アメリカ横断ウルトラクイズ、福留功男アナの「ニューヨークへ行きたいか~‼」に始まる壮絶なクイズバトルの歴史。

アメリカ横断ウルトラクイズ、福留功男アナの「ニューヨークへ行きたいか~‼」に始まる壮絶なクイズバトルの歴史。

日本テレビの大型クイズ番組「アメリカ横断ウルトラクイズ」毎年見てた方も多かったのではないでしょうか。主に1977~92年、毎年10月~12月にかけて特番が組まれた視聴者参加型のクイズ番組、毎週の放送がとても待ち遠しかったものです。壮絶なクイズバトルで無情にも脱落し罰ゲームをうけた人、最後まで勝ち残って栄光とスケールの大きな賞品を手にしたクイズ王。福留功男アナ、福澤朗アナらの名司会も番組を大いに盛り上げてくれましたよね。そんなアメリカ横断ウルトラクイズ歴代のクイズ王や罰ゲーム、豪華すぎた優勝賞品を振り返ってみましょう。


アメリカ横断ウルトラクイズといえば「みんなー!ニューヨークへ行きたいかぁー!?」(福留功男)

「みんなー!!ニューヨークへ行きたいかぁー!!?」(福留功男)
「勝てば天国、負ければ地獄!知力、体力、時の運!早く来い来い木曜日!」(高島忠夫・石川牧子アナ)

などの名フレーズが頭に浮かんできますね。

何よりも、優勝賞品が海外旅行だった当時のクイズ番組にあって、そもそもアメリカ大陸を横断しながら戦うクイズ番組という設定が壮大なスケールで、子供心に(つまりクイズの正解などは全く分からないままに)毎週楽しみにしていたのを憶えています。

みんなっ、ニューヨークへ行きたいか~!!

実にスケール感の漂う「アメリカ横断ウルトラクイズ」のBGM。
毎週楽しみに観ていました、不思議と番組途中からはだいたい応援する人が決まってくるんですよね。

「アメリカ横断ウルトラクイズ」はクイズ界最高峰のイメージがありました

クイズ解答者がこんなにカッコよく思えたクイズ番組は、他になかったような気がします。

「知力、体力、時の運!」

1977年(昭和52年)、『木曜スペシャル』枠で日本テレビ開局25周年記念番組として放送。
翌年からレギュラー化し、年に1回制作、毎年10月下旬から12月上旬頃に放送されました。
1992年(平成4年)の第16回を最後に終了したものの、1998年(平成10年)日本テレビ開局45年記念番組『ネッツトヨタスペシャル 今世紀最後!! 史上最大! アメリカ横断ウルトラクイズ』(以降「“今世紀最後”」と記す)として一度限りの復活を果たしました。

「アメリカ横断ウルトラクイズ」日本テレビで全17回開催・放送されました

なんと世界で最も制作費のかかったクイズ番組

日本各地から集まった挑戦者たちが「知力、体力、時の運」を合言葉に広大なアメリカ大陸を横断しながら1,000問以上に及ぶクイズに挑戦し、ニューヨークを目指すという番組。
いくつもの「チェックポイント」では趣向を凝らしたクイズが待ち受けており、勝ち抜ければ次のチェックポイントに進み、敗れると現地で厳しい罰ゲームを受けて日本へ強制送還。
数々のチェックポイントを勝ち抜き、ニューヨークには各回2名(第11回だけ3名)が進出して決勝戦が行われ優勝者「日本一のクイズ王」を決定しました。
他のクイズ番組とは異なり、18歳以上(第11回までは45歳以下・第12回から第16回までは50歳以下・“今世紀最後”は上限なし)でパスポートを所持していれば、オーディションなしで誰でも番組に参加可能。
ギネスブックには「世界で最も制作費のかかったクイズ番組」として記載。

世界で最も制作費のかかったクイズ番組

あまりに突拍子もないスケール感に第1回はドタキャンが続出

応募総数4,188名に対し実際の参加者が404名という、かなりのドタキャン率だったようです。

第1回の成功で第2回以降は参加者数がうなぎ上りに

参加者数はうなぎ上りだった一方、視聴率としては1987年以降は次第に低下していったようです。
※下表はwikipediaから参照しております

第1回(1977年) 視聴率約25% 参加者404人
第2回(1978年) 23.9% 700人
第3回(1979年) 23.9% 1,362人
第4回(1980年) 29.9% 2,707人
第5回(1981年) 27.2% 6,473人
第6回(1982年) 27.2% 7,332人
第7回(1983年) 34.5% 10,203人
第8回(1984年) 23.1% 11,048人
第9回(1985年) 22.2% 11,754人
第10回(1986年) 26.8% 17,162人
第11回(1987年) 20.4% 18,017人
第12回(1988年) 17.9% 20,774人
第13回(1989年) 16.6% 24,115人
第14回(1990年) 15.0% 26,735人
第15回(1991年) 18.1% 28,523人
第16回(1992年) 14.6% 26,121人
「今世紀最後」(1998年) 21.2% 50,453人


1992年時点で18歳だった私は一度は東京ドームに足を運んでみたいと思いつつ、ついぞ参加することがありませんでした。

多くの人が同じような思いを抱いたであろう、そんな「アメリカ横断ウルトラクイズ」歴代の優勝者や豪華すぎた優勝賞品、罰ゲームなどについて振り返っていきましょう。

「アメリカ横断ウルトラクイズ」歴代の優勝者/準優勝者について

「アメリカ横断ウルトラクイズ」優勝者は番組内で「クイズ王」と称されました

出場者はみな素人のはずなのに、毎週の放送を重ねるごとに応援したくなるプレイヤーが決まってきましたよね。
応援してた人が敗北すると、また別の人を応援する。
まるで高校野球のような熱いドラマが、毎年繰り広げられていたものです。

第13回クイズ王(優勝者)  長戸勇人(1989年)

「アメリカ横断ウルトラクイズ」優勝賞品について

以下、歴代の優勝者と準優勝者、そしてスケールの大きな優勝賞品を紹介していきましょう。
※wikipedia参照

第1回(1977年)

クイズ王(優勝者) 松尾清三

京都府出身、当時38歳。
立命館大学出身、材木店経営。優勝時の年齢が歴代最年長。
関西地区収録のクイズ番組を中心に参加し、数多くの優勝歴も持っていた。クイズ本番前に歌い出したり口笛を吹くといったマイペースぶりを見せており、フェニックス以降2位通過で決勝へ進出。

松尾清三

準優勝者 藤原滋子

愛知県出身、当時27歳。
クイズ番組優勝歴を多数持っていた実力者。グァムで敗者復活。
本土上陸後はフェニックス以外は全てトップ通過で決勝へ進出。

藤原滋子

優勝賞品 ラスベガスの土地1エーカー

砂漠のど真ん中・1226坪分。

ラスベガスの土地1エーカー

第2回(1978年)

クイズ王(優勝者) 北川宣浩

東京都出身、当時24歳。
東京都立大学出身。それまで勤めていた建築会社を辞めての初参加。
サイパンで敗者復活を果たし、ハワイ以降はリノ(2位通過)と準決勝を除いてトップ通過の連続で決勝へ進出。共に後楽園予選を通過した妹は成田で敗退しているが、国際電話連想クイズで兄をサポート。

北川宣浩

準優勝者 間下友美子

東京都出身、当時27歳。
クイズ番組ファンという一家の末っ子で、共に後楽園予選を通過した兄は成田で、姉はサイパンで敗退。本人もサイパンで敗れたものの、敗者復活。
国際電話連想クイズでは姉のサポートを受けて勝ち抜け、クイズ番組初挑戦ながら決勝まで勝ち残った。

間下友美子

優勝賞品 ニューヨークの最高級ホテル・エセックスハウス宿泊権

北川の母親と妹を呼んで1泊。

ニューヨークの最高級ホテル・エセックスハウス宿泊権

第3回(1979年)

クイズ王(優勝者) 宗田利八郎

福島県出身、当時29歳。
早稲田大学出身、造り酒屋の若旦那。大学時代は落語研究会に所属。クイズ番組での優勝経験があったものの、眠気と胃痛に悩まされることが多く準々決勝までトップ通過は無し。

宗田利八郎

準優勝者  田上滋

京都府出身、当時18歳。
浪人生。宗田とは対照的に、本番組がクイズ番組初挑戦。体力系に強く、バラマキクイズとリ・タイヤクイズでトップ通過。
10代での決勝進出を果たしたのは後にも先にも田上だけ。

田上滋

優勝賞品 競走馬一頭

第8CPヒューストンにて発表された。ダラスにて贈呈。数え年で8歳、人間でいうと45歳程度の老馬だった。
ヒューストンまで進出した女性挑戦者の名前「千春」から「サウザンド・プランタン」(英語の「サウザンド」とフランス語の「プランタン」を組み合わせた造語)と命名。

競走馬一頭

第4回(1980年)

クイズ王(優勝者)  上田由美

千葉県出身、当時21歳→22歳。
本番組唯一の女性優勝者で、本番組以外のクイズ番組出場経験はなし。
成田のジャンケンで対戦相手からもらったハチマキを締めて以降のクイズに臨んだことから「ハチマキ娘」と呼ばれる。
当初、コンピュータ予想の評価は高くなかったものの、イエローストーン以降は全てトップ通過で決勝まで進出。

上田由美

準優勝者 松澤典子

東京都出身、当時20歳。
クイズ番組初挑戦。初の親子での予選通過を果たすが、母親は機内ペーパークイズで脱落。
長旅の疲労で体調を崩しながらもニューヨーク行きを決める。

松澤典子

優勝賞品 1人乗り小型飛行機

第8CPアルバカーキにて発表。最新型の飛行機と紹介された。モハーベ空港にて贈呈。
部品の状態で渡され、自分で組み立てなければならなかった。

1人乗り小型飛行機

第5回(1981年)

第1問が球場前で発表されるようになった。アメリカ以外の国であるメキシコに上陸した初めての回である。大会5周年を記念して近畿日本ツーリストがメキシコ国内3つのCPを進呈したため前期ウルトラクイズの中では最もチェックポイントの多い大会となった。 以後、第6回を除き、第7回以降アメリカ以外の国へ上陸することが定着した。勝ち抜き時の『○○行き決定!』のゴシック体のスーパーが初登場、第6回では使用されなかったが第7回以降定着する。 空席待ちクイズ、奇襲クイズ、通せんぼクイズが初登場。一方、罰ゲームはますます厳しくなり、「72歳の老婆と強制的に結婚」(ラスベガス)、「闘牛」(メキシコシティー)、「イグアナのフルコース料理を食べる」(テオティワカン)、「スカイダイビング」(フェニックス)などが登場、その厳しさに批判的な意見が新聞(読売新聞など)の投書欄に出るようになった。 また、司会者の一次予選開始のフレーズ「みんな!ニューヨークへ行きたいかーっ!!」も初登場した。 準決勝地ノックスビルで行われた「通せんぼクイズ」は前期ウルトラクイズで最も激しい戦いが繰り広げられ、第13回・準決勝の激戦が行われるまでは大会最大の名勝負と位置付けられていた。 後にウルトラクイズの総集編特別番組「ウルトラクイズ・史上最大の傑作選」(1986年6月19日放送)の中で、歴代名勝負として紹介されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%A8%AA%E6%96%AD%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%81%AE%E5%90%84%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E3%81%AE%E8%A9%B3%E7%B4%B0

アメリカ横断ウルトラクイズの各大会の詳細 - Wikipedia

クイズ王(優勝者) 真木法男

茨城県出身・東京都在住、当時24歳。
中央大学の学生。番組初の現役大学生クイズ王。クイズ番組の優勝経験が複数回ある実力者であったが、サイパンでの敗者復活を皮切りにテオティワカンとフェニックスで苦戦しラスト通過、腹痛にも悩まされた末、全大会で唯一となる決勝以外で一度もトップ通過が無かった優勝者。
細身の体形と眼鏡をかけていたことから「メガネカマキリ」と通称。優勝した後は「石油王」。

真木法男

準優勝者 杉山眞

東京都出身、当時32歳。
武蔵工業大学出身、電気会社勤務。真木と同様に、クイズ番組の優勝経験が複数回ある実力者。
真木とは『クイズグランプリ』の優勝賞品でヨーロッパ旅行を共にした間柄。

杉山眞

優勝賞品 テキサスの油田採掘権

イーグルパスで贈呈。
しかし掘り当てても獲得配当の割合が微少のため、相当の大鉱脈が当たることを期待するしかない。

テキサスの油田採掘権

第6回(1982年)

成田第二次予選ではクイズ(ただしジャンケンで3勝した挑戦者が解答権優先)が行われた。ルートはアメリカのみだったが、常夏のサイパンから極寒のアラスカへと駒を進めるといった工夫がなされた。双子神経衰弱クイズが初登場。今大会から早押しクイズの効果音(解答権取得・正解・不正解)がアナログ音から電子音に変更された。勝ち抜き時の万歳三唱もこの大会から定着する。 司会の福留が旅の途中で食中毒になったことや、制作費の一部を持ったADが強盗に襲われ、またそのADが優勝賞品の旅行のロケに同行中に体調を崩し、帰国後赤痢に感染していたことが判明、本人と優勝者らが保健所に行く事態になるなど事件が多発したことから、福留自身「呪われた回」と述べている。 優勝旗返還が2年ぶりに登場(前大会は第4回クイズ王・上田由美が不参加のため行わず)。前大会クイズ王・真木法男と共に北川宣浩と宗田利八郎も入場、以後「歴代クイズ王の入場パレード」は恒例となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%A8%AA%E6%96%AD%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%81%AE%E5%90%84%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E3%81%AE%E8%A9%B3%E7%B4%B0

アメリカ横断ウルトラクイズの各大会の詳細 - Wikipedia

クイズ王(優勝者) 高橋直樹

静岡県出身、当時29歳。
父親が経営する会計事務所勤務。体重が100キロという巨漢であることから、愛称は「トドさん」。強気な姿勢にもかかわらず準決勝までトップ通過はなく、サイパンの空席待ちクイズでは残り2席の状態で通過、ニューオリンズの双子神経衰弱ではラストで通過するなど苦戦も。

高橋直樹

準優勝者 高木剛

茨城県出身、当時21歳。
青山学院大学の学生。愛称は「田舎っぺ」ということから「カッペ」、準決勝以降は「パンプキン」。
コンピュータ予想では常時トップにいて、ほとんどのチェックポイントを上位で通過。しかし決勝戦ではほぼ逆転不可能な状態まで点差が開いた。

高木剛

優勝賞品 世界一周の旅

決勝戦当日が出発日で、ローマ→アテネ→カイロ→バンコク→ホンコンというルートを1週間で回った駆け足の旅。
途中ドバイ国際空港では無許可撮影でスパイ容疑をかけられ逮捕拘禁された。その後出国を許されことなきを得たが、このハプニングは放映されなかった。

世界一周の旅

第7回(1983年)

福留が「歴代ベスト」と評した大会。参加者が1万人を突破し、視聴率も歴代で最高を記録した。 敗退後も「あの岩瀬の仲間の」と福留の言葉に登場したほど名前を記憶されていた岩瀬明彦(No.7、レイクパウエルで敗退)をはじめ、番組のムード盛り上げに貢献した挑戦者が複数存在し、多くが終盤、最終週まで勝ち残った。 今大会からサポートアナウンサーが同行するようになり、第8回までは石川牧子が担当した。綱引きクイズとダブルチャンスクイズが初登場。ルートはアメリカ合衆国本土への上陸の前と途中(ナイアガラの滝)でカナダを経由、番組では初めてカナダへ上陸した(正確には、第2回でナイアガラの滝を訪れているので、カナダ経由は2回目である)。 スタジオの電飾ルートのセット形式(CPからCPの丸みのあるフォルム)がこの回より定着する。 全大会で唯一、大陸上陸後に急病による脱落者が発生した。また、前年末に開催された『史上最大の敗者復活戦』の優勝者がシード権によりグァム空港から参加したが、合流クイズで機内最下位同点の挑戦者に敗れ敗退した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%A8%AA%E6%96%AD%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%81%AE%E5%90%84%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E3%81%AE%E8%A9%B3%E7%B4%B0

アメリカ横断ウルトラクイズの各大会の詳細 - Wikipedia

クイズ王(優勝者) 横田尚

東京都出身、当時25歳。
新宿駅前の旅館を営む若旦那。日本大学出身。183㎝の長身で、コンピュータ予想では常時トップにいたが、グァムの敗者復活戦では残り最後1つに辛くも滑り込んだり、オルバニーでのパラマキクイズでは早々にリーチをかけながら3ポイント目を取るのに苦戦。
優勝決定後はグリニッジ・ビレッジ・ハイスクール・バンドの学生たちによる万歳三唱で讃えられ、騎馬を組まれ盛大に祝われた。

横田尚

準優勝者 渡辺晶夫

千葉県出身、当時29歳。
空港のポーターサービス業。グァムで敗者復活を果たした以外は各チェックポイントのほとんどを上位で通過しており、安定感では横田を上回っていた。

渡辺晶夫

優勝賞品 カナダ産ログハウス

カナダ西部のカムループスで贈呈。
土地も与えられず、丸太を自分で切って組み立てなければならなかった。

カナダ産ログハウス

第8回(1984年)

クイズ王(優勝者) 石橋史行

東京都出身、当時27歳。
麻布大学の学生。クイズ番組の優勝経験を複数回持つ実力者で、第4回から後楽園予選に参加しており、5回目で予選通過。
歴代クイズ王の中では最も危なげなく各チェックポイントを勝ち抜け、グアムでの奇襲クイズは寝起きながら余裕を持って解答し一発勝利、ゲストクイズや体力系のクイズも余裕を持って上位通過を果たした。

石橋史行

準優勝者 宍戸浩明

福島県出身・東京都在住、当時22歳。
創価大学の学生。石橋とはクイズを通して知り合った友人同士で、第5回から後楽園予選に一緒に参加していた。
ラピッドシティーではラスト通過だったものの、他は石橋と各チェックポイントのトップ通過を競い合っていた。準決勝フィラデルフィアでは通過クイズ二度目で一抜けを果たした。

優勝賞品 高級クラシックカー

第一次予選で発表された。マイアミで贈呈。
部品の状態で渡され、自分で組み立てなければならず、しかもエンジンを自前で調達しなければならなかった。

高級クラシックカー

第9回(1985年)

自由の女神の修復工事が今大会と重なり、当時のパリ市長ジャック・シラクの招致で今大会はパリが決勝地になり、ニューヨークは北米大陸最後のチェックポイントとなっていた。それに伴い第1問もパリのランドマークであるエッフェル塔関連の問題が出題された。 それまで例年第二次まで行われた予選は、「敗者の味方」徳光の提案により第二次予選が全員通過。全員第1CPに行けると思われたところで、突如として第三次予選が出現し、結局は例年通りジャンケンで第1CP進出が決まった。 アメリカ横断後、大西洋を越え、ヨーロッパのイギリス、フランスに上陸。チェックポイントの数も増加し、1人が通過するチェックポイント数は17と歴代最多。これまで以上にスケールの大きい大会となった。団体戦クイズが初登場。 随所のハプニングが演出であることをカミングアウトするなど開き直った展開、機内ペーパークイズのベスト3が本土上陸前に全員敗退(1、2位はハワイで、3位はグァムで敗退、学生が一般人に負けるという展開)し、本土上陸後優勝最有力と目され、上位勝ち抜けを続けていた女性がロンドンで敗退するなど波乱含みの大会となった。 番組制作サイドは常々「知力・体力・時の運」を銘打っており、第4週エンディングのナレーションでは、クイズ番組で活躍を重ねる人でなくても勝てることが強調された。 第9回の決勝戦は、第10回までの最長の収録時間で、挑戦者が誤答を連発してなかなか決着しなかったという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%A8%AA%E6%96%AD%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%81%AE%E5%90%84%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E3%81%AE%E8%A9%B3%E7%B4%B0

アメリカ横断ウルトラクイズの各大会の詳細 - Wikipedia

クイズ王(優勝者)  金子孝雄

東京都出身、当時20歳。
埼玉大学クイズ研究会所属。愛称は、顔が似ていることから「林真理子」。優勝時の年齢が歴代最年少。
成田で敗者復活(を経験した優勝者は初)、アルバカーキのバラマキクイズではハズレを何度も引き当てた結果、背後に次の回答者(後楽園の敗者復活者)が迫り間違えれば敗退確実という状況でのラスト抜け、アトランティックシティではクイズの正解数最多ながらカードに恵まれずドボンを連発し本戦敗退するも敗者決定戦のスロットマシーンで777を出し勝利、ドーバーでも最後に通過したためドーバー横断○×クイズでは座席が残った側の飛行機に乗り結果正解するなど運に恵まれた部分もあった。
しかしロサンゼルスの3択クイズでは同率でトップ通過、アナポリスでは早々にトップ通過。早押しクイズでは安定しておりいずれも上位~中位で通過。

金子孝雄

準優勝者 長谷川威夫

東京都出身、当時23歳。
大手出版社の営業マン。勤務先のコマーシャルのキャッチフレーズ「ヤリガイ満々」から「ヤリガイ」「バカガイ」と呼ばれていた。グァム・ハワイと2度連続で敗者復活。特に2択3択の選択問題に強かった。
一方で体力系のクイズではアルバカーキでは思考力が鈍って解答までに時間がかかったりほてった体を冷やすために頭から水をかぶる、ニューヨークのマラソンクイズでは敗者とのラスト抜け争いとなり誤答・キャンセルの連続でなかなか決着をつけられず、敗者が誤答ペナルティで解答席を離れた間に通過を決めるなど苦戦し、またドーバーでは3番目に通過した時点で、続くドーバー横断○×クイズにおいて自らの予測した解答と違う側の飛行機の座席しか残っておらず嫌々乗り込んだもののそちらが正解であったりと運で勝ち上がった面もあった。

優勝賞品 1人乗り小型潜水艦

サイパンで贈呈。性能諸元:全長:2.5m 重量:150kg 潜水能力:100m 巡航速度:8km/h。初名はウルトラ9号、金子が優勝時に叫んだ言葉から「お母さまヤッタ号」と命名。
「ウェット型」という形式で潜水艦内部に水が入ってくるため乗員はアクアラング等の潜水具が必要になる。
エンディングではほとんど罰ゲームのような優勝賞品と言われた。翌年の第10回の優勝旗返還にも登場した。

1人乗り小型潜水艦

第10回(1986年)

10周年記念大会となった今大会は、途中アトランタから1本のルートが北米コースと南米コースに分岐され、それぞれのチャンピオンがニューヨークで合流するという初の試みが取り入れられた。総移動距離5万キロは第12回に次いで2番目、総チェックポイント数18は歴代大会で最も多い(1人が通過するチェックポイントは15で歴代3位)。 福留が担当する北米ルートは通称「天国組ルート」と呼ばれ、遊園地や豪華客船上などでクイズが行われた。チェックポイントはアメリカ合衆国のみだが、クイズの無い日にはバハマも訪れている。一方、同行アナウンサーの日高直人が担当する南米ルートは通称「地獄組ルート」と呼ばれ、ボリビアとブラジルに上陸し、ボリビアでは標高4000mで酸素が薄いという過酷な環境下でクイズが行われた。 全大会で唯一、第二次予選が「腕ズモウ」で行われ、機内ペーパークイズが2機の機内で同時に行われた。ロサンゼルス、アトランタではギャラリーの雑音・騒音に恐怖して敗者になる挑戦者が出、エルパソでは焦りから作戦をミスした挑戦者が敗退するなど、精神的なタフさが勝負を分けた戦いが多かった。中盤戦のモニュメントバレー、エルパソ、ダラスは3連続で体力クイズが続き、体力面のタフさも求められた。今大会と翌年の第11回ではリバティ島・自由の女神像の前で決勝戦が行われた。 前年とは一変して機内ペーパークイズの上位5名が全員本土上陸を果たした。決勝戦では実力者同士の激戦が繰り広げられ、第5回・第13回の準決勝と並ぶ名勝負とされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%A8%AA%E6%96%AD%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%81%AE%E5%90%84%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E3%81%AE%E8%A9%B3%E7%B4%B0

アメリカ横断ウルトラクイズの各大会の詳細 - Wikipedia

クイズ王(優勝者) 森田敬和

岐阜県出身・東京都在住、当時26歳。
拓殖大学出身、企画会社社長。20歳でスーパーダイスQのチャンピオンとなって以来、ウルトラクイズ優勝前に計8つのクイズ番組を制覇していた実力者。
成田の○×問題で一度失格したものの、機内ペーパークイズで敗者復活。早押しクイズでは常に上位で通過し、アトランタではトップで通過、そのアトランタでルートの南北分けを選択する際、同地が南北戦争における南軍側であったことから「南行かなきゃどこ行くのよ?」と南米行きを選択したものの、ボリビアでは39度近い高熱と腹痛、高山病に苦しみ、南米ルートの他の挑戦者がサポート。
これによって挑戦者間の連帯感が強まり、準決勝では挑戦者間で「お互い全力を尽くして、勝者を南米ルート代表として快く送り出そう」「南の方から優勝者を出そう」という約束が交わされた。
なお北米ルートとの合流前、南米ルートスタッフ全員から手厚い激励を受けたという。優勝した際に、南米に同行した同い年の日高アナウンサーと抱擁し喜び合い、森田が飲み残した勝利のシャンパンを日高が森田の頭からかけ手荒い祝福をする姿も放送。

森田敬和

準優勝者 西沢泰生

神奈川県出身・東京都在住、当時24歳。
東海大学出身、社内報編集者。森田と同様に、数多くのクイズ番組を制覇した実力者。福留からは、その見た目から「とっちゃん坊や」と呼ばれた。機内の成績は、森田とはわずか1点差であった。
アトランタでは森田に次いで2位で通過、「ナイアガラの滝に行きたいので」と北米を選択したが、その際福留から「ひょっとすると森田を避けたか?」とコメントされた。
北米ルートではオーランド、マイアミと2位通過、ナイアガラの準決勝では一旦不正解で-2ポイントまで落としながらも盛り返し、通過クイズ1回目(他挑戦者の不正解のため出題は2問)で決勝進出を決め、決勝での対戦相手について「90%森田敬和君」と予想し、予想通り森田との対戦となった決勝では一旦+2対+9と大量リードで王手をかけられた後から一気に盛り返し、相手の不正解もあり逆転、逆に+9対+8と王手をかける(その後森田の不正解で一旦+9対+7に開く)も、勝負をかけた問題で不正解し+8に後退、最後は2ポイント差で敗れた(優勝に王手をかけた準優勝者は西沢が唯一)。
帰国後、スタジオで「永遠に縮まらない2ポイント」と語っている。優勝賞品贈呈に際して「もう本当に二度とクイズに出るなョ」とマジックで書いた水色のTシャツを森田に送った。

優勝賞品 熱気球

アルバカーキで贈呈。アメリカ製3人乗りガスボンベ付きの本格派で、ウルトラクイズのロゴの入ったバーナー付。
本人は「これで東京に帰りたい」と飛び立ったが、ゴンドラからは「南米直行」の垂れ幕がぶら下がるというオチがついた。

熱気球

第11回(1987年)

後楽園球場で第一次予選が行われた最後の大会。福留が引退を宣言するが、敗者の味方・徳光和夫と総合司会の高島忠夫の説得により宣言は保留され、結果的には翌年も登場しているため事実上の撤回となった。 大会には高島も挑戦者として出場した。大会審査委員長が、テレビマンユニオンの白井博から日本テレビプロデューサーの高橋靖二に交代した。 成田へ行く前に埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)の久伊豆神社(正式な読み方は「ひさいず神社」だが番組中では「クイズ神社」と呼ばれていた)で第二次予選を、また敗者復活戦を名古屋近郊(愛知県小牧市)でそれぞれ行い、今大会も成田からの飛行機を勝者機と敗者機との2機を用意し、勝者機はそのままグァムに直行して機内で400問ペーパークイズを実施したが、敗者機の方では単なる敗者復活と銘打たず、名古屋縦断ミニトラクイズと称するなど、日本国内からグァムに至るまでの行程において一工夫が施された。敗者復活戦には第二次予選での敗者も参加した。 また、成田での第三次予選に際しては挑戦者柳井秀人(No.87、マイアミで敗退)が予選方式(ジャンケンか腕ズモウか)の決定の鍵を握る存在として登場し、日高直人と腕ズモウを行うが、敗北したという趣向もあった。 なお、この大会では過去の大会で歴代クイズ王となった一部の挑戦者が出場したが、その歴代クイズ王の挑戦者全員が第1問で敗退すると言う大波乱の幕開けとなった。また、成田→グァム間を移動する航空会社がこれまでのコンチネンタル・ミクロネシア航空から全日本空輸へと変更された。 大陸上陸後では、途中のチェックポイントを免除できるルールが採用された。ルート中盤では第5回以来6年ぶりにメキシコに上陸し、ユカタン半島を経由。タイムショッククイズ(タイムレース)が初登場。ベスト8にグァム泥んこ復活組が4人、ハワイ敗者復活、後楽園敗者復活、名古屋敗者復活組が1人ずつランクインするなど敗者復活者が健闘し、上位5名は全員敗者復活者であった。準決勝では第1回クイズ王・松尾清三との対決クイズが行われた結果、全大会で唯一3名が決勝戦に進出した。

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クイズ王(優勝者) 稲川良夫

岐阜県出身・大阪府在住、当時25歳。
立命館大学出身、凸版印刷勤務。立命館大学クイズ研究会(正式名称「立命館大学クイズソサエティ」・通称RUQS)の設立者にして初代会長であり、第5回で初参加し、第7回からはRUQSを引き連れて後楽園予選に出場していた。
出場前に申請していた有給休暇は6日、それを遥かに超え会社を解雇されるかも知れないという状況の中で当大会に臨んだ成田で敗退したが、「名古屋縦断ミニトラクイズ」では真っ先に正解し敗者復活パチンコに挑戦を開始、復活条件の2000発を大きく上回る3499発を叩き出し、敗者機内での400問ペーパークイズで勝者機を含めた総合1位を獲得、グァム深夜トレードクイズで2抜けと四連勝し敗者復活・合流を果たした。
一般企業の社員で決勝進出を果たした挑戦者は数名いるが、優勝を果たしたのは稲川だけである。稲川は帰国後、解雇されているものと思いながら出社したところ、上司の配慮により解雇されてはおらず、日本テレビも、優勝後のスタジオ収録の際に石川が「(勤務先の)名を世に知らしめたことを広告費用に換算すると数億円に上る」と述べたり、福留も「大変な営業マンだと思いますよ」と稲川を擁護した(ただし稲川は翌1988年には凸版印刷を退職している)。

稲川良夫

準優勝者  山賀恵美子

埼玉県出身、当時20歳。
青山学院女子短期大学の学生。グァムで敗者復活。この年の上位進出を果たした彼女と他の女性2名と合わせて「三人娘」と呼ばれ、放送当時は番組視聴者の間で非常に人気があった。
リンカーンでは温井和佳奈(東京都出身、No.52、19歳・リンカーンで敗退)との三人娘対決の末にラスト抜けを果たした。歴代最後の女性決勝進出者。
決勝では一問だけ解答することができ、解答した際にはグリニッジ・ビレッジ・ハイスクール・バンドの学生たちから歓声があがった。

山賀恵美子

優勝賞品 カナダ東部のノバスコシア沖に浮かぶ島

カンクンでクイズ前に発表された。最初は通常の島に上陸して味噌汁を作って食べたりしたが、実際の賞品として贈られた島は、その島の隣にある岩礁で、満潮時には畳一畳分を残して水没してしまう。干潮時は最初に上陸した島と岩礁の間を歩いて行き来ができる。
稲川が名古屋のパチンコで敗者復活したことから「パチンコ島」と命名して、敗者復活のタスキをこの地に埋めて記念とした。放送最後は雨の中岩礁に取り残されるというほとんど罰ゲームのような終わり方をした。稲川のブログによれば、実際には最初に上陸した島も含めて賞品として貰えたという。現在も稲川はこの島を所有している。

カナダ東部のノバスコシア沖に浮かぶ島

第12回(1988年)

参加資格年齢の上限が45歳から50歳に引き上げられ、第一次予選が初めて東京ドームにて行われた。敗者の味方が徳光から渡辺正行へと交代し、徳光は初めて一般挑戦者として出場した(第一問で敗退)。また、第1回クイズ王の松尾も5年ぶりの出場となったが、敗退した。 本大会からコンチネンタル・ミクロネシア航空時代の第9回以前と同様、成田→グァムの移動は通常通り飛行機1機での移動に戻した。 北極圏のバローから南極圏のフェゴ島まで南北アメリカ大陸を縦断し、アメリカ本土(フロリダ半島)へ再上陸。総移動距離55,000kmという歴代で最も距離の長いルートを辿った。南米ではブラジルとアルゼンチンを経由した。 決勝戦は今大会からイースト川を航行する遊覧船「プリンセス号」の船上で行われるナイター決勝となった。 機内1位の挑戦者がアメリカ大陸上陸を果たせず敗北し、第8回でもアメリカ大陸上陸を果たした2名が再度の本土上陸を果たしたり、成田・バロー・フェゴ島と3度敗退するも、いずれも敗者復活で復活した酒井敦子(東京都出身、No.12、ワシントンDCで敗退)など女性が3名南米上陸し、本土上陸後のトップ通過者の顔ぶれが固定されておらず、実力伯仲の戦いが続いた。一方で年長者、若年者は不振であり、20代の社会人挑戦者が中心となった。

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クイズ王(優勝者) 瀬間康仁

群馬県出身・大阪府在住、当時24歳。
立命館大学の学生で、RUQS4代目会長。趣味は献血で、当大会参加前までに63回も行ったというその数の多さから、イグアスの大声クイズで叫ぶ言葉も「何があっても献血」になった。
第一次予選では最後の問題で敗れたが、補欠繰上げにて第二次予選に参加。公務員試験を捨てての挑戦だった(後年に改めて公務員試験を受験し、合格後に群馬県職員となり、群馬県庁に勤務していた)。
サンフランシスコ、イグアス、フェゴ島などでは上位通過を果たし、ゲインズビル以降は全てトップ通過。決勝戦は紋付羽織袴を着て臨んだ。2年前の第10回の第一次予選も突破していたが、第二次予選の腕ズモウにて左利きであった瀬間は、右利きの相手と逆手で対戦したが、敗退した経歴がある。

瀬間康仁

準優勝者 大江成人

千葉県出身、当時22歳。
早稲田大学の学生。アラスカ鉄道でのクイズの誤答から、あだ名は「ババピー」で、道中の酒の席で、その誤答を女性解答者にからかわれ、酔った勢いもあって首に手を掛けたり、イグアスの大滝びクイズではフレーズが「ババピー」となった(回想シーンも放送された)。
本土上陸当初は中、下位での通過が多くラスベガスのクラップス早押しクイズでは振り直しの末後ろ向きでサイコロを振りラスト通過だったが、トップ通過したサンパウロ以降はフェゴ島でラスト通過となった以外上位通過が多かった(特にフェゴ島では、自身の他人に対する優しさから自身が危機に陥る場面があり、フェゴ島通過の際も勝ち抜いたが葛藤から涙を流す場面があった。その心情もあり、決勝まで勝ち上がった際には決勝の紹介では福留から「彼ほど、この旅で逞しくなった男は過去に見当たりません」と称された)。

優勝賞品 バイオマリンスポーツセット一式

フェゴ島で発表された。フロリダ州のウィンターヘブンで贈呈。同時にインストラクター技術も伝授された。
「バイオマリンスポーツ」とは馬1頭の力によって引かれる水上スキー「ホースウォータースキー」のこと。馬も賞品に含まれる。賞品地レポーターは小倉淳が務めた。

バイオマリンスポーツセット一式

第13回(1989年)

第1回から続いたスタジオパートが廃止され、代わりに人工衛星による撮影画像を用いたCGのルート紹介、スタッフや挑戦者による敗者予想など新たな趣向が試みられた。 第1問と敗者復活者が、第一次予選当日の読売新聞紙上で発表された。今大会より、グァムのブーブーゲートでの効果音がブザー音声から電子音声(クイズ不正解時の効果音と同じもの)に変更になり、またグァムの泥んこクイズでは、問題が書かれた番号札(挑戦者は残っている番号札から任意のものを選ぶ)が廃止になり、挑戦者はあらかじめ用意された問題に答える方式に変更になった。 ルート前半ではオーストラリアとニュージーランドに上陸し、後半でアメリカ本土を横断。シドニーではMr.マリックがゲストとして出演し、敗者復活戦も行った。 前年と異なりアメリカ本土上陸前にクイーンズタウンで女性が全滅し、アメリカ本土上陸を果たしたのは全員男性でロサンゼルスで敗退した1名を除き大学クイズ研究会関係者ばかりであった。 全大会中でも、国内予選を通過した挑戦者のクイズ知識が際立っていた大会とされ、特に後半のチェックポイントで激戦が繰り広げられた。特に準決勝ボルティモアの通せんぼクイズでは長戸勇人が通過席に8度立ち、準決勝用に用意された問題が使い果たされるなど、第5回ノックスビルにも勝る激戦が繰り広げられた。

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クイズ王(優勝者) 長戸勇人

京都府出身、当時24歳。
立命館大学の学生だったが、休学して第一次予選の参加直前まで南米旅行をしていた。RUQS5代目会長。極めて関西人らしい豪快な性格と言動が特徴。
第一次予選終了後に南米旅行時に感染したA型肝炎で入院したが、第二次予選直前に退院して参加した。第二次予選と機内クイズは髭面でのパジャマ姿で臨み、グァムで髭は剃り落としたものの、決勝戦も再びパジャマ姿で臨んだ。
トップ通過はクイーンズタウンとボルティモアのみで、グァムで敗者復活、チムニーロックとメンフィスでラスト通過、ボルティモアでは通過席に8度立つなど、後半は苦戦の連続だった。なお、肝炎の既往歴を考慮して、優勝者に与えられるシャンパンが見た目がシャンパン風のジュースに差し替えられていた。
「クイズはスポーツ」が信条で、クイーンズタウン以降はラグビーのオールブラックスのジャージでクイズに臨む(着替えるシーンも放送された)こともあった。福留からは「20世紀最強のチャンピオン」と呼ばれ、本番組のビデオでは「早押し0.07秒」と紹介された。現在はクイズ作家として活躍している。

長戸勇人

準優勝者 永田喜彰

兵庫県出身、当時26歳。
大阪大学出身、システムエンジニア。第5回から第一次予選に参加しており、大学在学中は青春18きっぷを利用しての電車旅行ついでに予選参加していたと言う、第2回クイズ王の北川と同じく鉄道ファンであった。
シドニーで敗者復活。クイーンズタウンから再び合流して以降、準決勝まで、クイズ挑戦時には常にMr.マリックからもらった「ハンドパワーTシャツ」を着用し続けた(決勝ではTシャツは着なかった)。第10回でも国内予選を突破し、成田の○×問題で誤答しペーパークイズで敗者復活したものの、この時はグァムで敗退している(「他の人の問題を聞いても間違えてばかり」という理由で、問題を聞く前に○へ行くと宣言したものの、よりによって鉄道運賃に関する問題が出され「しまった」と言いながらも結局宣言通り○に飛び込んでドロンコになった)。翌年の1987年(昭和62年)からは、外部生ながらRUQSに所属していた。
長戸と違ってトップ通過が多く、シドニー以外は安定していた。但し、チムニーロックでは、コンボイの乗車順=解答順を決める三択クイズで最も不利な最後尾となったものの、挑戦権を獲得した通過問題では一発正解し結局4番目に通過している。後に長戸と共にバラエティ番組に出演するなどクイズタレントとしても活動している。

永田喜彰

優勝賞品 冷凍人間保存の会員権

オークランドで贈呈。賞品贈呈パートは罰ゲームのテーマで開始された。
東京ドームにて「10万26歳」「タイムカプセル」「2001年宇宙の旅」という3つのヒントが与えられていた。

冷凍人間保存の会員権

第14回(1990年)

レギュラー放送で福留が全編担当をした最後の大会。日本テレビがタイアップしていた映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』に因み、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」がテーマとなっていた。 第1問が第一次予選当日、早朝のテレビ番組で発表された。グァムでは台風の影響で○×どろんこクイズができないという事態が発生。その後はフランス領ポリネシアのタヒチに上陸。アメリカ本土西海岸のポートランド上陸後は、準決勝・東海岸のキティホークまで全てチャーターバスのみで移動し、日本人があまり訪れない秘境でのクイズも行われた。 クイズ研究会対策として採用された「クイズ研殺し」の問題が一部の問題で出題されたことから、クイズ経験者や大学クイズ研究会の強者が多数勝ち残った前年とはうって変わり、学生はアーチーズで最後の敗者となる、レバノンでの逆転負けなど多くが振るわなかった。前年同様、前半のオレゴン街道・グランドテートン・ソルトレークで女性が全滅し、後半に勝ち残ったのは男性ばかりであった。 後半に勝ち進んだ挑戦者には社会人やクイズ未経験者が多く、30代以上の本土上陸者、妻帯者や父親である者も多かった。これにより決勝進出者は久し振りに社会人のみとなった。 また、バスツアーや車中泊・番組史上初となる罰ゲーム以外でのサバイバル体験入学・大西洋到着など、クイズ以外の場面での挑戦者の表情が映し出される場面が多く、全体的なBGMの選曲も相まってヒューマン・ドキュメンタリー色の濃い大会となった。バスツアーでありなおかつ秘境でのクイズが多かったため、失格者帰国のテロップには?マークがつくことが多かった。

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クイズ王(優勝者) 佐藤光邦

秋田県出身・神奈川県在住、当時33歳。
成蹊大学出身、郵便局員。口髭を生やしていることと、名前の「光邦」を徳川光圀に掛けて、愛称は「ヒゲの黄門様」。クイズ番組への参加も海外旅行も全くの未経験だった。
早押しクイズでは実力を見せたが、体力系のクイズでは苦戦した。

準優勝者 高松康典

熊本県出身、当時25歳。
機械会社勤務。佐藤とは対照的にトマト戦争などの体力系のクイズを得意としていた。
早押しクイズでの解答権取得の素早さも際立ったものの誤答も多く、エリーではラスト抜けを争い相手にリーチのかかった状態で誤答し一回休みと追い詰められた。
決勝戦では自分の勤務する会社の制服を着て臨んだ。

優勝賞品 "ラスベガス"のカジノのオーナー権

ネバダ州ではなく、ニューメキシコ州のラスベガスで贈呈。
ゲームは「牛糞ビンゴ」だったが、ニューメキシコ州では賭博は禁止されているため、収益は全額寄付しなければならなかった。
牛糞ビンゴで使われた土地と牛2頭が佐藤に贈られた。賞品地レポーターは小倉淳が務めた。

"ラスベガス"のカジノのオーナー権

第15回(1991年)

クイズ王(優勝者) 能勢一幸

埼玉県出身、当時22歳。
一橋大学出身、公務員。一橋大学クイズ研究会出身で、それまでクイズ歴は豊富なものの優勝経験が一度もない無冠の戦士だった。
『第3回FNS1億2,000万人のクイズ王決定戦!』の予選通過を辞退しての参加。他のクイズ王と違い優勝直後から他局のクイズ番組の出演が多く、後にウルトラクイズにおける自身の体験談を『能勢一幸のクイズ全書1』(情報センター出版局、1993年)という著書として発表している。
第16回大会では予選第一問で敗退した。能勢の優勝により、2年連続で公務員がクイズ王となった。

能勢一幸

準優勝者 松原史和

神奈川県出身、当時21歳。
一橋大学の学生で、同大学のクイズ研究会所属。迷彩服姿でクイズに挑んだり、勝ち抜けると匍匐前進を披露したことなどから「ゲリラ松原」と福澤から呼ばれていた。
能勢は大学の先輩にあたる。松原は遅生まれで能勢は早生まれ(1月1日)のため、年齢は1つ違いだが能勢は社会人、松原は大学3年生であった。

優勝賞品 プライベート温泉

アメリカンロッキーで贈呈。熱い源泉と川の水を自分で混ぜ合わせたもの。
近くに鴨がいたので「かもの湯」と命名するが、"「おたく湯がいいのに」とスタッフは思った"とテロップが出されている。

プライベート温泉

第16回(1992年)

レギュラー開催最後の大会。番組テーマ曲が従来の曲のアレンジバージョンに変更。スタジオパートは再び無くなり、ルートの紹介は他大会のように事前には行われず。番組冒頭に流れた前週までのプレイバックでのみ行われ、次のチェックポイントは挑戦者と同様に直前に発表されるまで視聴者が知ることはできなかった。台風上陸の影響と司会者の交代が響き、第一次予選参加者が前回よりも減少した唯一の大会でもある。 敗者復活戦が再開されるなどルールが前年より若干緩和されたが、女性はサンフランシスコまで1人進出したのみ、チェックポイントがアメリカ合衆国内にとどまり、スケールが縮小された。第14回に続き、今大会でもグァムで台風の被害を受けた。また、決勝戦以外のお手つき・誤答のペナルティが、すべて一回休みであった(決勝では従来通りマイナスポイント)。 第一次予選にはラサール石井が参加していたが、第1問で敗退した。その他にも前回クイズ王の能勢一幸が第1問で敗退した。その一方で、初参加の第5回から連続出場しているものの、その第5回から12年連続第1問で敗退と言う珍記録を達成していた「疫病神」の蓑原弘豊が初めて第1問を突破し、ついに第1問での連敗記録をストップさせ、第1問正解の瞬間、勝者の数人で蓑原を胴上げして祝福していた。 この回は唯一、福澤が第1問を読み上げた。

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クイズ王(優勝者) 田中健一

大阪府出身・東京都在住、当時22歳。
東京大学の学生で、同大学のクイズ研究会所属。上位通過が多かったが、私がママよでラスト通過・次のマラソンクイズでトップ通過と浮き沈みもあった。
決勝の相手である大西とは本番組参加前から『FNS1億2000万人のクイズ王決定戦』(フジテレビ系列)で知り合っていた。現在はクイズ作家。

田中健一

準優勝者 大西肇

京都府出身、当時34歳。
関西大学出身、呉服店店主で既婚者。第13回で準優勝した永田に誘われ、関西クイズ愛好会に所属。
社会人になってからクイズを始め、クイズ番組出場経験多数の実力者だった。東京ドームからニューヨークまで一貫してクイズには和服を着て臨んだ(ただし、移動時には普通の服を着ており、クイズ収録時に和服に着替えていたとのこと)。
成田で敗者復活した以外は、常に上位通過で安定していた。後に2001年に放送された「家族の愛よ!甦れスペシャル オーストラリア大陸縦断5000キロ!冒険家族クイズ2001」に家族4人で参加した。

優勝賞品 ワイン用ブドウ畑

ワシントン州のスノコルミーで贈呈。1列のみだが、それでも年間ビン500本分のブドウ酒を収穫できる。造られたワインは「ミニラチューチュー」と名づけられた。
維持費と税金の問題で畑を手放し、約300本のワインと交換した。しかし本人を含め家族全員下戸だったため、ワイン全部を知人縁者に配ったという。

ワイン用ブドウ畑

「今世紀最後」(1998年)

日本テレビ開局45周年記念番組として、6年ぶりで1度限りの復活。「Mr.ウルトラクイズ」として福留が再登板し、"敗者の味方"も徳光が担当した。復活したスタジオ司会は伊東四朗と松本明子が務め、ルート紹介はCGで行われたが、決勝地は生中継で決勝が行われる直前まで明らかにされなかった。 当初はトヨタ自動車の販売店である「トヨタオート店」がメインスポンサーであったが、トヨタオート店が「ネッツトヨタ」として改組したことで「ネッツトヨタ発足記念番組(ネッツトヨタスペシャル)」となり、当時のトヨタ・ネッツ系の自動車ディーラー(旧トヨタオート店)ではウルトラクイズの参加申込書が各営業所内に置かれた。 第二次予選でのピカイチ技・ポン食い予選の導入、機内400問3択ペーパークイズの廃止と、それまでの伝統を一新した内容を取り入れた。 参加年齢の上限が撤廃され、最高齢出場者は萩原豊一(86歳→87歳)であった。萩原は第1問を正解したものの、続く第2問で失格となったが、一旦は敗者復活となった。しかし萩原は第二次予選のポン食いに失敗して敗退した。 その他の60歳~70歳代の挑戦者も国外チェックポイントまで進出したものの、それに配慮して体力系クイズはグァムでの団体戦綱引きクイズのみ行い、バラマキクイズや大声クイズは行われなかったり、高齢者が敗退した時の罰ゲームを参加者の任意とした。 ニューヨークは準決勝のチェックポイントとなり、決勝戦は西インド諸島のサン・サルバドル島で泥んこクイズを行い、その模様を衛星生中継で放送した。 この回では他にも歴代のクイズ王が一部参加したが、第4回クイズ王の山口由美、第5回クイズ王の真木法男、第7回クイズ王の横田尚、第15回クイズ王の能勢一幸は全員第1問で敗退し、第6回クイズ王の高橋直樹が自身の娘(当時20歳)とともに参加(娘は初出場)したが、その高橋も第1問で敗退した(高橋にとっては結果的には生前最後のクイズ挑戦となった。なお、高橋の娘は第1問を突破したものの、続く第2問で敗退したため、第一次予選通過はならなかった)。また第12回クイズ王の瀬間康仁と第13回クイズ王の長戸勇人も揃って第3問で敗退した。 成田→グァム間を移動する航空会社が第2回から第10回まで使用のコンチネンタル・ミクロネシア航空に戻した。全日本空輸からコンチネンタル・ミクロネシア航空に戻した理由は不明。 全体的に、アメリカの古き良き歴史をテーマにしたチェックポイントが多かった。

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クイズ王(優勝者) 小川圭太

新潟県出身、当時21歳。
立命館大学の学生で、RUQS所属(後に17代目会長に就任したことにより立命館クイズ研出身・所属の優勝者は全員歴代会長に就任したことになる)。クイズには立命館クイズ研の法被を着て臨むことが多かった。
グァムの奇襲クイズで遅刻し最後に合流するというミスがあったが、シルバートン以降を全て上位で通過。デュランゴでは清水とペアを組んでいた。ピカイチ技は「南京玉すだれ」であったが一次審査で不合格、優勝した際に改めて披露した。

準優勝者 清水耕司

当時25歳、信州大学の学生。
小川同様グァムの奇襲クイズには遅刻しており、その敗者決定戦で辛くも勝ち抜けた。ハワイとニューヨークでは、勝ち抜けしたときに号泣した。

優勝賞品 高級ハウスボート

マイアミ沖に浮かんでいたが、魚のためのハウスボートだったためにすぐさま爆破されて魚礁となった。

高級ハウスボート

ウルトラ史上最大の激戦「伝説のボルティモア」

アメリカ横断ウルトラクイズには数多くの死闘が存在しますが、なかでもこの「伝説のボルティモア」は、いまだにウルトラ史上最大の激戦として、多くの人の記憶に残っています。

ホントにやったの?「アメリカ横断ウルトラクイズ」壮絶な罰ゲーム

異国の地でクイズ敗者に対して行われる、容赦のない罰ゲームもまたウルトラクイズの見せ場でした。
下記のように区分される数々の罰ゲームが、毎回のチェックポイントごとに用意されていたのです。

罰ゲームには以下のようなものがあった。 苦痛な状況を我慢する。例えば、氷河の氷を掘り出しその氷で作ったかき氷を食べる、真冬の服装を分厚く着込み、砂浜に設けられた電気こたつに入って過ごし鍋焼きうどんを食べさせられるなど。後述の帰国手段系の罰ゲームと複合したケースもある。 公の場などで恥ずかしいと思われることをやらされる。例えば、ホワイトハウス前の庭で囚人服を着てゴミ拾いをさせられる、体に屈辱的な語句のシールを貼って日焼けさせる、移動式バスタブのCMを繰り返すなど。 スポーツやスタント、絶叫マシン、パフォーマンスなどの体験。闘牛体験や米海軍士官学校一日体験入校、ジョー・フレージャーとのスパーリングやルー・テーズとのプロレス勝負、ロデオなどもあった。失格者の嗜好と罰ゲームの内容によっては罰ゲームの意義が薄れる(むしろ労り、労いの性格が強くなる)こともあった。前述の屈辱系と複合した小学校再入学+居残り授業などもある。 非常に体力を消耗する作業や運動。階段で超高層ビルの屋上まで上がらせられたうえ屋上でマラソンをさせられる、強力な磁石を引きずりながら走って空き缶などを拾う、スタッフに代わってクイズ機材の回収・撤収作業をやらされるなど。 非常に難易度の高い作業。空き缶と棒、タコ糸でベースを作って演奏するなど。 クイズ会場からの帰国手段そのものが罰ゲームとなっているもの。川や海の水上・水中を徒歩や貧弱な乗り物で渡って(流されて)帰国、砂漠を歩いて帰国、北北西に進路を取り帰国を目指す、熊やワニなどの危険な動物を連れて帰国する、犬・豚に道案内してもらい帰国するなど。 現地に置き去り。荒野、僻地、ホテルに置き去りにされる。現地のおばあちゃんと結婚させられ、そのまま町に永住。 ドッキリ系の罰ゲーム。第13回ではクイズの時に後ろでバンジージャンプをバンバンやっているところを見せ、クイズが始まる前から「罰ゲームは当然おわかりですね?」と挑戦者を震え上がらせていた。実際は敗者がジャンプする直前で、「そこまで!」と言ってやめさせるという罰ゲームなど。ヒッチハイクして運転手(実際は米国俳優による演技)に銃を突き付けられ恐喝されるなど。この罰ゲームは何度も行われ、似た形の罰ゲームも多く行われた。第8回グァムなど食事を振る舞われたと思ったらゲテモノ料理だったというパターンのドッキリなどもある。 第12回イグアスでは、川を下っているところを不法出国で捕まるという罰ゲームがあった。当初の予定では「ブラジルを出国するところで同国の警官が連行する」という筋書きのはずだったが、実際には対岸のパラグアイに流れ、さらには本物のパラグアイ国境警備隊に威嚇射撃を受けてしまう。慌てたスタッフがブラジル側の警官と共にテレビ番組の収録だと説明したが、それでも警官に信じてもらえず、結果的にウルトラクイズのロゴ入りTシャツとキャップを警官に渡して事無きを得た。 ごくまれに罰ゲームに先だって、または罰ゲーム終了後に賞品が贈呈されることもある。ただし、所詮罰ゲームであるためオチがついていることが多い。 新聞テレビ欄で罰ゲーム内容の要約が掲載されネタバレされることもあった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%A8%AA%E6%96%AD%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA#.E7.BD.B0.E3.82.B2.E3.83.BC.E3.83.A0

アメリカ横断ウルトラクイズ - Wikipedia

第12回第10CP、イグアス罰ゲームの裏話

恐怖の罰ゲーム|今だから話せるウルトラクイズ裏話

アメリカ横断ウルトラクイズが終了した訳

様々に理由はあると思いますが、やはりギネスにも載った「莫大な制作予算」が大きかったのではないでしょうか。
スケールの大きな歴史に残るクイズ番組でしたが、やはりそれを実行するにはそれなりに大掛かりな環境整備が必要であったということでしょうね。

(中止した主な理由) ・制作費が莫大で、1回制作するたびに大赤字だった。しかも、バブル崩壊で不景気になり、スポンサーが減った。 ・番組開始当初(昭和50年代)は、海外旅行がまだ庶民の夢として扱われていたが、そのうちに一般人が気軽に海外へ行けるようになり、ステータスが薄れた。番組後期は、これを補うために秘境を探し続けたが、だんだんにそれもなくなった。また、そのことがさらに制作費を圧迫した。 ・海外旅行が憧れだったころは、人生を賭して(仕事を投げ打って)挑戦するチャレンジャーがいたため、ドキュメント色のある番組が出来た。しかし、だんだん男性会社員のチャレンジャーが少なくなり、中期には自営業者の後継ぎやOL、後期には学生のチャレンジャーが勝ち残る傾向が強まった。特に学生達は、勝ち残るための対策を「クイズ研究会」で鍛えたため、解答レベルを高めることに貢献した反面、テレビ向きのキャラクターを制作側とともに作っていく姿勢に欠けるところがあり、視聴者の共感が得られにくくなった。こうしたことが、徐々に視聴率を下げる要因になったと言われている。 (現在も復活しない主な理由) ・テロ対策などで、海外での大型ロケ自体が難しくなっている。特にウルトラクイズの場合、勝者の宿泊券や敗者の航空券を仮名で予約し、直前で修正するというテクニックを使っていたが、この方式がいま通用するかどうかは疑問。 ・インターネットと携帯電話が発達し、情報管理ができなくなっている。1998年に復活した時も、第1問はドーム内で出題されたが、いっせいに携帯が取り出され、回線がパンクする事態が起きた。また、ネタバレ防止のため決勝を生中継にしたが、挑戦者をいったん日本に帰してからまた連れていくのは不自然だし、毎年繰り返すのは難しいと思う。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1110348651

日本テレビのアメリカ横断ウルトラクイズはどうして中止になったのです... - Yahoo!知恵袋

「アメリカ横断ウルトラクイズ」歴代の優勝者/準優勝者一覧

各回の優勝者/準優勝者一覧。
なお、各人のプロフィールはwikipediaを参照させていただいております。

  優勝者 準優勝者
第1回 松尾清三 藤原滋子
第2回 北川宣浩 間下友美子
第3回 宗田利八郎 田上滋
第4回 上田由美 松澤典子
第5回 真木法男 杉山眞
第6回 高橋直樹 高木剛
第7回 横田尚 渡辺晶夫
第8回 石橋史行 宍戸浩明
第9回 金子孝雄 長谷川威夫
第10回 森田敬和 西沢泰生
第11回 稲川良夫 山賀恵美子
第12回 瀬間康 仁大江成人
第13回 長戸勇人 永田喜彰
第14回 佐藤光邦 高松康典
第15回 能勢一幸 松原史和
第16回 田中健一 大西肇
「今世紀最後」 小川圭太 清水耕司

全てのクイズファン待望のクイズ総合誌「QUIZ JAPAN」

「アメリカ横断ウルトラクイズ」で活躍した方々もよく登場されている、本格派クイズカルチャーマガジン「QUIZ JAPAN」、クイズが好きだった方々にはとてもおススメのマガジンです。

QUIZ JAPAN 公式サイト

懐かしのサントラです

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