出会い
ミー(本名:根本美鶴代・1958年3月9日生まれ)とケイ(増田恵子・1957年9月2日生まれ)。
静岡出身の2人。
出会いは、共に家庭の事情で転入した静岡市の末広中学でした。
コーラス部のミーとバスケ部のケイ。
同じ学校に通いながらも接点のないまま1年以上が過ぎました。
そして中学3年になって間もなく、2人に運命とも思えるのアクシデントが起こったのです。
ミーは、打ちこんでいたコーラス部が廃部になり、その後演劇部へ。
ケイは、バスケ部の練習中に転倒し、脊髄がずれる大怪我を負います。試合目前だったので怪我を隠して練習を続けてしまい、歩けなくなる程に症状は悪化。結局泣く泣くバスケ部を退部する事になりました。
そしてその後、ミーのいる演劇部入部しました。
こうして出会った2人。文化祭での演目で姉妹役を演じたことをきっかけに急接近し、やがて2人で同じ夢を追いかけ始めるのでした。
スター誕生!
中学を卒業した2人は、同じ高校に進学しました。
元々歌が得意だった2人はヤマハ主催のオーディションに出場して見事合格。揃って特待生としてボーカルスクールに通い始めました。
当時は「クッキー」という名のデュオで活動していましたが、プロ歌手への道は遠く厳しいものでした。
高校3年生。当時話題のテレビ番組「君こそスターだ!」に出場するも本線で敗退。
それでも『絶対にプロの歌手になる!』という強い気持ちで挑んだ「スター誕生」で見事に合格!
文字通り、後に日本中に大旋風を巻き起こすスターが誕生したのです。
ピンクタイフーン巻き起こる!
1976年8月25日 ピンクレディーがデビューしました。
作詞家の阿久悠、作曲家の都倉俊一、振付師の土居甫らがチームを組み、発売されたデビュー曲「ペッパー警部」が大ヒット!
当時のアイドルの主流は保守的。清楚で素朴でした。
そんな中、従来のアイドルとはまるで真逆のスタイルで現れたのがピンクレディーでした。
露出度の高い奇抜な衣装、斬新な曲、そして「太ももパカパカ」などと言われた大胆な振り付け。
日本中にピンクレディーフィーバーが巻き起こりました。
特に子供達は、ピンクレディーの歌は歌えて当たり前、踊れて当たり前。
『私ミーやる!』『私ケイやる!』と、教室の机を舞台に歌い踊りました。
その年の暮れ、デビューして間もないピンクレディーが、レコード大賞新人賞を見事受賞したのです。
大ヒット続出!全22曲 シングル一覧
人気絶頂期~アメリカ進出へ
ピンクレディーの人気絶頂期は、デビューした1976年からの1978年の2年間と言われています。
あらゆる賞を総なめ。オリコンでは通算首位獲得数63週という記録をたたき出し、それは後の2015年、B'Sが記録更新するまで破られなかったのです。
歌だけでなくバラエティー系の番組やアニメ。ブロマイドや数々のピンクレディーグッズが街中に溢れました。
しかし、1979年になると、時代はニューミュージックの全盛期に。
オリコントップ10には名を連ねるものの1位獲得はなりませんでした。
そんな中、アメリカ進出を果たしますが、日本のマーケットを無視したと叩かれ、人気は低迷していったのです。
解散
1980年9月1日、解散を発表。
解散理由については、様々な見解がありました。
人気の低迷。アメリカ進出によって日本のファンを失った。そしてケイが結婚したいがため(後に離婚しました)などなど。
でも、結局真相は明らかにされませんでした。
1980年3月31日、みぞれ交じりの冷たい雨の後楽園球場で、ピンクレディー解散コンサートが開催されました。
スタンドには空席が目立ち、人気低迷を裏付ける淋しいラストコンサートになりました。
活動期間は4年7カ月。
ピンクタイフーンは正に嵐のように駆け抜けていったのでした。
現在のミーとケイは?
アラシスでも綺麗!
はいっ!2人共現役で活動しています。
その後それぞれソロ歌手として活動し、再結成も何度もしています。
もうすぐ60に手が届きそうな2人ですが、幾つになってもセクシー衣装で大胆なパカパカダンスを披露して欲しいと思います。
改めて見つめ直したピンクレディー。
何故スーパースターに輝いたのか。
それは、ただ単に前例のないスタイルだったからではありません。
これほどバラエティーにとんだ曲をリリースし続けたアーティストは数少ないはずです。
そして何より楽曲の良さ、歌、ダンス、衣装、高いエンターテイメント性。
それらすべてが本物だから人々の心をがっちり掴んだのです。
当時は”誰でも歌えて誰でも踊れる”でした。
現在は”いつまでも歌えるいつまでも踊れる”です。
昭和のスーパースター!ピンクレディー!
是非!今また聴いてみてください!