典型的な近親配合
フサイチコンコルド
1993年に生まれ。いわゆる「持ち込み馬」である。
母バレークイーン 父カーリアン
父カーリアンはヨーロッパで供用され日本に輸入された中には、シンコウラブリィ、エルウェーウイン、ビワハイジなどがいる。
母バレークイーンは現役時代不出走で繁殖牝馬となっている。
フサイチコンコルドの母・父ともにノーザンダンサー系の馬でしかも祖父が共通するというかなり濃い配合であった。このような近親配合場合は優れた能力が強く遺伝するが半血が濃い分虚弱体質になる事が多く、日本ではあまり好まれない配合であった。
そして、またフサイチコンコルドも洩れることなく極度の虚弱体質であった。
しかし、フサイチで有名な関口氏の目にとまり、栗東の小林稔調教師に預けられる事となった。
豪快なオーナー関口房郎氏
フサイチの馬を語るうえで欠かせないのはオーナーの関口氏だろう。
ファンサービス精神も旺盛で豪快なオーナーだった。

関口房朗 - Wikipedia
遅れたデビュー戦
フサイチコンコルドのデビュー戦は遅く、3歳の1月京都競馬場であった。1番人気に支持されたフサイチコンコルドはデビュー戦を勝利する。しかし、フサイチコンコルドには弱点があった、栗東への輸送中に肺炎になり、その影響からくる「逆体温」である。

逆体温
普通、競走馬は午前中に体温が低く、午後に体温が上がる。これが逆転してしまう症状の事。逆体温になると狙い通りに体調の調整が出来ず、狙い通りのローテーションを組む事が出来にくくなる。
己との闘い。ダービーまでの道のり

デビュー戦勝利後、フサイチコンコルドは3月のすみれSを快勝する。この時点で、賞金的に皐月賞への出走を可能とした。しかし、小林調教師は虚弱体質で逆体温持ちのフサイチコンコルドを無理に何度も輸送することは危険と判断し、皐月賞を回避し目標を日本ダービーに設定をする。そして、その年に新設されたダービートライアルのプリンシパルSに向け調整された。しかし、東京へ輸送後に熱発を発症し、同レースを回避した。この回避によりダービーへの出走が微妙な立場となった。同じ馬主のフサイチシンイチは賞金的にダービーへの出走が可能であったが、小林調教師・関口氏共にシンイチを出走回避してでも、コンコルドを出走させたいと考えていた。そして、何とか2頭とも出走が可能となったが、東京への輸送でまたもや熱発を発症し、一時期出走回避を考えるなど直前まで己との闘いがあった。
そして、競馬の常識を覆す
そして迎えた日本ダービー。
1番人気はダンスインザダーク、2番人気ロイヤルタッチ、3番人気イシノサンデーと続いた。キャリアわずか3戦、臨戦過程が嫌われて、「西の秘密兵器」といわれたフサイチコンコルドは7番人気だった。
スタート直後は少し後ろのポジションを取った。1番人気のダンスインザダークは先行三番手。これをみた藤田騎手が向こう正面でポジションをあげる。3コーナーではダンスインザダークの後ろにつけ直線へ。先に抜け出しを図るダンスインザダークを見てラストスパートしたフサイチコンコルドは藤田騎手の渾身のムチに答えゴール前で見事差し切りを見せる。
わずか3戦での日本ダービー制覇!日本競馬の常識が覆された。
この偉業を成し遂げたフサイチコンコルドをファンは「和製ラムタラ」と異名をつけた。

欧州三冠馬ラムタラ
ラムタラ - Wikipedia
二冠を目指して

ダービー後は、2冠目を狙い菊花賞を目標とする。しかし、虚弱体質は相変わらずで、ステップレースとしていた京都新聞杯を予定していたが、調整が間に合わず翌週のカシオペアSへ出走。ここで2着と初黒星となる。続く菊花賞では直線抜け出すもダンスインザダーク、ロイヤルタッチに交わされ3着となった。その後は脚部不安を発症しわずか5戦での引退となった。
種牡馬時代
おわりに
わずかキャリア3戦でのダービー制覇この衝撃は今でも忘れられない。また、対照的だったのが2着ダンスインザダーク騎乗の武豊騎手だ。この当時数々のG1を勝っていたトップジョッキーだったがダービーは勝てずにいた。そんな中最大のチャンスが訪れていたはずである、しかし音速の末脚に屈する事となった。この辺が競馬の面白さであり難しさなのかと痛感させられたそんなレースだった。そして、虚弱体質に悩まされながらも競走馬の頂点に立ったフサイチコンコルド凄さは私の記憶から消えることはないだろう。