ロッテと中日で活躍した愛甲猛!
1962年8月15日生まれ。
右投左打、ポジションは投手から一塁手、背番号は1番から9番。
横浜高校のエースとして1978年、1980年と夏の甲子園へ出場、1980年にはチームを優勝に導いた。
その後、1981年にはドラフト1位でロッテオリオンズに入団。
1983年、打者に転向し1984年~1989年までフルイニング(試合開始から試合終了まで)出場を記録した。
1996年、無償トレードで中日ドラゴンズに移籍。移籍後は代打の切り札として活躍。
2000年、現役を引退。

横浜高校時代の「愛甲 猛」直筆サイン色紙
横浜高校 愛甲 猛 直筆サイン色紙 - ヤフオク!
535試合フル出場!ゴールデングラブ賞も獲得!
535試合連続フルイニング出場のパ・リーグ記録を持っている愛甲猛。
打撃では勝負強いバッティングを武器に戦い、1988年から3年連続で2ケタ本塁打を放ったが、21本を放った1990年は低打率だったため、それ以降は安打性のバッターに変わった。
守備では一塁手を中心に外野手もこなす。1989年、ゴールデングラブ賞を獲得。
また、股関節が柔らかく180度開脚して送球を受けることもできた。
甲子園の優勝投手だった愛甲猛!
愛甲猛 - Wikipedia
決勝の対戦投手・荒木大輔は1年生ながら、決勝まで無失点に抑えてきたエースであった。
しかし、この決勝では愛甲と荒木は連投の疲れもあってか、打ちこまれてしまった。
地力に勝る横浜高校がリリーフの好投もあり、勝利した。
この後の荒木は、当時甲子園のアイドルだった愛甲をも超える人気を獲得していく事になる。

ロッテ時代の愛甲猛
◆BBM ベースボールカード タイムトラベル 1989【... - ヤフオク!
高校で野球漬けの日々を送る中で、一時野球から離れた事もあった愛甲(詳しくは後述)。
甲子園で念願の優勝を決め、主将として優勝旗を受け取った愛甲は「優勝旗がこんなに重いなんて…。場内を一周するとき、手が震えました。野球をやめないでよかった」とコメントしている。
「悪童・愛甲」 高校時代の不良伝説!
愛甲猛 - Wikipedia

タバコ、女、薬、まさに悪童。
想像を絶する横浜高校野球部の「シゴキ」
愛甲猛 - Wikipedia
上記のような「超体育会系」だった横浜高校の野球部。当時は不良校としても有名だった。
その中で一年時から頭角を現し、エース扱いをされた愛甲に対して、上級生から向けられる視線は非常に冷たい物だった。その妬みに耐えられなった愛甲は野球から離れてしまう。
ここまででも充分、ぶっ飛んだエピソードを持つ愛甲。しかし、まだまだ悪童・愛甲のエピソードは終わらない!!
高校生ながら「ソープ」に接待されていた!
プロ野球球団からもソープを接待された!
野球から離れた愛甲を救った渡辺監督!
時は戻って愛甲が高校1年生だった1978年、初めて出場した夏の甲子園から戻った後、大スランプに陥ってしまう。
1年生の左腕エースとしてマスコミに騒がれ、自分を見失い、更に上級生の妬みを買ってしまい、合宿所から出て行ったのだ。
その愛甲を救ったのが横浜高の渡辺監督だった。
ボールの感触を忘れかね、野球部に戻って来た愛甲を自宅に引き取り、自分の家族と一緒に暮らすことで痛手を受けていた愛甲の心は徐々に蘇っていった。
渡辺監督は、「愛甲と心中する。あいつが中心にならなければ強くならない」とキャプテンに抜擢、大博打に打って出たのだが、この賭けは見事成功することになるのだった。
愛甲は5歳の時に両親が離婚し、母子家庭で育った。
早く母親を楽させたいと考えていた愛甲を見事復活させたのが渡辺監督だった。
ちなみに、愛甲は渡辺監督宅の電話を毎晩遅くまで利用し、月の電話代が何倍にも膨れ上がったが、「それで愛甲が立ち直ってくれるなら」と黙認してもらっていたそう。
プロ入り後は未勝利!落合の一言で吹っ切れた!
高校卒業後、ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に入団し、1981年4月6日にプロ初登板を果たす(8回から登板し、2回4失点)。
しかし、期待された左腕はプロでは一勝も出来ずに、4年目の1984年に打者へと転向した。
投手としての3年間の成績は、一軍登板が61試合。主に使われ方はリリーフで、1983年にはリリーフとして48試合に登板。通算0勝2敗、防御率6.70だった。
3年目のオフに自ら打者(野手)への転向を球団に申し出た。
愛甲本人は1年目のキャンプ時点で「プロに入った以上はゼニの稼げる男になる。それが投手であっても打者であってもどちらでも構わない」とコメントしていた。

悪童プライドを捨てる!
★BBM ベースボールカード FUSION 2018【LP06 愛... - ヤフオク!
落合に一喝され、甲子園優勝投手のプライドを捨てた!
落合博満に弟子入りし、打撃技術向上に取り組む愛甲猛。
落合から受けたトレーニングはまさにスパルタ教育だった。余りの厳しさについ「これでも甲子園優勝投手ですよ」とこぼすと、落合は「そんなに甲子園がいいなら甲子園に帰ればいい」と一喝。
愛甲はこの一言で吹っ切れ、プライドを捨てる事ができたという。
落合は厳しい指導の反面、愛甲を可愛がり、行動を共にすることが多く、打者転向に一番大きな役割を果たしてくれたと愛甲は自著『球界の野良犬』で語っている。

三冠王・落合博満
中日ドラゴンズ 三冠王 落合博満 直筆サイン... - ヤフオク!
打者として成功した愛甲猛!フルイニング出場記録も!
長打力等はなかったものの、1986年シーズンからはレギュラーとなり、1988年から5年連続で全試合出場を達成。また、88、89年と2年連続で最多二塁打を放っている。
1992年7月11日まで『全535試合連続フルイニング出場』という驚異的な記録を持つ愛甲猛であった。

左打者だった!
BBM 2018 FUSION 064 愛甲 猛 即決 - ヤフオク!
中日ドラゴンズ移籍後は「代打の切り札」に!
移籍後、中日ドラゴンズでは主に代打の切り札として活躍。
1999年には代打起用でありながら「打率.387」と勝負強さを見せ、リーグ優勝に貢献した。

『球界の野良犬』
球界の野良犬 (宝島SUGOI文庫) | 愛甲 猛 |本 | 通販 | Amazon
2000年に引退後はタレントや評論家に!
愛甲猛の打席シーン
自ら薬物使用を告白!!
愛甲は週刊現代、SPA!、週刊新潮など、様々な週刊誌で自らの薬物使用を告白している。
90年代末に体力の衰えを補う為、ホルモン剤『アンドロステンジオン』を服用していたらしい。
薬を使った効果は確かにあり、すべての力、体力、持久力、精力が異常に強くなった。
副作用に関しては「引退の2年前から、激しい動悸が起きるようになったため量を減らした」「引退から3カ月経ったころ、足が異様に浮腫み、病院で『静脈血栓』と診断され、即入院を言い渡された」と、薬物の危険性を語った。
結果、薬物使用による副作用で故障が目立つようになり、間違いなく選手寿命を縮めることになったのだが、著書では「後悔はしていない」と述べている。
※ 近年ではドーピングの危険性を訴えています。
引退後は俳優業も!
2009年にTBSラジオ『小島慶子キラ☆キラ』の中で、ピエール瀧やインタビュアーの吉田豪が前述した愛甲猛の著書「球界の野良犬」をやや興奮しながら紹介していた。
この本は悪童・愛甲猛のそれまでの悪事が数多く掲載されている。アウトローな青春時代の思い出が詰まった一冊。
近年は暴露トークで注目を集める愛甲猛!
2016年、清原和博の覚醒剤による逮捕で、プロ野球界の薬物汚染が騒がれている。
また、野球賭博も話題となっているが、何でも正直に告白してしまう愛甲がテレビや雑誌に登場する機会が増えている。
トーク番組やインタビューでは、かつてのプロ野球界の裏金工作等の様子も知る事が出来る。また、愛甲自身のトークも非常に面白く、惹き込まれる。

こんな本や…
球界のぶっちゃけ話 (宝島SUGOI文庫) | 愛甲 猛 |本 | 通販 | Amazon

こんな本を出していました!
球界への爆弾提言 | 愛甲 猛 |本 | 通販 | Amazon
≪同じく「悪童」と言われた伊良部の記事≫
【伊良部秀輝】”悪童”と呼ばれた孤高の速球王 - Middle Edge(ミドルエッジ)