1999年『TIME(タイム誌)』で「20世紀で最も重要な・偉大な100人」に選ばれたブルース・リー

人々の記憶に強く残る人物と英雄(Icons and Heroes) 部門20人の中のひとりに選ばれた
タイム100「20世紀で最も重要な・偉大な100人」【タイム誌(TIME)】世界ランキング統計局
『ドラゴン』シリーズの映画で一躍有名になったブルース・リー。
戦闘中の甲高い声やヌンチャクさばきなどが、多くの人々の記憶に焼き付いています。
32歳の若さで早逝し、主演映画はわずか5本。
けれどそのすべての作品が、爆発的にヒットしました。
それらの映画の軸となる「格闘シーン」で表現された武術は、決して娯楽向けに作られた演技の「闘うまね」ではなく、ブルース・リーが全人生をかけて創り上げていった本物の実践格闘技『ジークンドー』でした。
俳優の顔ばかり注目されがちですが、武道家としてのブルース・リーと、彼が創り上げた『ジークンドー』に焦点を当ててみたいと思います。
ジークンドーとは
截拳道(ジークンドー)について - ブルース・リー・ジークンドー正統継承 IUMA日本振藩國術館
ブルース・リー・ジークンドー正統継承 IUMA日本振藩國術館
ジークンドーの基本的な戦術についての解説と実演
百聞は一見にしかず。
まずは、基本的な戦術を解説・実演した動画をご覧ください。
実演されている中村頼永さんは、ブルース・リー財団日本支部の最高顧問の方です。
「軍師官兵衛」で、黒田官兵衛役を演じられたV6の岡田准一さんが、ジークンドーを習われていることは知られていますが、岡田さんはこの中村頼永さんに師事しています。
ひとつひとつの動きに無駄がありません。
8:21の動画なので、観る前は長いと思うかもしれませんが、動きに思わず引き込まれていきます。
7:40あたりから始まるのは、詠春拳をもとにした動きです。
瞬きする暇もないほど、流れるように早い手の動きを是非ご覧ください。
次の動画は、実際の映画のシーンに使われた戦術を、実演・解説しながら再現しています。
動きの意味がわかった上で、再度、映画を観るととても面白いです。
ジークンドーの格闘理論〜6つの基本攻撃戦術 - ブルース・リー・ジークンドー正統継承 IUMA日本振藩國術館

詠春拳との出会い
ブルース・リーは、中国名・李振藩(リージュンファン)。
父親も俳優で、幼い時から父と共に香港映画に出演していました。
幼い頃から有名人でケンカが強かったので、相当、鼻っ柱の強い少年だったようです。
ところが、13歳の時、クンフー(中国武術)の遣い手に打ち負かされて、プライドを粉々にされてしまいます。強くなりたい一心で、クンフーの達人、葉問(イップ・マン)に弟子入りしました。

イップ・マンのもとで、『詠春拳』を学ぶブルース・リー。
余分な力を抜き、流れるように動けるように修練するのが詠春拳ですが、「勝とう、勝とう」と力を入れるブルース。
イップマンは「リラックスして相手に沿う」ことを教えました。

クンフー(中国武術)を伝統から引き離し、進化させようとした
渡米後、ウエイターやチラシ配りをしながら英語を勉強したのち、大学に入学。
「ぼくはアメリカでクンフーを教える最初の人間になる」と言って、『振藩國術館』を開設します。

当時、クンフーは中国人だけの秘伝の技で、暗黙のルールで、クンフーを他民族に教えてはならないとされていました。
けれど、ブルース・リーは誰にも分け隔てなくクンフーを教えたのです。
さらにはクンフーそのものも、伝統から引き離し、進化させようと考えました。
様々な格闘技の優れた技術をリサーチし、良いものは取り入れる
ブルース・リーは、詠春拳の動きを基本にして、ボクシングやレスリングをはじめ、日本の柔道、韓国のテコンドー、ムエタイ(タイ式キックボクシング)、フェンシング、空手など、様々な格闘技の優れた技術を吸収し、取り込んでいきました。
一説によると、格闘技に関する書籍だけでも2000冊以上所蔵し、28種類もの格闘技の技術を取り入れたと言われているそうです。

ボクシング

柔道

テコンドー

フェンシング
目的に合わせたウエイトトレーニングを、いち早く試して導入
xfit—体づくり、フィットネスのためのトレーニング・栄養情報 - 永遠のスーパースター、ブルース・リー

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サプリメントや栄養摂取の進歩的な実践

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ジョー・ウイダーは、「ボディビルの神様」と称され、「ミスター・オリンピア」(国際的なボディビル大会)を主宰しています。そしてウイダー社(アメリカ)は、創始者「ジョー・ウイダー」に由来するブランドなのです。
私たちが現在気軽に購入しているウイダーは、「健康事業」のノウハウを持たない森永製菓が、1983年10月にウイダー社との業務提携をして販売し始めたのが最初です。
始めは「プロテインパウダー」が中心でした。
ジョー・ウイダーは、「食を制した者が勝者になる」と提唱し続けました。
ブルース・リーは、40年以上も前に、こんなにも健康や体づくりに関する高い意識を持ち、得た知識や情報を 実践していたのです。
無いものは自分で創り出す『オープンフィンガーグローブ』

「30年先」を行っていた!ブルース・リーの凄さ | タイケンダン

現在販売されているオープンフィンガーグローブの一例
様々な思想や知識を勉強し、自分の技術に重ね合わせていく


宮本武蔵『五輪の書』
ジークンドーのシンボルマークの意味
今までみてきたような、心技体それぞれを高めていく過程を、ジークンドーではシンボルマークにして表現しています。

JKDのシンボルマーク
ジークンドーの理念 - ブルース・リー・ジークンドー正統継承 IUMA日本振藩國術館
修練と発展の3段階
このシンボルマークは、次の3つの段階を表現しています。

Partiality, 部分性

Fluidity, 流動性

Emptiness, 空
これが、ブルース・リーが考えたジークンドーの道のりであり、これを極めることが「道」そのものなのです。
水のように生きる
ブルース・リーは亡くなる1年くらい前に「究極の真実は自分に勝ち、心の調和をはかることだ」と述べています。
そのためには、水のように生きることが永遠のテーマだとも言っていました。
水は時に静かに流れ、時に激しく硬いものすら打ち砕きます。
あらゆる状況に合わせて形を変えながら、けれども本質は変わらない水。
ブルース・リーが求めたのは、この「水」になることだったのです。
ブルース・リーと映画
1971年、30歳になった時、ブルース・リーは香港に拠点を移します。
ジークンドーを教えるかたわら、ハリウッドで俳優業も続けていましたが、当時のハリウッドには、アジア人に対する見えない壁があり、アジア人は絶対に主役になることができませんでした。25~30歳までのブルース・リーは、俳優業においては「本当に表現したいもの」をすることができなかったのです。
「クンフー映画のおひざ元で、ハリウッドをあっと驚かす作品を作る!」という野心に燃えて、『ドラゴン』映画制作に取り組んだのでした。
『ブルース・リー』の伝説:『燃えよドラゴン』(日本では1973年公開)から始まる「ドラゴンシリーズ」と後世への影響 - Middle Edge(ミドルエッジ)
『ドラゴン危機一髪』は香港映画史上空前の大ヒットになりました。
脚技の速さから、「脚三李」(足が3本に見える)と、新聞に評されたほどでした。
2作目『ドラゴン怒りの鉄拳』、3作目『ドラゴンへの道』も大当たり。
特に3作目の『ドラゴンへの道』は、製作・監督・脚本・主演・武術指導の5役をこなしました。クライマックスの、アメリカ空手チャンピオンとの7分間の死闘は、世界の映画史上最高の格闘シーンと言われています。
わずか2年足らずの間にトップスターに駆け上がっていきました。
けれどブルース・リー自身は、まわりの興奮を冷静に見つめていました。
次の動画は、その頃の心境を語ったものです。
動画の最後に、ブルース・リーがこう語っています。
『だから米国では、本物の東洋を見せてやると決めたんだ』
『ドラゴンへの道』の後、ハリウッドから映画の共同制作話が持ち込まれ、すでにスタートしていた『死亡遊戯』の制作を中断し、『燃えよドラゴン』の撮影に入るのです。
『本物の東洋』
この言葉通り、武道家としても俳優としても、人生の総決算となる作品になりました。
この時期のブルース・リーの武術が、いかに常人離れしたものであったか、是非この動画をご覧ください。
『燃えよドラゴン』は完成しましたが、1973年7月20日にブルース・リーは亡くなり、彼がこの映画の、世界中での大ヒットを知ることはありませんでした。
けれど「20世紀で最も重要な・偉大な100人」に選ばれるほど、彼の遺した映画とジークンドーが人々に与えた影響は大きかったのです。
偉大なる武道家に敬意を表したいと思います。