期待されていなかった育成時代
ヒシアマゾンはケンタッキー州のテーラーメードファームで生まれた。
母ケイティーズ 父シアトリカル。母は「ヒシ」の冠名で有名な故・阿部雅一郎さんがアメリカで購入し、テイラーメードファームに残してきた馬である。
ちなみに当初は、ヒシアマゾネスという馬名で登録しようとしたが却下された為、ヒシアマゾンになったといわれている。
兄のヒシアリダーは雄大な馬体を持ち、周囲の評判は高かった。しかもヒシアマゾンの配合は阿部氏がニアークティックの4×3のインブリードに拘ってシアトリカルをつけた。配合のプロではない阿部氏の決断に反対の声は多かったという。また、生まれたばかりのヒシアマゾンは小さくひょろっとしていた。
日本に来て千葉の大東牧場に預けられ、育成を進められた。その間に阿部氏でさえ一度も顔を出す事がなかったという。それほど周囲からは期待されていなかった。
ヒシアマゾンの生みの親 阿部雅一郎
入厩そしてデビューへ
関東の中野隆厩舎に入厩したヒシアマゾンだったが、当時の助手は「脚元が危なくて競走馬としてデビュー出来るか不安だった」と語っている。しかし、馬体は悪くなく脚元の具合を見ながらの調教となった。調教を積んでいくうちにグングン動きが良くなり、周囲の評価も変わってきたがG1を取るほどとは思われていなかった。そして、デビュー戦を迎える。未だ脚元の不安が解消されていない為、ダート1200m戦でのデビューtとなった。デビュー戦は1番人気に推され、ゴール前で何とか交わしデビュー勝ちを収めた。しかし、中野調教師は「ダート向きではないと思っていたが、もう少し楽に勝てると思った」と落胆していたという。2戦目もダート戦を選び2着、3戦目で初芝を使い2着とした。初芝・初重賞挑戦した3戦目はヤマニンアビリティの強襲にあっていしまったが、調教師・騎手ともに「芝のほうが断然イイ!」という評価だった。
3歳牝馬NO.1へ
中野調教師は迷うことなく、3歳牝馬NO.1決定戦の「阪神3歳牝馬S」の出走を決める。この頃には脚元の不安は解消されており、万全の態勢で出走できた。ヒシアマゾンは2番人気に推された。しかし、レースでは4コーナーで先頭に立つと一気に加速をしそのまま後続に5馬身の差をつけての圧勝だった。タイムもその当時の3歳レコードと申し分ないレースで3歳牝馬の頂点にたった。
鞍上の中舘騎手も「今日はただ乗っかっていただけ」とレース後に語っている。
快進撃の始まり
当時のルール上外国産馬は出れるレースが限られており、ヒシアマゾンは距離適性等は関係なくレースに出走する事になる。そしてまたそれは快進撃の始まりでもあった・・。
年明けの京成杯では中舘騎手への洗礼が待っていた。わずか8頭立てではあったが外から完全にフタをされ完全に進路を失う。前が空いて猛然と追い込むが時すでに遅しだった。この経験で鞍上の中舘騎手は腹をくくり、ヒシアマゾンの「少しの不利があっても外を回し力でねじ伏せる」というレーススタイルが確立され、後の快進撃へと続いていく。
異次元な末脚をみせたクリスタルC
異次元とも呼べる末脚だった。本質的には1200m戦では追走が苦しいと言われていた通り、道中は追いどうしで直線に向いても7~8番手、先頭を行くタイキウルフとの差は絶望的な距離だった。しかし、残り100mを切ったところから一気に差し切りを決めてしまった。タイキウルフが止まっていいるように見えたが、レースのラスト1ハロンは11秒8。正に異次元の末脚を見せつけたレースだった。
重賞6連勝の偉業へ
クリスタルCの後ニュージーランドトロフィーも快勝したヒシアマゾンは秋の大目標「エリザベス女王杯」へと向かう。秋初戦のクイーンS不安材料は2000mの距離だけだった。道中は最後方にいたが3コーナーで先行集団に取りつき危なげない勝利を飾り、距離不安説を一蹴した。