
ジャニーズ『忍者』のメンバー
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忍者の前身、『少年忍者』
1985年、中村繁之のバックダンサーとして結成されたのが『シゲダン』。『少年忍者』の前身。当時のメンバーは、柳沢、正木、遠藤、高木、志賀の他、中村亘利(後に『CHA-CHA』としてデビュー)、内海光司(後に『光GENJI』としてデビュー)、江端郁己、江端郁世、藤沢裕介の10名にて結成。
その後、色々あってグループ名が正式に『少年忍者』に落ち着き、これが『忍者』の前身となる。
しかし、しばらくして4名が脱退(内海光司は『光GENJI』へ)。その後は、テレビやラジオに出演、また『光GENJI』、『男闘呼組』とともに『少年御三家』として、コンサートなどを行っていた。
中村亘利が、CHA-CHAでの活動が忙しくなった為に脱退。

CHA-CHA
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1987年、萩本欽一プロデュースの『おめで隊』でレコードデビュー。更に翌1988年には『CHA-CHA』として再レコードデビューした。
『CHA-CHA』活動終了後、「NOBU」名義でソロCDデビュー。 25歳時にオーストラリアに渡り、アボリジニの民族楽器・ディジュリドゥに触れ感銘を受ける。現地で演奏法を学び、日本に帰国した後もトレーニングを積む。その後天然空洞木無孔笛流初代を名乗り、芸名を「KNOB」と改める。また幼児期から習っていた書道にも本格的に取り組み、小野田雪堂に師事。2002年には師範となり、数々の展覧会に作品を発表している。
その後の少年忍者
1990年春、中村の穴埋めに外人メンバーを入れるという案もあったが、少年隊のミュージカルで実績を積んでいた平家派出身の古川栄司が大抜擢される。そしてグループ名も新たに『忍者』に改名された。
1990年8月22日、日本コロムビアより『お祭り忍者』でデビュー。
キャッチフレーズは「世界は忍者を待っている」。
デビュー曲『お祭り忍者』は美空ひばりの『お祭りマンボ』のリメイク曲であり、「演歌のような曲も歌えるアイドル」という形でデビューした。またその流れは、現在の関ジャニ∞に引き継がれた。
1990年当時、史上最短記録のデビュー4ヶ月で紅白歌合戦初出場を果たした。(その後TOKIO等が記録更新)
藤子・F・不二雄原作のアニメ作品『21エモン』の主題歌「お~い!車屋さん」他初期3作品も『忍者』の曲、美空ひばりの歌をリメイクした和風楽曲だった。
1994年に志賀、古川が脱退。
志賀泰伸は、結婚していて妻子いることが判明。
古川栄司は太っていて痩せるように注意されるが無視していた。
上記理由によって契約を更新されなかった(事実上、クビ)と言われている。
1994年10月、『四銃士』として活動。
1994年10月17日、『四銃士』名義でテレビ朝日"94FIVBワールドスーパー4バレー"イメーゾソング「DO YOUR BEST」発売。
『四銃士』として活動したのはこの時期だけでその後は再度、『忍者』として活動。
1995年以降の『忍者』活動
1995年12月、事実上のラストシングル『たとえ君が嘘をついても』を発売。翌1996年1月、ラストアルバム『Hi La Ri』の発売後、1997年11月9日、グループ活動は休止となった。
明確な解散は発表されていない自然消滅的な活動終了であった。
『忍者』がブレイクできなかった理由
◆絶頂期の光GENJIに人気が集中し、注目を浴びることが少なかった。
◆『演歌路線+アイドル』の路線が支持されなかった。美空ひばりのリメイク曲のイメージが強すぎ、イロモノ扱いされてしまった。
◆歌やダンスに定評があったが歌番組やバラエティでメンバーの個性をうまく打ち出せなかった。
◆1994年のメンバー脱退。志賀・古川の脱退により『四銃士』を名乗るなど迷走。もしメンバー脱退がなければ『光GENJI』解散後を背負うグループとして活躍できていたかもしれない。
『忍者』脱退・解散後のメンバーについて
柳沢超(やなぎさわ すすむ)
少年忍者・忍者・四銃士のリーダー。
2000年に吉本興業へ移籍。その後3つの事務所を経て現在はティーズナインハーフに所属。
ドラマ・ミュージカル・声優など幅広く芸能活動を続けている。
柳沢超オフィシャルブログ Powered by Ameba
正木慎也(まさき しんや)
2000年一杯でジャニーズ事務所を退社した。その後は2年ほど芸能活動を休み、夏場は地元・江ノ島の海の家の前で、缶ジュース販売のアルバイトをしていた。
2003年7月発売のVシネマ『梁山泊 仁義なき頂上決戦』より芸能活動を再開。
ジャニーズ事務所退社後は舞台を中心に活動するかたわら、 自作のオリジナルアクセサリーの販売をしたり、「ドライブデート(略称:DD)」と称して、ファン4人を車に乗せ、30分ごとに助手席に座るファンを交代させながら2時間ドライブするという内容のファンイベントを、日本各地で定期的に開催。また、2004年から4年間に渡ってブロードバンド番組「スターチャット.TV」(セレクトチャンネル)に出演し、ファンとのチャット交流もしていた。
2013年、佐藤寛之とのユニット「DUO」を結成。 2014年9月23日、シングル『ふたつのライン』をリリース。
毎年、数百人規模の劇場の舞台に数回立っている。
楽しみは年1度の海外旅行とドライブ。
神奈川県内のマンションに一人暮らし。
正木慎也OFFICIAL SITE
高木 延秀(たかぎ のぶひで)
カフェレストランで約1年間勉強し、茨城県つくば市の飲み屋の雇われ店長に。 更にその後、西新宿の青梅街道沿いで、 一見さんお断りの会員制の小さなスナック『MEMBER'S 3と9』にて、2001年の前半まで雇われ店長として働いていた。
店を辞めた後、ジャニーズ事務所に戻ってジャニーズJr.の担当チーフマネージャーに転身。 そして2004年4月3日に御茶ノ水クリスチャンセンターで行われた柳沢超のイベント『超 Re:START 2004春』にゲスト出演し、久しぶりにファンの前に顔を見せた。
ジャニーズ事務所を再び退社した後は、都内の一般企業に勤め、2006年に結婚。尚、結婚相手は歌手・今井美樹の異母兄弟の妹だと言われている。
遠藤直人(えんどう なおと)
後輩グループのTOKIOの現場マネージャーを経て、 ジャニーズ事務所の関連企業「ヤングコミュニケーション」に入社して役員となり、 ジャニー喜多川社長の専属運転手を務めたり、少年隊ミュージカル「PLAYZONE」や、TOKIO、V6、嵐、今井翼などのコンサートのプロデュースも行うようになった。
古川栄司(ふるかわ えいじ)
ジャニーズ事務所を退社した後は、「グランクリュ・コンサルティング」というプロダクションに移籍して、 舞台役者として活動したり、ファンの要望に応えて歌を披露したりもしていたが、1995年夏の熱海でのミニLIVE、そして9月の舞台『華やぎの糸』を最後に引退した。
2003年には、新宿区歌舞伎町のホストクラブ「トップダンディー」で“英二”の源氏名でホストを始めたが2005年3月頃、ホストの仕事中に泥酔し、店の階段から転落。 顔を縫うほどの大怪我を負うなどして、同年9月頃にホストクラブを退社した。
2005年、杉並区近辺の居酒屋にてアルバイトを開始。2009年7月16日号『週刊文春』の「『元ジャニーズ』18人 壮絶な人生」の記事に登場。 ジャニーズ事務所を辞めた理由について、「辞めた理由は太ったから(笑)。ジャニーさんから『ユー、痩せて』って注意されていましたが、無視していました。結局、契約は更新されませんでした」と語った。
志賀泰伸(しが やすのぶ)
CDデビュー以前から内緒で、9歳年上の女性・Sと既に入籍。その後、一児(男児)までもうけていた事が1994年になって発覚する。その為、古川栄司と同時期にジャニーズ事務所を解雇され、忍者からも脱退した。 尚、Sとは後に離婚。
ジャニーズ事務所を離れた後は、俳優としてVシネマや舞台に出演する他、「グランクリュ・コンサルティング」所属時代には、 後述のバンドグループ「D-run(デュラン)」も結成。ボーカルを務めていたがメンバーの事務所移籍などにより解散した。
2005年5月に会費1万円のファンイベントを開催。 同年夏にもファンを相手にバーベキュー大会を開催した。 その後、ファンクラブ設立を名目にファンの女性数十名に電話をかけ、一人あたり最低3万円以上の金額を借り集めたが、 ファンクラブの設立も返金もしないまま、公式サイトを閉鎖して消息不明となった。
ベスト盤「DO OUR BEST」
<追記>ジャニー 喜多川さんの訃報に接し、柳沢超がコメント
2019年7月9日に解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血のため亡くなったジャニー 喜多川さんの訃報に接し、忍者の元リーダー・柳沢超が自身のTwitterで故人を悼んだ。
テキストは「14歳の時に声をかけてくれたジャニーさん。今でも鮮明に覚えています。それがあって今のボクがいます」と感謝をつづった。「『ユー、ああしなよ』『ユー、こうしなよ』と教えていただいたことは自分の宝物です。思い出がたくさんありすぎて…感謝しかありません。心から御冥福をお祈り致します」。