背番号「22」の由来
佐々木投手は、東北高校、東北福祉大学を経て、1990年、当時まだ球団名が「大洋ホエールズ」だった横浜へドラフト1位で入団します。ちなみに佐々木投手の「背番号22」は、佐々木投手の誕生日である2月22日午前2時22分生まれ(1968年生)が由来しているのです。入団から引退まで佐々木投手の背番号は一貫して22番でした。

若き日の佐々木投手と谷繁捕手
「大魔神」の誕生
入団当初、佐々木投手は先発に回ることもありましたが、1991年シーズン、それまでクローザーを務めていた遠藤一彦投手が故障の為戦線離脱。代わって佐々木投手が抑え投手として定着します。
その後、1992年に初めて最優秀救援投手を受賞。
(この年、中継ぎの盛田投手から佐々木投手への継投リレーが確立)
93、94年は故障により思う様な成績を挙げられなかったものの、95年に32セーブを挙げて見事に復活します。
※結局佐々木投手は、92年、1995~1998年と、通算5度の最優秀救援投手を受賞しています。

この形相からついたあだ名は「ハマの大魔神」
佐々木投手の持ち球は、150km/hの速球に加え、140km/h弱のスピードを保ったまま鋭く落ちるフォークボールのほぼ2種類。これに加えてカーブも一応ありますが、ごくたまに投げる程度。
打者としては「ストレート」か「フォーク」の2択に的を絞っていればいい・・・はずなのですが、それが全く打てないのです。前述した様に佐々木投手のフォークボールは速球同様の回転と速度で向かってくるので、投げた瞬間、打者からは球種を判別しづらかったのです。
佐々木投手は,セットアッパーの盛田幸妃投手とともに、横浜の守護神として活躍。
他チームの首脳陣からは「横浜との試合は、盛田・佐々木の登板しない7回までが勝負」とまで言わしめました。球場全体から「佐々木投手が登板したら試合終了」という雰囲気が漂っていたのです。

盛田投手
近年の抑え投手に求められる条件として、常時145km/h以上の速球と、フォークボールなど縦の変化球を持っていることが最低条件だという要素は、佐々木投手による影響も大きいと言われています。
98年、横浜悲願の優勝
「佐々木投手が出て来たら負け」と、相手チームは覚悟していたものの、それは裏を返せば「佐々木投手を出さなければいい」というわけで、試合の序盤でリードされる展開が多かった横浜は、優勝から長い間遠ざかっていました。そして1998年、横浜にとって運命のシーズンを迎えるのです。

98年「横浜マシンガン打線」の個人成績
この前年の97年、横浜はシーズン後半、優勝したヤクルトを脅かす猛烈な追い上げを見せて2位で終わっていた事から、シーズン開幕前から横浜は優勝争いの「台風の目」になると言っていた評論家もいたのですが、開幕すると、石井琢朗、波留敏夫、鈴木尚典、ロバート・ローズ、駒田徳広、佐伯貴弘、谷繁元信、進藤達哉らの一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」が爆発。先発投手が多少点をとられてもマシンガン打線が8回迄に逆転し、9回を佐々木投手が抑えるという最強パターンが確立。勝利を積み重ねると一気に「ペナントの主役」に踊り出て、横浜は38年ぶりにリーグ優勝を果たします。
※ちなみに、この98年盛田投手は近鉄に移籍しており、そこで「脳腫瘍」が発覚していました。

リーグ優勝決定時の模様
この優勝した1998年の佐々木投手の成績は51試合に登板。1勝1敗45セーブ(防御率0.64)という脅威の成績でした。前身の大洋ホエールズ時代から数えて38年ぶりのセ・リーグ優勝に横浜は大フィーバー。そして西武ライオンズとの日本シリーズを迎えるのです。

横浜38年ぶりのリーグ優勝を伝えるスポーツ紙
マシンガン打線&大魔神、ライオンを粉砕!
1998年の日本シリーズ、1戦・2戦を横浜が、3戦・4戦を西武が取り、2勝2敗で迎えた第5戦。
横浜のマシンガン打線が西武投手陣を飲み込んでいきます。
日本シリーズでも第6戦で登板した佐々木投手は金村選手を併殺打に打ち取って胴上げ投手となります。
「ハマの大魔神」から「DAIMAJIN」へ
1999年にFA権を取得した佐々木投手はメジャー移籍が可能になります。前年の疲労の蓄積も影響していたのか、シーズン中に故障し戦線を離脱。この怪我の影響が懸念されたものの、オフにシアトル・マリナーズと総額1200万ドル+出来高3年(4年目は年俸500万ドルの球団オプション)という大型契約を結びます。

メジャー入りを表明
移籍1年目、佐々木投手はリリーフ失敗が続いた事から、中継ぎに配置転換されますが、クローザー役の投手の不調により再び抑えに復帰すると、最終的に当時のメジャー新人記録の37セーブ(2010年にネフタリ・フェリス投手が40セーブを挙げて更新)を挙げる活躍を見せ、ア・リーグの新人王に選ばれました。

シアトル・マリナーズ時代の佐々木投手
その後も、順調にセーブを積み重ねた佐々木投手は、2002年、史上最速となるメジャー通算160試合目での通算100セーブ到達を達成。オールスターゲームにも2年連続で選出されるなど、確固たる地位を築いていきます。2003年シーズンは2度の故障者リスト入り(1度目は、腰の張り。2度目は自宅で転倒し、右脇腹を強打した事が原因)した事により、不本意な成績に終わると、マリナーズとの残り1年契約を破棄して退団。6億5000万円の2年契約を結び、横浜に復帰します。
「一緒に暮らしたかった」のは・・・。
日本球界に復帰した理由を、佐々木投手は「日本で家族と一緒に暮らすため」と説明していた程、渡米を機に佐々木投手は夫婦間ですれ違っていました。加えて、タレントの榎本加奈子さんとの不倫関係、榎本さんの妊娠によって夫婦の関係修復は不可能になり、佐々木投手と前妻は離婚します。(2005年5月に榎本さんと再婚)

榎本加奈子さん
日本球界復帰、そして引退。
日本球界に復帰した2004年、佐々木投手の球威は全盛期と比べてかなり衰えていましたが、数種類に変化するフォークボールと絶妙なコントロールで安定した成績を挙げていました。ただ、リードした場面に限っての登板という起用法だった為、登板試合数は25試合。1勝2敗19セーブという年俸に対しては、かなり物足りない成績に終わりました。翌2005年、度重なる怪我の影響で不振を極め、佐々木投手は引退を決意します。
※この間に横浜の抑えに台頭したクルーン投手は、メジャーリーガーであり、憧れの存在でもあった佐々木投手からアドバイスを受けたことによって開花したとも言われています。
現役引退を表明した佐々木投手は、「母親の前で投げたい」との希望により、故郷・仙台のフルキャストスタジアム宮城で行われた8月9日の巨人戦に登板。数多くの名勝負を繰りひろげてきた清原和博選手と対戦しました(結果は三振)。

最後の対戦打者は・・・
ただ、この対戦を実現させる為に、横浜はかなり変則的な投手起用を強いられます。
(普段は救援投手である秦投手を先発させ、清原選手の第1打席で佐々木投手を投入。佐々木投手は清原選手1人を打ち取ると降板。清原選手の打席後、改めて本来先発予定だった門倉健投手を登板させるという継投策)
「涙の対決」と感動を呼んだ一方で、シーズン半ばの8月に個人的な事情で登板した事は「チームの私物化」だと批判も呼びました。この事が影響してか、登板予定だったシーズンの最終戦に佐々木投手は登板せず、引退セレモニーのみで終わります。佐々木投手が現役中に対戦した最後の打者は、高校時代からのライバルで親友でもある清原選手だったのです。
佐々木投手の日米通算成績(NPB 12年・MLB 4年):50勝54敗381セーブ
大魔神から大馬主へ?
野球選手が引退した後、セカンドライフをどう過ごすか・・・という事が問題になっていますが、佐々木投手はその点で「大成功している」と言っていいのではないでしょうか。野球解説者としても活躍する一方で、佐々木投手は2006年11月にはJRAの馬主登録を行っており、20012年には所有馬のヴィルシーナ(栗東:友道康夫厩舎)がクイーンカップで1着となり馬主として初めて重賞競走を制覇。翌週の阪急杯でもマジンプロスパーが優勝。更に2013年5月12日、ヴィクトリアマイルでヴィルシーナが優勝し、初のGI競走制覇を果たすなど、馬主や競馬評論家としても活躍しています。
ちなみに一部の競馬ファンの間では佐々投手の予想は、現役時代と同じで「大当たりさせない」だとか、「タマ数が多い」(予想点数が多い)とも…。

加奈子婦人と愛馬と