田原俊彦(たはら としひこ )
山梨県立甲府工業高等学校(全日制・土木科)卒業。放送大学教養学部在学中。身長175cm、体重59kg。姉が2人、妹が1人います。
デビューまでの道のり
小学校教師だった父は、田原が6歳の時に他界。田原自身を含む4人の子供を抱えた母子家庭の生活はとても貧しく、一家は母の故郷、甲府市に戻りました。雨漏りのする8畳間に家族5人の生活でした。

パパには墓を、ママには家を
1979年3月1日、高校卒業と同時に正式に上京しました。
何度も何度も振り返って手を振る息子の姿を、母、田原千代子(81)は今も覚えているそうです。「芸能界に入ってパパには墓を、ママには家を建ててやるんだ」。1979年3月、高校を卒業したばかりの息子、田原俊彦は、そう言って家を出ていったのです。「がんばるんだよ、泣き言を言って帰ってくるんじゃないよ」。母も手を振りながら、巣立っていく息子の背中に何度も何度も呼びかけたそうです。
たのきんトリオ

『金八先生』で共演した近藤と野村とは、共に「たのきんトリオ」の愛称で人気を博することになります。『金八先生』に出演していた当時の田原の人気は凄まじく、全国から送られてくるファンレターの数が最高で月18万通にも達したといいます。
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1980年代のトップアイドルとなる
1980年6月『哀愁でいと』で歌手デビュー。ダンスのうまさも手伝い、ダンスビートにのせて踊りながら歌うポップスの男性アイドルとしての存在を明確にしました。
第22回日本レコード大賞・最優秀新人賞、
第11回日本歌謡大賞・放送音楽新人賞などを受賞。
1982年、ブロマイド年間売上実績の男性部門でトップ。
『哀愁でいと』から『ジャングルJungle』まで、オリコンシングルの連続TOP10入り37作の記録を持っています。その後の3作はTOP入りを逃しますが、『雨が叫んでる』で通算38作目の、かつ最後のTOP10入りとなりました。当時歴代1位の記録でした。
1980年代を彩るアイドル達

松田聖子と田原俊彦
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俳優業と紅白
1980年から『NHK紅白歌合戦』に7年連続出場していましたが、1987年にマスコミが田原俊彦の落選予想をするような報道がありました。これに対して田原はNHKから正式に発表される前に、自ら紅白卒業宣言をしてしまいました。この背景には、曲を出せばオリコン10位以内にランキングされるものの、ランキング番組では2~3週で圏外落ちするなど、以前のような大きなヒットに恵まれなくなっていたことがあります。
1988年に発売された『抱きしめてTONIGHT』がフジテレビ系ドラマ『教師びんびん物語』の高視聴率とリンクしたこともあり、久々の長期的ヒットに発展。同年の紅白に選ばれますが、前年度に自ら紅白卒業宣言をしてしまった為、NHKからの出場者発表後に突然の辞退宣言を表明させられます。田原自身は再出場に意欲的でしたが、事務所サイドが辞退させたという説も当時囁かれました。1989年にも「ごめんよ涙」の大ヒットでも選ばれましたが、こちらも辞退しています。
ジャニーズ事務所からの独立と田原俊彦の人気急落
1994年3月1日、個人事務所「DOUBLE "T" PROJECT」を設立し、ジャニーズ事務所から独立。ただし、この独立はジャニーズ事務所側の反対を押し切って実行されたものと言われており、独立後はジャニーズ事務所の後輩たちとの共演は、元事務所の意向で不可能になっているため、ほぼ存在しなくなりました。
事務所を独立する前年度の1993年には、毎年行われるコンサートツアーが全面的に中止されています。そして、事務所から独立する前に発売した曲では、テレビ朝日系『ミュージックステーション』に出られませんでした。
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事務所からの圧力と「俺はビッグだ」発言
ジャニーズ事務所から独立する1週間前、結婚記者会見の席上での「俺はビッグだ」発言がマスコミの反感を買ったことに加え、所属事務所の圧力と影響力に左右され、テレビ出演等の仕事が激減しました。そして人気は急落し、下積み生活同然の苦労・屈辱を味わいます。この発言のせいで、CM契約を打ち切った会社もあった程です。
他大手事務所をも巻き込んだ熱愛

中山美穂とフライデーされる
ビックマウスも伊達じゃない。やることも大胆な田原俊彦です。しかし、そんな二人の行動に怒りを露わにしたのが中山美穂さんの事務所バーニングでした。そしてもちろん、ジャニーズ事務所のメリーさんもです。社長たちの怒りをハワイにいながら電話で耳にした田原俊彦さんでした。
無事にデビューを果たし一気にトップアイドルになった トシちゃんが一番初めにしたことが亡くなった父の墓を立てた事。
そして母、千代子は今、甲府市でひとり暮らしをしています。JR甲府駅から少し離れた閑静な一帯にある一軒家。25年前、約束通り田原が母のために建てた家です。月末になると、千代子の口座に必ず田原から仕送りが振り込まれます。仕事が低迷している時も田原はそれを欠かしませんでした。「たまにはいいよ」と言っても「関係ねぇんだよ。余計なこと心配すんな」とたしなめられたそうです。
母、千代子はこういいます。「(マスコミに)たたかれても、いじめられても可哀想だと思ったことはありません。事故や病気さえなければ、それでいい。トシ君は強い子。へっちゃらで乗り越える子。必ず立ち上がっていく。私は信じています」
いかがでしたでしょうか?
アイドルとしては不遇な時期が長く続きましたが、それでも古くからのファン達に支えられて毎年コンサートツアーやディナーショーを全国各地で行い、地道な努力を辛抱強く積み重ねて再びマスコミの注目を集めるようになりました。現在は俳優や司会者としても活躍しながら、古くからのファンだけでなく多くの若年層のファンをも獲得しています。