アメリカで生まれ、日本へ
エイシンプレストン
父 グリーンダンサーは名馬ニジンスキーの直仔で、凱旋門賞馬のスワーヴダンサー等を輩出している。
アメリカで生産されたのちに、日本の栄進堂によって購入され日本にやってきた。
名前の由来は冠名の「エイシン」+「アメリカの地名」
日本代表するオーナー平井豊光
平井豊光 - Wikipedia
デビュー3戦目にしてG1馬へ
エイシンプレストンのデビューは1999年の11月の京都競馬場だった。初戦は2着となったが、折り返しの2戦目で初勝利をあげる。そのレースぶりから管理していた北橋調教師は1勝馬でありながら、次走をG1の朝日杯3歳ステークスにした。1999年は混戦模様で、新馬戦を勝ったばかりのエイシンプレストンだったが、4番人気に支持されていた。レースでは直線抜け出した公営競馬所属のレジェンドハンターを内から差し切り見事3歳のトップに立った!!
鞍上は福永祐一騎手。当時はデビュー3年目で、春に桜花賞で初G1を獲り、暮れに朝日杯3歳ステークスと活躍した年だった。エイシンプレストンの手綱は全て福永騎手がとっている。
ちなみに、北橋調教師とは師弟関係である。
福永祐一 - Wikipedia
マイル戦に高い適正を見せた4歳春シーズン
朝日杯3歳ステークスを制し、王者として迎えた4歳。外国産馬のためクラシックレースには出走できなかったが、NHKマイルカップを目標に、きさらぎ賞から始動した。きさらぎ賞では初の1番人気に支持された。しかし、1800mという初距離と休養明けという事がこたえたのか、8着とこれも初めて掲示板外へと沈んでしまった。しかし、その後のアーリントンカップ、ニュージーランドトロフィーと1600m戦の重賞を連勝し、マイル戦への高い適正を示し、本命場として目標のNHKマイルカップへと向かうよていだったが、レース前に骨折が判明し、休養へと入った。
もがき続けた4歳秋~5歳春
骨折の程度は比較的軽く、秋前には厩舎に帰厩しスワンSから秋の短距離路線へと向かった。休み明けのスワンSを6着とし、次走マイルチャンピオンシップでは歴戦の古馬と対戦であったが、春に見せていた高いマイル適正から4番に人気に支持される。しかし精彩を欠き、5着と敗れる。その後、一息入れ年明けの京都金杯で14着、新しい活路を見出すためダート戦の根岸Sに出走したが12着と少しずつリズムが崩れていった。
そのリズムが戻らないまま、5歳春シーズンも中山記念、ダービー卿、京王杯SC、安田記念・・・と重賞路線を果敢に挑んだが、一年前の輝きが戻ることはなかった。
復活の兆し
そんな状況を打破するために、エイシンプレストンは夏場も休養に出されることなく厩舎に置き
調整をする事が決まった。これが良いきっかけとなり、安田記念大敗後に出走したOP特別で、一年以上ぶりに勝利を飾り、続く北九州記念で連勝と3歳王者の輝きが戻り始めた。その後も秋に向けてコンスタントに使われ、関屋記念3着、毎日王冠1着とし、秋のマイルチャンピオンシップに向かう。2番人気に支持されたエイシンプレストンは直線抜け出しを図る、ゼンノエルシドを猛追するが届かず2着となった。しかし、4歳秋のスランプは完全に脱した。