はじめに
2016年3月3日、ひとりのプロレスラーが天国へ旅立ちました。本名、江崎英治さん。死因はくも膜下出血。47歳の若さでした。
彼はマスクマンでした。「ハヤブサ」のリングネームでリングの上を軽やかに飛翔し、度重なる激闘をくぐり抜け、いつしか「不死鳥」と呼ばれるまでになりました。試合中の事故で頸椎損傷という重傷を負いながらも、リング復帰を目指してリハビリを続ける彼に、ファンは不死鳥の復活を信じてやみませんでした。
端正な顔をマスクに包み、最後まで闘い続けたハヤブサの軌跡をたどります。

「ハヤブサ」以前
「ハヤブサ」こと江崎英治さんは、1968年11月29日生。出身地は熊本県八代市です。
彼の前歴として特筆すべきは、熊本商科大学(現・熊本学園大学)時代、学生プロレスのリングに上がっていたことです。今でこそ、新日本プロレスの棚橋弘至選手をはじめ、学生プロレス出身のプロレスラーは珍しくありませんが、彼はその先駆者ともいえる存在でした。
故郷・熊本を離れ、慣れない環境でプロレスラーを目指す下積み生活。そんな彼のデビュー戦は、唐突にやって来ました。
開き直って臨んだライガー戦…ハヤブサ<3> : ライフ : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
このデビュー戦を取材していた記者の証言が残っています。
“不死鳥伝説”のはじまりは突然に…ハヤブサのデビュー戦は国際会議場 | 達人に訊け! | 中日新聞プラス
入門わずか2か月、当日突然に決まったデビュー戦。しかし、やがてトップレスラーとなるその片鱗はすでに表れていたようです。
デビューから二年余り、江崎選手はメキシコへ武者修行に旅立ちます。そこで誕生したのが「マスクマン・ハヤブサ」でした。
「ハヤブサ」誕生~スターへの道
開き直って臨んだライガー戦…ハヤブサ<3> : ライフ : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
異国の地でひとりハヤブサ選手が奮闘している時、日本では、様々な団体で活躍するジュニアヘビー級のレスラーを一堂に集める大会の構想が進んでいました。「第1回スーパーJ-CUP」です。
多くの団体が選手を派遣する中、FMWが出場選手に選んだのが、ハヤブサ選手でした。メキシコで磨いた飛び技を見込んでの抜擢だったといいます。
そして、対戦相手は、この大会の提唱者であり、押しも押されぬジュニアヘビー級のスター、獣神サンダー・ライガー選手。新日本のエースと、ほぼ無名に近い若手の対戦でした。
ジュニア史上に残る『スーパーJカップ』特集|金沢克彦オフィシャルブログ「プロレス留年生 ときめいたら不整脈!?」Powered by Ameba
大会終了後、メキシコへ戻ったハヤブサ選手。しかし、その1試合で日本中に大きなインパクトを残しました。翌年、FMWを牽引してきた大仁田厚の引退に合わせ、ハヤブサ選手は帰国します。そして、団体のトップへと登りつめていくのです。
異次元の飛び技
ハヤブサ選手といえば、華麗な空中殺法が代名詞といえますが、実は、ハヤブサ選手は自身のブログで、技の解説をしているのです。例えば、代表的な技、ファイアーバードスプラッシュ 。
技解説:ファイアーバードスプラッシュ|ハヤブサオフィシャルブログ「愛と勇気とあるこーる」Powered by Ameba
続いて「不死鳥」の名のつく、フェニックススプラッシュ。
技解説:フェニックススプラッシュ|ハヤブサオフィシャルブログ「愛と勇気とあるこーる」Powered by Ameba
この他にも、ファルコン・アローやHエッジなど、自身のオリジナル技を解説されています。また、近年の活動や日常生活などを楽しく綴ったハヤブサ選手のブログは、今も公開されています。
ハヤブサオフィシャルブログ「愛と勇気とあるこーる」Powered by Ameba
全日本プロレスへの参戦
FMWで確固たる地位を築いたハヤブサ選手に、メジャー団体への挑戦というチャンスが巡ってきました。ジャイアント馬場選手率いる、全日本プロレスです。
当時、最初の引退から現役復帰をしていた大仁田厚選手が、かつての師匠・ジャイアント馬場選手に掛け合う形で実現した全日本参戦でしたが、ハヤブサ選手には思うところがあったようです。
忘れられない馬場さんの言葉…ハヤブサ<5> : ライフ : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
それでも、全日本のトップ選手との激闘を通して、ハヤブサ選手への高評価は揺るぎないものとなりました。その後も、全日本プロレスにはスポット参戦を継続しました。
「H」への転身
1999年当時、FMWのリングは「理不尽大王」こと冬木弘道選手がコミッショナーとして牛耳っていました。FMW正規軍に属するハヤブサ選手と冬木選手は長年の抗争を繰り広げていましたが、あろうことか冬木選手は、ハヤブサ選手にマスク剥奪を勧告したのです。
素顔で闘うことを余儀なくされたハヤブサ選手。そこで生み出されたのが、それまでの「ハヤブサ」のイメージを覆す「H」というキャラクターでした。

H選手は飛び技を多用せず、時にはラフファイトも辞さない、セクシーかつ明るいキャラクターでファンを魅了しました。そして、この時代に生まれた彼の決め台詞がこちらです。
「お楽しみは、これからだ!!」
約1年の「H」時代を経て、彼は再びマスクマン・ハヤブサとしての活動に戻ります。
事故
2001年10月22日、FMW後楽園ホール大会。シリーズ最終戦、ハヤブサ選手はマンモス佐々木選手との試合に臨んでいました。
ハヤブサさんが運命変えた事故直後に発した言葉「オレが命をかけたFMWを見捨てないでください」
その時の状況を、後にハヤブサ選手はこう述懐しています。
全身不随で生きる希望失う…ハヤブサ<1> : ライフ : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
4番と5番の頸椎損傷。事故当初は首から下が麻痺し、また、肺炎の菌が心臓に回り、一時は生命さえも危ぶまれる状態となったハヤブサ選手でしたが、心臓の手術に成功した後、リハビリを開始します。それは、リングに戻るための新たな闘いの始まりでした。
「シンガーソングレスラー」
懸命のリハビリを続ける一方で、ハヤブサ選手は新たな一面を見せます。それは、歌手としての活動。曲を作り歌う「シンガーソングレスラー」としての活動を開始したのです。
HAYABUSA | Listen and Stream Free Music, Albums, New Releases, Photos, Videos
CDを発売するだけでなく、ハヤブサ選手はマスクを被り、車椅子で全国を回り、精力的にライブ活動を展開しました。ハヤブサ選手のブログには、そんな日々のライブの様子も綴られています。
自らの足で再びリングへ
あの事故から実に10年が経った2011年に行われた大会に、ハヤブサ選手の姿がありました。全試合終了後、リングからの呼びかけに応じて、ハヤブサ選手が車椅子から立ち上がります。事故直後の、首から下の感覚を失っていた状態から、超人的な回復を見せていました。
また、2015年の日本テレビ「24時間テレビ 「愛は地球を救う」ではハヤブサ選手の特集が組まれ、プロレスファン以外の人々にもその存在が知られることになりました。が、そこでなされた演出が物議をかもし、ハヤブサ選手本人が声明を出すという出来事もありました。
ハヤブサ「24時間テレビ」による誤解否定 プロレス復帰へ「頑張る」 — スポニチ Sponichi Annex 芸能
旅立ち
2016年3月、衝撃的なニュースが全国を駆け巡りました。
プロレスラーのハヤブサさん死去
この知らせに、数多くのレスラーや、生前親交のあった方々から、追悼のメッセージが寄せられました。
葬儀は近親者のみで行われ、レスラーからは、大学時代からの親友であるミスター雁之助選手と、かつてのタッグパートナーで親交のあった新崎人生選手が参列しました。後日「ハヤブサを偲ぶ会」が行われ、多くのファンがその早すぎる旅立ちを惜しみました。
なお、死因となったくも膜下出血は、過去の頸椎損傷との関連は認められず、当時の健康状態は良好だったとのことです。
おわりに
かつて闘龍門や新日本プロレスに所属し、2010年の引退後は整体師・プロレス解説者として活躍するミラノコレクションA.T.さんは、デビュー前の一時期、ハヤブサ選手の付き人をしていた関係で、交流を持っていたそうです。
ハヤブサさん|ミラノコレクションA.T. 〜2nd Life〜
ミラノさんと同じように、日本中、いや、世界中のハヤブサファンが、その復活を信じていました。頸椎損傷という、非常に厳しい状況ではありましたが「ハヤブサならばやってくれるだろう」と期待を持たせてくれる何かを、ハヤブサ選手は持っていました。
ハヤブサ選手を全日本のリングに引き上げたジャイアント馬場選手も、熾烈な抗争を繰り広げた冬木弘道選手も、既にこの世にはいません。今頃、彼岸のリングでは、往年のレスラーたちと一緒に、ハヤブサ選手は軽々と飛翔しているでしょうか。