F1相撲の異名をとった史上最強の関脇、琴錦

琴錦 功宗(ことにしき かつひろ)
『琴錦』入門までの経歴。
中学時代は柔道部に所属し活躍していたが、相撲大会にも借り出され全国大会にも出場した。
その実績によりロサンゼルス五輪金メダリストで国民栄誉賞受賞者の山下泰裕からもスカウトの声が掛かり当初は高校進学が決まりかかっていた。
しかし、佐渡ヶ嶽親方(先代(12代)、元横綱・琴櫻)の再三に渡る勧誘により入門を決意。
決め手となった殺し文句は「相撲に来れば強い奴とたくさん戦えるぞ。柔道じゃ稼げねえから相撲で稼げよ。」であり、このセリフをきっかけに大相撲へ進むことを決意したという。

入門当時の琴錦(左)
二代目、琴錦を襲名
西幕下5枚目で迎えた1987年(昭和62年)9月場所には11代(先々代)佐渡ヶ嶽親方(元小結・琴錦)の四股名でもある『琴錦』と改名した。このとき鏡山部屋の序ノ口力士に同音の虎勝錦がおり、本来は改名できないはずであったが、佐渡ヶ嶽親方より鏡山親方に懇請し格違いで譲ってもらい、改名を果たした。
実は『琴錦』の四股名は入門する直前に友達と考えて出来た四股名とまったく同一であり、11代佐渡ヶ嶽親方と相撲の型が似ていたこともあって11代親方夫人の許しを得たものであった。
しかし、当の本人は11代親方の現役時代の四股名が琴錦だったということは全く知らず入門後に聞いて驚いていたという。

初代、琴錦
『F1相撲』と呼ばれる速攻の突き・押しで順調に昇進を重ねる
元々はまわしを取って組み合う四つ相撲であったが部屋付きの親方のアドバイスで突き押し相撲に変更。
小柄な体から繰り出される、速攻の突き・押しの取り口から「F1相撲」と評された。
このほか「角界のマイク・タイソン」と評した力士もいた。
そのスピードは第55代横綱 北の湖や第68代横綱 朝青龍に匹敵したと言われている。
1988年3月場所に十両に昇進。
1989年5月場所に20歳の若さで新入幕を果たした。
1990年5月場所には横綱・北勝海を破り初金星をあげ9勝6敗と勝ち越し、初の三賞となる敢闘賞を受賞。
7月場所では東前頭筆頭で横綱・千代の富士、大関・北天佑を破るなど9勝6敗で初の殊勲賞を受賞。
9月場所で新三役(小結)に昇進し初日に北勝海を破るなど9勝6敗と勝ち越し、2場所連続2回目の殊勲賞を受賞した。
11月場所には新関脇に昇進。大関・霧島、小錦、横綱・旭富士を破るなど初日から6連勝の活躍を見せ10勝5敗と二桁勝利を挙げ、3場所連続の殊勲賞と初の技能賞を受賞。
翌1991年(平成3年)1月場所には初日から8連勝の活躍を見せ11勝4敗と2場所連続で技能賞を受賞し、5場所連続の三賞となった。
2場所連続して2桁の勝ち星を挙げいよいよ大関昇進が現実的になっってきた。
琴錦、重婚スキャンダルで譴責処分に…。
大関取りを目前に控えた1991年3月場所前に琴錦の女性問題が発覚。
木下佳子さんとの婚約を報じられた琴錦は、これを否定。
埼玉在住の女子学生と結婚を前提に交際しているとしたが、佳子さんとの入籍と妊娠が明らかになった。
さらに琴錦は既に入籍しているのに「婚約を解消し女子学生と結婚する」とか「どっちも好きだし…」などと人間性を疑われるような言動を繰り返してしまう。
その結果、「重婚をするつもりか。」とマスコミから気の毒なぐらいバッシングされ、『さまよえる下半身』という秀逸かつ不名誉なニックネームを付けられた。
最終的には佳子さんとよりを戻したが、この騒動を重く見た日本相撲協会は琴錦と佐渡ヶ嶽親方に対して譴責処分を発表、「相当の好成績を挙げない限りは大関昇進はありえない」と厳しい対応を決めた。
このスキャンダルにおいては嫌々婚約者の元へ戻ったと伝わっているが、子供が誕生すると一転して子煩悩ぶりを発揮したことも話題になった。

当時の週刊誌記事
この場所では前例のない辛辣な野次を浴びた影響もあってか、9勝6敗に終わり大関昇進の絶好機を逃してしまった。
その後も5月場所は8勝7敗と勝ち越したが、7月場所は場所中に左足首を痛める不運もあり4勝11敗と不本意な成績に終わり関脇から陥落した。
琴錦本人は周囲の大関取りの期待に応えようと「勝たなきゃ!」と強く思いすぎて空回りしたと語っている。
この場所は同部屋の兄弟子琴富士が平幕優勝した場所だったが、場所後の打ち上げでは自ら歓喜の輪に入らず、隅の方で一人寂しく兄弟子の姿を眺めるだけだったという。
琴錦、どん底から復活の初優勝
自分の撒いた種とはいえ、琴錦の落ち込みは相当のもので、一時は廃業も考えたという。
そこで1991年7月場所が終わると師匠・佐渡ヶ嶽親方は落ち込む琴錦をリフレッシュさせるため強制的に故郷に帰した。
故郷でも周りから白い目で見られると思っていた琴錦だが地元のファンの温かい励ましを受けたことでやる気を取り戻し、怪我の治療をしながら稽古に励むようになった。
そして迎えた9月場所。
東前頭5枚目まで番付を下げた琴錦だったが、快進撃を続け優勝争いに加わる。
部屋の同僚は優勝争いを行っている琴錦に気を使いげんを担いで、食べるもの・タクシーを呼ぶ時間・通る道などを同じに合わせてくれていたという。
貴花田、若花田には敗れたものの13勝2敗の成績を上げ、7月場所に優勝した同部屋の琴富士に続き平幕優勝を成し遂げた。

初優勝し、賜杯を手にする琴錦
再び大関取りのチャンスが到来したが…
優勝した琴錦は、翌11月場所で小結に復帰。
初日に霧島、9日目に新入幕の貴ノ浪に敗れるも13日目を終え、1敗のトップ小錦を2敗で琴錦が追走していた。
14日目の直接対決で当時最強力士だった小錦を押し出し、ついに2敗で並ぶ。
奇跡の大関昇進への道は大きく開かれた。
前々場所4勝11敗と負け越しているのにも関わらず、場所中に二子山理事長から「連覇なら大関も検討する」と言われ、過去に例のない「関脇以下での連続優勝」および前田山以来の「関脇を飛び越えての大関昇進」に期待が高まった。
だが千秋楽、若花田に負けて12勝3敗と優勝次点に留まり、連覇にあと一歩及ばなかった。
しかもその相撲で古傷の左足首を負傷してしまう。
1992年1月場所は関脇に返り咲き大関昇進を目指すも、前場所でのケガの回復が遅れて7勝8敗と負け越し、大関取りは振り出しに戻ってしまう。
翌3月場所で前頭筆頭で9勝6敗、5月場所で小結で9勝6敗の成績を上げ7月場所で関脇に返り咲くも6勝9敗に終わりあえなく三役から陥落、9月場所には前頭筆頭で11勝4敗、11月場所では小結に復帰。
この場所大関曙と優勝を争い千秋楽まで1敗をキープ。
しかし千秋楽に翌場所に大関昇進の望みを繋ぎたい関脇貴花田に敗れまたも優勝を逃す。
それでも13勝2敗の好成績で翌1993年1月場所に関脇に返り咲き、今度は貴花田とともに大関取りとなったが、場所直前の膝の故障が響いて稽古不足。
10日目までは7勝3敗でしのぐも終盤5連敗で7勝8敗と負け越し。
結局大関昇進の大チャンスに3度も手を掛けておきながら、大関昇進が実現することは無かった。
引退を撤回し、史上初の2度目の平幕優勝
1998年1月場所では小結で武蔵丸、若乃花の2大関を下し10勝5敗と二桁勝利をあげ技能賞を受賞。
翌3月場所は6勝9敗と負け越し平幕に下がるも5月場所は横綱昇進を目指す若乃花、4年間勝てなかった横綱曙を下し11勝4敗の好成績を挙げ3年ぶりの殊勲賞を受賞する。
しかし7月場所の貴乃花戦で右足を痛め途中休場。
公傷申請できるほどの怪我だったがあえて公傷を申請せず出場した9月場所では東前頭7枚目で5勝10敗と負け越し、11月場所には西前頭12枚目に下がった。
30歳を迎え体力、気力の衰えを感じていた琴錦は場所前に師匠の佐渡ヶ嶽親方に引退を相談。
年寄名跡を所得していなかったため、引退後は協会に残らず、自動車整備工の仕事に就きたいという意向を示した。
そんな琴錦に師匠は烈火の如く怒り慰留。
当時36歳で十両を務める琴稲妻を例に出し「(琴)稲妻を見てみろ、今でも頑張っているじゃないか!それに転職なんかこの不景気の中予想以上に物凄く大変なんだぞ!甘ったれるのもいい加減にしろ!!もう一度死ぬつもりでやってみろ!」と長時間にわたって叱責したという。
師匠の言葉にもう一度思い直した琴錦は引退を撤回する。
次の11月場所は初日から見違えるような相撲を取り、初日から11連勝し優勝争いの筆頭に立つ。
「このまま十両に落ちちゃうだろう。」と考えるとプレッシャーを感じず、相手の顔だけでなく観客の顔までよく見えたという。
12日目に横綱若乃花に惜敗し連勝がストップしたが黒星を喫した相撲はその一戦のみで、その後13日目にこれまで15連敗中だった横綱貴乃花に完勝し、金星を獲得。
九州場所の館内は沢山の座布団が乱れ飛んでいた。
この相撲を協会の役員室でテレビで見ていた佐渡ヶ嶽親方は取組後役員室を飛び出し、琴錦に握手を求めにいったほどの会心の相撲を見せた。
14日目にも大関貴ノ浪を圧倒、2敗で追いかけていた平幕土佐ノ海が貴乃花に敗れ、琴錦の二度目の平幕優勝が決定した。
この日審判長を務めていた佐渡ヶ嶽親方は感極まって涙ぐむシーンも見られた。
それと同時に佐渡ヶ嶽親方は「あいつは相撲も速いが気も早い。やれば出来るんだよ。(琴)錦本人がそれに気付いていないんだから」と苦笑いしながらコメントしていた。

家族と優勝を喜ぶ琴錦
度重なる怪我により現役引退
翌1999年1月場所には小結に復帰、初日に横綱貴乃花を破り、前場所の優勝がフロックではないことを証明した。
この場所は6勝9敗と負け越したがそれ以降も幕内上位で活躍。
史上初の平幕2回優勝を決めた1998年11月場所からは、6場所連続で対横綱戦勝利(最高位が関脇以下の力士としては史上初)を挙げていた。
しかし、2000年1月場所では東前頭3枚目で3勝12敗と大敗。
西前頭8枚目まで大きく番付を下げた翌3月場所の4日目、それまで39勝8敗と大の得意としていた安芸乃島との相撲で、前日の相撲で痛めていた右肘内側側副靱帯をさらに損傷し悪化させたために途中休場。
翌場所には初めて西十両筆頭に陥落した。
その場所は公傷認定され全休し、7月場所は8勝7敗と勝ち越したが、翌9月場所の番付は半枚上の東十両筆頭に留まり、幕内復帰が見送られた。
同場所は初日から5連敗し7日目に敷島に敗れたのを最後に現役を引退、準年寄・琴錦を襲名した。
師匠の佐渡ヶ嶽親方はこの時は琴錦の引退の決意を翻意できず、琴錦の引退会見では「やる気があればまだこれからなのに…辞めるのには早過ぎる」と惜しんでいた。
最も印象に残った力士は若乃花
引退後の会見やテレビの取材で、印象に残る力士に若乃花の名を挙げている。
同じ小柄な体格ながらも横綱まで昇進した若乃花に対して琴錦は一目置いており、「若乃花関も動きの速い力士で、対戦すると何かを学べるから楽しい」と語り、若乃花も「琴錦関は自分と同じ瞬発力で相撲を取るタイプ。取り口を真似したことがある。良い手本で、学んだり盗んだりした」とお互いに認め合っている。
土俵上でも両者は熱戦を展開しており、琴錦が優勝した2度の場所では、いずれも琴錦は若乃花に敗れている。
両者の通算対戦成績は、琴錦の16勝25敗。
最も大関に近かった史上最強の関脇、琴錦
平幕優勝を二度も成し遂げ大関となる実力は十分にあった琴錦。
ダッシュを利かせた立ち合いからの滑らかな出足、流れるようなスリ足は天下一品。
大横綱・千代の富士も琴錦の実力を現役中から買っており、引退後も琴錦を常に中心に据え、優勝争いを予想していた。
舞の海曰く「琴錦関はスピードが段違い。取り口もそうだが、仕切りの所作も並の力士より0コンマ何秒か先を行っている」と舌を巻いていた。
正攻法の速攻相撲が基本だが、八艘飛びなど奇襲戦法もたびたび用いて成功させることがあった。
一方で、集中力散漫の折は、持ち前の出足が伴わず空回り状態で、スリ足がバタ足となり、いわゆる一人相撲で自滅という敗戦パターンも少なくなく、調子の良し悪しがはっきりと判る力士でもあった。
特に場所後半にかけては軽量故に、スタミナ切れを起こし、大勝ちに繋がらず、尻すぼみに終わる傾向や、2場所は保てても3場所は連続で好成績を挙げられなかったことが致命的であった。
優勝経験2回という立派な実績を残しながら、大関昇進は叶えらなかった。
引退後に琴錦本人は「現役時代は本気で大関を目指してはいなかった」「自分は関脇のままでも良いと思っていた」等と白状したり、「大関取りのチャンスを生かせなかったことを後悔している」ともコメントしている。
関脇在位は同じ佐渡ヶ嶽部屋の長谷川と並ぶ21場所で、当時史上1位タイの記録だった。
(現在はのちに大関となった琴錦の弟弟子である琴光喜に更新され、史上2位タイ)
当該場所の優勝力士から白星を7回上げたという記録もまた琴錦の実力を物語る事実であり、これは最高位が関脇以下の力士としては最高の記録である。
これらのことから琴錦を『史上最強の関脇』と称することも多い。
事実、上位力士との通算成績を見ても横綱に善戦、大関と互角、関脇に対して大きく勝ち越していることがわかる。
対戦相手 | 通算成績 |
千代の富士(横綱) | 1勝2敗 |
北勝海(横綱) | 3勝5敗 |
貴乃花(横綱) | 14勝34敗 |
若乃花(横綱) | 16勝25敗 |
曙(横綱) | 11勝30敗 |
武蔵丸(横綱) | 18勝26敗 |
小錦(大関) | 12勝12敗 |
霧島(大関) | 9勝10敗 |
貴ノ浪(大関) | 19勝21敗 |
栃東(大関) | 5勝7敗 |
寺尾(関脇) | 21勝9敗 |
貴闘力(関脇) | 28勝18敗 |
水戸泉(関脇 | 13勝6敗 |
現役引退後の琴錦
2014年1月、中村親方となり同時に尾車部屋に移籍。
しばしば大相撲中継の解説も務めている。

大相撲中継等にて相撲を解説する琴錦。
2016年1月6日、先代の停年退職により空き名跡となっていた年寄・朝日山を継承・襲名し、合計6株に亘る借株生活に別れを告げた。
準年寄時代の2年間も含め、引退から15年4か月、47歳で初めて年寄名跡を取得したことになる。
また、朝日山の年寄株取得に際して、2016年中には尾車部屋から独立し、2015年初場所限りで閉鎖された朝日山部屋を再興する意向を表明した。
既に独立時に必要な内弟子は入門しており、部屋の土地も千葉県内に取得済みである。
現在内弟子は4人。「土俵がダメでも、次の人生でためになる指導をしていきたい。鎌ケ谷にはプロ野球日本ハムの練習場もある。野球やサッカーなどの練習も取り入れ、刺激にしたい」と話している。
日本相撲協会の中においての役職は、上述の通り長年にわたり借株であったため平年寄の地位に据え置かれていたが、2016年3月に行われた協会の新たな職務分掌では、2階級昇格し委員となった。
2016年2月、OB相撲に登場。場内を沸かせる
琴錦は引退から5年後の既に37歳になっていた2005年7月場所前に当時現役であり自身より10歳も若い西十両8枚目の琴春日と稽古場で申し合いを行い14勝4敗と圧勝したという逸話を持つ。
さすがに引退まもなくまだまだ若い元大関・琴欧州には完敗だったが、現役時代と変わらぬ愛嬌で会場を大いに沸かせた。