白人ヒップホップの先駆者「ビースティ・ボーイズ」!
アメリカのパンク、ラップの3人組グループ。ニューヨークで結成された。
MC&ベースのエムシーエー(MCA)、MC&ドラムのマイクD、MC&ギターのアドロックを中心に、ツアーメンバーのDJのミックス・マスター・マイク、キーボードのマニー・マークの5人での活動も行う。
貧しい黒人やカリブ系移民の音楽だったラップ・ミュージックを、白人として前面に打ち出し、最初に大成功したグループとして知られる。
リック・ルービンからは、「ヒップホップを郊外へ持ち出した」と評されている。
バンド名の由来は、敬愛するハードコア・パンクの重鎮バッド・ブレインズに肖り、「Bで始まる単語2つを冠するバンド名にしよう」と考案したもの。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第77位。
2012年5月4日、リーダー的存在であったエムシーエー(MCA)が癌で亡くなる。47歳没。

ビースティ・ボーイズ

ファッションも格好良かった!
グループは最初、ハードコア・パンクのバンドであったことも有名。
メンバーはエムシーエー(MCA)とマイク・D、ケイト・シェレンバック(ドラム)だった。
ケイト・シェレンバックは後に、女性だけのパンク、ヒップ・ホップ・バンド「ルシャス・ジャクソン」を結成した。

LUSCIOUS JACKSON(ルシャス・ジャクソン)
ビースティ・ボーイズの略歴
ビースティ・ボーイズとは - goo Wikipedia (ウィキペディア)

アルバム 「ライセンス・トゥ・イル」
その後もコンスタントにアルバムを発表するなど精力的に活動。
商業的にはサンプリングを多用し過ぎ、失敗したが、音楽の内容は非常に高く評価されている。
1989年の『「ポールズ・ブティック」、1992年の「チェック・ユア・ヘッド」も秀作となっている。
また、ヒップホップとギターサウンドを融合させ、再びビルボード・チャート1位に輝いた1994年の「イル・コミュニケーション」(「サボタージュ」収録)などは日本の若者にも人気だった。
そして、1998年にはよりストレートなヒップホップを展開した「ハロー・ナスティ」がグラミー賞を受賞するなど、世界的な地位を確かなものとした。

アルバム 「イル・コミュニケーション」

アルバム 「ハロー・ナスティ」
2000年代に入ってからは2004年に「トゥ・ザ・5ボローズ」をリリースした。
また、2006年には彼らのライブを50人のファンが撮影したドキュメンタリー映画「ビースティ・ボーイズ 撮られっぱなし天国」が公開された。
一方で、90年代から政治的な活動も盛んで、チベット独立を支持し、サンフランシスコで行われた「チベタン・フリーダム・コンサート」(1996年)では10万人を集めたとされている。
2000年代に入っても、9.11やイラク戦争に対して政治的な発言を行っている。

アルバム 「トゥ・ザ・5ボローズ」
映画「ビースティ・ボーイズ 撮られっぱなし天国」 撮影手法
ビースティ・ボーイズ 撮られっぱなし天国 - シネマライズ オフィシャルサイト

ドキュメンタリー映画 「ビースティ・ボーイズ 撮られっぱなし天国」
自分達でレコード会社を設立!「グランドロイヤル」
ビースティ・ボーイズとは - goo Wikipedia (ウィキペディア)

「グランドロイヤル」 ロゴワッペン
ビースティ・ボーイズの中心メンバー3人を紹介!
【マイクD(Mike D)】
MC、ドラム担当。
ニューヨークの裕福な家庭で育つ。母は有名なアートディーラー。
【キング・アドロック(King Ad-rock)】
MC、ギター担当。
日本のラッパーとも親交があり、スチャダラパーやTERIYAKI BOYZのプロデュースをしたこともある。
父は著名な劇作家、脚本家で「いちご白書」や「喝采の陰で」を執筆したイスラエル・ホロヴィッツ。
【エムシーエー(MCA)】
MC、ベース担当。リーダー。
2009年、左耳下腺に悪性の唾液腺腫瘍があることが判明。幸い声帯に影響は無く、手術も無事に成功した。
同年9月に発売予定の新作「ホット・ソース・コミッティー・パート1」の発売は、MCAの復帰を待っての無期限延期となったが、2012年5月4日に他界。
3人は共にユダヤ系である。
また、エムシーエー(MCA)は仏教徒で、チベット仏教を信仰していた。

若い頃のビースティ・ボーイズ

2012年に亡くなったエムシーエー(MCA)
【エムシーエー(MCA)の訃報に様々な反応】
エムシーエー(MCA)の訃報に際し、多くのミュージシャンが追悼コメントを寄せた。
主なミュージシャンは、Run-D.M.C.、LLクールJ、MCハマー、ジェイ・Z、エミネムなど。
また、ヒップホップ系以外にも、エルトン・ジョンやレニー・クラヴィッツ、リンキン・パーク、マドンナ、ソニック・ユースなどジャンルを超え、様々なタイプのミュージシャンが彼の死を哀しんだ。

若い頃のエムシーエー(MCA)
また、地元ニューヨークでは、ミュージック・ビデオのロケ地にファンが花を手向けたり、マディソン・スクエア・ガーデンがMCAの顔写真を添えて、「ニューヨークという巨大で忙しい街は、こういう時にいろいろな方法で心を開いて見せてくれるとてもユニークな場所」と感謝を告げた。
そして、当日行われたメジャーリーグの試合(ニューヨーク・メッツ)では、選手の入場曲をすべて彼らの楽曲に統一したりと、街は追悼の意に包まれた。
パンクからヒップホップへ。黒人のヒップホップを白人ミュージシャンへと目を向けさせたビースティ・ボーイズ。
それらをいとも簡単にやり遂げたかのように見せるのも、彼らビースティ・ボーイズの特長だった。