
雷電 爲右エ門(為右衛門、らいでん ためえもん)
「巨漢力士」全盛の時代が到来!!!
相撲は今や世界的な知名度があり代表的な日本のスポーツ扱いになっているといっても過言ではない。この相撲の一般的なイメージというと何があるだろうか?
風変わりな儀式、古風な衣装、独特の立ち会いなど様々だろうが、まず筆頭に来るのが「巨体の男たち」ではないであろうか?!
殆ど裸体のせいもあるが、数あるスポーツでも相撲ほど競技者の肉体自体が目立つものはないであろう。
上記のイラストは相撲の長~い歴史の中でも最強と謳われている、江戸時代に活躍した雷電 爲右エ門の肖像画ですが、どうです!この巨体。
近代では特に1980年代あたりから力士の大型化が叫ばれ始めた。双羽黒や大乃国が横綱に、小錦が大関になった頃で、平幕にも大きな力士が多数を占めた。あれから20年が過ぎ、今や身長180cm前後なら「小兵」。体重130kg台なら「軽量」の部類に入るという言う有様だ。
大きくて重い体は、相手を一気に持っていく突進力や、マワシを取られても動じない利点があるが、一方で引かれたり変化されたりすると危うい面がある。倒れたときは自分自身の重さもダメージに加わることがある。力士の大型化には、長短、両方の側面を持っている。
そんな巨漢力士を歴代体重のベスト10形式で紹介することとしよう。
さて、トップ10入りした最初の力士は・・・豊ノ海!!! 225kg

豊ノ海 真二
小学校時代、地元の豊前市で行われていた巡業で当時大関だった貴ノ花に会い、地元の椎田中学校を卒業後、上京して同部屋へ入門し、1981年3月場所で初土俵を踏んだ。
その後、部屋付きの藤島親方(元大関・貴ノ花)の独立に伴って、1982年3月より藤島部屋に移籍。
序ノ口に付いて以来、順調に出世し、1987年9月場所で十両へ昇進。1988年11月場所に於いて、新入幕を果たした。これにより、佐賀昇と共に昭和最後の新入幕力士となった。
200kgを超えるほどの巨体を利した相撲だったが、完全に脇が甘く、相手に二本差された後から腕を極めて出る取り口が目立った。前頭上位で奮闘した時期もあり、大関・霧島や曙らに勝利したこともあるが、現役時には三役への昇進は果たせず、三賞も受賞できなかった。
序ノ口に付いてから引退するまで、一度も休まず、「1316番連続出場」という記録を残している。
引退後は、年寄・山響を襲名して二子山部屋付きの親方となったが、2002年6月に日本相撲協会を退職し料理人として再出発している。
相撲界では前頭筆頭まで行けば大成したと言えるでしょうが、豊ノ海の素質から考えると能力を発揮したとは言えないでは・・・。当時、二子山部屋には大型力士が少なく、また押し相撲を指導する親方いなかったためではないでしょうか?!条件が揃っていれば、大関以上は望めたのではないかと個人的には思っています。おしい!!!
第9位にランクインした人物は・・・萬華城!!! 227kg

萬華城 博
萬華城 博 (まんかじょう ひろし)
最高位 幕下 6
本名 曹 博
生年月日 平成2年2月10日
出身地 宮崎県宮崎市
身長 182センチ
所属部屋 春日山 → 追手風
改名歴 曹 博 → 萬華城 博
初土俵 平成17年3月
最終場所 平成28年11月
生涯戦歴 248勝228敗7休/475出(70場所)
幕下戦歴 115勝123敗7休/237出(35場所)
三段目戦歴 101勝88敗/189出(27場所)
序二段戦歴 27勝15敗/42出(6場所)
序ノ口戦歴 5勝2敗/7出(1場所)
前相撲戦歴 1場所
第8位にランクインした人物は・・・秀ノ海 229kg

秀ノ海 渡累
数々の職を経験とするも、1985年三保ヶ関部屋に入門し、幕下までは良かったがその後腰を痛めて1年間棒に振り、1992年9月場所にやっと十両に昇進した。その後は十両と幕下の行ったり来たりが続いたが、その後膝の怪我で序二段まで落ちる。その後また幕下に戻るが、関取復帰はならず1995年11月場所限りで廃業する。現在は大阪府貝塚市にて、ちゃんこ鍋屋「力士料理 秀ノ海」を経営している。
堂々の神7に入った人物は・・・魁ノ若 230kg

魁ノ若 尚弥
魁ノ若 尚弥 (かいのわか なおや)
最高位 幕下 14
本名 久門 尚弥
生年月日 昭和54年4月20日(37歳)
出身地 福岡県鞍手郡若宮町
身長 175.5センチ
所属部屋 友綱
改名歴 久門 尚弥 → 魁ノ若 尚弥
初土俵 平成7年3月
生涯戦歴 433勝449敗28休/882出(132場所)
幕下戦歴 65勝96敗/161出(23場所)
三段目戦歴 209勝197敗/406出(58場所)、1優勝
序二段戦歴 129勝137敗28休/266出(43場所)
序ノ口戦歴 30勝19敗/49出(7場所)
前相撲戦歴 1場所
魁ノ若関はまだ現役ですが、関取まで昇進するのはちょっと厳しいような・・・?。でも一生懸命頑張って下さい。応援しています!!。
神7をやぶり第6位に入った人物は・・・曙 233kg

曙 太郎
曙太郎 - Wikipedia
ハワイではバスケットボールをしていたが、大学はコーチとの対立もあって中退。後にその体格を東関親方(元高見山)に見込まれ、相撲界入りし、1988年3月場所に初土俵を踏む。元々東関は弟の方を入門させたかったようであったが、気の進まない弟のジョージは「しょうがないよ、兄貴を連れていく」と身代りにチャドを新弟子として提供した。父親はいきなりの展開にも拘らず入門を喜んだが、一方で母親は猛反対。母の反対もあったので、日本にやってきた時にチャドは「とにかくもうハワイには帰れないな」と感じていた。
まだ指折りの大部屋だった伊勢ヶ濱部屋に出稽古に出かけた曙は当時、1月場所で10勝をあげ自己最高位の前頭筆頭まで躍進した若瀬川に胸を借りた。相手が三段目と甘く見ていた若瀬川は2、3回軽く四股を踏んだだけで、仕切って待っている曙の前に立つと両手を広げて大きく胸を出した。曙は若瀬川の胸をめがけて頭から思い切りぶちかますと若瀬川は仰向けにひっくり返り、腰を痛めて病院に運ばれる羽目になった。初土俵からわずか一年で幕内力士を「病院送り」にした曙はこの場所6勝1敗、翌場所は早くも幕下に昇進した。
当時前頭筆頭の地位だった1991年7月場所初日では、体重が200Kg以上の巨漢横綱だった大乃国を、曙自ら立ち合いから一撃で大乃国を押し倒し、土俵の外へ一気に吹っ飛ばした事もあった。
1992年11月場所では14勝1敗と2度目の優勝。翌1993年1月場所も、大関昇進を賭けていた関脇の貴乃花(当時貴花田)を千秋楽結びの一番での直接対決で圧倒して完勝。13勝2敗で3度目の優勝、さらに大関の地位で2場所連続優勝を果たして、ついに外国人初の横綱に昇進した。
大相撲【曙vs若貴】この対戦がとにかくアツかった!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
ついにトップ5です!!第5位に食い込んだ人物は・・・武蔵丸 235kg

武蔵丸 光洋
アメリカ領サモアで生まれ、6歳の時に一家でハワイに移住したが、サモア語しか話せなかったため、友達もなかなか出来なかったという。 小学校時代にアメリカンフットボールを始め、ハワイ州のワイアナエ高等学校でアメリカンフットボールのディフェンスラインとして活躍し、プロ選手としての活躍を目標としていた。大学からも勧誘されたが、経済的理由で進学を断念した。
大相撲入りの勧誘を受けたことを機に、過去に相撲との関わりが全く無かったにも拘らず、「大きな体を生かして家計を助けよう」と決心し武蔵川部屋に入門する。
アメフトで鍛えた体で出世は早く、とんとん拍子で幕内上位まできたが、大関を前にしてもたついてしまう。貴ノ浪と同時に大関昇進し、3場所目には入門から史上最短全勝優勝を達成、横綱近しと思わせた。稽古場では圧倒的な強さを見せ、本場所でもそこそこの成績を残していたが、貴乃花には全く歯がたたず、”蚤の心臓”と揶揄され、また大きくなり過ぎた体で成績は下降していった。平成8年九州場所、貴乃花不在の混迷場所を11勝ながら優勝決定戦3連勝で制した。平成11年の春夏を連続優勝して、琴櫻と並ぶ大関在位32場所で横綱昇進を果たす。幕下時代に1回負け越しただけで、入幕以降も勝ち越しを続け横綱に登りつめた。連続勝ち越し55場所(史上1位)、幕内連続勝ち越し49場所(北の湖に1場所及ばず)や、連続出場などの記録がある。平成12年の秋場所を14勝で優勝し、11勝~15勝の5通りの星で優勝を果たすという史上初の珍記録を達成。安定した成績だが優勝決定戦で6度も敗退(うち貴乃花に4敗)するなど勝負弱さもあってなかなか優勝回数は伸びていかない。体重増加により動きが緩慢になり平成13年秋場所では1場所5個の金星配給という史上初の不名誉な記録を作ってしまった。平成14年9月に復活を目指す貴乃花を相星決戦で下して優勝した。左手首のけがを手術したが6場所連続休場後の平成15年九州場所で引退を表明した。帰化して本名も武蔵丸光洋となった。優勝12回。
【高見山・小錦・曙・武蔵丸】外国人力士の道を切り拓いた先人たちの今を追う。 - Middle Edge(ミドルエッジ)
トップ3は逃したが、堂々の第4位にはいったのは・・・須佐の湖 240kg

須佐の湖 善誉
1988年3月場所で初土俵。入門直後から期待され、順調に番付を上げていき、21歳になったばかりの1993年9月場所に「将兜」の四股名で十両に昇進した。これにより北の湖部屋からは初となる関取が誕生した。しかし四つ相撲の中途半端な相撲だったため3勝12敗と大敗を喫し、1場所で幕下に陥落した。落ちたばかりの場所の3番相撲で右膝を痛めしばらく幕下に低迷していたが1996年7月場所で9人での幕下優勝決定戦を征し復調し、1997年5月場所には四股名を「須佐の湖」改め、7月場所も幕下優勝し翌9月場所に4年ぶりに十両に復帰し十両に定着した。11月場所には突き押し相撲に徹し、最後まで十両優勝を争った。1998年9月場所には日本人力士最重量の240kgを記録。幕内を狙える番付まで上がったが、引いて押し出される雑な相撲が増え、2000年5月場所を最後に幕下に陥落。内臓疾患のため体重も徐々に減少し思うような相撲を取ることが出来なくなり、幕下下位で低迷した。2003年1月場所には三段目に陥落し、4勝3敗での勝ち越しを最後に現役を引退。引退後は暫く夫人の実家がある福岡市内で飲食店を経営していたが、店を閉じて以降は九州で警備員を行っているという。
さて、いよいよトップ3の発表です。まず第3位にランクインしたのは・・・山本山 277kg

山本山 龍太
さて、トップ2にランクインした人物は・・・大露羅 284kg

大露羅 敏
大露羅敏 - Wikipedia
8歳の時、初めて大相撲を観戦したことがきっかけで大相撲の世界に憧れ、力士になりたいと思ってはいたが、大相撲への入門の機会が無く力士になれないでいた。16歳の頃には既に200kg近い体重で、オートバイを軽々と持ち上げるほどであったが、この噂を聞いた北の湖親方(第55代横綱・北の湖)が大相撲の世界へスカウトし、入門が決まった。史上初のロシア出身力士でもある。
2000年3月場所、17歳で北の湖部屋から初土俵を踏んだ。同期生には龍皇、寶智山、飛天龍らがいる。四股名はオーロラにちなんでポール牧が命名している。
自ら動かず攻め疲れを待つ相撲を取るが、その体重のせいで機敏な動きに難があり、2002年5月場所で三段目に初昇格して以降はほとんどの場所を三段目で過ごしている。2008年1月場所で初めて幕下へ昇格しているが、幕下には定着できず、現在は三段目での土俵が中心となっている。
2017年1月31日の健康診断では283.8㎏を記録し、自己最高記録の279.5㎏を更新。「いつも一週間前からダイエットするけど忘れていた」と話し、それでも強気に「(小錦の体重も)ご飯食べれば、すぐ超えちゃうよ」とニヤリ。2016年11月場所時点ではロシア出身力士としては唯一の関取未経験者である。

ついに、第1位おめでとうございます!!
第1位に入った人物は皆様もよ~くご存知の人物・・・そう、小錦 285kg!!!

小錦 八十吉
小錦八十吉 (6代) - Wikipedia

入幕当時より話題がが尽きなかったが、引退後はタレント、アーティストとして講演活動やTV・CM出演、ハワイアンライブなどを精力的に行っている。
ハワイと日本の架け橋イベントを企画制作プロデュースしていたり、NHK子供番組【にほんごであそぼ】には10年間以上「コニーちゃん」の愛称で出演している。
また、ハワイアンシンガーとしても活動し、アルバムやCD等多数発売している。
現役時代よりKonishiki Kids Foundation(NPO団体:KONISHIKI基金)を立ち上げ、ボランティア活動にも積極的に取り組んでおり、ハワイの子供達を日本に呼び支援を行っている。また最近では2011年の東日本大震災発生直後からすぐに動き出し、仲間を集い、ちゃんこ鍋やバーベキューの炊き出しを行い、ボランティア活動を続けている。
東日本大震災チャリティーTシャツ作成し、売上金は全て復興支援金として使用している。
今年の2016年4月28日には熊本の被災地へ訪問し、カレーなど温かい食事3500食、物資を置いてきました。本当に人柄がにじみ出るエピソードです。