日米通算300セーブを記録!記録にも記憶にも残る名投手!!
学生時代はそれほど目立つ存在ではなくエースに隠れた控え投手だった。しかし、ヤクルトスワローズに入団すると、師匠・野村監督や長年バッテリーを組むこととなる古田敦也にもまれながら、魔球・シンカーをマスターし、クローザーとして活躍。メジャーに渡ったあとは、好不調を繰り返し、古巣のヤクルトや海外を含め多くのチームを渡り歩いた。高津の野球人生を振り返る。

高津と言えば、ヤクルトのユニホームと、このピッチングフォーム
常に控え投手だった高校・大学時代
1968年、広島に生まれた高津は子供ころ広島東洋カープのファンだった。高校は広島工業高校へ進学。3年生を迎えた1986年は、広島商業や広陵などの名門校を抑え、春夏共に甲子園に出場を果たす。選抜では、高村祐(近鉄)を擁して準優勝した宇都宮南に準々決勝で敗退。夏の甲子園では高校通算83本の本塁打を記録した鈴木健(西武-ヤクルト)がいた浦和学院に3回戦で敗れる。しかし、この時、エースにはのちに明治大から中国放送に入社した上田俊治がいて、高津は2番手投手だった。甲子園本大会での登板はなく、代打のみの出場に終わる。しかし、県予選では4試合に登板して、2完封を収めるなど実力の片りんは見せていた。
卒業後は亜細亜大学に進学。この時も同期に、1990年のドラフト会議でプロ8球団から指名を受けることになる小池秀郎(近鉄-中日など)が左のエースとして君臨しており、高津は2番手投手だった。しかし、それでも2番手投手として1990年の東都大学リーグでは春秋連続優勝に貢献。ちなみに、このときの3番手投手はアンダーハンドスローの川尻哲郎(阪神-近鉄)だった。

個性的な投球フォームは学生時代から
小池がロッテの指名を受け、拒否した1990年秋のドラフト会議で高津はヤクルトスワローズから3位で指名を受け、入団する。
日本一の胴上げ投手4度!ヤクルトスワローズ黄金時代を支える
ヤクルトスワローズは、この1990年から野村克也が監督に就任。この年は5位に終わったが、前任の関根潤三監督時代に入団・育成した若手選手が徐々に力をつけ始めていた。
入団当時の高津は先発投手として期待されており、その期待に応えるように1年目の1991年9月12日、対大洋ホエールズ戦ではプロ初勝利を初完投で飾ってみせた。翌1992年も開幕から先発ローテションの一角に食い込み、6月17日の阪神戦までに5勝を挙げる活躍。しかし、その後は打ち込まれるシーンが増え、チームが14年ぶりのリーグ優勝を争ったシーズン終盤や西武との日本シリーズにも登板機会はなかった。
翌1993年からは先発ではなくリリーフとしての登板する機会が増え、シーズン序盤ストッパーを担っていた山田勉が不調に陥ると、代わって9回の締めを任されることが多くなった。結果この年はチーム記録を塗り替える20セーブを挙げるだけでなく、2年連続同じ顔合わせになった西武との日本シリーズでは3登板5回自責点0、3セーブを挙げる活躍で優秀選手に輝くと共にチームを日本一に導き、胴上げ投手となった。

感動の日本一!
この年を境にスワローズの不動のリリーフエースに定着。1994年には最優秀救援投手のタイトルを獲得。1995年には自己新となる28セーブをマーク。二度目の日本一に輝き、再び胴上げ投手の役目を担った。1996年はチームが4位に沈むのと合わせるかのように21セーブにとどまる。1997年は序盤不調に泣き、高速スライダーの使い手・伊藤智仁にクローザーの座を一時的にゆずると、先発に配置換えされても結果が出ない日々が続いた。夏場以降、中継ぎでコツコツ投げていくうちに調子を取り戻し、チームは野村政権下で4度目のリーグ優勝。日本シリーズでは3度目の胴上げ投手となった。
1998年は開幕直後からリリーフ失敗が相次ぎ、調子を上げることなくシーズン終了。リリーフ定着してから最低の3セーブに終わり、チームが再び4位に沈む要因となってしまった。監督が若松勉に代わった1999年は復活し、自己新の30セーブを記録。2度目の最優秀救援投手を受賞する。2000年も29セーブをマーク。さらに2001年は序盤こそリリーフ失敗による引き分け、サヨナラ負けなどもあったが、5月からは完全に調子を取り戻し、最終的には37セーブをマークし、三度目の最優秀救援投手を獲得。チームの4年ぶりのリーグ優勝・日本一に大きく貢献し、4度目の日本一の胴上げ投手にもなった。
シンカーだけではない!高津を支えたハートの強さ!!
1995年、オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズ第3戦。野村監督は3対4と1点負けている段階で高津を投入。前年に21歳の若さで210本のヒットを放った天才打者・イチローの初対戦を迎えます。初球はベースの真ん中を通過したようにみえる絶妙なシンカー。なんと、これが外に外れているとボールと判定されます。2球目は明らかなボール。2ボールとカウントを悪くしてしまいました。しかし、ここからが高津の真骨頂。打者有利のカウントで、プロのレベルからすると、さほどスピードのない真っ直ぐをド真ん中に決めていくのです。この強気な攻めこそ、高津を長年支えたのでしょう。
アフロヘアなくして高津は語れない!ファンを飽きさせないエンターテインメント

なぜかキャンプ地でクリスタルキングの「大都会」を熱唱
高津と言えば、当時の明るいイケイケスワローズを象徴する存在でした。特に、アフロヘアのかつらをつけ、クリスタルキングの「大都会」を熱唱する様は大きくウケて、春季キャンプでも披露。その様子は何度も珍プレー好プレーでオンエアされた記憶があります。
2002年には32セーブ。2003年には34セーブを挙げ、4度目の最優秀救援投手を受賞。オフにFA権を行使して、シカゴ・ホワイトソックスに入団する。
喜びと苦しみを味わったメジャー~日本復帰まで
メジャーデビューは2004年4月9日のニューヨーク・ヤンキース戦。相手は12年前にプロ初ホームランを献上した松井秀喜だった。当初クローザーは別の投手だったが、高津が無失点を続けたためクローザーの役割を担うこととなる。
最終的には19セーブを記録。監督のオジー・ギーエンから「マリアノ・リベラでも連れてこない限り、シンゴは我々にとって最高のクローザーだ」とコメントしたほか、アメリカのスポーツ専門チャンネル・ESPNが選出した「お買い得だったFA選手ベスト10」で7位にランクインするなど各方面から称賛を浴びた。
翌2005年は開幕からクローザーを任されるも、クリーブランド・インディアンス戦で1イニング3本塁打を浴びるなど、リリーフ失敗が続き、8月にチームを解雇された。8月12日にはニューヨーク・メッツとマイナー契約。9月1日にメジャー昇格を果たすがオフにFAとなり退団する。

実力でクローザーを獲得するも栄光は長続きせず…
2006年、ヤクルト時代の相棒・古田敦也がプレーイングマネージャーとして監督に就任すると、入団テストを経てヤクルトに復帰。シーズン当初は中継ぎとしてのスタートだったが、当初クローザーを務めていた後輩の石井弘寿、五十嵐亮太が故障で離脱すると高津が代わってクローザーを担い、チーム最多の13セーブを挙げた。
2007年は開幕当初からクローザーを任されるが失敗も目立った。さらに6月30日に宿舎で転倒し、足の指を骨折。戦線離脱する。復帰後も救援失敗を繰り返し、チーム最終戦の翌日10月10日、戦力外通告を受けた。戦力外通告がチーム最終戦の翌日ということで、高津がファンに対するメッセージ等を送る機会が設けられなかったことについて、チームを長年支えた功労者に対して、あまりにも冷たいのではないかという声がファンから上がった。高津は現役続行の意思を明確にしていたが、12球団合同トライアウトへの参加はしなかった。
現役にこだわり続け、世界を股にかけた晩年
国内球団からのオファーがない中、2008年には再びアメリカに渡り、シカゴ・カブスとマイナー契約。しかしオープン戦で結果を残せず戦力外に。また古巣のシカゴ・ホワイトソックスの入団テストを受けるも不合格となった。6月、今度は韓国に渡り、ウリ・ヒーローズと契約。4人目の日本人選手としてプレーした。8セーブ防御率0.86と好成績を挙げたが、外国人野手を獲得する球団の意向があり、退団。
2009年は5月にメジャーのトライアウトに参加。サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約。しかしメジャーに昇格することはなかった。
2010年は台湾の興農ブルズと契約。MLB(アメリカ)、NPB(日本)、KBO(韓国)、CPBL(台湾)の世界4つの地域でプレーした初めての日本人選手となる。チームの前期優勝に貢献するが、11月26日契約打ち切りが発表される。

現地では大きな注目を集めた台湾への渡航
2011年は日本の独立リーグに所属する新潟アルビレックスBCに入団。名球会会員が独立リーグでプレーするのは初めてのことだった。翌2012年は選手兼監督に就任。8月31日、この年限りでの現役引退を表明。9月22日に引退試合を行った。同年限りで監督も勇退。
2013年からは解説者を務め、2014年からは東京ヤクルトスワローズの1軍投手コーチに就任。2015年には、弱体と言われた投手陣をリーグ1位の防御率に回復させ、14年ぶりのリーグ優勝に貢献した。

2015年にはピッチングコーチとしてリーグ優勝に貢献!