Jリーグ初期の期待外れで終わった選手たち
1993年に日本初のプロサッカーリーグである華々しくJリーグが開幕を果たし、天才と評された選手や、海外のスタープレイヤーがJリーグのピッチに立ちましたが、なかには期待外れと言わざるを得ない結果で終わった選手も。ここでは、そんな「Jリーグ初期の期待外れで終わった選手たち」にフューチャーしていきます。

リネカー(名古屋グランパス)

1993~1994 名古屋グランパスエイト
イングランド代表通算80キャップ48得点を数えるイングランドが誇る超スーパースターフォワード・リネカー。そんなリネカーがサッカー発展途上国である日本のリーグに参戦するニュースは、世界中のサッカーファンを驚かせたが、2年間で計4ゴールと全くフィットせず日本を去った。
モラレス(浦和レッズ)
1993年 浦和レッズ
今でこそ日本のビッククラブとまで言われている浦和レッズだが、1993年の開幕当初は「Jリーグのお荷物」と言われるほど最下位を独走していた。
その要因を作った張本人の一人がモラレス。過去にエクアドルリーグにて最優秀外国人選手に選ばれるなど期待を背負ってレッズ入りしたが、全く機能せず、わずか3試合の出場で退団した。
財前恵一(横浜マリノスなど)

1987年 -~1993年 日産自動車/横浜マリノスなど
室蘭大谷高校のエースとして高校サッカーに出場、ベスト4に輝き、注目を浴びる。当時、異例だった高卒即のプロ契約を果たし、横浜マリノス(日産自動車)へ。
しかし、度重なる怪我もあり、天才的なパス回しは影を潜め、話題から消えていった。
曺 貴裁(柏レイソル・浦和レッズなど)

1991年~1993年 日立製作所 / 柏レイソル
1994年~1995年 浦和レッドダイヤモンズ
1996年~1997年 ヴィッセル神戸
当時まだ2部だった柏レイソルからJリーグの浦和レッズに移籍。アグレッシブなディフェンスが持ち味だが、ファウルを与えすぎてPKO(PK王)という不名誉なネーミングも与えられた。
しかし、現在は湘南を1部に残留させた名監督となり、指導者としての手腕は高い。
菊原 志郎(ヴェルディ川崎など)

1985年~1993年 読売クラブ/ヴェルディ川崎
1994年~1995年 浦和レッドダイヤモンズ
1996年 ヴェルディ川崎
わずか16歳7か月の若さでリーグ戦デビューをした読売ユースが誇る天才ミッドフィルダー。将来の日本代表を担う存在と嘱望されていたが、怪我に悩まされ、納得いく結果を残せなかった。
礒貝洋光(ガンバ大阪など)

1992年~1996年 ガンバ大阪
1997年~1998年7月 浦和レッドダイヤモンズ
熊本の小学生時代から「天才サッカー少年」と話題となり、中学時代ん早くもU-17日本代表のエースストライカーとなる早熟の天才。トヨタカップで来日したフランコ・バレージが若ければ連れて帰りたいと評したほどの才能だったが、日本代表としてわずか2試合の出場で終わった。
引退後、プロゴルファーに転向するという異色な経歴を誇る。
石塚啓次(ヴェルディ川崎など)

1993年~2002年7月 ヴェルディ川崎/東京ヴェルディ1969
1997年8月 - 1998年1月 コンサドーレ札幌(期限付き移籍)
2003年1月~同年8月 川崎フロンターレ
2003年9月~同年12月 名古屋グランパスエイト
高校時代は和声フリットと騒がれ、前述の菊原同様、読売が誇る天才MFの系譜をたどったが、プレイより、ちゃらちゃらした言動ばかり目立ってしまった。
現在は何故だかバルセロナでうどん職人となっている。
森崎嘉之(ジェフ市原)

1994~1995 ジェフ市原など
1994年の高校サッカーにて、市立船橋のエースストライカーとして出場、得点王に輝き脚光を浴び、ジェフ市原へ。しかし、出場機会に恵まれず翌年には戦力外通告を受ける。
ウーゴ・マラドーナ(アビスパ福岡など)

1995年-1996年 日本の旗 福岡ブルックス、アビスパ福岡
1997年-1998年 日本の旗 コンサドーレ札幌など
ご存知アルゼンチンの英雄・ディエゴマラドーナの実弟。
マラドーナの弟が日本のリーグにと話題になったが、鳴かず飛ばずで終わった感がある。
イルハン(ヴィッセル神戸)

2004年 ヴィッセル神戸など
2002日韓W杯にて、トルコ代表を3位に躍進させたゴールデンボーイ。その活躍と、イケメンぶりで日本でもワイドショーなどで取り上げられた。
2004年に鳴り物入りでヴィッセル神戸入りするも、ノーゴールで日本を去る結果に。
以上となります。浦和レッズに所属していた選手が多いのは、Jリーグ初期、低迷していたチームだけに必然なのかもしれませんね。
選手生命は怪我などで思うような成績が収められずに終わる場合も多く、実力でだけでなく運も必要ですね。