荒井由実
1954年(昭和29年)1月19日生まれ。東京都八王子市で1912年から続く、老舗の呉服店・荒井呉服店で、三男二女の第四子(二女)として生まれ、6歳からピアノ、11歳から三味線、14歳からベースを始めました。立教女学院高等学校、多摩美術大学美術学部絵画学科日本画専攻卒業。
1972年にシングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビュー。以降、ユーミンの愛称で呼ばれます。

Yumi Matsutoya Official Site 松任谷由実 オフィシャルサイト
中学・高校時代
中学時代のユーミンは「ザ・フィンガーズ」というバンドの追っかけをしており、新宿の『ACB』や池袋の『ドラム』、当時国内外の文化人が集まるサロン的存在だった港区のイタリアンレストラン『キャンティ』に出入りしていました。当時のユーミンは、ショートカットでニキビがいっぱいあって、女性というより、面白い女の子という印象だったそうです。

ユーミンは昔から音楽に詳しく、立川や横田の米軍基地にあるPX(売店)に入り浸ってはレッド・ツェッペリンなどの海外の最新レコードを仕入れていました。
そのうちに彼女が自分でピアノの弾き語りを吹き込んだカセットテープを、仲間のアーティストに聞かせるようになります。それは、15歳で書いたとは思えない出来栄えで、。ピアノの旋律は美しいし、風景を丁寧に描写した歌詞も素晴らしかったそうです。
1971年に17歳で作曲家としてデビューしました。その作品は彼女を本格的なデビューへと誘った加橋かつみ(元ザ・タイガース)へ提供した「愛は突然に…」です。これを凄くよい曲だ!と気に入ったのが、アルファレコードを設立した村井邦彦でした。
デビュー曲は今では幻のシングル
初めは作曲家志望でしたが、アルファレコードを設立した村井邦彦の勧めで、同年7月5日にかまやつひろしがプロデュースしたシングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビューします。しかし同シングルは300枚しか売れなかったのです。今でも〝幻のシングル〟と言われています。

返事はいらない
自分で歌うことへの迷い
今では個性的なあの歌声こそがユーミンの持ち味ですが、当時のユーミンは自分で歌うことに迷いがありました。本人は当時、自分で歌うシンガーソングライターになるよりもむしろ作曲家志望で、そっちのほうに自信があったのです。でも、スタッフは本人に歌ってもらったほうがいいと考えていたから、『ひこうき雲』を歌わせました。歌は、確かにそんなに上手くはない。けれど、拙いながらもやはり声に魅力がありました。

ひこうき雲
アルバム『ひこうき雲』の制作が始まりますが、完成まで1年以上もかかりました。
バックバンドの「キャラメル・ママ」は凄いメンバーで、細野晴臣(ベース、「はっぴいえんど」「YMO」)を始め、松任谷正隆(キーボード、後にユーミンと結婚)、鈴木茂(ギター、「はっぴいえんど」)に林立夫(ドラム)。当時、考えられる最高のバンドでした。楽器の演奏部分はすぐに録れたのですが、ユーミンがなかなかそれについてこられなかったのです。
1973年11月にファーストアルバム『ひこうき雲』を発売、TBSラジオの深夜放送番組『パックインミュージック』金曜日第2部を担当していたパーソナリティの林美雄の絶大な支持を受けて知名度が上がり、翌1974年より本格的にステージ活動を開始することになります。
ユーミンの『ひこうき雲』は、若くして亡くなった彼女の友人を悼み、その命をひこうき雲になぞらえて歌った曲です。歌詞では人の死をとりあげながらも、重々しくないメロディーとアレンジが印象的です。当時の彼女は純粋に、真剣に自分の人生や将来を見つめていた。だからこそ命をテーマにしたあの曲を書いたんじゃないでしょうか。
第一次荒井由実ブーム~あの日にかえりたい
1975年10月発売のシングル『あの日にかえりたい』(TBSドラマ『家庭の秘密』主題歌)が、初のオリコンチャート1位を獲得、1976年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第一次荒井由実ブームを迎えます。
実は『あの日にかえりたい』は、ドラマの内容に合わせなければいけないということで、歌詞を変えてくれとTBSに頼まれました。それで負けん気の強いユーミンでしたが歌詞の書き直しに応じ、書き直しました。
当時のユーミンには「そろそろ売れなきゃ」という思いがあったそうです。

あの日にかえりたい
荒井由実時代のアーティストへの曲提供
アグネス・チャンや沢田研二、松島トモ子などにも提供しています。バンバンに提供した『いちご白書』をもう一度』は、オリコン1位も獲得しています。
荒井由実時代のシングル
1 1972年7月5日 返事はいらない/空と海の輝きに向けて
2 1973年11月5日 きっと言える/ひこうき雲
3 1974年4月20日 やさしさに包まれたなら/魔法の鏡
4 1974年10月5日 12月の雨/瞳を閉じて
5 1975年2月20日 ルージュの伝言/何もきかないで
6 1975年10月5日 あの日にかえりたい/少しだけ片想い
7 1976年3月5日 翳りゆく部屋
荒井由実時代のオリジナルアルバム
1 1973年11月20日 ひこうき雲
2 1974年10月5日 MISSLIM (ミスリム)
3 1975年6月20日 COBALT HOUR
4 1976年11月20日 The 14th Moon(14番目の月)

1st 1973.11.20 ひこうき雲

2nd 1974.10.05 MISSLIM (ミスリム)

3rd 1975.06.20 COBALT HOUR

4th 1976.11.20 The 14th Moon (14番目の月)
荒井由実時代のアルバムからのタイアップ
第二次ブーム~松任谷由実時代へ
1975年12月にアレンジャー・松任谷正隆と婚約、1976年11月29日に横浜山手教会にて結婚しました。本人は引退する考えでしたが、専業主婦にはなりきれず結婚後の姓に変更して、松任谷由実の名で音楽活動を続行。1978年から1983年はオリジナルアルバムを毎年2枚リリースするなど、ブレッド&バター、松田聖子、小林麻美などに楽曲提供をしながらもハイペースで曲を製作し続けます。「埠頭を渡る風」、「DESTINY」、「恋人がサンタクロース」、「カンナ8号線」、「真珠のピアス」、「ダンデライオン」などはこの頃作られました。また、リゾート地でのコンサートのスタイルをこの時期に確立させます。
1981年6月のシングル「守ってあげたい」が1981年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第二次ブームが到来。その年のアルバム『昨晩お会いしましょう』以降のオリジナルアルバムは17枚連続でオリコン1位を獲得、1987年のアルバム『ダイアモンドダストが消えぬまに』以降は9作連続のミリオンセラーを獲得しました。
当時人気の高かったスキーを題材にした映画『私をスキーに連れてって』(1987年)の主題歌と挿入曲を一手に担当し、「若者のカリスマ」、「恋愛の教祖」などと呼ばれました。「失恋」についてを歌い、彼女自身がライバルと評する中島みゆきの作風とは一線を画し、「中産階級の手に届く夢」を歌って、バブル景気に沸く時代の波に乗ったユーミンでしたが、1990年代に入ると精神世界や民族的な音楽に傾倒。「満月のフォーチュン」「DAWN PURPLE」「真夏の夜の夢」「春よ、来い」「輪舞曲」などを生み出します。