
’64東京オリンピックの聖火点灯式

バレーボールの試合風景
バレーボールに関する”うんちく”!

バレーボールの生みの親であるウィリアム・ジョージ・モーガン (William George Morgan)
バレーボールは戦後、職場のレクレーションであった!!

今は懐かしい屋上バレーボール
”東洋の魔女”とは??

1964年の東京オリンピックで金メダルを獲得した”東洋の魔女”の主力
勝つために”鬼”と化した大松監督

故大松 博文監督
回転レシーブの妙技!!
日本のスポーツ中継史上最高視聴率66.8%を記録!!

当時の試合の模様

女子バレーボールメダル授与式
当時の流行語だけで女子バレーボールのことを表現できる一文ができた!!
『鬼の大松(当時の全日本女子バレーボールチーム監督だった大松博文)』さんは、『黙ってオレについてこい!』と、『スパルタ練習』で『回転レシーブ』を編み出し、『東洋の魔女』を育てた!!。
上記の『』で囲った部分が当時、とても流行った言葉でした、当時はユーキャンの流行語大賞などなかったので、ノミネートなどはありませんが、もしもあればみんな大賞候補に間違いありません。
’64東京オリンピック後日談
’64東京オリンピックが成功裏に終り、オリンピックの熱狂が去るとともに、大松博文は監督を引退する。最年少の磯辺サタを除く”東洋の魔女”5人(河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子)も、あとに続き、皆各自の道を歩むこととなる。
大松博文は、中国の首相・周恩来の招きで中国の女子バレーを指導することとなった(その後、中国は世界一の座につく)。
名門・日紡貝塚というチームは、東京オリンピックでマネージャーを務めていた小島孝治・新監督に受け継がれ、公式戦258連勝を記録した。以後、チーム名が「ユニチカ」となり、2000年の活動停止をもって「東レ・アローズ」へと引き継がれた。
大松博文は1978(昭和53)年、57歳の若さで他界。墓石の脇には、「根性」の文字が刻まれた”石のバレーボール”が捧げられている。
共に苦しさ、つらさを乗り越えた後の堅い友情!!

今から約10年前にイベントで再集合した時の日紡貝塚の6選手
女子バレーボールのその後
バレーボールがオリンピックの正式競技として定着すると、諸外国では当然のようにメダルを狙って競技力を高めてきた。ソ連(現ロシア)、東ドイツ(現ドイツ)、ポーランド、ブルガリアなど旧来の強豪国に加え、アメリカ、キューバ、ブラジル、イタリアなどが台頭。アジアでも中国、韓国も力を付け、日本は1984年ロサンゼルス大会での女子の銅メダルを最後にメダルどころかアジア枠のオリンピック出場権を獲得することさえ厳しい状況になってしまった。なんと、シドニー大会では出場すらもできませんでしたが、ロンドンではロサンゼルス大会以来の銅メダルを獲得して、久しぶりに日本の存在感を示した感はあったのではないでしょうか?
2020年の東京オリンピックではぜひとも奮起してくれることを願うばかりです!!。
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