昭和玩具史・懐かしい昭和のおもちゃの歴史(1950年代半ばから80年代前半)

昭和玩具史・懐かしい昭和のおもちゃの歴史(1950年代半ばから80年代前半)

1950年代半ばの電動玩具時代の始まりから任天堂のファミリーコンピューター発売(1983年)までのおもちゃの歴史を振り返ってみましょう。おもちゃの歴史を通じて、当時の文化や生活習慣などを振り返ることもできます。どっぷりと懐かしい昭和時代を満喫することができます。


1952年(昭和27年) 電動玩具第一号「セダン型自動車」(日本アルプス玩具)

マグネット使用の電動玩具第一号「セダン型自動車」

マグネット使用の電動玩具第一号「セダン型自動車」

日本アルプス玩具が、マグネットを用いたモーターを開発し世に送り出したセダン型の電動自動車。日本の電動玩具の第一号でもある。

日本アルプス玩具が作った電動玩具の第一号「セダン型の電動自動車」

1954年(昭和29年) 『東京科学工業株式会社(現、マブチモーター)』の登場で電池で動く玩具が増える。電動玩具時代へ突入。

マブチモーター株式会社は、小型モーターに特化した会社で、世界シェアの有鉄心モーターで業界一番のシェアを占める電気機器の大手。小型モーターは現在では全製品をアジアを中心とする海外の工場で生産しており、日本にあるのは本社と研究所の機能のみである。

現在の同社の売上の内訳は、ミラーやドアロックなどに用いる自動車電装機器が約40%を占め、音響・映像機器のCD/DVDドライブ用モーターが約20%、インクジェットプリンターやデジタルカメラなど情報機器関連が約17%などとなっている(2007年12月期のデータより)。

マブチモーター株式会社は、小型モーターに特化した会社。1954年 - 野村トーイ社との取り引きをきっかけに東京に移転、1月18日東京科学工業株式会社を東京都葛飾区に設立し、本格的な製造販売を開始。

小型モーターの「マブチモーター」の登場で電池で動く玩具が増える。電動玩具時代へ突入していく。

マブチの模型工作用モーター

1954年頃 国産の「ミルク飲み」人形流行。人形遊びの元祖。

1954年頃 国産の「ミルク飲み」人形流行

発売当時、日本橋の百貨店では、この人形を求める人たちで開店前には長蛇の列ができ、1日で約200ダース(2400個)も販売されたそうです。
ミルクのみ人形の着せ替え遊び用の洋服も、この頃に発売されている。

1954年頃 国産の「ミルク飲み」人形流行

1955年(昭和30年) 世界初の無線操縦玩具『ラジコンバス』(増田屋斉藤貿易)の発売

ラジコンは今でも増田屋コーポレーションの登録商標です。

世界最古のホビーRCカー「ラジコンバス」 増田屋斎藤貿易(現在の増田屋コーポレーション)

東京玩具商報1955年12月号(国立国会図書館の蔵書より)。初任給1万円程度の時代に定価4500円で発売された世界初のラジコンの歴史的な広告。「遂に出た 世界で初めての無線操縦玩具!」のコピー。

1955年12月 増田屋齋藤 商品広告「ラジコンバス」

1956年(昭和31年)から1957年頃 ホッピング大流行。戦後のおもちゃの歴史の中では最初のブームと考えられる。

バランス感覚を競う子供の遊びとして全国に流行したが、「ポゴをやり過ぎると胃下垂になる」という噂が広がり、ブームは沈静化して廃れて行った。

1957年頃に『ホッピング』と命名されたポゴスティックが発売される。

私は、こっちの第二次ブームでホッピングしました。

1980年頃、今度はバンダイが『スカイホッピー』として発売すると、第一次ブームを知らない子供達の間で再び流行した。

1957年(昭和32年) 髪型を自由に変えられる「カール人形」流行

髪型を自由に変えられる「カール人形」

少女向け玩具のヒット商品「カール人形」

1957年 赤銅鈴之助の「赤ザヤの刀」流行。テレビドラマ・映画・ラジオドラマ『赤胴鈴之助』(1957年)日本初のテレビキャラクター玩具が発売された作品

『赤胴鈴之助』(あかどうすずのすけ)は、福井英一と武内つなよしによる漫画で、ラジオドラマ化や映画化、アニメ化もされた。

北辰一刀流千葉周作道場の少年剣士、金野鈴之助の活躍を描く。父親の形見である赤い胴(防具)を着けることから「赤胴鈴之助」と言われる。

1957年、ほぼ同時期に異なる局で2種類のテレビドラマが製作されている。「日本のおもちゃ遊び」によると本作は日本初のテレビキャラクター玩具が発売された作品である。玩具はヒットし後年の月光仮面や鉄腕アトムへの流れを作った。

1957年から1958年にかけて大映製作の映画9作品が公開された。主演俳優の交代は、鈴之助役の梅若正二が人気を得たことで不遜な態度をとるようになりスタッフから嫌われ引退に追い込まれたためとされる。

1957年にラジオ東京 (現TBSラジオ)でドラマ化され、公募で選ばれた当時小学生の吉永小百合や藤田弓子が出演した。後に参議院議員となる当時15歳の山東昭子も語り手として出演している。回によっては生放送や公開録音もあった。

テレビドラマ・映画・ラジオドラマ『赤胴鈴之助』(1957年) 日本初のテレビキャラクター玩具が発売された作品

赤銅鈴之助の赤鞘の刀が流行

1958年(昭和33年) エポック社「野球盤」

初代野球盤(写真は復刻版)

野球盤の代名詞にもなっている“消える魔球”装置が初めてついた野球盤。
当時の人気漫画「巨人の星」の大リーグボール2号がヒント。

“消える魔球は1イニング3球まで”といったルールが当時の子供達の間で作られた。この後、全ての野球盤(ジュニア、カプセルは除く)に消える魔球装置がつく。

オールスター野球盤BM型 魔球装置付き(1972年)

1958年10月18日にフラフープ販売。日本中で爆発的に売れて一大ブームを起こした。

フラフープ(Hula hoop)は、直径1mほどのプラスティック製などの素材の輪で、輪の中に入った人が腰などを振って回転させるための輪。フラダンスのように腰を動かしてフープを回すので、フラフープと命名された。腰以外にも首・腕・足などを使い体の各部位で回して楽しむ。

商標名、登録商標であるためにフラフープということばは主に現代アメリカでは使用されず、フープ(Hoop)と呼称するのが通常である。それに伴い、フープをまわすことをフーピングと言い、フラフープで技を行う人をフーパーと呼ぶ。
遊具としての使用が主流だが、近年、パフォーマンスや競技、ダイエット用品として使用されている。

1958年にアメリカで大流行したことを受けて、同年10月18日に東京都の各デパートで一斉に販売が開始された。積水化学のポリエチレン管をアメリカの会社が加工して輸入したもので、価格は大人向けが270円で子供向けが200円。日産2万本のフラフープは、1ヶ月で80万本が売れた。

販売される店には行列ができ、日本中で爆発的に売れて一大ブームを起こした。人気のために品薄になり、マルサンなど他社も参入し、小売店が独自にポリエチレンのホースを繋げたものを150円で売ることもあった。

1958年10月18日にフラフープ販売

11月18日にフラフープ使用によるとされる胃穿孔で重態になる事件が起き、横浜市と神戸市でも同日に路上のフラフープで遊んでいた子供が交通事故に遭って警察庁もこれを問題視。さらに21日には千葉県で少年3人が腸捻転など内臓障害になったことから、千葉県東金市立東金小学校が小学校が11月22日に児童にフラフープ禁止令を出した。

宮城県でも教育委員会が警告を出し、厚生省もフラフープと健康障害への影響を検討することになり、ブームは急速に沈静化。40日足らずで1958年の日本のフラフープブームは終焉した。日本中が巻き込まれるブームは1960年のダッコちゃんブームにつながっていった。

わずか40日足らずで1958年の日本のフラフープブームは終焉した。

1958年 国産初のプラモデル玩具「ノーチラス号」登場

昭和33年12月15日発売された日本最初のプラモデルがマルサンの1/300 ノーチラス号です。
当時の金型でそのまま成型してあります。中にはプラモデルの歴史を語る小冊子が2冊入っています。
説明書は当時のままですが、パッケージは50周年記念モデルとして新しく作りました。

日本最初のプラモデル「原子力潜水艦 ノーチラス号」

日本最初のプラモデル「原子力潜水艦 ノーチラス号」

1959年(昭和34年) 銀玉鉄砲『マジックコルト MC-50』(セキデン) 「銀玉鉄砲」が駄菓子屋に登場すると、男の子の遊びは大きく変わりました。

40発の銀玉を入れることができるが、連発ではなく、銃尾から突き出た棒(コッキングロッド)を引っ張って1発ずつ撃つ単発式だった。

銀玉鉄砲第1号セキデン 『マジックコルト MC-50』 1959年(昭和34年)

『ララミー牧場』(LARAMIE)は、1959年から1963年にかけてアメリカのNBCで放送されたテレビ映画の西部劇。60年代前半のテレビ西部劇の黄金期にローハイドと並んでもっとも視聴率が高かった番組であった。主演はジョン・スミス とロバート・フラー。

一話完結方式で全124話。日本では、1960年6月30日から1963年7月18日まで、毎週木曜日夜8時からNETテレビ(現テレビ朝日)系で放送された。この放送の中にはロバート・フラーの来日でスタジオでの特別番組(司会は淀川長治)であったり、ロバート・フラーの父母を交えての「ララミー牧場大会」のイベントも放送した。

『ララミー牧場』 日本での最高視聴率は43.7%(1961年2月23日)。男はみなガンマンになりたかった。

「ローン・レンジャー」や「ララミー牧場」など、アメリカの西部劇TVシリーズが人気を博していた時代に銀玉鉄砲は大ヒット! 左が初代マジックコルト、右が2代目マジックコルト

1959年(昭和34年) 『プラレール』(富山商事) 鉄道おもちゃのロングセラーの登場

プラレールの原型となったもの。まだ小型モーターは内蔵していない。手で転がして遊ぶもの。

初代プラレール「プラ汽車セット」(1959年)

初代プラレール「プラ汽車セット」(1959年)

プラレール博・プラレールの巨大ジオラマ

フライングディスク(フリスビー) 1959年にワーム・オー (Wham-O)社 の登録商標「フリスビー」となる

フライングディスク (flying disc) は、回転させ投げて遊ぶ円盤(ディスク)である。また、それを用いた競技の名前でもある。競技内容から、球技の下のカテゴリーにしばしば入れられる。

フリスビー (frisbee) とも呼ばれるが、この名称は現在、ワーム・オー (Wham-O) の登録商標となっている。

円盤は通常プラスチック製で、直径約20センチから25センチ程度のものが多い。手で勢いよく回し投げると揚力が生じるよう設計されており、そのまま手で受け止められる。

1940年代後半に、アメリカ合衆国コネチカット州にあるイェール大学の学生が、フリスビー・パイ・カンパニー (Frisbie Pie Company) のパイ皿を投げて遊んだことから始まった。

海岸で恋人とケーキ皿を投げて遊んでいて着想した玩具を、建築検査官のウォルター・フレデリック・モリソン (Walter Frederick Morrison) が金属製にして試作し、1948年にはプラスチック製に改良し、プルートー円盤という名で商品化した。

1955年、ワーム・オー社に買収され、1959年にフリスビー・パイ・カンパニーの "frisbie" のスペルを変えた "frisbee" で商標登録され世界で推計2億枚が売れた。

フリスビー・フライングディスク

フリスビー・フライングディスク

1960年(昭和35年) タカラ『だっこちゃん』、今井科学『鉄人28号ロボット』(キャラクタープラモデル第一号)

ダッコちゃんは、1960年(昭和35年)に発売されたビニール製の空気で膨らませる人形の愛称。またそのモチーフとなったキャラクター。もともとは単なる玩具の一種として、当時の宝ビニール工業所により製造された。製造工場は横浜市泉区内。当初は「木のぼりウィンキー」、「黒ん坊ブラちゃん」といった名前で売り出された。発売元はツクダ屋玩具。

真っ黒な人型をした本商品は両手足が輪状になっており、木にしがみつくコアラのようなポーズをとっている。「ダッコちゃん」の名前の通り、腕などに抱きつくようにぶら下げることが可能だった。価格は当時180円。腰蓑をつけた黒人のように見えるその姿は極限までディフォルメされており、非常にシンプルな形状だった。

1960年(昭和35年)7月に発売されて以降、若い女性を中心にブームの兆しが起こった。戦後の国民を巻き込むムーブは1958年のフラフープブーム以来であった。

ぶら下がる機能を活かしてこの人形を腕にぶら下げて歩く女性が時折見られるようになった。マスコミが取材対象とする中で、この商品には「ダッコちゃん」という愛称が与えられた。

テレビに登場した結果ブームに火がつき、注文は大幅に増え、玩具店、デパートでは常に在庫切れとなった。デパートが販売のために発行した整理券にダフ屋が登場したこともあったという。

1960年(昭和35年)末までに240万個が販売される大ヒット商品となり、製造元の宝ビニール工業所が株式会社タカラ(現:タカラトミー)となる基盤をつくった。

ダッコちゃん生みの親である大木紀元は、当時、武蔵野美術大学に通いながら社員として働いていた。現・創造学園大学創造芸術学部の学科長兼教授。

宝ビニール工業所(現:タカラトミー)『だっこちゃん』(1960年)

宝ビニール工業所(現:タカラトミー)『だっこちゃん』(1960年)

キャラクタープラモデル第一号『鉄人28号ロボット』(1960年・今井科学)

キャラクタープラモデル第一号『鉄人28号ロボット』(1960年・今井科学)

キャラクタープラモデル第一号『鉄人28号ロボット』(1960年・今井科学)

1962年から63年:第1次プラスチック・モデル・ブーム(ゼロ戦・隼・戦艦大和など)。第1回日本玩具国際見本市開催(現 東京おもちゃショー)

当時の田宮模型製作所は、第1号の製品として1960年5月に発売されたのが1/800スケールの戦艦大和でした。

田宮模型のプラスチックモデル第1号「1/800 戦艦大和」。

田宮模型のプラスチックモデル第1号「1/800 戦艦大和」のパッケージ

当時はゼロ戦のプラモデルが大人気で、ゼロ戦でありさえすれば売れると言われた時代。とにかく大量にゼロ戦のプラモデルが生まれた。

1965年(昭和40年) 『スロットカー』が日本上陸

1965年(昭和40年) 『スロットカー』が日本上陸

1965.11.28 第1回オール関東モデルカーレーシング選手権大会・東京中野サーキット 主催:全日本モデルカーレーシング協会・全関東サーキット場協会

田宮模型、日本模型など、日本の玩具・模型会社が多数参入した。またゲームセンターやボウリング場などの娯楽施設にもサーキット(貸しコース)が置かれた。
市販の汎用シャシに、別途ユーザーの好みのモーター、タイヤ、1/24スケール前後のプラモデルのボディーを載せる方法が主流であった。しかし、価格的に小中学生が手が出しづらいこともあり、サーキットには大人ばかりが集まってしまい、しかも賭けレースが公然と行われるようになったことから、教育現場から「風紀上良くない」と判断され、相次いで子供のサーキットへの出入りが禁止された。

さらに急激なマニアック化の影響で、ビギナーが育たずに急速に人気が落ち、当時からの商業コースは全滅した。正確な統計は残されていないが、一時期は大小合わせて全国に200ヶ所以上のサーキットが存在したといわれる。

出典 スロットレーシング - Wikipedia

1/24スケール タミヤのロ ータス40

1965年:「スーパーボール」アメリカから渡来。駄菓子屋の定番アイテムへ。

1965年:「スーパーボール」アメリカから渡来。駄菓子屋の定番アイテムへ。

1966年(昭和41年) マルサン商店が「ソフビ怪獣」を発売。1966年(昭和41年)から1968年(昭和43年)頃が『第一次怪獣ブーム』

1966年(昭和41年)から1968年(昭和43年)頃 『第一次怪獣ブーム』 テレビ番組『ウルトラQ』、『ウルトラマン』の影響。

1966年(昭和41年) マルサン商店が『ウルトラQ』や『ウルトラマン』に登場する怪獣のソフトビニール人形「ソフビ怪獣」を発売

第一次怪獣ブーム (だいいちじかいじゅうブーム)とはテレビ番組『ウルトラQ』、『ウルトラマン』の影響で、巨大な「怪獣」が登場する特撮テレビ番組が相次いで制作され、児童を主体として爆発的に「怪獣」がブームとなった社会現象である。期限としては1966年(昭和41年)から1968年(昭和43年)頃である。

1966年(昭和41年)、映画「ゴジラシリーズ」の生みの親である円谷英二が設立した円谷特技プロダクションが、TBSで『ウルトラQ』を放映開始。それまでは映画でしか見られなかった怪獣たちが、これを皮切りに毎週テレビに登場。続く『マグマ大使』(フジテレビ)、『ウルトラマン』(TBS)の放映によって、子供たちの間に「怪獣ブーム」と呼ばれる爆発的な社会現象となったもの。

この社会現象は当時、マスコミによって「怪獣ブーム」と名づけられたが、「第一次怪獣ブーム」との呼称で文献に現れるのは1979年(昭和54年)発行の「別冊てれびくん1・ウルトラマン」(小学館刊)、「空想特撮映像の素晴らしき世界・ウルトラマンPART2」(朝日ソノラマ刊)、「大特撮」(有文社刊)からである。

1971年(昭和46年)から始まる「第二次怪獣ブーム」は、等身大ヒーローが主流であり、当時のマスコミは「変身ブーム」と呼んだ。

1966年(昭和41年)から1968年(昭和43年)頃が『第一次怪獣ブーム』

マルサン商店が「ソフビ怪獣」が大人気になった。

1966年(昭和41年)から1968年(昭和43年)頃が『第一次怪獣ブーム』

1966年 アクションフィギュア「G.I.ジョー」の販売。アメリカの連続TVドラマ『コンバット!』の人気もあり、兵隊をモチーフにした玩具は一定の人気を得ていた。

G.I.ジョーは、米国ハズブロー社が販売している男児向け玩具。アクションフィギュア本体ならびにその付属品・関連商品を指す。人形の大きさは約12インチ(29cm前後)で、スケール換算するならばおおむね1/6ということになる。

米国で人気を博したG.I.ジョーは各国に輸出されることになる。イギリスでは1966年から『アクションマン』の名でライセンス生産されている。日本では同じく1966年に三栄貿易株式会社によって輸入され、その後、1969年には新たに権利を得たタカラが引き続き販売を行なった。

当時日本でも放映されていたアメリカの連続TVドラマ『コンバット!』の人気もあり、兵隊をモチーフにした玩具は一定の人気を得ていた。その時期に輸入品として登場したG.I.ジョーは、当時の玩具としては破格のリアルさと高級感、豊富なオプションによる世界観の広がりなど、子供達に大きなインパクトを与える存在だった。

1966年 アクションフィギュア「G.I.ジョー」の販売

『コンバット!』(英: 「Combat!」)は、米ABCで1962年から1967年まで放送されたアメリカのテレビ番組(連続テレビドラマ)。第二次世界大戦下での、アメリカ陸軍歩兵連隊のある分隊の活躍を描いている。

日本でも吹替えにより全152本が放送された。60年代に海外ドラマとしては異例のヒットを記録したテレビ史に残る珠玉の名作である。

「戦争を通じた人間模様」を描く海外ドラマ『コンバット!』はTBS系列で1962年11月7日から1967年9月27日まで、水曜20:00から1時間放送され人気を博した。

玩具としてはサイズが大きいうえ、フィギュアは1500円前後、12インチサイズのG.I.ジョーが乗ることのできるジープなどは5000円を超える高額商品だった。

精密で高級であることは大きな魅力であると同時に簡単に手の届かない存在である感覚を強め、当時の子供にとっては基本的に高嶺の花的な存在であり、自然と経済的に豊かな層がターゲットの商品となった。

1966年 アクションフィギュア「G.I.ジョー」の販売

1967年(昭和42年) タカラ『リカちゃん』の発売

初代リカちゃん(1967年)から始まり、現在は4代目リカちゃん(1987年から現在)

企画にあたり、日本の少女たちがより身近に感じられるようなファッションドールというテーマが掲げられ、小学生という設定と、小さな女の子の手の平の中に収まる身長21cmという大きさと、当時流行していた少女漫画のヒロインのような顔立ちが採用された。

漫画家の牧美也子が発売当時の広告のイラストを担当し、広告には「牧先生監修」という表記がされていた。「リカちゃん」という名前は月刊少女漫画雑誌「りぼん」の1967年7月号誌上の一般公募で決定されたことになっているが、実際には発表号をずらして、読者でなくタカラ側が命名した。日本人でも外国人でも通用する名前をということでリカとなった。

タカラ「初代リカちゃん」(1967年)

1967年 初代発売。
発売時から約1年間は腰部にジョイントが無く、お腹におへそのあるボディだった。最初に発売されたのは栗色の外巻きカール、ツーテール、おさげの3種。途中からアップヘアが加わる。瞳の中の星はひとつ。
自社生産は行なわず、株式会社シバに生産を委託してつくられた。
初出荷時には、漫画家牧美也子が表紙イラストを描いたブックレットが封入されていた。

タカラ「初代リカちゃん」(1967年)

4代目リカちゃん成長ポイント
1、背が1cm伸びた
2、胸が大きくなった
3、首をかしげられ表情が豊かに

リカちゃんは年代によって改良が加えられ、1967年発売の初代と現在のリカちゃんの仕様は大きく異なっている。

1967年 東京科学(現、マブチモーター)『水中モーター』の発売

東京科学(現、マブチモーター)『水中モーター』の発売(1967年)

昭和42年森永乳業は創業50周年と銘打って「森永マミー」のノベルティとして『水中モーター』をキャンペーンに利用した。

水中モーターシリーズ

1967年頃 「サンダーバード」「ケロヨン」などキャラクター商品の人気高まる

『サンダーバード』 (Thunderbirds) は、1965年から1966年にイギリスで放送された人形劇による1時間枠の特撮テレビ番組。

1966年に『サンダーバード 劇場版』、1968年に『サンダーバード6号』が劇場公開された。2004年にはアメリカ合衆国で製作された実写版映画が公開され、2015年からはリブート版『サンダーバード ARE GO』が放送されている。

不朽の海外特撮TVシリーズ「サンダーバード」 (日本での放送は1966年)

憧れの「サンダーバード秘密基地」(青島文化教材社)

サンダーバード秘密基地

ケロヨンとは『木馬座アワー』のコーナー『カエルのぼうけん』の主人公であるカエルの着ぐるみ。主なスーツアクターは花巻五郎、声優は新井勢津朗。番組や公演により、スーツアクターは変更された。

「ケ~ロヨ~ン!」「バハハーイ!」が口癖。当時どちらも大流行した。

「木馬座アワー」
1966年11月21日〜1970年3月28日 日本テレビ系 月〜土 11:00 - 11:20(再放送:同日 17:30 - 17:50)
木馬座が自ら全曜日一社提供していた。なお再放送は、当初はノンスポンサーだったが、やがて複数社提供へ変った(一時的小田急電鉄単独提供の時も有り)。
カラー放送、16ミリフィルムによる収録。

「カエルのぼうけん」
原作:ケネス・グレアム『たのしい川べ』
プロデュース:藤城清治
音楽:いずみたく

『木馬座アワー』(1966年)のコーナー『カエルのぼうけん』の主人公であるカエルの着ぐるみ「ケロヨン」

写真: 藤城氏製作のケロヨン・フィギュア

1968年(昭和43年) 任天堂『ウルトラマシン』 初代家庭用バッティングマシーン。スポ根ブーム全盛だった。

王、長島が活躍し、テレビアニメ版「巨人の星」(1968年3月30日)を代表とするスポ根ブーム全盛だった1968年。3年間で200万個が売れた。

1968年 任天堂『ウルトラマシン』

1968年 任天堂『ウルトラマシン』

テレビアニメ版「巨人の星」(1968年3月30日) 当時はスポ根ブーム全盛だった。

1968年(昭和43年)頃 タカラ「人生ゲーム」の発売・日本版の累計出荷数は1000万個を超えるロングセラー商品へ

“タカラ・アメリカンゲームシリーズ”のひとつとして発売、
「人生、山あり谷あり・・・」のコピーで始まるTVCFでヒット商品となる。
盤面のデザインは本家米国版のものを踏襲、マス目のコピーも日本語直訳になっており、
「世界旅行に出発する」「金鉱発見」「北極探検にいく」といった米国における
黄金の60年代を象徴するようなスケールの大きなコピーのマス目が並ぶ。
また「商用で飛行機にのる」「潜水して鯨をつかまえた」といった時代を感じさせるマス目や、
「ミイラのコレクションを博物館にあづけた」「逃げたサーカスの象をみつける」といった
日本人の感覚からは生まれない独特のテイストのマス目のコピーも興味深い。

1968年(昭和43年)タカラ「人生ゲーム」発売

日本版は、「人生ゲーム」の名称で1968年に株式会社タカラ(現タカラトミー)から発売された。この「人生ゲーム」は日本に於ける同社の登録商標(第919585号)で、タカラトミーの発表によると、日本版の累計出荷数は1000万個を超える。

ゲームシステムは、双六の発展形。ゲーム序盤のルーレット目によって「人生の筋道」が決まり、その後の人生が左右されていく。プレイヤーはサイコロではなく「ルーレット」を回し、人の一生になぞらえたイベントをこなしていく。

現在でも改良版が発売されているという、息の長いゲームである。 ボードゲームとしての人生ゲーム以外にも、携帯ゲームとして発売された「人生ゲームキャンディ」シリーズもある。また、オンラインでも遊べたり、携帯電話のゲームとしても配信されている。

初代「人生ゲーム」(タカラ)の盤面

1969年(昭和44年)9月1日 アサヒ玩具「ママレンジ」が流行に。当時の子どもが一番喜ぶ現実的なおやつ、それはホットケーキだった。

ママレンジは、アサヒ玩具が1969年(昭和44年)9月1日に発売した玩具である。「ママキッチン」ではない。

当時まだ普及途上であったシステムキッチンのガスコンロを玩具で再現したもの。家庭用電源を使用し、付属のフライパンの上で直径10cmのホットケーキを焼ける。

価格が3,500円と当時の玩具としては高額であったが、1年間で17万個を売る。以降、同社は「クッキングトイ・シリーズ」を展開した。

パッケージサイズは27×22×18cm、重量は1.5kg。パッケージには女優の酒井和歌子が印刷され、ピンク色の本体に薔薇のイラストがあるものもある。商品名を「ママキッチン」と誤解されることがある。

1969年(昭和44年)9月1日 アサヒ玩具「ママレンジ」が流行に

パッケージには女優の酒井和歌子が印刷され、ピンク色の本体に薔薇のイラストがあるもの

ママレンジ(バンダイミュージアム 蔵品)

当時の子供たちは、ホットケーキが大好き!

中年世代にホットケーキの思い出を尋ねると、森永の名を挙げる人が非常に多い。
デパートの食堂や喫茶店でしか食べられなかったホットケーキ。それが家庭で手軽に作れるようになったのはホットケーキの素のおかげ。

ママレンジを使えば、子供が自分で安全にホットケーキを作ることができるようになった。

森永製菓が1957(昭和32)年に発売した「森永ホットケーキの素」。

1970年(昭和45年) トミー(現、タカラトミー)『トミカ』 6車種で発売開始、価格180円。ミニカーの代名詞へ成長。

トミカ (Tomica) は1970年(昭和45年)からタカラトミー(旧・トミー)のTOMYブランド(トミカリミテッドヴィンテージ系統のみトミーテック)より販売されている車玩具である。30以上の国と地域で販売されている。

プラレールとともにトミー時代からの主力商品であり、販売開始当初から老若男女を問わず愛され続けてきている。同社のプラレールと組み合わせて遊べるように製作されており、プラレールと組み合わせた商品も存在する。年に一度、主要都市等で開催される愛好者向けイベント「トミカ博」は、「プラレール博」と共にトミー(現・タカラトミー)の重要なイベントであり、多くの来場者を集めている。

トミカが発売された1970年当時、国産車のミニカーといえばダイヤペット(米沢玩具→セガトイズ→現・アガツマ)やモデルペット(アサヒ玩具)に代表される標準スケールが中心であり、小スケールミニカーは細々と輸入される海外ブランドしか存在しなかった。この状況に目をつけ、国産車の本格的小スケールミニカーとして発売されたのがトミカである。

トミカ初代「ブルーバードSSSクーペ」パッケージ。1970年9月 - 6車種で発売開始、価格180円。

発売以来、累計880種以上の車種を発売してきたダイキャスト製ミニカー「トミカ」が、6月末で国内累計出荷台数6億台を達成する見込み。

初代トミカは6種類。ブルーバードSSS、コロナマークⅡ、クラウンスーパーDX、クラウンパトカー、トヨタ2000GT、フェアレディZ432。初代トミカは、当時人気だった6台の国産車をモデルに誕生した。

1970年(昭和45年) トミー『トミカ』 6車種で発売開始、価格180円。

1970年(昭和45年) 「ブルマァク」社により「マルサン」製「ウルトラ怪獣」のソフビ人形が復刻され、再びブームとなった。

1970年(昭和45年) 「ブルマァク」社により「マルサン」製「ウルトラ怪獣」のソフビ人形が復刻され、再びブームとなった。

1971年(昭和46年)から1974年(昭和49年) 『第二次怪獣ブーム』

「ブルマァク」社の怪獣シリーズ

1973年(昭和48年)には、過去作品の再放送も含めて「ゴールデンタイムのテレビにヒーローものが放映されない日はない」という加熱ブームとなった。しかし、同年末の第一次石油ショックによる制作費の高騰、特撮資材の不足、さらにこのブームを支えた大手スポンサー「万創」の倒産が決定打となり、番組制作の撤退が相次ぐこととなった。1974年(昭和49年)以降は製作費のかさむ巨大ヒーローはなりを潜めていく。 オイルショックは、着ぐるみの材料費に影響を与えた。それまでは1体につき20-30万円の材料費が、オイルショックによって50万円に倍増。 それによって現場では、着ぐるみを何度も流用するなどの苦境に立たされることとなる。そこで登場する怪獣の人形などの関連商品で採算を合わせようとするも、この時期はヒーローの人形の方に人気が集まり、怪獣人形は不人気であった。 そのためにマスコミからは、「(1974年初頭の時点で)7本放送されている特撮作品が4月の改変期で半数が消滅し、75年には2本程度に減少するのではないか」と囁かれるようになる。 1975年(昭和50年)には、円谷プロが『ウルトラマンレオ』(TBS)でシリーズをいったん終了。マスコミはこの事象を「怪獣ブームの終焉」と位置づけた。同年、東宝も『メカゴジラの逆襲』を以て、ゴジラシリーズの新作の製作を終了、また変身ヒーローの元祖「仮面ライダーシリーズ」も『仮面ライダーストロンガー』(毎日放送)を以て終了した。

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第二次怪獣ブーム - Wikipedia

1971年 エポック社「パーフェクトボウリング」発売。1970年前後は空前絶後の「ボウリング・ブーム」

1970年前後にはスター・プレイヤーである須田開代子・中山律子らの出現などがきっかけとなって、当時は数百メートルごとにボウリング場があったほどの「ボウリング・ブーム」だった。

ボーリングのスター・プレイヤー「中山律子」

1971年 エポック社「パーフェクトボウリング」発売

1971年 「アメリカンクラッカー」流行。わずか1ヶ月でブームは下火となった。

日本においては1971年3月上旬、アサヒ玩具が「アメリカで大流行のおもちゃ」として発売したのがきっかけでヒット商品となった。

しかし「遊戯中にボールが外れ、怪我をした」「音がうるさい」などのクレームが相次ぎ、わずか1ヶ月でブームは下火となった。

1971年 「アメリカン・クラッカー」流行

「カチカチボール」とも呼ばれた。

1971年 「アメリカン・クラッカー」流行

1972年(昭和47年) ポピー(現、バンダイ)『仮面ライダー変身ベルト』 「仮面ライダー」と「変身ブーム」

男の子の憧れの変身アイテム。その全ての祖とも言えるライダーの変身ベルトです。

設立間もないポピーにとっては賭けのような価格設定だったが、発売された「光る!回る!変身ベルト」は「テレビと同じ」というコンセプトが功を奏しヒット商品となった。

パッケージに「このベルトはライダーに変身する時に使われている物と同じです」と記された。「光る!回る!変身ベルト」は1971年からの約2年で380万個を売り上げた。

以降も仮面ライダーシリーズのベルト玩具は、作品ごとの特徴に合わせてさまざまなギミックを取り入れながら、1975年の『仮面ライダーストロンガー』の「光る回る Sベルト 電光エレクトラー」まで続いた。

ポピー(現、バンダイ)『仮面ライダー 光る 回る 電動変身ベルト』(1972年)

本郷 猛 / 仮面ライダー1号、一文字 隼人 / 仮面ライダー2号 「変身!」

ポピー(現、バンダイ)『仮面ライダーV3 光る!回る!変身ベルト』

風見志郎 / 仮面ライダーV3「変身!V3!」

1972年:日中国交回復を記念して、ジャイアントパンダの“カンカン”と“ランラン”が来園。「パンダ」のぬいぐるみが人気。

日本中にパンダ・ブームが巻き起こりました。

1972年:日中国交回復を記念して、ジャイアントパンダの“カンカン”と“ランラン”が来園。たちまち大人気に!

11月5日の一般公開では、2頭を見たいと上野動物園開門の午前9時に約3千人が並んだ。警備人員には約600人を要し、「2時間並んで、見物は50秒程度」と当時の朝日新聞は報じている。

1972年11月5日の“カンカン”と“ランラン”の一般公開。「2時間並んで、見物は50秒程度」

パンダ・ブームの中、様々なパンダ玩具が発売され、日本中で飛ぶように売れた。

1972年から1973年頃:立体パズルゲーム「パーフェクション」(エポック社)や「オセロゲーム」(ツクダ・現、バンダイの子会社メガハウス)など盤ゲームがヒット

立体パズルゲーム「パーフェクション」(1972年・エポック社)

1973年に日本の長谷川五郎がオセロを発表し、発売と共に玩具業界としては空前の大ヒット商品となり、一家に一台あるといわれるほどスタンダードゲームとなった。

オセロの販売メーカーは、当初はツクダおよびその子会社のツクダオリジナルであった。
2002年、ツクダオリジナルがバンダイの子会社となる。
2003年3月、ツクダオリジナルと、「元ツクダオリジナル企画部長でありオセロを長谷川と共に立ち上げた和久井威氏」が経営するワクイコーポレーションが経営統合し、パルボックスとなる。
2005年、和久井氏が逝去。パルボックスは、バンダイの子会社メガハウスに統合し、現在に至っている。

ツクダ「オセロ」(1973年)

1974年(昭和49年) ポピー(現、バンダイ)『超合金マジンガーZ』、ゲイラカイト、ローラースルーGOGO(アクト・エル)

超合金(ちょうごうきん)は株式会社ポピー(現: バンダイボーイズトイ事業部及びコレクターズ事業部)から1974年2月以降発売されたロボットアニメ・特撮作品のダイキャスト製キャラクター玩具のシリーズブランド名。

ポピー(現、バンダイ)『超合金マジンガーZ』(1974年)

超合金シリーズはアニメ設定に忠実な模型ではなく、あくまで子供たちが手にとって遊べる玩具として開発されていた。そのため亜鉛合金を用いたダイキャストパーツを多用した頑丈な商品だったが、プロポーションやデザインは玩具としてのアレンジがなされている。

また原作にないギミックを盛り込むことが常であり、特にマジンガーZの武器で後の巨大ロボットアニメに多大な影響を与えたロケットパンチをほぼすべての商品に組み込んでいる。可動部が少なくばね式のミサイルが各所に仕込まれているのも特徴である。

なお、『マッハバロン』や『がんばれ!!ロボコン』のように忠実なものもあり、『勇者ライディーン』以降の『大鉄人17』や『超電磁ロボ コン・バトラーV』といった作品では、超合金のデザインをアニメ用にリファインしており、比較的劇中に忠実な形態になっている。

ポピー(現、バンダイ)『超合金マジンガーZ』(1974年)

ゲイラカイトでよく遊びました。
それまでのやっこさん凧などの和凧と比べて、
非常にエキサイティングな凧揚げ体験を満喫できました。

最近は凧揚げをするための広い場所が、そもそもなくなっていますね・・・

ゲイラカイト(1974年)

ローラースルーGOGO( 1974年・アクト・エル)

少年探偵団(1975年10月4日)の乗り物がローラースルーGOGO

1974年 名画「モナリザ」の日本公開でモナリザブームが到来。ジグソーパズル流行。

1974年、名画「モナリザ」の日本公開でモナリザブームが到来。

1973年から輸入されていた「モナリザ」ジグソーパズルもこのブームによって売れ、 ジグソーパズルの日本での普及の先駆者となりました。

1974年 人形メーカー・セキグチ「モンチッチ」登場。

「モンチッチくん」と「モンチッチちゃん」ペアで発売されている。

モンチッチ(英語:Monchhichi;中国語:萌趣趣)は、東京都葛飾区の人形メーカー・株式会社セキグチによって製造・販売されている猿に似た妖精の生き物をイメージした人形。正確には、顔と手、足の部分は人形(ビニール)で、胴体はぬいぐるみである。デザイナーはワシの良春。

1972年(昭和47年)にセキグチが発売した「くたくたモンキー」の改良版として1974年(昭和49年)1月26日に発売された。

モンチッチは、男の子のモンチッチくんと、女の子のモンチッチちゃんの2人から成る。

1974年「モンチッチ」登場。初代バージョンの「ふたごのモンチッチ」

1975年から1976年頃 ファンシー・グッズ(キャラクターグッズ)の流行。サンリオの「ハローキティ」や「マイメロディ」ほか

キャラクターとしての開発は1974年で、公式にはこの年が誕生年になっているが、初号グッズの販売は1975年3月である。

ハローキティ「プチパース」はサンリオ社内にも残っていなかったが、顧客が所持していたプチパースをサンリオに寄贈したため、これ1個のみが現存し、展示されている。

【展示品:ハローキティ「プチパース」】1975年3月に発売された最初のグッズはビニール製のがま口「プチパース」であった(当時の定価は240円)。

パティー&ジミーやリトルツインスターズ・・・パティ&ジミーのビニールバッグ、浮き輪、サングラスタオル。キキララのクレヨン、ファイル、リボン、ピン、コップ、手袋、ハンカチ、櫛。

70年代のサンリオのファンシー雑貨や文房具は女子に大人気。類似品も大氾濫・大乱造のオンパレード!

発表当初は「女子児童向けキャラクター」であったが、現在では男女問わず、広い年齢層に支持されている。

スニーカー丈の大人キャラクターソックス。綿・ポリエステル・ポリウレタン

価格:410円
サイズ:23〜25cm
発売日:2016/05/11
シリーズ: 大人ソックス 
キャラクター: ハローキティ 
カテゴリー: アパレル 

ハローキティ 大人ソックス(ハート) 発売日:2016/05/11

ハローキティー他サンリオのコンテンツは、日本を代表するクールジャパン・コンテンツのひとつです。凄まじく世界で大人気。

スペインの首都マドリッドのハローキティ・ショップ

1975年(昭和50年) エポック社、国産第一号テレビゲーム機「テレビテニス」発売

テレビテニスとは1975年9月12日にエポック社から発売された日本初の家庭用テレビゲーム機である。発売当時の定価は、19,500円。俗に「ポンテニス」と呼ばれた。

マグナボックスと技術提携し開発されたゲーム機。日本初の家庭用テレビゲーム機でありながら、本体のアンテナからUHF帯の電波を発信しテレビ側のUHFチャンネルで受信するという現在でも珍しいワイヤレス機でもあった。

ゲーム内容は、モノクロ画面に表示される左右に飛びかうボールを2人のプレイヤーがパドルを使って互いに打ち合うというルール。スコア機能がなかったため、本体上でスコアをカウントする為のダイヤルが付いていた。

1975年(昭和50年) エポック社、国産第一号テレビゲーム機「テレビテニス」発売

任天堂初のテレビゲーム。100万台を売り上げた。
元は電卓メーカー「システック」と三菱電機が共同開発していたものであり、システックが倒産したのを受け、三菱電機が任天堂に企画を持ち込み、さらに改良を加えて発売までに至った。

内容は主にPONGに代表されるテニスまたは卓球ゲームの類である。ケーブルで本体に接続されたコントローラーが二個あり、それぞれのプレーヤーはコントローラーを手に持って操作することもできた。

廉価版の「カラーテレビゲーム6(シックス)」と共に発売した。テレビゲーム6では、テレビゲーム15のゲームスイッチ(遊べるゲームの数)を9つも省いてあり、ゲームコントローラーも本体直付けだったため、定価で5000円以上の価格差があった「15」のほうが人気が高かった。

これは任天堂の販売戦略によるものとされている。価格は廉価版だった「6」が定価9,800円、「15」の方が15,000円である。

本製品の好調な売り上げにより任天堂は、本格的なテレビゲーム業界参入を果たす。そこで培われた経験と人脈が後の「ファミリーコンピュータ」の開発に生きることになる。

任天堂の家庭向けテレビゲーム「カラーテレビゲーム15」(1977年7月)

ブロック崩し(1979年)
ゲームセンターで人気を博した他社(アタリ)のブロック崩しを家庭向け製品にしたもの。任天堂が初めて自社開発した製品であるが、開発に手間取り販売時期が遅れたため売り上げは伸び悩み、販売台数は約40万台だったという。価格は13,500円だった。

任天堂の家庭向けテレビゲーム「ブロック崩し」(1979年)

1976(昭和51)年 ラッセル社とコカ・コーラのタイアップ販促品「ラッセルヨーヨー」をきっかけにした第一次ヨーヨーブーム

その後、スケバン刑事による第二次ブーム、バンダイの玩具ハイパーヨーヨーによる第三次ブームが起きている。

1976(昭和51)年 ラッセル社とコカ・コーラのタイアップ販促品「ラッセルヨーヨー」をきっかけにした第一次ヨーヨーブーム

コカ・コーラとラッセル社のタイアップキャンペーン・ラッセルヨ-ヨー

コカ・コーラとラッセル社のタイアップキャンペーン・ラッセルヨ-ヨー

1975年(昭和50年)から1978年頃 「スーパーカーブーム」到来。コスモス他『スーパーカー消しゴム』(学校に持ち込むことができたホビー)

『サーキットの狼』(サーキットのおおかみ)は、漫画家の池沢さとしが1975年(昭和50年)から1979年(昭和54年)にかけて「週刊少年ジャンプ」(集英社)に連載した漫画作品。

続編に『サーキットの狼II モデナの剣』、『21世紀の狼』がある。実写映画が1977年に製作・公開された。

愛車ロータス・ヨーロッパを駆る主人公の風吹裕矢が、一匹狼の走り屋から始まり公道やサーキットを舞台にライバル達との競争を繰り広げ、プロレーサーへと成長していく物語である。ライバルとしてポルシェやフェラーリ、ランボルギーニ、マセラティ、日産・フェアレディZ、シボレー・コルベット、トヨタ・2000GTなど、世界中の著名なスポーツカーが多数、劇中に登場。

いわゆるスーパーカーブームの火付け役となった。
単行本の発行部数は1977年時点で1100万部を突破し、累計では1700万部を記録している。

『サーキットの狼』(1975年・「週刊少年ジャンプ」(集英社)に連載された漫画)スーパーカーブームの火付け役

1977年頃:『スーパーカー』の「プラモデル」や「消しゴム」が大ブーム。ミニカーやラジコン他関連商品の流行。1977年頃がスーパーカーブームのピーク。

1977年頃がスーパーカーブームのピーク。

コスモス他『スーパーカー消しゴム』(学校に持ち込むことができたホビー)が当時の子供達に大流行しました。

日本では、かつて1974年から1978年にかけて、池沢さとしの漫画『サーキットの狼』などの影響で、スーパーカーの爆発的なブームが起きた。スーパーカーは一般大衆には入手が困難なことから、特に自動車が好きな人達から見ると羨望の的となった。当時のブームにおいて知名度を得たスーパーカー群は、21世紀初頭の現在でも根強い人気がある。

このブーム当時の日本では、車の購買層ではない低年齢層へのプロモーションとして、コカ・コーラ、ファンタ等の清涼飲料水の王冠の裏に車が描かれていたり、カード型の書籍やプラモデル(スケールモデル)、ミニカーが発売されたり、ラジコン模型自動車のブームが巻き起こった。

スーパーカー消しゴムと呼ばれる塩化ビニール製のミニチュアが売られたりした。また日本の各地においてスーパーカーの展示会が行われた。スーパーカーブームにより自動車に関する情報が低年齢層に浸透することとなり、並行する形で自動車競技(F1、ル・マン24時間レース、世界ラリー選手権など)に対するブームも巻き起こった。車の操作についても詳しくなることとなったため、ドリフトと称して自転車の後輪を滑らすことが流行った。

テレビでもブームにあてこんだ番組が製作された。スーパーカーに関するクイズ番組『対決!スーパーカークイズ』(東京12チャンネル=現テレビ東京系列)の他、テレビアニメでは1976年の『マシンハヤブサ』を先駆けとして、1977年になると『とびだせ!マシーン飛竜』『超スーパーカー ガッタイガー』『激走!ルーベンカイザー』『アローエンブレム グランプリの鷹』が放映された。これらはスーパーカーブームとF1ブームの相乗効果だったと見られる。今も、最盛期に比べると劣るが、車の人気は根強い。

プームは異常な加熱を見せた。1977年春に東京晴海で行われた「サンスター・スーパーカー・コレクション77」などのスーパーカーショーでは、スーパーカーの写真撮影をしたいと高級カメラを持った少年たちが長蛇の列を作り、新聞などの一般マスコミで社会現象として大きく取り上げられた。同年7月には同じく晴海で「ラ・カロッツェリア・イタリアーナ'77」というイベントが開催されている。

ランボルギーニ・カウンタック LP500。1970年代のスーパーカー

特にカウンタックのプラモデルは多くの人が沢山作りました。

スーパーカーのプラモデルが大ブームになりました。

1977年 自動販売機によるカプセル玩具の販売開始

1976年にはタミヤが、精密な外観を持つプラモデルをベースとした1/12サイズのポルシェ・934のキットでRCカーに参入した。

1年間で10万台を販売するヒット作となった。

1/12サイズの「ポルシェ・934ターボRSR」(1976年・タミヤ)

1976年に発売された「ポルシェ ターボ RSR 934 レーシング」。1年間で10万台を販売するヒット作となった。リアルな反面、衝撃には弱かったという

1/12サイズの「ポルシェ・934ターボRSR」(1976年・タミヤ) 画像はタミヤのイベント展示品

タミヤ最初の本格的オフロード車は1979年発売の、バギーチャンプとワーゲンオフローダー

バギーチャンプは、田宮模型(現・タミヤ)が生産していた1/10スケールの電動ラジコンバギー。発売は1979年11月。

パッケージの英語表記は、「RACING BUGGY ROUGH RIDER」であり、日本国外では一般的に「ラフライダー(Rough Rider)」と呼ばれている。 当時のキット価格は18,000円。

当時としては本格的なオフロードレースが出来る魅力的なモデルであり、国内外でヒットした。

『バギーチャンプ』(1979年11月)

ホーネットとは、1984年10月、田宮模型(現・タミヤ)製グラスホッパーの上級モデルとして登場した電動ラジオコントロールモデルカーである。

1991年に生産終了するまで約7年間、累計生産台数約80万台、総販売台数約30万台というロングセラーモデルであった。

13年後の2004年9月、キッコーマン万上焼酎トライアングルの20周年キャンペーン懸賞商品として復刻された。その後、2004年12月7日よりタミヤから復刻版の販売が開始された。2005年1月上旬には、タミヤ主催のワンメイクレースも開催された。

『ホーネット』(1984年10月) デューンバギー系の各種のオフロード車ラインナップは1980年代前半に広く普及してブームを作り、現在のRCカー市場の基礎となった。

1976年から1979年:ポピー(現・バンダイ)の『キャンディ♥キャンディ』の関連キャラクター商品が爆発的な売れ行きを示す大ヒット

原作開始の1年半後にテレビアニメ版が放映されて、原作と同時進行した。放送期間は1976年10月1日から1979年2月2日。放送時間帯は、毎週金曜日19時から19時30分で全115話。

1970年代の東映動画に莫大な収益をもたらして他作品の赤字を穴埋めするドル箱作品となった。東映アニメーションの社史では『マジンガーZ』とともに本作を自社の金字塔となったテレビアニメとしている。

本作の成功によりテレビ朝日と東映動画は後番組でも『花の子ルンルン』以降でこの枠で少女アニメ路線を採用し、他社でもポスト『キャンディ・キャンディ』を狙って同趣向の少女向けアニメが登場した。

東映動画やポピー(現、バンダイ)に莫大な利益をもたらした「キャンディ♥キャンディ」

スポンサーにはポピー(現・バンダイ)がつき、数々の関連キャラクター商品を発売してこれも爆発的な売れ行きを示す大ヒットとなった。

それまで男児向けキャラクター商品に強みを持っていたポピーが本作によって女子向け玩具開発のノウハウを掌握して、後番組の『花の子ルンルン』以降もスポンサーとなり、女児向け玩具がポピーの屋台骨となっていった 。

キャンディ♥キャンディの関連キャラクター商品・女児向け玩具は爆発的・驚異的に売れた。見習いたいですね。

ポピー(現・バンダイ)「おすましキャンディ♥キャンディ人形」

1977年から1978年頃 「バービー」日本に再上陸(発売開始)するも惨敗

1977年から1978年頃「スーパースター・バービーSuperstar Barbie」

マテル社のバービーは、1962年に日本で販売されたが、当初から販売不振が続き、化粧や髪の色、衣装のデザインを日本人好みのものに変えるといった努力が続けられていた。1966年の『ビートルズ旋風』に乗って売れ行きをのばしたが、翌67年のリカちゃん人形の発売によって打撃を受け、日本市場から撤退した。 1970年代後半に再上陸を果たすが、嗜好の違いから販売不振が続いていた。 日本人向けバービーの製作を迫られたマテル社はタカラと提携。1982年にバービー(タカラバービー)を販売した。タカラは一時、リカちゃんとバービーという日本の着せ替え人形の代名詞とも言える人形を両方とも販売していたことになる。1986年に提携解消。バービーはジェニーとして販売されることになった。 タカラとの提携解消に伴い、マテル社はバンダイとの合弁会社 ma-ba(マーバコーポレーション)を設立。マーバコーポレーションからバービー(マーババービー)が発売されたが、ジェニーと顔立ちが酷似しているとの理由で提訴される。その後、アイプリントを変更して販売を続けるが、1989年に販売不振からマーババービーの販売を終了した。 1989年、バンダイからマーババービーのフレンドドール、ソフィーを流用したバービー(バンダイバービー)が発売されるが、1991年に販売終了。 それ以降はマテル社のバービーがバンダイから販売されていたが、2003年末をもってバンダイとの業務提携を解消。現在は、マテル社の日本法人マテル・インターナショナルからバービーが販売されている。

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バービー - Wikipedia

1978年 ツクダオリジナル(現 メガハウス第4事業部)が発売「スライム」が流行。パチモノのスライムが乱造乱売された。

日本では1978年、ツクダオリジナル(現 メガハウス第4事業部)がマテル社製玩具のスライム状の物質を日本で発売し、同年の報告によれば小学生を中心に250万個が売れた。

原料の大部分が水であるため、日本での大ブーム時にはツクダが製造に大量の水を必要としたことで、水道局からクレームが来たという逸話もある。

1978年 ツクダオリジナル(現 メガハウス第4事業部)が発売「スライム」が流行

1978年にタイトーの『スペースインベーダー』がゲームセンターに登場。79年には全国で大流行。

『スペースインベーダー』(Space Invaders)とは、株式会社タイトーが1978年(昭和53年)に発売したアーケードゲーム。これを初めとする同社の後継製品、他社製の類似商品・模倣品を総称してインベーダーゲームと呼ぶ。

1978年にタイトーの『スペースインベーダー』がゲームセンターに登場

駄菓子屋の店先、待合室などでも、10円から50円と格安なアップライト筐体による稼動があった。

社会現象となり、ゲームセンターが次々に開店し、喫茶店やスナックのテーブルの多くがインベーダーゲーム用のテーブルに変わった

1978年頃:家庭向けの電子ゲーム「LSIゲーム」と「LCDゲーム」が続々登場。本格的な電子ゲーム時代をむかえる。

家庭向けの電子的なゲームとしては、1978年に米澤玩具が『サイモン』(アメリカ製)を日本で販売している。このゲームは豆電球の点滅を電子制御することでゲームとしての機能を実現したが、専らモグラ叩きの延長的な単純なものである。バンダイからは『チャンピオンレーサー』や『サブマリン』などの、発光ダイオード(LED)を使用する電子ゲームが発売されている。

トミーから『ミサイル遊撃作戦』が発売、この辺りが日本国内初のLSIゲームとされる。なお、ミサイル遊撃作戦はFL管を使用したゲームとしては世界初である。その後『スペースインベーダー』を模したLSIゲームが雨後の筍の如く各社から発売され、電子ゲームは一気に玩具業界の一角を占めるまでになった。

中小メーカーからもこれに追従する形で様々な製品が発売されている。バンダイの『ミサイルベーダー』や『スーパーミサイルベーダー』、エポック社の『デジコムベーダー』、学研の『インベーダー』、シンセイ(新正工業)の『ゲキメツ(撃滅)インベーダー』など「インベーダーゲーム」だけでも十数種類以上数社から発売されている。

この当時、ゲームセンターで人気を誇ったビデオゲームを模した電子ゲームも多数発売されている。バンダイの『クレイジークライミング』(クレイジー・クライマーのライセンス作品)、トミーの『パックマン』、学研の『平安京エイリアン』など様々な製品が登場した。

LSIゲームとLCDゲーム

バンダイの『ミサイルベーダー』

『パックマン』(Pac-Man)はナムコ(後のバンダイナムコエンターテインメント)より1980年5月22日に発表されたアーケードゲーム、またはそのシリーズのタイトルで同社の看板タイトルである。

世界で知られた日本産のコンピュータゲームの一つで、当時ナムコとの関係が一時的に密接となったバリー=ミッドウェイ(後のミッドウェイゲームズ)よりアメリカで発売されると、その知名度から80年代のミッキーマウスと称された。

1979年夏にピークを迎えた『スペースインベーダー』ブームの影響により、ゲームセンターには戦争を題材としたシューティングゲームが多く出回るようになった。「これでは女性が入りづらいのではないか」と危機感を持った岩谷徹により1979年3月、ゲームセンターの雰囲気を殺伐としたものから、和やかな場所へと転換することをひとつの方向性として企画。

女性やカップルをメインターゲットに絞った点も当時のゲームとしては目新しかった。

アーケードゲーム『パックマン』(1980年5月22日)

トミー(現、タカラトミー)のLSIゲーム「パックマン」

エポック社 ポケットデジコム・シリーズ 「パクパクマン」は大人気

懐かしい電子ゲーム:LSIゲームとLCDゲームを振り返ります。クレイジークライミング・平安京エイリアン・パクパクマン・ドラキュラハウス・モンスターパニック他 - Middle Edge(ミドルエッジ)

1980年:ルービックキューブ大流行

1980年:ルービックキューブ大流行

1980年4月28日 携帯型液晶ゲーム機『ゲーム&ウオッチ』(任天堂)

ゲーム&ウオッチ(ゲームアンドウオッチ、GAME&WATCH)は、任天堂が1980年より発売した携帯型液晶ゲーム機(電子ゲーム、LSIゲーム)。CMなど一般での呼称は「ゲームウオッチ」。

第1作は1980年4月28日発売の「ボール」。タイトルにはスヌーピー、ミッキーマウス、ポパイなど他社の人気キャラクターを採用したものもあった。手元で遊べる手軽さが受けて社会現象にもなり、日本での売り上げ総数は1287万個、日本国外では3053万個で、合計4340万個。

当時の任天堂が抱えていた70億円近くもの莫大な借金を完済し、それでも40億円程の黒字がでるほどの大ヒットを記録、高収益を得る優良企業へと転身を果たしただけでなく、その黒字をファミリーコンピュータの開発に投資したことでも知られる。

任天堂のテレビゲーム路線のきっかけを作ったゲームとも言え、任天堂の出石武宏や上村雅之らは度々「ゲーム&ウオッチは任天堂のゲームの原点」という発言をしている。

携帯型液晶ゲーム機『ゲーム&ウオッチ』(1980年4月28日・任天堂)

発売初期のテレビCMは、「いつでもゲームウオッチ、どこでもゲームウオッチ」というCMソングに合わせて商品で遊ぶ場面やゲーム画面が映し出され、最後に「マイクロコンピューターを使ったゲームウオッチ。ゲームをしない時はデジタル式クォーツ時計です」のナレーションが入るというものだった。

1983年にファミリーコンピュータが発売された事を境にブームは移行し、1985年2月発売の「ブラックジャック」を最後に日本での発売は終了した。

ゲーム&ウオッチ・マルチスクリーン (ドンキーコング)

1980年7月:「1/144ガンダム」発売・1981年:空前絶後の機動戦士ガンダム「ガンプラ」ブーム(バンダイ模型)

ガンプラブーム時期は、入荷した日でガンプラはすべて売切れてしまう。

入荷日以外ではガンプラが買えない。どこの店も売り切れ。

入荷日に必死で並ばないと何も買えない。
人気のモデルは並んでもなかなか買えない。
このようなガンプラブームのようなことは、二度と起こらなさそうですね。

1/144ガンダム(1980年7月)

現在のガンプラ − ブランド

「ガンプラ(ガンダムのプラモデル)」の歴史:ガンダムシリーズ・グレード別・スケール別・エポックメイキングなモデルで概観するガンダムシリーズとプラモデルの歴史 - Middle Edge(ミドルエッジ)

1980年12月・1981年(昭和56年) タカラ「チョロQ」登場

1980年9月 『豆ダッシュ』の商品名でテスト販売。

(画像)チョロQ A品番(A-27)マツダ サバンナ RX-7 サーファーガール

1980年12月 『チョロQ』の商品名で正式販売。通称『A品番』が発売される。Aセット発売。

価格的には1970年代末当時の児童が購入し易い安価な製品であり、その小ささと走行力で人気を博し、タカラの主力商品シリーズにもなった。

1983年(昭和58年)7月15日 家庭用ゲーム機『ファミリーコンピュータ』(任天堂)

ファミリーコンピュータ (Family Computer) は、昭和58年(1983年)7月15日に任天堂より発売された家庭用ゲーム機。メーカー希望小売価格は14,800円。型番はHVC-001。HVCはHome Video Computerの略である。日本国内での略称・略記はファミコン・FC。平成25年(2013年)7月15日に発売30周年を迎えた。
日本国外では“Nintendo Entertainment System”(略称:NES)として発売されている。

ゲーム&ウオッチの事業を成功させた任天堂が、その利益を投入して開発した家庭用ゲーム機である。当時アーケードゲームで人気を博していたドンキーコングが見劣りなく家庭で遊べる程度の性能を目標に設定して開発された。

家庭用ゲーム機『ファミリーコンピュータ』(1983年7月15日・任天堂)

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