プロレス総選挙2017 マツド・デラックス的プロレス総選挙!その4 Jrヘビー級日本人レスラー編

プロレス総選挙2017 マツド・デラックス的プロレス総選挙!その4 Jrヘビー級日本人レスラー編

さあ「プロレス総選挙2017」!!本編については、もういいわよね!部門別にランキングする事に意外なレスラーがランキングするわ!マツド・デラックス的にあたしの独断でそれぞれの部門のベスト10を作ってみると、本当に楽しくてしょうがないわ!これはひとそれぞれ好きな人が違うから皆にも投稿してもらいたいわよ!それで思い出すレスラーもいるわ!今回は、前回までの「日本人ヘビー級レスラー」「外国人ヘビー級レスラー」「覆面レスラー」に続く「Jrヘビー級日本人レスラー」よ!!


プロレス総選挙2017の順位結果を発表のおさらいは「日本人ヘビー級レスラー」「外国人ヘビー級レスラー」「覆面レスラー」編で確認を!

プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その1日本人ヘビー級編 - Middle Edge(ミドルエッジ)

プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その2外国人ヘビー級編 - Middle Edge(ミドルエッジ)

プロレス総選挙2017 マツド・デラックス的プロレス総選挙!その3 覆面レスラー編 - Middle Edge(ミドルエッジ)

前回のまでの「プロレス総選挙2017」の結果、「日本人ヘビー級レスラー」「外国人レスラー」「覆面レスラー」はいかがだったかしら?そこで今回は「Jrヘビー級日本人レスラー」をピックアップして「マツド・デラックス」的にベスト10を作っていきたいと思うわ!この部門は「賛否両論」になると思うわ!だってあのレスラーをワザワザこの階級で紹介するのだもの。あいかわらず自分の好みに偏ってしまうけど、暖かい目で見守ってちょうだい!好きなレスラーに順位をつけるなんてと言うかも知れないけどあえてここでも10人選ばせてもらうわね!

第10位 星野勘太郎

「突貫小僧」

星野勘太郎

imgur.com

「星野勘太郎」と言うとあたしにとってはやっぱり「ヤマハブラザーズ」よね。でも、世代によっては「魔界倶楽部総裁」なのかしら?悪役のイメージを持ってる方もいるかと思うけど、新日の「鬼コーチ」の一人で、尚且つ新日の当時流行った「5対5」では、「正規軍」(ナウリーダー)で活躍していたのよ。「タイガーマスク」が出てくるまでの「ジュニアヘビー」を支えた一人よ!

1961年10月に日本プロレス入門。同年12月22日、東京・リキ・スポーツ・パレスにおける駒厚秀戦でデビュー。1967年4月にアメリカで山本小鉄とタッグチーム「ヤマハ・ブラザーズ」を結成。小型でもパワフルであると評判だったヤマハのオートバイにあやかって名付けられたチーム名で力強いファイトを展開した。テネシーでは観客に発砲されたり、ナイフを脳天に突き立てられた事もある。老人で力が弱かったため深く刺さらず事なきを得た。帰国後の1970年にはアントニオ猪木とのコンビで第1回NWAタッグ・リーグ戦に出場、決勝戦でニック・ボックウィンクル&ジョニー・クイン組を破って優勝している。なお、星野はニック&クイン組とのこの試合を生涯のベストバウトに挙げている。日本プロレス崩壊直前に海外武者修行へ出発し、修行先で崩壊を迎える。帰国後は1974年1月より新日本プロレスに入団し、山本とのタッグを復活させて活躍。1979年1月には国際プロレスのグレート草津、アニマル浜口組からIWA世界タッグ王座を奪取した。当時の新日本の看板タッグ王座は坂口征二・ストロング小林の北米タッグ王座で、新日本では中堅のヤマハが国際の看板タッグ王座を奪取したことで国際の評価は大きく傷付いたという。1980年4月4日には、ヤマハ・ブラザーズで山本の引退試合を行っている。山本が引退後も新日本プロレスで一番の喧嘩屋として「突貫小僧」の異名をとり、UWF軍団との抗争等など外敵退治に活躍する。特にUWFの総大将・前田日明に対しては若手時代から目をかけていたこともあり、敵対心は相当なものであり、試合終了後に単身前田の控え室に殴りこみに行ったこともあった。アントニオ猪木を心から敬愛し、神とあがめるほど。その精神は、乱闘などで猪木を止める際に、前からではなく後ろから抱き着いて止める姿に如実に表れている。1995年2月19日に、両国国技館で木戸修戦を最後に現役を引退。その後は本職では地元の神戸でプロモーターを務める傍ら、2002年8月から「魔界倶楽部」の総裁として現場復帰。リング外での乱闘でボクシング仕込みの自慢のパンチを繰り出していた。決めゼリフの「ビッシビシ行くからな!」は大流行し、プロレス流行語大賞を受賞した。また、この時期の東京ドーム大会における新日本OBバトルロイヤルでは他団体に転出した現役選手も出場した中で見事ヤマハ・ブラザーズで最後の二人に残り、「ヤマハは二人で一つ、二人で優勝」という名台詞で締める場面もあった。魔界倶楽部活動停止以後は、一線から離れていたが、2005年にビッグマウス・ラウドが旗揚げされてからは、再び総裁としてリング外乱闘に復帰した。また新日本プロレスが、過去のギミック・キャラクターを再利用している興行「WRESTLE LAND」を開始し、それに伴い魔界倶楽部も復活した。魔界倶楽部総裁としては常に黒い上下のスーツを身に纏い、悪の総帥を装うが、リングに登場し現役時代から得意であったコーナーポストからのダイビング・ボディ・プレスを見舞おうとする時によく足を滑らせコケたり、登ったのはいいが、やはり足をすべらせて転倒することが多く場内の失笑を誘った。また、横浜ベイスターズの三浦大輔を魔界18号に任命した。また、魔界倶楽部総裁としては、場外乱闘や試合への乱入も辞さない悪の総裁としてのイメージがあるが、元来は反則攻撃の類を嫌っており、2008年9月21日の武藤敬司対真壁刀義のIWGPヘビー級王座選手権では当初は新日本所属の真壁の肩を持つ発言をしていたが、試合ではG・B・Hのあまりのラフファイトぶりに怒り、G・B・Hを鉄拳パンチで制裁した。この事件からG・B・Hの外道との抗争に火が付き、内藤哲也・裕次郎対邪道・外道のIWGPジュニアタッグ王座戦では内藤、裕次郎に味方し、反則攻撃を繰り返す外道を制裁した。一連の外道との抗争に決着をつけるべく、2008年12月22日には「ストリート・ファイト エニウェアフォールマッチ」での外道とのシングルマッチが行われ、ピンフォール勝ちを収めた。プロレス入り前はボクサーを目指していた事もあり、もし自分が全盛期の頃に総合格闘技が存在していたら、挑戦したかったと晩年に語っている。2009年2月4日、都内で倒れ病院に搬送され、脳梗塞と診断された。病後は言語障害が残り、病院でリハビリテーションに励んでいたが[2]、2010年11月25日に入院先の病院にて肺炎のために死去したことが11月27日に新日本プロレス関連会社の新日企画のホームページにて公表され、その後に新日本プロレス公式サイトにて正式な死去告知が行われた。67歳没。ヤマハブラザーズのパートナー、山本小鉄逝去から3ヶ月後、後を追うような最期であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E5%8B%98%E5%A4%AA%E9%83%8E

星野勘太郎 - Wikipedia

9位 山崎一夫

「カミソリシューター」
「キックの狙撃手」

山崎一夫

imgur.com

最近ではもっぱら「解説者」のイメージがついてしまった「山ちゃん」だけど、現役時代のギラギラさは誰にも負けなかったんじゃないかしら?「山ちゃん」をジュニア?って思う人が多いかもしれないけど「高田伸彦」との若手時代の名勝負は有名だったわ。新日本時代にジュニアのタイトルを取れなかったのが不思議なくらいのレスラーよね!

1981年に新日本プロレスに入門。細身ながら、同じ頃に若手だった高田延彦らと名勝負を重ねる。この頃の得意技はミサイルキックで、初勝利もこの技でフォールを奪っている。同じ技を得意としていた高田との試合は「青春のミサイルキック合戦」と言われ、第1試合でありながら観客の入りが良く、評価が高かった。この頃に佐山サトルの付き人を務めており、このことが後のプロレス人生やファイトスタイルに大きな影響を与えた。初代タイガーマスクが小林邦昭にマスク剥ぎをされた際には、替えのマスクを持った山崎がリングに上がり、タイガーに被らせる場面がテレビに写され、二度目以降のマスク剥ぎの際には、会場から「山崎(山ちゃん)、早く〜」という悲鳴が上がるようになった。佐山引退後も新日本に残留して前座を沸かせていた。1984年、佐山が第1次UWFへ参加することが決定した際、一緒に入団。前田日明、高田延彦、藤原喜明、木戸修らと活動する。1985年、佐山の第1次UWF退団時に佐山と袂を分かちUWFに残留するも同年12月、団体崩壊に伴い、他選手たちと古巣の新日本に復帰。主にIWGPジュニアヘビー級戦線やタッグ戦線などで活躍し、藤原喜明と共にIWGPタッグ王座を獲得したこともある。1988年、前年の顔面蹴撃事件を元に新日本を退団していた前田が第2次UWFを旗揚げすると、これに賛同し新日本を退団。高田延彦と共に同年5月の旗揚げ戦から参加。以後、主要メンバーの1人として活躍する。特に旗揚げ戦ではメインイベントで前田と対戦し、それまで特に目立った活躍が無かった山崎が、切れ味鋭いハイキックで再三ダウンを奪うなど、エースの前田と互角以上の戦いを繰り広げ、新生UWFのカラーを決定付けた試合として高い評価を受けている。1990年12月第2次UWFは崩壊。1991年、高田延彦らとUWFインターナショナルの旗揚げに参加。高田に次ぐ2番手のポジションに就いた。強豪外国人が参戦した際は高田の前に対戦し、間接的に相手の情報を与えるなど、影のフィクサーとして活躍。目玉選手がいないときは自ら高田の相手となり、「困ったときの山ちゃん頼み」と言われた。1995年7月にUインターを退団し、フリー宣言。古巣・新日本への殴り込みを表明、再復帰を果たした。同年7月25日に当時新日本の別働隊だった平成維震軍興行における後藤達俊戦がフリー第1戦。立場上ヒールの振る舞いを見せていた山崎だったが、ファンは皆彼の「いい人」ぶりを知っており、リングに立った瞬間に大「山崎」コールを送った。またこの年の年末、大阪城ホールで行われた『突然卍固め』興行において、対抗戦で武藤敬司に破れた高田延彦を元気付ける、という名目で組まれた『アントニオ猪木&高田延彦 vs. 藤原喜明&山崎一夫 60分3本勝負』の2本目に、ハイキックからの体固めで猪木よりフォール勝ちをスコアする。これは、1998年に引退した猪木の最後のフォール負けとなる。この後新日本本体の興行にも参戦し、フリー的立場を貫いていたが、所属選手となり新日本本隊と合流。1998年のG1 CLIMAXでは、藤波辰爾、佐々木健介、蝶野正洋と過去のG1タイトルホルダーを破り決勝進出。橋本真也との優勝戦では大激闘の末破れるも、その厳しくもけれんみの無いファイトに多くのファンが惜しみない拍手を贈った。これがレスラー人生最大の晴れ舞台だったと言ってよい。またそれ以降はタッグ戦線での活躍が増え、橋本、飯塚高史(第27代IWGPタッグ王座)、佐々木健介(第32代IWGPタッグ王座)、他にUWF色の強い永田裕志、木戸修とも組み、飯塚高史を加えたユニットは「山崎隊」と呼ばれていた。特にタッグにおいて名勝負が少ないと言われた新日本マットにおいて、蝶野正洋&天山広吉組と山崎&飯塚組のIWGPタッグ王座を巡る攻防は毎回名勝負となり、ファンを沸かせた。2000年1月4日の対永田裕志戦で引退。現在は神奈川県綾瀬市で整体治療院を経営する傍ら、NHKで番組の司会を務めたり、テレビ神奈川でレスラーや関係者との対談番組「最強漬」を持つなど、芸能活動も行っている。またワールドプロレスリングレギュラー解説者としても活躍している。元プロレスラーらしからぬ、とても優しく判り易い口調で喋るのが特徴。一方で熱が入ると選手にマイク越しで発破を掛けることもある。特に2000年4月7日の橋本真也 vs. 小川直也戦ではヒールホールドを極める橋本に「絞めろ絞めろ!」と発破を掛けた。2005年10月、長州力が新日本プロレス現場監督に就任したことを受け、同社道場コーチに就任。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E4%B8%80%E5%A4%AB_(%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC)

山崎一夫 (プロレスラー) - Wikipedia

8位 ヒロ斎藤

「ミスターセントーン」
「新金狼」

ヒロ斎藤

imgur.com

初めて彼を見た時は「上田馬之助」の二番煎じとしか見てなかったの。ジュニアの中でも地味な存在だった彼だけど、「山本小鉄」に鍛えられた彼のレスラーセンスは素晴らしかったわ。ヒールでありながらジュニアヘビー級の王座を二個も獲るってことは並大抵ではないと思うの。そして得意技が「セントーン」よ!「マイティ井上」の「サマー・ソルトドロップ」と並びあたしにとってはたまらない「技」のひとつなのよね!よってここにランクイン!!

父が厳しく、家を早く出たいと思っていた中学生時代に川崎市体育館で新日本を観戦して「これだ!」と直感しプロレスラーを志す。中学卒業後、アルバイトをしながら山本小鉄に入門を直訴し、1978年に新日本プロレスに入門。1978年8月26日、飯山市民体育館の魁勝司戦でデビューを果たした。当時の若手はジョージ高野、前田日明、平田淳二、保永昇男、高田延彦、高野俊二、新倉史祐、仲野信市など逸材揃い。ニックネームはチョビ。若手時代は、藤波辰巳の付き人を務めた。 1981年、島流し同然でメキシコ遠征に出され現地でグラン浜田、小林邦昭、ジョージ高野とタッグを組む。2年後の1983年、会社とのトラブルでプロレスを辞めようと決め、ジョージがカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングへ転戦する際に仲のよい高野俊二に挨拶しようと同行したところ、ジョージの対戦相手である俊二が急病のため、急遽一試合だけとのことでリングに上がったところ、プロモーターのスチュ・ハートに絶賛され、プロレスを続ける。その際プロモーター側から髪を金髪にするよう要求され、ヒロは「日本人の金髪レスラー」の先人である上田馬之助に許しを得るべく連絡を取り、上田との関係ができる。上田とは日本帰国後も行動を共にし、「人のマネはするな」「大きいやつが小回りきかないようなことをやれ」などレスラーとしての心得を伝授され、スタイルの礎を築く。新日本の大量離脱によって帰国命令が出され、1985年1月に帰国。ザ・コブラのライバルとして台頭し、5月20日には第12代WWFジュニアヘビー級王座を奪取。同じヒール軍団であるマシン軍団と共闘するが、ワカマツらマシン軍団と仲間割れを起こす。8月、新日を離脱しスーパー・ストロング・マシン&高野俊二(現高野拳磁)とカルガリーハリケーンズを結成、全日本プロレスを主戦場にする。フリーのプロダクション形式でどこのリングにでも上がるという現在のプロレス界に多いプロダクション形式の礎となった。1986年7月31日、ブラッド・アームストロングを倒し初代世界ジュニアヘビー級王座となった。1987年4月、全日から新日へUターンの際はカルガリーハリケーンズは解散し、長州力率いるリキ・プロダクションの一員として参加。新日正規軍、長州軍の枠組みが無くなってからは後藤達俊、保永昇男らとヒール・ユニットブロンド・アウトローズを結成。かつての盟友スーパー・ストロング・マシンが加わってからユニット名をレイジング・スタッフに改名。1990年にスーパー・ストロング・マシンと組み第14代IWGPタッグ王座を奪取するも、1993年10月にレイジング・スタッフは分裂、その後しばらくはジュニアタイトル保持の保永をサポート。1995年に蝶野正洋、天山広吉、サブゥーと狼群団を結成。その後nWo JAPAN、TEAM 2000、クレイジー・ドッグスと独自のヒール道を邁進している。2000年にG1 CLIMAXに初出場。予選リーグでは全試合で両者リングアウトを予告、実現させ、リーグ戦を荒らした(その中には優勝者の佐々木健介、当時の同士であった小島聡も含まれる)。これに影響を受けた望月成晃は闘龍門のリングにおいて「両者リングアウト推進委員会」を宣言する。2006年1月末で新日本プロレスを退団。直後から西村修と行動を共にするようになり、その縁あって無我ワールド・プロレスリングへの参戦、後に正式入団する。その後、無我がドラディションに名前が変わった時は藤波辰爾と行動を共にし、レジェンドレスラーの一人として、今なおリングに上がり続ける。2014年12月9日に椿山荘で開催された「X'mas チャリティ・プロレス・ディナーショー!」にザ・グレート・カブキとタッグを組み、天龍源一郎&西村修と対戦した。2016年に再旗揚げされた無我伝承にも西村修と参戦。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AD%E6%96%8E%E8%97%A4

ヒロ斎藤 - Wikipedia

7位 保永昇男

「異能の戦士」
「金髪の鷹」

保永昇男

imgur.com

遅咲きのジュニアヘビー級王者よね!正直、若手の頃は「やられ役」的な立場だったり、おとなしいというイメージが強かったんだけどいつの間にか(笑)「金髪のパンチ」になってたわよね。そして、長年の努力で「ライガー」や「ペガサス・キッド」のライバルとなり「IWGPジュニアヘビー級王者」になるのよ!この人の「フライング・ネックブリーカー・ドロップ」は切れがあったわよね!

1979年4月に新日本プロレスへ入門。1980年4月25日に後楽園ホールの斎藤弘幸戦でプロデビュー。1982年11月にメキシコ武者修行に旅立ち、ヒロ斎藤、平田淳二らと行動を共にする。1984年3月に帰国。しかしメキシコで体調を崩し、さらには高田ら後輩の台頭もあり、低迷。1984年9月、ジャパンプロレスへ合流して長州力らと全日本プロレスに参戦。1985年当時アジアタッグ王座を保有していたアニマル浜口が負傷欠場したため、寺西勇が代理パートナーとして保永を指名しアジアタッグ王者となる。10月14日、石川敬士&渕正信組を破り初防衛に成功したが、10月31日、石川敬士&マイティ井上組に敗れ王座転落。ジャパンプロレス崩壊後は新日本プロレスに出戻り、頭髪を金色に染めてヒロ斎藤・後藤達俊と共にブロンド・アウトローズを結成。後にスーパー・ストロング・マシーンを加えレイジング・スタッフと名を改める。保永自身はジュニアヘビー級のヒール選手としてライバルの獣神サンダー・ライガーらと激闘を繰り広げ、1991年にベスト・オブ・ザ・スーパージュニアの前身であるトップ・オブ・ザ・スーパージュニアでライガーを破り優勝。IWGPジュニアヘビー級王座決定戦を兼ねており同王座に初戴冠。5月25日、ペガサス・キッドを相手に初防衛に成功。5月31日、ライガーを相手に2度目の防衛に成功するも、6月12日のリターン・マッチに敗れ王座転落。11月5日、野上彰を破り、IWGPジュニアヘビー級王座に返り咲く。1992年2月8日、ライガーに敗れ王座転落。1994年9月27日、ワイルド・ペガサスを破り、3度目の王座獲得。6度の防衛を重ねる長期政権を築き、さらに11月18日エル・イホ・デル・サントを破りUWA世界ウェルター級王座を獲得するなど、ライガーの負傷欠場や金本浩二、大谷晋二郎ら若手の台頭までの空白期の穴を埋めた。12月13日大谷に敗れUWA世界ウェルター級王座から転落。1995年2月19日、金本に敗れIWGPジュニアヘビー級王座からも転落、さらに9月22日、試合中に右足のアキレス腱を断裂し長期欠場。1996年5月23日、小山ゆうえんち大会で復帰。ライガー&サムライ&保永組vs金本&大谷&高岩組の6人タッグマッチにおいて、主に金本から執拗に攻撃を受けたサムライが激昂し、場外でも金本を追いかけ回すなど、試合が成立しなくなったことがあったがその際もヒートアップするサムライ、金本、大谷、高岩とそれを自身も激昂しながら止めようとするライガーを尻目に、保永は「止めろサムライ、止めろ」と一人冷静であったりと、ヒールともベビーフェイスともとれない立場となっていく。1998年4月30日、後楽園ホール大会で引退試合を行う。ライガーと対戦し敗れるも、ライガー戦直後に番外試合として6人タッグマッチを行い高岩竜一から勝利を飾る。引退後はレフェリーへ転向。レフェリーとしてのデビューは1998年5月16日、松戸市運動公園体育館で行われた中西学&小島聡組vs平田淳嗣&安田忠夫組戦。当初はぎこちないレフェリングで観客から声が上がったり、元レスラーであるにもかかわらず、試合中レスラーと衝突しただけでしばらく倒れているなどの場面が見受けられたが、元レスラーであることを活かし、相手選手がロープブレイクをしているのに、腕ひしぎ逆十字固めを放そうとしないケンドー・カ・シンに対しストンピングを連発して“保永コール”を巻き起こすなど、レフェリー保永昇男としてのエピソードを残す。以降はジュニア戦線を中心にレフェリーを行い、2003年、WJプロレスに移籍。WJの惨状を見かねて、佐々木健介に助言し、佐々木のWJ離脱、フリー転出にも関与したとされる。2004年WJ崩壊と共にリキプロへと移籍。レフェリーのほか、「あの人ほど怒らせたら怖い人はいなかった。喧嘩をしたくない相手だよね」、「普段は良き相談役だがプロレスに対する目は非常に厳しい。よしょっぱい試合をした若手が試合後に殴られていたよ。」と、かつての盟友、後藤達俊が自身のブログで語っているように、現在でも若手選手のコーチや相談役としてその手腕をいかんなく発揮している。リキプロの新日本プロレス合流後もレフェリーおよび道場管理者として残留。LOCK UPで裁いた。久が原道場閉鎖時は原状回復費用軽減のため、自らシャッターのペンキ塗りをするなど、最後まで若手らとともに尽くした。2012年2月19日、「SMASH.25」で特別レフェリー。2016年12月2日、大阪城東区民センターで行われる上井文彦プロデュース興行「Strong Style History~Go for Broke!! Forever~」でメインイベントを含む3試合のレフェリーをこなす。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E6%B0%B8%E6%98%87%E7%94%B7

保永昇男 - Wikipedia

6位 佐野直喜(巧真)

「不言実行の実力者」

佐野直喜(巧真)

imgur.com

何でこの人がランクイン?なんて思う方がいるかも知れないけど、佐野さんは「IWGP」「SWS」「FMW」と三つの団体でジュニアの王者になった実力者よ!でもちょっとずつ時代がずれていたのかもしれないわね。人は彼を「悲劇の実力者」と呼ぶ人もいるの。でも、彼は「獣神ライガー」「リック・マーテル」のライバルとして戦っていたのは紛れもない「実力者」だからこそだと思うのよね!

苫小牧西高校卒業と同時に新日本プロレスに入門。1984年3月3日、後楽園ホールでの仲野信市戦でデビュー(当時のリングネームは佐野直喜)。1984年4月にメキシコ遠征を経験。帰国後の1989年8月10日に両国国技館で獣神サンダー・ライガーを破ってIWGPジュニアヘビー級王座を獲得。ライガーの好敵手としてジュニア戦線の中心レスラーとなる。1990年にSWSに移籍。1991年12月にリック・マーテルとの初代王座決定戦でSWSジュニア王座を獲得。1992年12月20日にUWFインターナショナルに初参戦し、高田延彦と対戦した。1993年7月にUWFインターに移籍。1996年3月1日に佐野 友飛(さの ゆうひ)に改名した。1997年5月、キングダム旗揚げに参加。1998年3月に高田道場に入団。PRIDEにも出場した。1999年5月14日に佐野 なおきに改名し、格闘探偵団バトラーツに参戦。FMWジュニアヘビー級王座を獲得。2000年4月に第3回スーパーJカップに出場し準決勝まで勝ち進んだがCIMAに敗れた。2001年1月31日に「もっとプロレスを学びたい」と高田道場を退団し、2月11日に佐野 巧真に改名してプロレスリング・ノアに初参戦。その後、ノアに入団し、WAVEで三沢光晴、小川良成らと共闘。WAVE解散後は主に田上明、高山善廣、杉浦貴らとタッグを組むことが多い。獣神サンダー・ライガーが手の合う相手として佐野を激賞しており、UWFインターと新日本の対抗戦でもライガーは「佐野さんしか興味はない」とラブコールを送った。実際に両者は対抗戦の初戦でぶつかり、佐野が通常のプロレスに付き合って(場外へのダイブなどUWFではありえない技も繰り出し)勝利を収めた。試合後、ライガーは「もっと視野を広げて世界の佐野になってほしい」「UWFでのプロレス人生は偽りだと思う。試合には負けたが、あの人のプロレス人生には勝てたんじゃないか」と語った。佐野がノア入団後はヘビー級に移り、長らく接点はなかったが2009年1月の新日本・東京ドーム大会でタッグを組み、金本浩二、井上亘組に勝利した。 GHCタッグ王座決定トーナメントでは、UWF時代の後輩・高山とのタッグで参戦。決勝まで進んだが森嶋猛&モハメド・ヨネ組に敗れるもこのトーナメントで評価を上げた。高山は決勝の試合前インタビューで「佐野さんを本気にさせたら殺されるからね」と語っていた。2012年1月、契約更改によりフリーとなる。2014年3月、ノア有明コロシアム大会で佐野巧真デビュー30周年記念試合として獣神サンダー・ライガーと組み、高山善廣、平柳玄藩組と対戦した。2017年、青柳政司率いる真誠軍に入り、「魔世軍8号佐野巧真」のリングネームを名乗る。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E5%B7%A7%E7%9C%9F

佐野巧真 - Wikipedia

5位 藤波辰巳(辰爾)

「ドラゴン」
「炎の飛龍」

藤波辰巳(辰爾)

ヘビー級のイメージが強い「藤波辰巳」だけどやっぱりあたしは「ジュニアの藤波」が好きだったわ!「WWWFジュニアヘビー級王者」を52回も防衛したことを皆さん覚えているかしら?ヘビー級に転向してからのイメージが強いけど、あたしは敢えてジュニアにランクインしたの。ヘビー級のベスト10の時に皆さんに「藤波は?」と言われたんだけど、これが答えよ!ごめんなさいね!そして「マッチョドラゴン」最高!

1971年5月9日にデビュー。1972年、猪木が興した新日本プロレスに旗揚げより参加。3月6日に大田区体育館で行われた旗揚げ戦では第1試合に出場するもエル・フリオッソに敗退、3月16日の浜田広秋のデビュー戦で初勝利を挙げる。1974年、若手の登龍門たるカール・ゴッチ杯を制し翌1975年6月、初の海外修行で木戸修と共に西ドイツへ遠征。その後アメリカへ渡り、フロリダのカール・ゴッチのもとで再修行。1978年1月23日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカルロス・ホセ・エストラーダをぶっつけ本番で放ったドラゴン・スープレックスで破りWWWFジュニアヘビー級王座を獲得し凱旋帰国。1981年10月にヘビー級転向のために返上するまで、通算52回に渡って同王座を防衛した。1978年3月3日の凱旋帰国第一戦では、マスクド・カナディアンを相手に同じくドラゴン・スープレックスで勝利。以降、ドラゴン・ロケットなど当時としては斬新だった飛び技とビルドアップされた肉体、そしてカール・ゴッチ仕込みのテクニックで「ドラゴン・ブーム」を巻き起こし、従来のプロレスファンに加えて女性や子供のファンも獲得。同時に、チャボ・ゲレロ、カネック、ダイナマイト・キッド、木村健吾などをライバルに、日本のプロレス界に「ジュニアヘビー級」というジャンルを定着させた。1980年2月1日にはダブルタイトルマッチにてスティーブ・カーンを破り、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得、ジュニアヘビー級の二冠王となった。名実ともにジュニアヘビー級の第一人者となった。1981年10月にヘビー級転向のためジュニアヘビー級王座を返上。海外遠征中の同年8月30日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでジノ・ブリットを破りWWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。この年の10月、長州力との抗争が始まり、さらに長州率いる維新軍との軍団抗争で新日本に黄金期をもたらす。長州との一連のシングルマッチは「名勝負数え歌」と呼ばれ、1983年4月3日のWWFインターナショナル・ヘビー級タイトルマッチは同年のプロレス大賞ベストバウトを獲得した。1985年5月24日 木村健吾とのタッグにてWWFインターナショナル・タッグ王座を獲得。12月12日のIWGPタッグリーグ優勝戦でタッグとはいえ師匠・猪木からドラゴン・スープレックスで初のフォール勝ちを達成。1987年4月、新日本プロレスは猪木、坂口、マサ斎藤らナウ・リーダーと藤波、長州、前田らニュー・リーダーの闘いで人気を博すも、その後の前田の長州蹴撃による離脱、二度に渡るファンの暴動事件などで再び新日の人気は陰りを見せ始めた。1988年4月22日、猪木に対して、自らの前髪を切って現状改革を訴える。この行動は前年に天龍源一郎が全日本プロレスで起こした天龍革命に対して「飛龍革命」と呼れた。5月8日、有明コロシアムでIWGPヘビー級王座をビッグバン・ベイダーとの王座決定戦の末に獲得。8月8日には、猪木が挑戦者として藤波に挑む形で、横浜文化体育館でIWGPヘビー級の防衛戦を行い、60分フルタイムの名勝負の末引き分ける。以後、新日本プロレスのエースとなり、10月15日にアメリカのオレゴン州ポートランドにてザ・グラップラーからNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を、12月9日には後楽園ホールでケリー・フォン・エリックからWCWA世界ヘビー級王座を奪取し、日米に渡る三冠王となった。1989年6月22日、ビッグバン・ベイダーとのシングルマッチで腰を負傷。椎間板ヘルニアで1年3か月間に及ぶ長期欠場となった。1990年9月30日の越中詩郎とのエキシビション・マッチで復帰。リングネームを「藤波辰巳」から「藤波辰爾」へ改名。同年12月26日、浜松アリーナで長州を破りIWGPヘビー級王者になった。翌1991年3月21日、東京ドームでリック・フレアーをグランド・コブラで破りNWA世界ヘビー級王者となったが、WCW側からのクレームもあり正式なNWA世界王者とカウントされるかどうかは議論が分かれていた。1993年8月7日、両国国技館で馳浩を破りG1 CLIMAX優勝。1994年4月4日、広島グリーンアリーナで橋本真也のIWGPヘビー級王座に挑戦。橋本の爆殺キックで蹴りまくられながらも逆転のグランド・コブラで王座を奪取。1995年10月27日、クラシックなプロ・レスリングを復活させるため独立興行「無我」を旗揚げ。1998年4月4日の猪木引退・東京ドーム興行で佐々木健介を数年ぶりに見せるジャーマン・スープレックスで破りIWGPヘビー級王座を獲得。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B3%A2%E8%BE%B0%E7%88%BE

藤波辰爾 - Wikipedia

4位 渕正信

「王道の伝道師」
「赤鬼」
「地獄の仕事人」

渕正信

imgur.com

やはり「全日」のジュニアと言えばこの人よね。決して派手ではなく「縁の下の力持ち」的な役割をずっとしてきたけど、「新日」の「藤原喜明」と並び「仕事人」としてなくてはならないレスラーの一人よね。若手時代からまるで「ベテラン」のような試合運びは、派手な技が多いジュニアにとっては貴重な存在だと思うわ!

1974年4月10日に全日本プロレスに入門。入門わずか12日で徳島県三好市での大仁田厚戦でデビュー。当時は大仁田とハル薗田と共に若手三羽烏の一人として頭角をあらわしていった。1980年に海外武者修行に出発、プエルトリコにて大仁田と合流し、1981年3月よりマサ・フチのリングネームでテネシー州メンフィスのCWAに参戦。トージョー・ヤマモトをマネージャーに迎え、大仁田とのコンビでジェリー・ローラー&ビル・ダンディーやロックンロール・エクスプレスとAWA南部タッグ王座を争い、同タイトルを通算3回獲得した。全日本プロレスのレスラーには珍しく、カール・ゴッチより指導を受けている。1983年6月にはチャボ・ゲレロの持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦を果たした後に凱旋帰国し、日本で8月31日に再度挑戦するも王座奪取ならず。その後は、ジュニアに転向したマイティ井上や、移籍してきたグラン浜田、マジック・ドラゴン、2代目タイガーマスクらのサポートに回ったり、怪我から復帰してきた大仁田と前座で闘っていたが、2代目タイガーのヘビー級転向を受けて、再度ジュニアの表舞台に立ち、1987年に小林邦昭から世界ジュニアヘビー級王座を初奪取、以降5度同王座を獲得し、ジュニアヘビー級のトップレスラーとしての地位を確立する。その一方で、三沢光晴率いる超世代軍とジャンボ鶴田率いる鶴田軍との抗争では鶴田軍についてメインイベントなどで戦う他、永源遙や大熊元司らと共に悪役商会の一員としてジャイアント馬場、ラッシャー木村らのファミリー軍団と抗争を繰り広げるなど、名バイプレイヤーとして分裂前の全日本を支えた。2000年に起こった大量離脱騒動で、中堅レスラーとして活躍していた渕はトップを張らざるを得なくなった。同年8月の新日本プロレスG1 CLIMAX大会において、渕はスーツ姿でリングに上がり「30年の長い間、全日本プロレスと新日本プロレスとの間には、厚い壁がありました。今日、その壁をぶち破りに来ました。全日本プロレスは選手2人しかいませんが、看板の大きさとプライドは新日本に負けてはいない!」と歴史に残るマイクアピールを行い、新日本プロレス現場責任者の長州力と固い握手を交わした。またこのとき現れた蝶野正洋が「ここはテメェの上がるリングじゃねぇんだオラ! とっとと降りろ!」と激怒して被っていた帽子を投げつけたが渕は余裕綽々の態度を崩さず、蝶野の帰り際には「蝶野、忘れ物だ」と帽子を放り返し、格負けしない振る舞いを見せ付けた。最後には「我々は逃げも隠れもしない! 蝶野、来るなら来い!」「新日本プロレスのファンの皆様、どうも大変お騒がせしました」としめくくったことから、会場からは異例の大「フッチー」コールが沸き起こった。渕が開発した低空ドロップキックの開発は多くのプロレスラー、特にジュニアヘビー級のファイトスタイルに極めて大きな影響を及ぼす。低空ドロップキックと無数の関節・ストレッチ技、ナックルパートや顔面キック、アトミック・ドロップの体勢からの急所攻撃など、テクニックとラフを兼ね備えた観客を強く刺激するファイトスタイルを確立してジュニアのみならず三沢らヘビー級とも堂々渡り合い、以後渕は「赤鬼」の異名を取った。後述の世界ジュニア最多防衛記録元保持者であったが故に、TAKAみちのくが14度目の防衛の対戦相手として決めていたのが渕であったり、前保持者近藤修司が執拗に渕との世界ジュニア戦を要求していたなど、全日本ジュニアでの影響力は依然衰えていないが、体力的な衰えは隠せず、菊タロー、荒谷と共にお笑いスタイルの第一試合で興行を暖める役に徹している。渕は和田京平レフェリーと共に、団体生え抜きの人物として全日本プロレスの看板を守り通す重鎮でもあったが、2009年より全日本プロレスの所属レスラーとしての契約をしていない事と同社取締役を同年に辞任していた事が判明し、以降フリーランスの立場で全日本プロレスに参戦していた。契約的には問題が無いため、他団体への出場も可能で、実際にオファーも来ていたが、他団体の興行には出場せず、全日本プロレスの興行にのみ出場している。「全日本プロレスが消滅したら、引退する」と公言もしているほど、全日本愛は誰にも負けない。2013年7月14日、全日本プロレス取締役相談役の就任を発表。2014年還暦記念特別試合を1月に3月には40周年特別記念試合を行った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%95%E6%AD%A3%E4%BF%A1

渕正信 - Wikipedia

3位 グラン浜田

「小さな巨人」

グラン浜田

imgur.com

ジュニアのレジェンドと言えばこの「グラン浜田」よね。覆面レスラーばかりの日本のジュニアの中で本場の「ルチャドーレ」の日本人レスラーとして新しい風を「新日」のリングに吹かしたのは間違いなくこの人だったわ。噂では「初代タイガー」はこの人になると言う話もあったらしいわね。ぞうなったら、タイガー伝説はまた変わっていたわね~。

1972年、友人の関川哲夫(のちのミスター・ポーゴ)が新日本プロレスへ入団志願に向かう際に付き添いで同行し、関川とともに柔道での実績を買われて浜田も入団することとなる。1972年3月6日の大田区体育館での新日本プロレス団体旗揚げ戦にてイワン・カマロフを相手にデビュー戦を行うことが発表されていたが、当日、豊登道春が緊急参戦し、山本小鉄とタッグを組んで試合を行ったため、その煽りを受けて浜田が試合カードから外され、改めて3月16日、新日本プロレスオープニング・シリーズの対藤波辰巳戦にて、本名の浜田広秋をリングネームとしてデビュー戦を行った。「リトル浜田」のリングネームで主に前座で試合を行っていたが、軽快な動きで大きな選手を手玉に取り、前座戦線の台風の目ともいわれた。1975年にメキシコへのプロレス修行に出る。メキシコではリングネームを現在の「グラン浜田」に変更した。メキシコでは、LLIを中心に活動し、1976年にはLLI参戦の最優秀外国人にも選ばれている。メキシコでのプロレス修行は1979年まで行い、同年2月に凱旋帰国を果たした。この時期既にメキシコに家族を持っていた浜田は、1995年まで日本とメキシコを往復する生活となる。メキシコに行った当時はスペイン語が喋れない、水質が悪い等、日常生活でも苦労したが、努力によりトップに立ち、4階級制覇という偉業を達成した。この浜田の活躍により日本とメキシコのルートができ、日本にルチャリブレが輸入され、現在に至る。1980年代初頭、初代タイガーマスクの候補として名前が挙がりかけたが、新間寿によると「あいつはガニマタだからすぐにばれる」と実現には至らなかった。1984年4月に第一次UWFに参加。同年8月には全日本プロレスに移籍。1986年にジャパン女子プロレスのコーチに就任とともに、一時現役を引退する。1988年に、同じく引退してコーチに就任していた大仁田厚との遺恨が発生。その際に、女子プロレスのリングながら試合を行い、現役に復帰する。1990年3月にユニバーサル・プロレスリングの旗揚げに参加。1992年11月27日にザ・グレート・サスケがみちのくプロレスを旗揚げした際に、浜田のみがユニバーサル・プロレスリングに残った。所属選手の大半がいなくなったユニバーサル・プロレスリングはその後FULLと改名したが自然消滅。浜田自身も1994年8月から古巣の新日本プロレスに登場するようになる。ここまでの新日本→UWF→全日本→ジャパン女子→ユニバーサル、という団体移籍の動きは、柔道経験者として似た経歴を持っていることから若手時代に目をかけてくれて、メキシコへの道を開いてくれた新間寿に対する義理を優先したものとされ、浜田自身、プロレス雑誌等でそのことを公言していた。1995年、みちのくプロレスに入団。みちのくプロレス所属中の1999年には、当時既にプロレスラーになっていた娘の浜田文子と親子タッグでの試合が実現している。また2000年11月25日には、娘の浜田文子と組んで、娘のソチ浜田&ソチの旦那のペンタゴン組とのタッグ戦も実現している。2001年にフリーとなり、再度新日本プロレスに登場。また大阪プロレスなど多くの団体にも出場するようになり、全日本プロレスではラブマシンズの一員として「リトル・ラブ・マシン」のリングネームで活動した。2006年娘の浜田文子が「ドクロンZ」として参戦しているハッスルに「ドクロンZパパ」というリングネームで登場した。入場曲とコスチュームは天才バカボン。2007年には久々にメキシコマットに登場、ペンタゴンとの遺恨を復活させた。同時に文子とのタッグも結成。日本では、藤波との交流から、無我〜ドラディションにほぼレギュラーメンバーとして参戦している他、2008年にはアイスリボンにも不定期参戦。2008年12月18日、「昭和プロレス 第2弾興行」後楽園ホールでメモリアルタッグマッチ(20分1本勝負)に出場した。鶴見五郎とタッグを組み、大仁田厚、栗栖正伸ペアに勝利した。2009年4月15日、大阪で新団体「MWF」を旗揚げ。2011年11月27日、DDT後楽園大会「God Bless DDT 2011」に突然登場、大石真翔、男色ディーノらのユニット・ホモいろクローバーZへの加入(緑)が決定した。2013年8月9日、新宿FACEで開催された浜田文子15周年記念大会「〜Aventurera」に出場。セミファイナルで華名とシングルマッチを行い、勝利。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E6%B5%9C%E7%94%B0

グラン浜田 - Wikipedia

2位 小林邦昭

「虎ハンター」

小林邦昭

imgur.com

「タイガーマスク」がブレイクしたのは「小林邦昭」がいたからと言う人は多いわよね。「虎ハンター」と言われ覆面はぎがクローズアップされるけど「フィッシャーマンズ・スープレックス」や「ソバット」は彼の代名詞だったわ!彼もタイガーのおかげでブレイクしたレスラーだったわよね。
そして当時、「ブルース・リー」を彼にだぶらせていた子供たちは意外と多かったかもしれないわよね。あたしもそのひとりだったわ!

長野県丸子実業高等学校を中退して1972年新日本プロレスに入門。1973年に栗栖正伸戦でプロデビュー。1980年メキシコに遠征。1982年にアメリカに渡り、「キッド・コビー」のリングネームで活躍した。1982年10月に帰国。パンタロンでマーシャルアーツスタイル(試合内容にマーシャルアーツスタイルを求められない時には、左半分が白、右半分が黒というユニークなショートタイツだった)で戦う姿は当時の日本のプロレス界では珍しかった。初代タイガーマスクと抗争劇を展開し、一気にブレイク、「虎ハンター」と呼ばれた。タイガーマスクのマスクを剥ぎにかかる悪役ファイトスタイルは、タイガーマスクの日本人ライバルとしてアンチ・ヒーローを求めるプロレスファンに支持された。しかし、私生活ではタイガー=佐山とはとても仲が良く「無名の自分をゴールデンタイムでスターに引き上げてくれた」と佐山には感謝の念を表明している。維新軍の前身である革命軍結成直前にニューヨークWWF地区へ長州と遠征し、マサ斎藤と合体。現地でのリングネームはチン・コビアシ(Chin Kobiashi)。その後は新日本プロレスの中でも反体制の維新軍団として(長州力・マサ斎藤・キラー・カーン・アニマル浜口・谷津嘉章・寺西勇)らと行動を共にし、中でも寺西とはジュニアヘビー同士ということで多くタッグを組む。1984年9月に維新軍団のメンバーらと新日本を離脱し「ジャパンプロレス」に参加し、全日本プロレスに参戦した。全日参戦中も二代目タイガーマスクを相手に虎ハンターとして活躍した。1985年NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を、1986年には世界ジュニアヘビー級王座を獲得。その後新日マットに出戻り、1987年8月にIWGPジュニアヘビー級王座を獲得。1989年4月24日の新日本プロレス東京ドーム大会では獣神ライガーのデビュー戦の対戦相手を務めた。ヘビー級へ転向すると、新日選手会と対立し越中詩郎らと「反選手会同盟(後の平成維震軍)」を結成。昭和時代の維新軍団と平成維震軍の2つの維新軍団に所属したのは小林のみである。負けたら坊主という「カベジェラ・コントラ・カベジェラ」を新日の正規軍の野上彰(現・AKIRA)と行ない敗戦、坊主頭になる。しかし勝者の野上はその対戦にいたく感銘を受けたということで後日自分も坊主になり平成維震軍入りする。 1999年に平成維震軍は解散、小林は2000年4月21日に行われた獣神サンダー・ライガー戦を最後に現役を引退した。現役末期、胃がんに見舞われて3度の手術を経験し、後年、この癌が引退の原因であったことを自ら明かしている。前田日明が佐山聡との対談内で語ったところによれば、今も抗ガン剤治療を続けているとのことである。腹部は70cmにも及ぶ大きな手術痕があり、ライガーとの引退試合においても、手術痕を隠すため、上半身はタンクトップを着用しての試合であった。試合後の引退セレモニーには佐山が花束を持って駆けつけ、三沢も祝電を寄せた。引退以降は主に裏方を担い、現在は新日本プロレスでIWGP実行委員、スカウト部長、新日本道場の管理人として勤務している。2006年7月27日に後楽園ホールで行われたWAR最終興行では、平成維震軍の旗持ち(セコンド)として久々に表舞台に顔を出した。維震軍の胴着を着用し、旗で相手選手を攻撃したりと、元気な姿を見せている。また、2007年9月21日には、リアルジャパンプロレスの後楽園大会で、佐山聡を相手に1試合限定の復帰戦を行った。これは「佐山選手の中の『野生の虎』を復活させるため」であった。その後は実行委員として参加していたが、「タイガーが覆面五番勝負をブチ上げて、オレの名前が出てこないことに憤慨した」として対戦を要求し2011年5月7日に試合が行われリングアウト負けとなった為、完全決着がつかず、9月23日「最後の一騎打ち」と銘打ってレジェンド・ザ・プロレスリングで再戦した。現在J SPORTSでの新日本プロレス中継の解説を担当している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E9%82%A6%E6%98%AD

小林邦昭 - Wikipedia

1位 越中詩郎

「サムライ戦士」

越中詩郎

imgur.com

「全日」から「新日」に移籍してきたときに個人的に新日のジュニアヘビーに対応できるのかしら?と思っていたの。でも、蓋を開けてみたら「コブラ」や「高田」を盛り上げていたのは実は、彼の力が大きかったんじゃないかしら?「ヒップアタック」ばかりが目に付くけどやはり「パワーボム」よね!「IWGPジュニア」を三回も獲った実力はだてじゃないわ!

1978年7月に全日本プロレスに入門する。1979年3月5日、館山市民センターで園田一治を相手にデビュー。大仁田厚の後を継いで、馬場の付き人を務めた。1983年4月22日、ルー・テーズ杯争奪リーグ戦で三沢光晴を破り優勝。1984年3月、三沢とともにメキシコへ遠征し、サムライ・シローの名で活躍した。同年7月に、馬場からの国際電話で「三沢を日本に帰せ。チケットを送るから三沢を空港へ送れ」と告げられたと同時に、三沢がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱くようになっていき、1985年2月に坂口征二の誘いで、新日本プロレスが遠征を行っていたハワイに飛び、その際に新日本移籍を決意する。同年4月1日の東京スポーツに全日本退団を全日本に提出した辞表と共にスクープされ、そして同年7月に全日本プロレスを離脱し、新日本プロレスに押し掛け同然で移籍して帰国。同年7月19日の新日本札幌中島体育センター大会に現れ、同年8月1日の新日本両国国技館大会で入団挨拶を行った。1986年2月6日、IWGPジュニア王座決定リーグ戦の決勝でザ・コブラを破り、初代IWGPジュニアヘビー級王座を獲得。その後、旧UWFから戻ってきた高田伸彦とジュニアベルトを争う。高田のキックを愚直にも正面から受けるファイトスタイルはUWFびいきのファンからも支持を集め、一躍人気レスラーとなった。そのキックや関節技を主体とした攻めの高田と、「耐える美学」「人間サンドバッグ」とまでいわれた受けの越中のシングルマッチは「ジュニア版名勝負数え唄」と形容され、当時のプロレスファンの圧倒的な支持を得た。1987年3月20日、王座決定戦で武藤敬司とのコンビを組み、前田日明・高田伸彦組を破り、第4代IWGPタッグ王座を獲得する。1988年2月7日、第1回トップ・オブ・ザ・スーパージュニアで優勝した。獣神サンダー・ライガーらの台頭や自身のウェイトアップによりヘビー級に戦いの場を移す。1992年7月31日、頭を剃り上げて反選手会同盟を結成し、一躍中堅からトップ戦線へ踊り出る。1994年11月13日、東京ベイNKホールで平成維震軍旗揚げ戦を行い、タイガー・ジェット・シンと対決した。この時期、1995年のG1 CLIMAX初戦でIWGP王者武藤敬司を破るという実績も挙げている。1998年、天龍源一郎と組みIWGPタッグ王座獲得。1999年2月22日、平成維震軍を解散し新日本本隊に復帰。その後佐々木健介と組みIWGPタッグ王座に返り咲いた。また2000年には全日本プロレスに参戦し、三冠王者決定トーナメントに出場している。2003年1月、新日本プロレスを契約満了により退団し、WJプロレスに入団。当初は盟主である長州力の片腕的存在だったが、金銭面で揉め、大森隆男らと共にレイバーユニオンを結成。2004年2月、大森隆男とともに、大谷晋二郎・田中将斗組からNWAインターコンチネンタルタッグ王座を奪取。さらに、プロレスリング・ノアにも参戦し、平成維震軍の仲間だった齋藤彰俊と共闘。ZERO1-MAXやキングスロードへも参戦。2007年には、『アメトーーク!』でケンドーコバヤシによる越中のネタから「越中ブーム」が発生。それも背景に同年5月2日、11年ぶりにIWGPヘビー級選手権試合に臨んだ。試合は敗北したものの、王者永田裕志に対しヒップアタックや侍ドライバー'84、ジャパニーズ・レッグロール・クラッチといった、平成維震軍当時からの大技を遺憾なく発揮した。一時期は天山広吉、真壁刀義らと組み、G・B・Hで活躍したものの、2007年8月に離脱、長州力、蝶野正洋らとともに「レジェンド」を結成した。2008年に後楽園ホールで行われた『ハッスル・ツアー2008~7.11 in KORAKUEN』からハッスル参戦を表明。2009年8月27日に行われたハッスル主催『越中詩郎デビュー30周年記念大会』では新日本の永田裕志、獣神サンダー・ライガーと組み、天龍源一郎、川田利明、TAJIRI組と対戦。15分18秒、TAJIRIを高角度パワーボムからのエビ固めで破り勝利。2011年5月、3月に晴れてプロレスデビューした橋本真也の長男、橋本大地を相手にタッグマッチを行い、「お前の父ちゃんにしこたまやられたんだ!」とマイクでコメントし、実力差をまざまざと見せつけた。2012年6月13日、ノア主催三沢光晴メモリアルナイトのメインイベントに登場。森嶋猛とダブルヒップアタックを見せる等の活躍を見せたが、試合中に左足首脱臼骨折を負い長期欠場。2013年、35周年を迎える。7月7日、ノアの有明コロシアム大会で1年ぶりに復帰した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E4%B8%AD%E8%A9%A9%E9%83%8E

越中詩郎 - Wikipedia

みなさんいかがだったかしら?「日本人ヘビー級レスラー」「外国人ヘビー級レスラー」「覆面レスラー」に続き、自分の好きなレスラーは入っていたかしら?「プロレス総選挙」を細かく分けていくと意外な選手がランクインするかも知れないわ!あなたもやってみたらどうかしら?次は「外国人ジュニアヘビー級レスラー」編でお会いしたいわ!

関連する投稿


消えた回転寿司チェーンの記憶──昭和・平成を彩ったあの店はいまどこに?

消えた回転寿司チェーンの記憶──昭和・平成を彩ったあの店はいまどこに?

昭和から平成にかけて、全国各地で親しまれていた回転寿司チェーンの数々。家族の外食、旅先の楽しみ、地元の定番──いつしか姿を消したあの寿司屋は、なぜ消え、どこへ行ったのか。本記事では、現在は閉店・消滅した地域密着型の回転寿司チェーンを、当時の特徴やSNSの証言とともに記録として振り返る。


レトロゲーム配信サービス「プロジェクトEGG」より『トラぶるCHASER 第1話』『3Dテニス』が配信スタート!!

レトロゲーム配信サービス「プロジェクトEGG」より『トラぶるCHASER 第1話』『3Dテニス』が配信スタート!!

レトロゲーム関連の復刻・配信ビジネスなどを行うD4エンタープライズが運営するレトロゲーム配信サービス「プロジェクトEGG」にて、新規コンテンツ『トラぶるCHASER 第1話 トラブルは空から未来から(PC-9801版)』『3Dテニス(MSX版)』の配信がスタートしました。


『オホーツクに消ゆ』と北海道紋別市がコラボ!ゲームに登場するシーンを使用したアクリルジオラマが「ふるさと納税返礼品」に!

『オホーツクに消ゆ』と北海道紋別市がコラボ!ゲームに登場するシーンを使用したアクリルジオラマが「ふるさと納税返礼品」に!

ジー・モードより、推理アドベンチャーゲーム『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ ~追憶の流氷・涙のニポポ人形~』の世界観を再現したオリジナルグッズが、北海道紋別市のふるさと納税返礼品として提供されます。


抜群のスタイルで💦世の脚光を浴びた『広田恵子』現在は?!

抜群のスタイルで💦世の脚光を浴びた『広田恵子』現在は?!

高校時代からモデル活動を始め1986年に「カネボウ・スイムウエアイメージモデル」として脚光を浴びた広田恵子さん。現在は家族で〇〇を組んで活動している・・・。


完璧・無量大数軍の一人「完肉」の称号を持つキン肉マン『ネメシス』が、SpiceSeedキン肉マンシリーズに登場!!

完璧・無量大数軍の一人「完肉」の称号を持つキン肉マン『ネメシス』が、SpiceSeedキン肉マンシリーズに登場!!

ハイクオリティフィギュアの製造・販売で好評を博している株式会社SpiceSeed フィギュア事業部より、キン肉マンシリーズのフィギュア『ネメシス』が発売されます。


最新の投稿


ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂が、『鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブ~Autumn Season~』を11月13日にビルボードライブ大阪、16日にビルボードライブ東京にて開催する。今回は、1975年にリリースされた1stソロアルバム「BAND WAGON」の発売50周年を記念したプレミアム公演となる。


【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

2025年(令和7年)は、1965年(昭和40年)生まれの人が還暦を迎える年です。ついに、昭和40年代生まれが還暦を迎える時代になりました。今の60歳は若いとはと言っても、数字だけ見るともうすぐ高齢者。今回は、2025年に還暦を迎える7名の人気海外アーティストをご紹介します。


吉田沙保里  強すぎてモテない霊長類最強の肉食系女子の霊長類最強のタックル その奥義は「勇気」

吉田沙保里 強すぎてモテない霊長類最強の肉食系女子の霊長類最強のタックル その奥義は「勇気」

公式戦333勝15敗。その中には206連勝を含み、勝率95%。 世界選手権13回優勝、オリンピック金メダル3コ(3連覇)+銀メダル1コ、ギネス世界記録認定、国民栄誉賞、強すぎてモテない霊長類最強の肉食系女子。


消えた回転寿司チェーンの記憶──昭和・平成を彩ったあの店はいまどこに?

消えた回転寿司チェーンの記憶──昭和・平成を彩ったあの店はいまどこに?

昭和から平成にかけて、全国各地で親しまれていた回転寿司チェーンの数々。家族の外食、旅先の楽しみ、地元の定番──いつしか姿を消したあの寿司屋は、なぜ消え、どこへ行ったのか。本記事では、現在は閉店・消滅した地域密着型の回転寿司チェーンを、当時の特徴やSNSの証言とともに記録として振り返る。


【歌謡曲】ありえないシチュエーション!歌詞がおもしろくて笑ってしまう歌謡曲5選!

【歌謡曲】ありえないシチュエーション!歌詞がおもしろくて笑ってしまう歌謡曲5選!

昭和の歌謡曲には、現代ではお蔵入りしてもおかしくないほど、ありえないシチュエーションを描いた詞が数多くあります。その中には、残酷な人物像や露骨な情景描写もあり、思わず笑ってしまうような歌詞もありました。今回は、筆者の独断と偏見で、歌詞がおもしろくて笑ってしまう歌謡曲を5曲ご紹介します。