演男優賞にノミネートされるなど半世紀以上にわたって活躍した国際的映画俳優である。妻の青木鶴子もまたハリウッド草創期の人気女優であった。

早川雪洲(Sessue Hayakawa)

1958年の映画『十戒』はキリスト教徒には定番中の定番!!

『十戒』(じっかい、The Ten Commandments)は、1956年の米国の映画。歴史映画で「旧約聖書」の「出エジプト記」を原作として制作されたスペクタクル映画。純正ビスタビジョンで撮影されて、製作・監督はセシル・B・デミルでこれが最後の作品。主演はチャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナー、アン・バクスター、共演はエドワード・G・ロビンソン、イヴォンヌ・デ・カーロなど。聖書に書かれている紅海が割れ、その中をモーセなど出エジプトの民が海の中を進むクライマックスシーンはあまりに有名。

『十戒』(じっかい、The Ten Commandments)

タイトルにもなった「十戒」とは人類が神と交わした十の掟。これは、何とキリスト教、ユダヤ教、イスラム教にまで影響を及ぼしている。 ヒトが人として生きる基盤で3,000年前の掟にも関わらず、労働の行き過ぎ、偶像崇拝を否定している。

1 我は汝の神ヤーウェ、汝をエジプトより導いたもの、私の外、何ものも神するなかれ
2 汝、自らのために偶像を造って拝み仕えるなかれ
3 神ヤーウェの名をみだりに唱えるなかれ
4 安息日をおぼえて、これを聖くせよ
5 汝の父と母を敬え
6 汝、殺すなかれ
7 汝、姦淫するなかれ
8 汝、盗むなかれ。
9 汝、隣人に対して、偽りの証をするなかれ
10 汝、隣人の家に欲を出すなかれ

物語としては、エジプトの第19王朝ラムセス1世の時代にイスラエル民族に過酷な労働をさせ苦しめていた。そのイスラエル 民族の間に解放者が生まれるとの噂を聞き、新しく生まれた男子をすべて殺させた。
しかし、ヨシャベル(マーサ・スコット)の子は娘ミリアム(オリーヴ・デアリング)の予言を信じて、新しく生まれた男子をナイル河に流す。ちょうどその頃、ナイル河に水遊びに来ていた王女べシア(ニナ・フォック)のもとに、その男子は流れついた。子供のないビシアは侍女の メムネット(ジュディス・アンダーソン)に口止めをすると、自分の子供として育てることにし、その子を“水から引き出した”ゆえに モーゼ(チャールトン・ヘストン)と名づけた。
モーゼが青年になり若い王と呼ばれていたころ、ラムセス1世が死んで新しい王セティ(セドリック・ハードウィック)の時代に入って いた。モーゼはエチオピアを征服し凱旋する。しかし、これを快く思っていない者がいた。セティ の息子、ラムセス2世(ユル・ブリンナー)である。次のエジプト王はモーゼといわれていたが、 ラメシス2世はこれを阻止すべく、モーゼ出生の秘密をしりある計画を企てた...。

と、まあ全部記述しようとすると膨大な量のテキストになりそうなのでここらへんで止めときます。

『十戒』出演陣の横顔紹介

チャールトン・ヘストン(Charlton Heston, 1923年10月4日 - 2008年4月5日)は米国出身の俳優、社会運動家。身長191cm。妻は女優のリディア・クラーク、長男は映画監督のフレイザー・ヘストン(Fraser Heston)。
本名はJohn Charles Carter。12歳の時に両親が離婚。母(旧姓チャールトン)が再婚し、義父の姓のヘストンを貰ってチャールトン・ヘストンと名乗るようになる。高校時代に学生劇に出演して演劇に興味を抱き、ノース・ウエスタン大学で演劇を専攻。1944年には大学で知り合った演劇仲間の女学生リディアと結婚。直後に空軍に従軍して無線技師となる。除隊後に妻と共に劇団を旗揚げし、1947年、ブロードウェイ・デビュー。やがてTVで活躍し始め、ハル・B・ウォリスに認められて、1950年「虐殺の街」でスクリーン・デビュー。その2年後に「地上最大のショウ」に出演。以降“ミケランジェロの彫刻のような素晴らしい肉体”とセシル・B・デミルに絶賛され、「十戒」、「ベン・ハー」などのスペクタクル大作や歴史劇のヒーローとして絶大なる人気を獲得し、アカデミー主演賞に輝いてその後はスター街道を走り続ける事となった。1966年からは俳優組合の会長に5年間就任。1971年には「アントニーとクレオパトラ」で監督にも挑戦。俳優仲間からの人望も厚く、ハリウッドでの政治的リーダーとして強い影響力を示し、1977年にはその功績からジーン・ハーショルト友愛賞を授与されている。1998年からは全米ライフル協会の会長にもなった。近年も話題作への関わり合いが多い。ハリウッドの有名俳優としては珍しく離婚歴もなく、息子のフレイザーは監督になった。2002年、アルツハイマーの兆候があることを告白。治療に当たっていたが2008年に帰らぬ人となってしまった。

チャールトン・ヘストン(Charlton Heston)

スキンヘッドが強く印象に残る名優。本名はYuli Borisovich Bryner。モンゴル・スイス系の父とユダヤ・ロシア系の母との間に生まれる。ミュージシャンや曲芸師を経て俳優を志し、1940年頃に渡米。舞台やTVシリーズに出演したのち、1949年の「ニューヨーク港」で映画デビューし、1952年にブロードウェイ・ミュージカル“王様と私”でトニー賞を獲得。1956年にはその映画版で同じくシャム王に扮し、アカデミー賞主演男優賞に輝いた。その後も「十戒」や「追想」、「荒野の七人」「エスピオナージ」など幅広いジャンルで活躍。だが、ヘビースモーカーであることが祟り、1985年に肺ガンで惜しくもこの世を去った。また、同年まで延べ4000回以上に渡り、舞台版“王様と私”に出演し、王様役を演じ続けた。写真家や作家としての一面もある。4度結婚し、5人の子供をもうけた。
皆様、たばこはやめましょうね!!

ユル・ブリンナー(Yul Brynner)

アン・バクスター(Anne Baxter, 1923年5月7日 - 1985年12月12日)は米国出身の女優。帝国ホテルの設計などで日本でもあまねく知られている建築家フランク・ロイド・ライトの孫娘だそうだ。いかにも小生意気そうに見えるところが彼女の魅力の一つであり、エネルギッシュな活発さが彼女の所作全体を通して感じられる。また、外見はカワイ子ちゃんタイプであるにも関わらず、声がやや低目であり、ハスキーとまでは言えないとしても独自の魅力があった。小生意気そうに見えるのは、多分に「イヴの総て」(1950)で演じたイヴの印象が強烈であったからかもしれませんが、「剃刀の刃」(1946)でのアカデミー助演女優賞受賞など既に40年代にかなりの実績を積んでいたとはいえ、この役で彼女のビッグスターとしての地位は揺るぎないものになったと見なせるでしょう。同作品によってアカデミー主演女優賞にノミネートされながら、ベティ・デービスもまったく同じ作品で同じ賞にノミネートされ、「イヴの総て」を高く評価していた審査員の票が割れた結果、「Born Yesterday」(1950)のジュディ・ホリデイが漁夫の利を得たのは有名な話です。一説によれば、バクスターは、作品中で演じたイヴさながらにマキャベリ的な技巧を駆使して、助演女優賞ではなく主演女優賞に自分がノミネートされるよう工作したということだそうです。真偽のほどはともかくとして、今となっては、それはそれで面白い話ではあります。なお、作品中で彼女が受賞する「The Sarah Siddons Award」は、作品公開時は架空の賞でしたが(Sarah Siddons自体は、19世紀の実在の女優の名前です)、同作品の影響で数年後に実際にその名の賞が設けられます。Wikipedia(英語版)を参照すると、不思議なことにブライアン・デネヒーなどの男優も受賞しているようであり、また、たとえばクローデット・コルベールが1980年の受賞など、栄誉賞的な意味合いがあるようです。アン・バクスターも、1973年に受賞しているようであり、ということは架空の賞と実在の賞を、作品中と現実世界で二度受賞したことになります。因みに、2008年は、日本ではとんと見かけなくなったキャスリン・ターナーが受賞しているようです。

アン・バクスター(Anne Baxter)

1959年の映画『ベン・ハー』もキリスト教徒には定番中の定番で主演も『十戒』のチャールトン・ヘストンだった!!

『ベン・ハー』(Ben-Hur)は、1959年制作のアメリカ映画。ルー・ウォーレスによる小説『ベン・ハー』の3度目の映画化作品である。ウィリアム・ワイラー監督。主演は、チャールトン・ヘストン、共演は、スティーヴン・ボイド、マーサ・スコット、キャシー・オドネル、ジャック・ホーキンス、ヒュー・グリフィス、ハイヤ・ハラリートなど。同年アカデミー賞で作品賞・監督賞・主演男優賞・助演男優賞をはじめ11部門のオスカーを受賞。この記録は史上最多記録でその後長く続き、『タイタニック』(1997年)、『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(2003年)がようやく同じ11部門受賞で並んだが、現在もアカデミー賞の史上最多受賞作品の一つである。
映画は、ローマ帝国支配時代のユダヤ人王族のジュダ・ベン・ハーの数奇な半生にイエス・キリストの生涯を交差させて描かれているのであるが、見所は何と言っても、クライマックスの戦車競争のシーン。実物大に組まれた競技場のセットでの戦車競争シーンは見応えがある。
しかしまあ、実際にCGもない時代にあれだけの規模のセットを作ってしまうとは・・・。今ならあり得ないし、あれだけのエキストラを使うことも考えられない。
だが、この映画一本で倒産寸前だったMGMを一気に立て直すことができたそうである。まさにベン・ハー様々!!。

『ベン・ハー』(Ben-Hur)

映画の物語としては、紀元26年、ローマ帝国支配時代のユダヤにローマから一人の司令官が派遣される。彼の名前はメッサーラ(スティーヴン・ボイド)。メッサーラは任地のエルサレムで幼馴染のベン・ハー(チャールトン・ヘストン)との再会を喜び合う。ベン・ハーは貴族の子でユダヤ人とローマ人ながら2人は強い友情で結ばれていた。
しかし、2人の立場はエルサレムでは支配者と被支配者。そのことが2人の友情に亀裂を生むことになる。その折も折、新総督が赴任してきたときおこなわれたパレードでベンの妹(キャシー・オドネル)が屋上で見物していたが、寄りかかった石製の手すりが崩れて瓦が落下して危うく総督にぶつかりそうになるという事件が起きたことで、ベン・ハーはメッサーラに総督暗殺未遂の濡れ衣をきせられ、家族離散、自身は当時奴隷以下の扱いの罪人にされるという憂き目にあう。護送中、苦しむ彼に一杯の水をくれた男がいた。その男こそがイエス・キリストであるということをベン・ハーはまだ知らなかった。その水を飲むとなぜかベンは体力を取り戻し、再び生きる気力を取り戻したのであった。罪人であるベンを介抱しようとするキリストをローマ軍の兵士は殴ろうとするが不思議な雰囲気に圧倒されてとりやめる。この段階で物語はベンが大きな力によって加護されていることを示唆する。
罪人としてガレー船のこぎ手(番号で呼ばれ、船が沈没すれば捨てられる捨て駒である)とされたベン・ハーは海戦において司令官アリウス(ジャック・ホーキンス)の命を救うという大殊勲をあげ、彼を見込こんだアリウスは養子にとりたてる。のちにベンは戦車競走の新鋭としても注目されることになる。ユダヤへ戻って家族を探していたベン・ハーは母(マーサ・スコット)と妹が死んだという報に涙し、メッサーラへの復讐の鬼と化したのであった。
やがてエルサレムでの戦車競走で不敗のメッサーラに挑むことになるベン・ハー。激闘の末、ライバルのメッサーラを倒したベン・ハーは、瀕死のメッサーラから母と妹がハンセン病に感染して隔離場所にいることを知らされる。当時はハンセン病の効果的な治療法がなかったので、]ベンは偉大な霊力を持つと人々の間で信じられていたイエス・キリストのもとに二人を連れて行きその御力に縋った。すると奇跡が起こり二人は完治した。三人はキリストに感謝し物語りは幕を閉じる。

『ベン・ハー』出演陣の横顔紹介

2回目の登場になりました。体つきなどからアーノルド・シュワルツネッガーとも比較されがちです。
この写真は、ちょうどアカデミー賞でオスカー像を持っている時の写真です。

チャールトン・ヘストン(Charlton Heston)

スティーヴン・ボイド(Stephen Boyd、本名:William Millar、1931年7月4日 - 1977年6月2日)は、北アイルランド出身で米国で活躍した俳優。
保険会社や旅行会社で働きながら夜や週末に演劇を続け、劇団に入り、3年の間舞台に立つ。その後ロンドンに出て、ウエイターなどで生活費を稼ぎながらチャンスを狙っていたところ、The Arts Council Midland Theatre Companyに参加するチャンスを得る。また、BBCにも出演するようになった。
1956年、20世紀FOXと契約を結び、アイルランド人スパイを演じた"The Man Who Never Was"で映画デビュー。そして3年後、『ベン・ハー』でチャールトン・ヘストン扮する主人公の宿敵を演じ、強烈な印象を残した。
1960年代後半からはヨーロッパ映画に出演することが多くなっていった。
1977年6月2日、心臓発作により45歳で死去。

スティーヴン・ボイド(Stephen Boyd)

ヒュー・グリフィス(Hugh Griffith, 本名: Hugh Emrys Griffith, 1912年5月30日 - 1980年5月14日)は、イギリス・ウェールズ出身の俳優。
イギリスのウェールズにあるアングルシーに生まれる。スランゲヴニにある地元の高校にて大学入学資格を得ようとするが、英語の試験に落第したため高校卒業後、大学進学を断念し銀行関連の仕事に就き、ロンドンに移り住む。ロンドンで演劇に親しむ機会があり、第二次世界大戦に従軍した後に王立演劇学校で学ぶチャンスを得る。1940年代からイギリス映画に出演しはじめ、1950年代にはハリウッド映画にも出演するようになる。1959年の『ベン・ハー』でアカデミー助演男優賞を受賞。『トム・ジョーンズの華麗な冒険』でもアカデミー賞にノミネートされた。1980年に故郷にあるバンガー大学から演劇と芸術に対しての功績が認められ名誉学位を贈呈された。同年、心臓発作を起こしロンドンにて死去した。

出演陣や製作スタッフの超~豪華さにぶっ飛んだ映画「西部開拓史(How the West Was Won)」は私の映画概念を完全崩壊させた - Middle Edge(ミドルエッジ)

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