驚異の打撃能力で猛虎打線を盛り上げた一人!真弓明信

真弓明信(まゆみ あきのぶ)
真弓明信の獲得タイトルや主な表彰と記録
首位打者:1回 (1983年)
ベストナイン:3回 (1978年、1983年、1985年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1985年)
月間MVP:1回 (1985年9月)
通算初回先頭打者本塁打:41本(表24本、裏17本)※歴代2位[25]
セ・リーグ通算初回先頭打者本塁打:38本(表21本、裏17本)※セ・リーグ記録[13]
5試合連続本塁打:2回(1980年6月25日 - 7月6日、1986年7月1日 - 7月6日)
代打3打席連続本塁打 ※史上2人目(過去の達成者は1984年マーシャル・ブラント、後に1996年藤立次郎・2011年ジョシュ・ホワイトセルが記録)
真弓明信のプレースタイルとは。

積極的な一番打者
走攻守のオールプレイヤーというだけではなく、プロ入り当初は守備固めの選手で、中軸打者、代打の切り札と、チームにおけるポジションもそつなくこなしてしまう選手はなかなかいないでしょう。
ちなみに守備も遊撃手、二塁手、外野手でベストナインを獲っている選手もなかなかおりません。
真弓明信のプロに入るまでの活躍
熊本県玉名郡生まれで、小学3年生の時に福岡県大牟田市に引っ越し。その大牟田で見た原貢監督の三池工業高校の甲子園優勝パレードを見て、野球選手を志すようになったという。
中学時代に野球を始めるが、三段跳びで11m99㎝を記録するほど身体能力の高さがきわだち、いろんな運動部を掛け持ちしていました。
柳川商業高校に進学し、1年からベンチ入りし、2年にはレギュラーを獲得。あの元大洋ホーエルズの若菜嘉晴と同期で活躍し、九州一の強豪校と称されていたが、甲子園に行くことはなかった。
卒業後、若菜は西鉄ライオンズに入団し、真弓は社会人野球への道へと進み、都市対抗野球で大活躍を見せるのである。そんな活躍もあって、1972年のドラフト会議で西鉄ライオンズに3位指名を受け、プロの世界へと足を踏み入れるのである。
プロに入った太平洋クラウン時代の真弓明信
真弓明信 - Wikipedia

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世紀のトレードの結果・・・。阪神タイガースへ移籍

真弓明信 - Wikipedia
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引退後は野球人としての活躍を魅せる真弓明信
引退後は、朝日放送の野球解説者を務め、2000年には大阪近鉄バッファローズの打撃コーチに就任する。
監督、梨田昌孝。投手コーチ、小林繁と男前の首脳陣で男前の首脳陣として話題になりました。
2002年にはヘッドコーチに就任し、梨田が退場処分を受けた時は監督代行を務め9点以上の差を逆転されて敗戦するなど散々な試合をしたこともあるのです。。。
2004年にオリックスとの合併ということもあり、コーチは退任。再度、朝日放送の野球解説者として球界を盛り上げます。
古巣、阪神タイガースの監督へと就任。
真弓明信 - Wikipedia

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退任してからは、再び朝日放送の野球解説者に戻り、野球人として活動を続けています。