白井義男

白井義男は
日本フライ級、バンタム級2階級制覇
日本人としてはじめて世界チャンピオンとなり
水泳の古橋廣之進や
ノーベル物理学賞の湯川秀樹と同様
敗戦後の暗い時代に
日本人に明るい話題をもたらした
vs カンガルー

白井義男は関東大震災の年に東京で生まれた
小学校のとき
サーカスが来て
カンガルーとボクシングをすることになった
カンガルーが左腕を下げたので
思わずその手をみていると
下げた位置からフリッカージャブを出して
顔面にもらった
痛くて涙が出た
「こんちきしょー」
白井は突進し
無我夢中で腕を振り回した
力いっぱい振った右フックがこめかみに当たり
カンガルーはコーナーに吹っ飛んで
「キュー、キュー」
と鳴いた
「大丈夫かな」
とのぞきこんだ瞬間
シッポのバネを利かせたパンチが股間の急所に炸裂
白井はダウンした
結局「反則勝ち」でお菓子の袋をもらった
「さあ殴り合え」

白井が
東京・御徒町のガード下にあった「拳道会」に入門した日
同じように7人の入門希望者がいた
そして師範にいきなり
「さあ、順番に殴り合え」
といわれ白井はKO寸前まで殴りつけた
そして30分ほど縄跳びをしてこの日は終わった
次の日は4人になっていた
手に木剣を握った師範がいった
「いいか
前進あるのみ
打って打って打ちまくれ
退るやつは卑怯者だ
そんなやつは俺がぶっ飛ばす」
すでに戦火は日本近海に及んでおり
ボクシングだけでなく日本のすべてが「前進こそすべて」だった
入門2週間でプロデビュー

入門1週間後のこと
試合を控えた先輩のスパーリング相手をやらされ
力いっぱい打った右ストレートが先輩のチン(アゴ)に命中
先輩はダウンし口から泡を吹いていた
師範はいった
「お前が壊してしまった
この状態で試合は無理だ
仕方ない
白井、お前が試合に出ろ」

8日後、
試合は日比谷公会堂で行われた
戦闘帽に国民服、足にはゲートルのレフリーが選手をコールした
「シラーイ、12貫800(48kg)」
「ウミヤマー、16貫(60kg)」
英語は禁止されていた
そして2人の選手をに呼んでいった
「いいか
逃げたりしやがったらやめさせるぞ」
2人を握手させた後
「さあ殴り合え」
で試合が始まった
白井はこの後なにがどうなったか覚えていない
気がつけばリング中央に立っていて
相手は寝ていた
こうしてデビュー戦は打倒(KO)勝ちだった
手渡された2つの封筒には
ファイトマネー20円と
打倒賞として軍事国債5円が入っていた
デビュー戦、14日後の2戦目もKO勝ち
その後も勝ち続け8戦8勝7KO
戦争の影

このころの日本は
ガダルカナル島の戦いに敗れ
マリアナ沖海戦でも敗れ
フィリピンでカミカゼ特攻が行われた
しかしアメリカ軍の日本進攻は進んだ
やがてボクシングは禁止された
やっとつかみかけた青春の光を摘み取られ
白井は暗い気持ちに陥った
この時代を生きた若者の悲しい宿命だった

軍隊では
飛行機整備兵として全国を転々とした
仕事は特攻機の整備だった
昼間は
わき目もふらず敵艦に体当たりする訓練に取り組む特攻隊の隊員の
夜、すすり泣く声が心を打った

戦争が終わり
東北の秘密基地から上野駅にたどり着くと
東京は空襲で消えていた
荒川区三河島の家も影も形もなかった
「いずれ戦争が終わったら」
と大切に包んで保管しておいたボクシンググローブやシューズも灰になっていた
両親と家を失った浮浪少年が
食べ物をあさって闇市や駅の構内をさまよっていた
進駐軍のジープが来ると
彼らはワッと群がり一斉に手を差し出すと
その手にチョコやガムが手渡された
白井は戦争に負けるということがどういうことかわかったような気がした
終戦後、アメリカ軍の進駐すると共にボクシングは全国に広がった
戦争中は禁止されていた、
「ストレート(直打)」
「フック(鉤打)」
「ダウン(被倒)」
などの言葉も復活した
「俺にはボクシングがある」

白井義男の宝物、手製のリングシューズ
白井は生きるためにさまざまな仕事をしながら
来るべき日のために
まずリングシューズを手づくりした
焼跡からテント生地と皮の切れ端を探し出し
足に合わせて型をとり
麻糸にロウを塗り
一目ずつ丁寧にしっかり縫っていった
両足で1週間かかった
いつ使えるか当てもなかったけれど
「俺にはボクシングがある」
という希望の光が胸に灯った
やがて再びボクシングの練習を開始した
屋根もない青空道場だった
戦争が終わり
死の恐怖とがんじがらめの束縛から解放された若者たちが集まり
将来のチャンピオンを夢みてトレーニングした
しかし
カムバック戦は
5R1分14秒でTKO負けした
その後も勝ったり負けたりを繰り返した
戦前の8戦8勝7KOの輝きは失われ
戦後は並みのボクサーになっていた
カーン博士

Alvin Rober Cahn
GHQ(進駐軍)の将校だったカーン博士(アルビン・ロバート・カーン)は
イリノイ大学で生物学と栄養学の教授をつとめ後
GHQの天然資源局で
日本人の食糧支援のために日本の周辺海域でとれる海洋生物の調査を行っていた
カーンの父:アルビン・ベンジャミンは
貧困の中から身を起こし
穀物の仲買業者として成功、株式、証券で財を成したという
カーンはその1人息子だった
カーン博士は
趣味の貝殻集めのため
築地の魚市場に通っているとき
木挽町にあった日拳ジムで練習していた白井を見つけた
カーン博士のもう1つの趣味がボクシングだった
自身はボクシング経験はなかった
大学でテニスのコーチをしていたとき
タイミングの重要性、コンディショニングなどを身につけ
やがてボクシングの研究にも没頭した
運動生理学の見地からボクサーの筋肉の動きに興味を持ち
熱烈なボクシングファンになった
「あのボーイは
なんというチャンピオンか?」
カーン博士は
練習している白井を指してトレーナーに聞いた
「チャンピオンじゃない
名もない選手だ」
聞かれた者は失笑した
白井は勝ったり負けたり、泣かず飛ばずのボクサーだったからだ
しかしカーン博士の目に白井はすばらしいボクサーにみえた
「シライをコーチしてもいいか?」
カーン博士がジムに聞くと
「白井さえよければ」
と答えた
ボロボロのコートを着たカーン博士を物好きなボクシングマニアだと思った

白井は
半そでのカラーシャツと国防色の半ズボンでシャドーボクシングをしていた
「ハロー」
ふと顔を上げると
目の前に初めてみる初老の白人の顔があった
「キミはすばらしい素質を持っている
とくにキミのナチュラルタイミングのパンチはすばらしい
きっとキミを強くしてみせる
どうかね
キミのコーチになろう
2人で一緒にやらないか」
白井は驚いたが
考えてみると
ボクサーになって以来
技術面でキチンと体系的な指導を受けたことはない
すべて自分で編み出した攻撃と防御だった
「Yes」
白井義男、25歳
アルビン・ロバート・カーン、56歳だった
ステップ・バイ・ステップ

翌日からカーン博士の指導が始まった
カーンはひたすら基礎練習を反復した
「オンガード」
といわれて構え
「左ストレート」
といわれればそれを打つ
そうしてそれだけを2時間続けた
「白井のヤツ、
変な外人の年寄りに捕まって
かわいそうに・・・」
仲間は同情した
しかし違った
同じストレートを打つのでも
漠然と打つのではなく
いかに破壊力を増し効果を高めるかに全神経を集中していく
カーンは基礎練習の中で
まずその思想を叩き込んだ
白井は
カーンの科学的な説得力と一途な情熱を兼ね備えた指導から
基本のワンパンチ、ワンステップの中に
実は底知れぬ奥深さがあることを理解した
またカーンは
「ステップ・バイ・ステップ
(焦らず慎重に1歩ずつ階段を上っていこう)」
「ローマは一日にならず」
といい
白井のはやる気を押さえ
コツコツと体を技術をつくることが
結局早く頂点に登りつめる近道だと教えた
打たせずに打つ

「絶対に退いてはいけない
前に出て打って打って打ちまくれ!」
「肉を切らせて骨を断て!」
「防御は卑怯者のすること」
「玉砕戦法!」
当時は勇猛果敢なボクシングスタイルが好まれていた
その典型が拳聖といわれる「ピストン堀口」である
どれだけ打たても前進をやめず
最後は相手を強烈なパンチでリングに沈めた
「こちらが打つ
相手がかわして打ってくる
それをいかに避けるか
大切なのは攻撃と防御のコンビネーションだ」
というように
カーンのボクシングは『相手に打たせず自分が打つ』ものだった
ステップバック、ウィービングなど5種類の防御を1つ1つ納得するまでこなしていく
相手のパンチをサッとステップバックしてかわすという動きに
卑怯者にみられないか心配する白井にカーンは笑いながらいった
「ヨシオの身近に
戦争で攻めることだけ考えて
守りを考えなかったために惨敗した国があるだろう」
フォロースルー 突き抜くように打つ

またカーンは
「フォロースルー」がいかに必要か何度も繰り返し強調した
日本では
打った瞬間、拳をピシッと止めたほうが衝撃力が強く
その後の余分な力は不要といわれていた
しかしカーンは
「止めようと意識して打つとパンチのスピードが落ちる
突き抜くように打つほうが効果は大きい
顔面を打つのではなく後頭部を目がけて突き抜くように打つ
これがフォロースルーだ」
「パンチにウエイトを乗せ
肩を入れて腰を捻って打つ」
「力いっぱい打ってはいけない
スナップを利かせて打ち
当たった瞬間、グッと握るべきだ」
と説明し
延々と反復練習した
栄養

銀座にあったPX(PostExchange 米軍基地内だけにある購買部)
「ヨシオ、散歩しよう」
1日2時間の練習の後、2人は散歩に出た
「ちょっと待っていなさい」
カーンはそういって銀座通りにあった米軍専用のPX(売店)に入り
ポップコーンやキャンディーを買ってきた
多くの日本人が芋粥しか食べられなかったときに
2人はそれをほお張りながら散歩を続けた
やせた犬が道路を渡っていると
カーンはそれを指さし
「イン・イングリッシュ、ドッグ、ジャパニーズ?」
「イヌ!」
白井が答えるとカーンはうなずいて「ドッグ」を何度か反復させる
有楽町近くの数寄屋橋を通るとき
「イン・イングリッシュ、ブリッジ、ジャパニーズ?」
「ハシ!」
「OK、セイ・アゲン、ブリッジ」
「ブリッジ!」
こうして白井は英語をカーンは日本語を勉強していった
そして1年後には通訳抜きで意思疎通ができるようになった
ただしそれは英語で
カーンは
すぐに日本語習得をあきらめ
その後2度と日本語は口にしなかった

カーンは
散歩時のスナックだけでなく
昼食は米軍食堂のホットドッグやハンバーグを運んできて
夜はステーキなどを白井に食べさせた
白井義男復活

カーン式トレーニングを始めて2週間後
若くて人気急上昇中だった石森信之と対戦
「グッドラック」
セコンドはカーン博士だった
1R、
白井は突進する石森の右ストレートをアゴにもらって後ろに倒れ
そのまま1回もんどりかえって立ち上がった
そしてトドメとばかりに襲いかかってくる石森のアゴに
後頭部を打ち抜くストレートが突き刺した
石森の足がキャンバスから30cmほど浮き上がり
そのまま仰向けに倒れ大の字で眠った

串田昇戦では
頭から突っ込んでくる串田の脳天に
右ストレートをヒットさせダウンを奪ったものの
その後、何とか判定で勝ち控え室でグローブを外すと
右手の人差し指が骨折し皮だけでブラ下がっていた
白井の「打たせずに打つ」スタイルを
「卑怯」
「臆病」
という人もいた
しかし白井は
次々に強豪を倒し
日本フライ級チャンピオンになり
しかも1階級(現在では2階級)重たいバンタム級でも日本チャンピオンとなった
カーンは
この勝利を祝し
白井に北区に300坪の土地を買い
家を建てて
白井にプレゼントした
ダド・マリノ

ダド・マリノは33歳
(白井は26歳)
左腕が右腕より2cm太く
左フックがすさまじく強い
まだ若き日
世界ランキング入りし
いよいよというときに
第2次世界大戦が始まり
海兵隊に召集され
太平洋で日本軍と戦った
戦争が終わったころ
マリノは若さを失っていたが
世界チャンピオンを追いかけ続けた
しかし
チャンピオンに逃げられたり
あからさまな地元判定で勝っている試合を負けにされたり
多くの悲運に見舞われた
しかしあきらめずに悲願を果たしたとき
マリノは33歳だった
そのマリノが来日し
白井とノンタイトル戦
(ノンタイトル戦は勝っても世界チャンピオンにはなれない)
を戦った
白井はフットワークとクリンチで接近戦を防ぎ
打たせずに打つボクシングに徹した
結果は2-1でマリノが勝った
しかし白井が世界チャンピオンと互角に戦ったことに日本中が驚いた
7ヵ月後
ハワイでマリノと再戦
これもノンタイトル戦だったが
2Rに1回
6Rに3度ダウンを奪い
7R、
マリノが2度倒れたところでタオルが投入され
TKO勝ちした
日本初の世界チャンピオン

マリノ-白井戦 特設リング(後楽園球場)
さらに5ヵ月後
チャンピオン:ダド・マリノと挑戦者:白井義男の
日本初の世界タイトルマッチが行われた
後楽園球場のグラウンドの真ん中にリングが立ち
それをを40000人の観客が囲んだ

日本国との平和条約に署名する吉田茂首席全権と全権委員
試合の3週間前
サンフランシスコ講和条約が発効
アメリカ軍の圧倒的な物量に
全国が焼土と化してから7年
日本は外国の占領から解放され主権を回復した
試合前、カーンはいった
「日本は戦争で負けた
今日本が世界に対抗できるのはスポーツしかない
ヨシオ、君は自分のために戦うと思ってはいけない
それだけでは苦境を乗り越えられない
君はこの試合で勝つことで
敗戦で失われた日本人の自信と気力を呼び戻すのだ」
控え室を出て通路を歩きだしたとき
全身が総毛立ち足元が震え出した
しかしリングに上がった瞬間
こわさはうそのようになくなった
試合は徹底的にアウトボクシングで戦ったが
7R、
マリノの左フックで白井は2mも飛ばされ
立ったまま脳振盪を起こした
辛うじてゴングに救われたが
まるで夢遊病者のようにコーナーに戻っていった
「ビシャ!」
カーンは朦朧としている白井の背中を大きな手で叩いた
「ウエークアップ、ヨシオ」
ハッ!と我に返った白井は
フルラウンドをマリノを攻めて戦い抜き
判定で勝った

白井の勝利に日本は歓喜した
戦争で青春を奪われた白井が世界チャンピオンになったことは
敗戦で自信を失っていた日本にどれだけ希望を与えたか計り知れない
また30年に及ぶ日本ボクシング界の悲願が達成された

リングを降りて控え室に向おうとする新王者白井を一目みようと通路脇に観客が押し寄せた
そこで館内放送が流れた
「押さないでください、押さないでください
白井は疲れております、白井は、大変疲れております」
それを聞いた人々はその場で立ち止まり
リングを後にするヒーローの純白のガウンを満場の拍手で送ったという
タイトル喪失、引退

その後、白井は当時のフライ級の記録である4度の防衛に成功
5度目の防衛戦の相手はパスカル・ペレス
ロンドンオリンピックで金メダルを獲得後
プロでも22勝1分
白井は
15Rフルに戦い判定で負けた
9Rにバッティングを受けて以後の記憶がなく
夜、自宅に帰って悲しげな家族の顔をみて負けを知った

半年後のリターンマッチでも
5R、KOで負けた
白井はこの後引退した

カーン博士は
ある試合で後楽園を埋めた大観衆を指差して白井にいった
「ヨシオ
大事にしなければならないファンは
ほら1番上段にいる300円席の人たちだよ
リングサイドの人はヨシオに限らず誰の試合でも足を運ぶだろう
だがあそこにはシライだからこそ来てくれたファンがたくさんいるのだ」
それは本当だった
引退後も白井を愛してくれたファンの多くは300円席の人たちだった
絆

カーン博士は
白井の引退後も白井家で暮らした
晩年、認知症を患ったが
白井は自宅で家族同然にサポートし
最期まで看取った

白井は引退後も
チャンピオンとはこうあるべしというような生活を送った
ボクシングの解説者として
スマートで冷静だったが
根底にはボクサーに対する温かい愛情が感じられた
また実業家としても成功したが
決して荒っぽいビジネスはせず
「裏」の世界と近づくこともなかった
白井義男がクリーンであり続けたため
ややもすれば荒っぽくなりやすいボクシング界は親しみと尊敬を得た
白井・具志堅スポーツジム

白井・具志堅スポーツジム
白井義男と具志堅用高が
アートネイチャーの支援を受けて「白井・具志堅スポーツジム」を設立した
白井は名誉会長、具志堅は会長である
最後までボクシング一筋の人生だった

白井義男(80歳)、肺炎のため死去
2003年12月26日
病室でも最後までボクシングのことを気にしていたという
最後までボクシング一筋の人生だった