TV視聴率で未だに記録が破られてない’64東京オリンピック女子バレーボール試合は伝説中の伝説だ!!

TV視聴率で未だに記録が破られてない’64東京オリンピック女子バレーボール試合は伝説中の伝説だ!!

’64東京オリンピックをテレビも含めて、その時に自分の目で見た世代の人々に、何が印象に残っているかと尋ねれば、一つは柔道無差別級でオランダのヘーシンクが圧倒的な力で日本の神永を寝技でねじ伏せ、一本勝ちを収めたことと、もう一つは当時、女子バレーボール界で絶対的な強さを誇ったソ連チームを撃破し金メダルを奪取した「東洋の魔女」こと日本女子バレーボールチームのことであろう。今回は’64東京オリンピックの日本女子バレーボールについてスポットライトをあてることにしよう!!


東京オリンピックは、1964年(昭和39年)10月10日(後の体育の日)から10月24日の期間にかけて日本の東京で開かれた第18回夏季オリンピックのことを言う。
1954年(昭和29年)に1960年(昭和35年)夏季大会開催地に立候補したが、翌1955年(昭和30年)の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。次に1964年(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、1959年(昭和34年)5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。
得票数は東京が過半数を超える34票、デトロイト10票、ウィーン9票、ブリュッセル5票だった。特に、総会での立候補趣意演説を行なった平沢和重(外交官)や、中南米諸国の支持を集めるために奔走したロサンゼルスの実業家、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)、当時都議であった北島義彦、「日本メイズの父」といわれた八田一朗らの功績が大きかった。開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなった。

’64東京オリンピックの聖火点灯式

1964年の第18回夏季オリンピック東京大会開催に当たり、当時の規定で開催国が新競技を2競技まで新設することができました。東京オリンピック組織委員会は、日本は柔道(男子のみ)とバレーボールを選びました。なぜか? 答えは簡単でした。当時、日本が金メダルを取れそうな競技種目がそれらだったからです。ちなみに、女子バレーボールはオリンピック競技では初めて採用された最初の女子団体競技でした。

バレーボールの試合風景

バレーボールに関する”うんちく”!

バレーボールの起源は、テニスをヒントにして、女性や子供が気軽に楽しめるレクリエーションとして1895年2月9日、米国人のウィリアム・G・モーガンによって考案されました。その頃のルールは非常に単純で、試合に集まった人たちを同じ数の2チームに分けて、ボールを打ち合い、ボールを落としたほうが負けというものであった。 この頃は相手コートに返す際の回数は決まっていなかった。 1896年、モーガンはこの新ゲームをスプリングフィールドで開催されたYMCA体育指導者会議の際に公開した。モーガンは当初このゲームをミントネット(Mintonette)と名付けたが、後にハルステッド(YMCAトレーニングスクール教官)の提案を受け、名称をバレー・ボール(ボレー・ボール、volley ball)に改めた。
バレーボールは各地に点在するYMCAを通じて米国全土に広まっていき、1900年にカナダ、1906年にキューバに紹介された。

バレーボールは世界各国のYMCAを通じて国際的に普及し、日本にバレーボールが紹介されたのは1913年のことで、YMCA体育主事のF.H.ブラウンによってもたらされた。この頃はまだしっかりとルールが出来上がっていなかったので、日本において独自にルールが作られていった。チームの人数は最初は16人であったが、12人に変わり、続いて9人となり現在の9人制バレーボールに近いものが出来上がった。また、1924年パリ五輪では米国のスポーツとして紹介されているが、その頃にはチームの人数も6人と決まっており、すでに現在の6人制バレーボールに近いものが出来上がっていた。

1947年には国際バレーボール連盟が結成され、米国式のルールを修正し国際ルールが出来上がっていった。1949年に第1回バレーボール世界選手権(男子)がチェコスロバキアで行われ、日本も1951年に国際バレーボール連盟に加盟した。当時、日本のバレーボールの主流は9人制であり、国際試合で使われる6人制バレーボールはまだよく知られていなかった。
1950年代に入ると東欧諸国ではソビエトの高さとパワーに対抗するために技術開発が進められるようになった。特にチェコスロバキアは次々と新しい技術の開発に着手し、速攻、フェイント、ブロックアウトなどの戦術を編み出した。
1952年には女子の第1回バレーボール世界選手権がソビエトで行われ、日本も1953年に6人制が採用された。

バレーボールの生みの親であるウィリアム・ジョージ・モーガン (William George Morgan)

バレーボールは戦後、職場のレクレーションであった!!

1950年~60年代には、よくビルの屋上などで昼食後の余暇にバレーボールをしていたそうです。今考えると、ネットもない屋上でよく玉が落ちなかったなあ!!と関心します。ただ、こういう状況がいたる所でみられた訳ですね。ましてや、都会ではなく広い敷地を有する地方の工場などでは、敷地の一角に充分なスペースにバレーボールコートを作ることができたでしょう。

時代的に見ると、日本は朝鮮戦争の勃発(1950)を機とし、「糸へん景気」に沸いていた頃です。文字通り「糸」に関わる繊維産業が、政府統制のくびきから解放されて大発展を遂げたのでした。

そんな活況にわく多くの紡績会社などでも例外ではありませんでした。社員らが仕事の余暇として「バレーボール」を楽しめるようにとコートをつくり、やがてバレーボールを楽しむ人々の技術自体も向上し、そして次々と実業団チームまでもが誕生したのでした。

その中でも最強を誇ったのが「日紡貝塚(にちぼう・かいづか)」でした。。
大阪府貝塚市にある大日本紡績の貝塚工場に集められた選手らは、敷地内にある寮に住み込み、一心に練習に打ち込みました。

そして後の1964年の東京オリンピックで金メダルを獲得することになる女性たち(”東洋の魔女”)が誕生するのである。

今は懐かしい屋上バレーボール

”東洋の魔女”とは??

東洋の魔女(とうようのまじょ)とは、1961年の欧州遠征で22連勝した日紡貝塚女子バレーボールチーム(監督:大松博文)につけられたニックネーム。
1964年東京五輪では同チームのメンバーを主体とした全日本で出場し、5試合で落としたセットは1セットのみという圧倒的な力で金メダルを獲得しました。

1964年の東京オリンピックで金メダルを獲得した”東洋の魔女”の主力

勝つために”鬼”と化した大松監督

大松 博文(だいまつ ひろぶみ、1921年2月12日 - 1978年11月24日)は、1964年東京オリンピックでのバレーボール全日本女子チーム監督、元参議院議員(自由民主党、1期)。香川県綾歌郡宇多津町出身。バレーボール殿堂入り。

1954(昭和29)年、朝鮮戦争を機に糸へん景気に沸いていた大日本紡績の貝塚工場に女子バレーボールチームが発足し、学生時代の経験を買われて監督に就任する。日紡貝塚である。

「2年で日本一に」を掲げた猛練習は、勤務を終えた夕方から翌日の明け方まで続き、労働組合が問題視して「大松をやめさせろ」と会社に申し入れるほどだった。だが、コーチを置かず、たった一人でボールを打ち続ける姿が、選手たちの心をつかんだ。

大松監督は軍隊経験が原点になっているのだろう。若き陸軍少尉は、部下はみんな年上で「今ごろ学校出てきて、よう指揮は執らんだろう」という声が聞こえた。そこで率先垂範、身の回りのことも馬の世話も、何でも自分でやった。斥候(せっこう)も危険なところは自ら行った。まさに「オレについてこい!」。そして、インパール戦線で英軍の捕虜となり、「やるからには勝たねばならない」が身に染みたに違いないだろう。

さて、目標の日本一にはなったものの、世界ではソ連が圧倒的な強さを誇っていた。この難敵を倒すには? 
大松には秘策があった。「ゴロゴロ転がってみい」「そっから起きてみい」。玩具の「起き上がり小法師」から思いついた「回転レシーブ」だった。

1962年の世界選手権で、厳しい練習で身につけた回転レシーブによって、ついにソ連を倒す。マスコミは「魔法使いのようだ」と表現してから、転じてチームに”東洋の魔女”のニックネームが付けられた。

故大松 博文監督

回転レシーブの妙技!!

日本のスポーツ中継史上最高視聴率66.8%を記録!!

1964年の東京オリンピックにおける女子バレーボール競技は、10月11日に開幕し6ヶ国が参加。駒沢オリンピック公園総合運動場体育館と横浜文化体育館の2会場に分かれ、1回戦総当り方式で行われました。

出場参加国は、ソ連、ポーランド、ルーマニア、米国、韓国、そして日本。1回戦総当り方式ですので、参加国は必ず1度は当たる訳ですね。結果、最終日に日本×ソ連の試合が組まれていて、その前日までに、日本:4勝、ソ連:4勝、ポーランド:3勝2敗、ルーマニア:2勝3敗、米国:1勝4敗、韓国:5敗という成績に終わったのである。ここでポーランドの銅メダルは確定した訳であるが、金メダルか銀メダルは翌日の直接試合によって決定されるため、余計に国民の関心を引くことになったのである。

ソ連は1960年にブラジルで行なわれた第3回世界選手権まで3連覇を達成し、その第3回世界選手権で2位に甘んじた日本は、宿敵ソ連を打ち破るために、激しいトレーニングに明け暮れた。
そして1962年、モスクワで行なわれた第4回世界選手権で、ついにソ連を破り世界を制した。日本チームは当時日本国内で圧倒的な強さと勝利数を誇った日紡貝塚の選手が主軸となり構成されたチームであった。前年には日紡貝塚チームは欧州遠征を行なっていて、ソ連、東ドイツに圧勝していた。日本チームが最強だということはだれもが知っていた。しかし国民は日本の勝利が本当に確定するまで心の底から応援を続けた。これがその時の試合を見守った全国民の気持ちであった。

1964年10月23日、日本中の視線は駒沢のバレーボールコートに集まりました。東京オリンピックバレーボール女子決勝・日本対ソ連は、日本のスポーツ中継史上最高視聴率66.8%を記録。「東洋の魔女」と呼ばれたバレーボール女子日本代表は3-0でソビエトを下し、悲願の金メダルを獲得しました。

当時の試合の模様

河西 昌枝(かさい まさえ、現姓:中村、1933年7月14日 - 2013年10月3日)が代表で受賞台に上がっていました。
彼女は1965年1月に日紡を退社、同年5月30日に当時の総理大臣である佐藤栄作首相の取り計らいで2歳年上の自衛官と結婚しました。
また、選手のファンであった女優の淡島千景がオーナーとなって設立したバレーボルのクラブチーム「フジクラブ」にも参加、同クラブの中心選手として活躍しました(フジクラブは国民体育大会バレーボール競技一般女子の部において、1965年、1966年と二連覇した。1968年頃までには活動を終えたという)。またその後は、ママさんバレー教室の講師も務め、普及に尽力しました。
2003年3月に日本バレーボール協会の女子強化委員長に就任し、 2004年アテネ五輪では全日本女子チームの団長(チームマネージャー)を務めました。
2008年にバレーボール殿堂入りを果たしました。
2013年10月3日、脳出血のため東京都内の病院にて80歳でこの世を去った

女子バレーボールメダル授与式

当時の流行語だけで女子バレーボールのことを表現できる一文ができた!!

『鬼の大松(当時の全日本女子バレーボールチーム監督だった大松博文)』さんは、『黙ってオレについてこい!』と、『スパルタ練習』で『回転レシーブ』を編み出し、『東洋の魔女』を育てた!!。

上記の『』で囲った部分が当時、とても流行った言葉でした、当時はユーキャンの流行語大賞などなかったので、ノミネートなどはありませんが、もしもあればみんな大賞候補に間違いありません。

’64東京オリンピック後日談

’64東京オリンピックが成功裏に終り、オリンピックの熱狂が去るとともに、大松博文は監督を引退する。最年少の磯辺サタを除く”東洋の魔女”5人(河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子)も、あとに続き、皆各自の道を歩むこととなる。

大松博文は、中国の首相・周恩来の招きで中国の女子バレーを指導することとなった(その後、中国は世界一の座につく)。

名門・日紡貝塚というチームは、東京オリンピックでマネージャーを務めていた小島孝治・新監督に受け継がれ、公式戦258連勝を記録した。以後、チーム名が「ユニチカ」となり、2000年の活動停止をもって「東レ・アローズ」へと引き継がれた。

大松博文は1978(昭和53)年、57歳の若さで他界。墓石の脇には、「根性」の文字が刻まれた”石のバレーボール”が捧げられている。

共に苦しさ、つらさを乗り越えた後の堅い友情!!

大松監督は、「苦しかった。つらかった。選手たちの金メダルを見た瞬間、とめどもなく涙が出てきた」と第18回オリンピック競技大会の報告書に言葉を残している。そして「選手たちの根性に、わたしは敬謙な気持ちで頭をさげたい。今後、これだけの根性を持った選手が再び現れるかどうか、わたしには疑問である。日ソ戦の第3セット後半ーあれこそいい例である。あれはまさに根性と根性の戦いだった。その結果が3対0となって現れたといえるだろう」と回顧している。

一方、選手たちは「大松先生の教えがあって今の私たちがいる。厳しいトレーニングの中で多くの事を学んだ」と河西は語る。その河西を中心にまとまったチームは、50年の時を超えて、今も堅い友情で結ばれている。

今から約10年前にイベントで再集合した時の日紡貝塚の6選手

女子バレーボールのその後

バレーボールがオリンピックの正式競技として定着すると、諸外国では当然のようにメダルを狙って競技力を高めてきた。ソ連(現ロシア)、東ドイツ(現ドイツ)、ポーランド、ブルガリアなど旧来の強豪国に加え、アメリカ、キューバ、ブラジル、イタリアなどが台頭。アジアでも中国、韓国も力を付け、日本は1984年ロサンゼルス大会での女子の銅メダルを最後にメダルどころかアジア枠のオリンピック出場権を獲得することさえ厳しい状況になってしまった。なんと、シドニー大会では出場すらもできませんでしたが、ロンドンではロサンゼルス大会以来の銅メダルを獲得して、久しぶりに日本の存在感を示した感はあったのではないでしょうか?

2020年の東京オリンピックではぜひとも奮起してくれることを願うばかりです!!。

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