5歳となったサクラバクシンオーであったが、脚部不安を発症し春は全休に充てる事となった。復帰戦は秋のオータムスプリントステークスだった。このレースを道中5番手・6番手で折り合い直線抜け出すという新境地を切り開き復帰戦を勝利した。1600m戦のアイルランドトロフィーは4着、次走キャピタルステークスを連覇した。そして、「この頃からいままで一本調子のレースしかできない馬であったが、折り合いがつくようになり溜が効きレースぶりに幅が出てきた」と小島騎手は語っていたという。境調教師も「脚元が弱かった馬が、調教をビシビシ出来るようになり、正に本格化」と語っていたという。
恩人への弔い合戦。スプリンターズステークス制覇へ
スプリンターズSの8日前に、サクラの冠名で有名な馬主の全演植が死去しており、サクラの馬をほぼ管理していた境調教師、専属契約を結ぶなど蜜月の関係であった、小島騎手はこのレースを「弔い合戦」といちづけて、人生で最高のパフォーマンスを見せる。
レースには昨年の2着馬で安田記念・秋の天皇賞と勝利をしてきたヤマニンゼファーや前年優勝馬のニシノフラワー等が出走していた。サクラバクシンオーはスタート後3番手の好位につけヤマニンゼファーの直後につける。直線に入りヤマニンゼファーを交わすと最後は2馬身差をつけ初G1制覇を達成した。
父のサクラユタカオーにとっても産駒の初制覇となった。
サクラ軍団総師全演植
6歳時
6歳となったサクラバクシンオーは、適距離外の1600m戦の安田記念を目標とされた。前哨戦のダービー卿トロフィーを完勝し、安田記念に臨む。安田記念は前年より国際G1となっておりこの年は5頭の外国馬が参戦してきていた。先頭から2番手でレースを進めたが、ハイペースに巻き込まれ直線半ばまで粘りこみを図っていたが、最後は後方の馬たちに交わされノースフライトの4着と敗れた。再度休養を挟み復帰戦は1800mの毎日王冠であった。毎日王冠でもハイペースで逃げる中直線半ばまで粘っていたが最後はネーハイシーザーの4着と敗れた。しかし、守備範囲外の距離をハイペースで逃げて4着に粘ったレース内容は高く評価できるものだった。
次走は再度短距離のスワンステークスに出走した。宿敵ノースフライトもそのレースにはいたが、好位から抜け出しサクラバクシンオーが勝利した。
1600m戦のマイルチャンピオンシップでは逆にノースフライトに先着され2着だった。
有終の美史上初の同一G1連覇へ
マイルチャンピオンシップ後、次走のスプリンターズSでの引退が発表されていた。スプリンターズSも国際G1となり外国馬も参戦していた。そんな中、サクラバクシンオーは好位4番手を進みこれまた前半600mが32秒というハイペースであったが直線楽に抜け出し有終の美を飾った。最後は小島騎手が手綱を緩める余裕があった。レース後小島騎手は「レコードでこれだけの完勝をするのは大したもの、世界中を探してもこの時のバクシンオー以上の馬はいない」とも語っているほどであった。
晩年のライバル
種牡馬として
まとめ
全11勝すべてが1400m以下という、スプリントのスペシャリストだったサクラバクシンオーは、脚部不安とも戦いながら周りの人に支えられ本格化した。また、レースぶりも好位から直線抜け出す王道競馬で見ているファンいどこか安心感を与えてくれるうまであった。当時は高松宮記念もなく、もう少し遅く生まれていたらもっと多くのタイトルを取っていたであろう。種牡馬としてもその遺伝子をいかんなく発揮しており、正に日本に革命をもたらせた電撃のスプリンターそれがサクラバクシンオーだ。