「仁徳天皇陵」が『大仙陵古墳(大山古墳))』に変更

大仙陵古墳(だいせんりょうこふん、大山古墳)のステレオ空中写真

仁徳天皇 (楊洲周延画)
教科書で教わる歴史が変わるのはなぜ? | マイナビニュース
「足利尊氏」の肖像(京都国立博物館所蔵)は、ただの「騎馬武者像」に変更されている

「足利尊氏」の肖像から「騎馬武者像」に変更
【高校教科書検定】見慣れた肖像画は別人?「足利尊氏像」→「騎馬武者像」 源頼朝像の真偽も…(1/2ページ) - 産経WEST
大化の改新は645年から646年に変更される

中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした「乙巳の変(645年)」の後に『大化の改新(646年)』が行われる
語呂合わせ「645年(無事故=むじこで終わった)大化の改新」「蒸し米で祝おう大化の改新」と年号を覚えていましたね。
ほとんどの日本人が「645年」と答えるであろう「大化の改新」は、“蒸し米で祝おう”などと覚えたが、今の教科書では、646年の改新の詔から始まる政治改革に書き換わっている。
http://www.news-postseven.com/archives/20130518_187827.html645年→646年に変わった大化の改新に「そもそもなかった」説│NEWSポストセブン
「聖徳太子」という呼称は生前にはなく、「厩戸皇子または厩戸王」の後世の呼称である。

厩戸皇子または厩戸王(聖徳太子)
聖徳太子 - Wikipedia
聖徳太子 実在疑問で教科書での存在が年々薄くなっていった│NEWSポストセブン
「西郷隆盛」の版画は西郷の親戚を参考に想像で描写したものなので本人の顔ではない

西郷の親戚を参考に想像で描写した「西郷隆盛」の版画

「西郷隆盛」の版画は、イタリアの版画家・画家「エドアルド・キヨッソーネ」が、隆盛の弟・西郷従道の顔の上半分と、隆盛の父方の従弟・大山巌の顔の下半分を合成して想像で描いたもの。
鎌倉幕府成立が1192年から1185年に変更、語呂合わせも「イイクニ(1192)」から「イイハコ(1185)」へ!
語呂合わせ「1192(いい国=いいくに作ろう)鎌倉幕府」と年号を覚えましたね。
鎌倉幕府 - Wikipedia
asahi.com:中学校の歴史 1192は違うの?鎌倉幕府成立 - 教科SHOW - 小中学校 - 教育

頼朝へ、与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した1185年が鎌倉幕府成立時期として最も適切という判断
「源頼朝」の肖像(京都神護寺所蔵)は、「伝源頼朝像」に変更されている
![通説では、源頼朝の肖像画とされ、12世紀末の似絵の名手藤原隆信の作とされてきた。しかし、1995年に頼朝像は足利直義の肖像画であるとする新説が発表され、以後、像主・成立時期などをめぐって論争が続いている。
1995年、当時東京国立文化財研究所の米倉迪夫により、伝源頼朝像は足利直義像であるとする新説が発表され大きな反響を巻き起こした。その後、歴史学者の黒田日出男が米倉説を補強する所説を発表している。
米倉・黒田らの論拠は多岐に渡るが、主要なものとしては源の論説を追認し、着用している冠の形式が鎌倉末期以降にしか見られないこと、修理報告書で確認できる毛抜型太刀の下部に残存する痕跡から、当初は尊氏が後醍醐天皇から賜った桐紋の俵鋲をつけた太刀であったこと、三像に使用されるほどの大きさの絹は鎌倉後期以降に出現し、それ以前は絹をつないでいたこと、三像の表現様式(眉・目・耳・唇等の画法)は、14世紀中期(室町時代前期)の肖像(「夢窓疎石像」天龍寺妙智院蔵)との強い類似が認められること、などであり、これらから三像の成立は南北朝期に置くことが最も自然であるとする。
もう一つ新説の有力な論拠となっているのが、康永4年(1345年)4月23日の日付の『足利直義願文』である。同願文は足利直義が神護寺にあてて発出したもので、「当家(足利家)は特に因縁があり、代々深く帰依して参りましたので、阿含経一軸と供に征夷将軍(足利尊氏)と自分の影像を神護寺に安置します。良縁をこの場で結び、現世と来世の(私の)所願がことごとく円満に成就しますように。」との内容を持つ。
三像の強い共通性は足利将軍家に由来し、この願文を元に、通常2人の肖像が並立する場合、右に上位者、左に下位者を配置することなどを根拠として、米倉は左向きの伝平重盛像が足利尊氏、右向きの伝源頼朝像が足利直義であると比定する。
また、伝重盛像と同じ左向きの伝藤原光能像は、新説では足利義詮に比定されている。米倉は、京都等持院所蔵の足利義詮木像の風貌が伝藤原光能像と酷似していることを論拠としている[注釈 5]が、他方、黒田は政治史的観点に基づく義詮説を提示している。1345年から数年間は尊氏・直義の二頭政治が行われたが、観応の擾乱で両者の関係が崩壊し、観応2年に直義が尊氏に勝利すると、尊氏は一旦政治の第一線から退き、直義は尊氏の子・義詮をパートナーに選び、新たな二頭政治を開始した。黒田は、この時に尊氏像(伝重盛像)の代替として新たに義詮像(伝光能像)が描かれたのであり、尊氏像に見られる大きな欠損や折りジワは、義詮像が描かれた際に用済みとなった尊氏像が折り畳まれていたことを示すものだとした。他にも義詮像(伝光能像)は、口元という顔のパーツの基本的な部位に修正がされているが、これは義詮が貞和5年(1349年)10月まで長く鎌倉にいたため、義詮の相貌に関して得ていた情報に不備があったためと説明することができ、通説における伝光能像が少し後に出来たという判断にも合致すると論じた。
(出典:Wikipedia「神護寺三像」)](/assets/loading-white-036a89e74d12e2370818d8c3c529c859a6fee8fc9cdb71ed2771bae412866e0b.png)
源頼朝の肖像画(京都神護寺所蔵)は足利直義の肖像画?
源頼朝として有名だった神護寺(京都市)所蔵の肖像画も「伝源頼朝像」と記載。頼朝像の真偽をめぐっては、冠の特徴などにより50年以上前から多くの疑問が出されていたと説明している。
http://www.sankei.com/west/news/130327/wst1303270057-n1.html【高校教科書検定】見慣れた肖像画は別人?「足利尊氏像」→「騎馬武者像」 源頼朝像の真偽も…(1/2ページ) - 産経WEST
士農工商は記載がなくなった

士農工商は、あくまでも職業の違い・分類であって、職業間の差別や格差を示す身分制度ではないという認識です。