喫茶店・カフェの歴史

喫茶店・カフェの歴史

戦前・戦後の喫茶店から現代の喫茶店・カフェまで、その文化と歴史を振り返ってみましょう。コーヒーを飲みながら知識を吸収し、文化交流をする場といった意味合いを持った喫茶店、サービス形態が多様化していく喫茶店、喫茶店・カフェの歴史を通じて、当時の空気感が伝わってきます。


喫茶店・カフェの歴史

喫茶店(きっさてん)とは、コーヒーや紅茶などの飲み物、菓子・果物・軽食を客に供する飲食店のこと。
コーヒーや紅茶などの飲み物を提供したり、菓子(ケーキ、茶菓 等)や、フルーツを用いた甘味や、サンドイッチ等の軽食を提供する飲食店である。

「喫茶(きっさ)」とは、もともとは鎌倉時代(源実朝の時代)に中国から伝わった茶を飲用し効用を嗜む習慣や作法をさす言葉であった。

しかし現在では(緑の)茶に限らず、紅茶、コーヒーも含めて「喫茶」と言い、さらには果汁や清涼飲料水なども含めて、これらを飲み菓子を食べることも「喫茶」の概念に含めることが多い。

喫茶店は、俗に略して「茶店」(さてん)とも呼ばれる。近年の口語では「お茶する」などともいう。

日本では、フランスのカフェを意識した店舗などを中心に「カフェ」と呼ばれることも多い。和風の表現にこだわる時は茶房(さぼう)、茶寮(さりょう)としている例もある。
(出典:Wikipedia「喫茶店」)

喫茶店・カフェの歴史

コーヒーの伝来「日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代、徳川綱吉の頃」「18世紀に長崎の出島にオランダ人が持ち込んだといわれている。」

黒船来航と共に西洋文化が流入し長崎、函館、横浜などの開港地を中心として西洋料理店が開店するようになり、そのメニューの一部としてコーヒーが一般庶民の目に触れるようになった。
(出典:Wikipedia「日本における喫茶店の歴史」)

日本には18世紀に長崎の出島にオランダ人が持ち込んだといわれている。出島に出入りしていた一部の日本人がコーヒーを飲用していたと考えられ、出島に出入りすることが許されていた丸山遊郭の遊女の中にはオランダ人からコーヒーを贈られた者もいた。

コーヒーについて言及された日本最古の本の1つと考えられている志筑忠雄の『万国管窺』にはわずかながらも記述が存在し、天明年間(1781年 - 1788年)に日本語に訳された『紅毛本草』には「古闘比以」という名でコーヒーの詳細な説明がされている。

江戸幕府が敷いていた鎖国政策のため民衆にコーヒーが行き渡らず、また風味が日本人の嗜好に合わなかったため、伝来から普及までに長い時間を要した。

1804年にコーヒーを飲んだ大田南畝(大田蜀山人)は、「焦げくさくして味ふるに堪ず」という感想を残した。ヨーロッパ文化に関心を抱く蘭学者や医家はコーヒーを飲んだ感想を記し、大黒屋光太夫などの国外に漂流した者も漂着先でコーヒーを飲用した。
(出典:Wikipedia「コーヒーの歴史」)

日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代徳川綱吉の頃で、長崎の出島においてオランダ人に振舞われたのが最初であると考えられている。

戦前の喫茶店

1888年(明治21年)に開店した日本最初の喫茶店「可否茶館」の跡地

現代に見られるような本格的な喫茶店としての形態を初めて持ったのは1888年(明治21年)に開店した「可否茶館」である。 勤めていた外務省を辞めた鄭永慶が、現在の台東区上野に開店した可否茶館は現代の複合喫茶の様相でトランプやビリヤードなどの娯楽品、国内外の新聞や書籍、化粧室やシャワー室などが備えられていた。鄭は「コーヒーを飲みながら知識を吸収し、文化交流をする場」として広めようとしたが経営は振るわず1892年(明治25年)にその幕を下ろし、鄭はアメリカ合衆国に去った。 それからしばらく経った1911年(明治44年)、画家の松山省三、平岡権八郎、小山内薫がパリのカフェをイメージして4月に開店した「カフェー・プランタン」をはじめ、水野龍の「カフェー・パウリスタ」、築地精養軒の「カフェー・ライオン」など銀座にカフェーと称する店が相次いで誕生する。 それぞれの店は独自色を打ち出し、カフェー・プランタンは「初の会員制カフェ」として、カフェー・パウリスタは「初の庶民喫茶店」「初のチェーン店舗型喫茶店」として、カフェー・ライオンは「初のメイド喫茶」として人気を博した。また、この頃、暖めた牛乳を提供する「ミルクホール」も登場し、学生などに人気を博した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%96%AB%E8%8C%B6%E5%BA%97%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

日本における喫茶店の歴史 - Wikipedia

1911年3月「カフェー・プランタン」銀座に開業。「日本初のカフェ」とされる

カフェー・プランタン(フランス語: Café Printemps)は、かつて存在した日本の飲食店である。1911年(明治44年)、銀座に開業し、「日本初のカフェ」とされる。

東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)出身の松山省三が、美術学校時代の恩師・黒田清輝らに聞かされたパリのカフェーのような、文人や画家達が集い芸術談義をできる場所を作りたいと、1911年3月、友人の平岡権八郎とともに開業した。

位置は東京府京橋区日吉町20番地(現東京都中央区銀座8丁目6番24号、銀座会館付近)で銀座煉瓦街の一角、周囲は新橋の花街で芸妓屋や待合が多かった。美術学校関係者の協力を得て煉瓦の建物を改装し、相談役の小山内薫が「プランタン」(フランス語で春の意)と命名した。その後まもなく、平岡は経営から離れた。

これ以前にも、1906年(明治39年)に開店した台湾喫茶店(ウーロン)やビヤホール、(メイゾン鴻ノ巣などの)西洋料理店と、類似の店は存在していたが、プランタンの登場によって、洋行帰りの人たちが口にしていたような意味での(サロン形式の店としての)「カフェーが初めて日本にも生れた」と評判を呼んだ。1911年にはプランタンに続き、ライオン(8月)、パウリスタ(12月)と「カフェー」を冠する店が銀座に相次いで開店した。(ライオンは精養軒の経営で料理中心、パウリスタはコーヒー中心と、店により特徴があった)

プランタンでは珈琲と洋酒を揃え、料理はソーセージ、マカロニグラタンなど珍しいメニューを出した。後に焼きサンドイッチも名物になった。

素人が始めた店であり不安もあったため、当初は会費50銭で維持会員を募り、2階の部屋を会員専用にしていた。会員には洋画家の黒田清輝、岡田三郎助、和田英作、岸田劉生、作家の森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎、岡本綺堂、北原白秋、島村抱月、歌舞伎役者の市川左團次ら当時の文化人が多数名を連ねた。

もっとも、会員制は半年ほどで自然消滅した。経営は苦しかったが、新聞記者の松崎天民が皮肉って「貨幣不足党」(カフェータランタラン)と書き、これも一つの宣伝になった。

常連の客が店の白い壁に似顔絵や詩などを落書きし、これが店の名物になっていた。永井荷風が当時入れあげていた新橋芸妓・八重次と通ったのもこの店で、荷風の『断腸亭日乗』にもしばしば名前が登場する。

フランスのカフェにはいない「女給仕」(ウェイトレス)が人気を博したが、カフェー・ライオンなどに比べ、カフェー・プランタンは文学者や芸術家らの集まる店であり、普通の人には入りにくい店であったという。

ただし、関東大震災前の頃にはプランタンの常連客も入れ替わり、客層も相当変わっていたという。
昭和始め頃に「カフェー」と言えば、もっぱら女給の接待を「売り」にする「風俗営業」(今日のキャバクラあたりに相当)となってしまうが、それまでのカフェーはレストラン、バー、喫茶店を兼ねるような存在であり、必ずしも風俗営業で一括りにすることはできない。

1920年、有楽座に出張店を出し、名物の焼きサンドイッチを看板にしたという。
(出典:Wikipedia「カフェー・プランタン」)

1911年3月「カフェー・プランタン」銀座に開業。「日本初のカフェ」とされる

画家の松山省三、平岡権八郎、小山内薫がパリのカフェをイメージして開店した「カフェー・プランタン」は文学者や芸術家らの集まる店であり、普通の人には入りにくい店であったという。

1911年8月「カフェー・ライオン」

カフェー・ライオン(Café Lion)は、かつて存在した日本の飲食店である。カフェー・プランタンと同じ1911年(明治44年)に開業し、銀座を代表するカフェーと言われた。

尾張町交差点の角(以前、毎日新聞社があった場所、現在のサッポロ銀座ビル)に開業した。3階建で新築され、1階が酒場、2階が余興場であった。

1911年は「日本初のカフェ」とされるプランタン(3月)に続き、ライオン(8月)、パウリスタ(12月)と「カフェー」を冠する店が銀座に相次いで開店した年である。パウリスタはコーヒー中心だったが、ライオンは料理、酒が中心だった。

築地精養軒の経営であり、規模が大きく、一般客にも入りやすかったという。美人女給が揃いの衣裳(和服にエプロン)でサービスすることで知られたが、当時は女給が客席に同席することはなかった。

ビールが一定量売れると、ライオン像が吠える仕掛けになっていた。また、グランドホテル(横浜)出身の名バーテンダー・浜田晶吾がおり、「ライオンの宝」とも評された。

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災後はバラックの平屋建で営業を再開、後に本建築に建て替えた。
1924年、斜向かいにカフェー・タイガーが開業し、目立つ女給が引き抜かれるなどして、次第に勢いを失った。松崎天民には「女給の美的素質の上から言えば、第二三流」、「どれもこれもが、所帯染みている」と酷評され、また、タイガーなどに倣い、女給が客席に同席するようにもなった。

1931年(昭和6年)6月、大日本麦酒に経営が移り、8月にビヤホール(ライオンヱビスビヤホール、現在のビヤホールライオン銀座五丁目店)としてオープンした。
(出典:Wikipedia「カフェー・ライオン」)

銀座尾張町角に「日本初のメイド喫茶」の「カフェー・ライオン」(築地精養軒経営)開店

出典:ほぼ日刊イトイ新聞 - 江戸が知りたい。東京ってなんだ?!テーマ3	「カフェーは明治の昔から」
https://www.1101.com/edo/2003-10-01.html

洋酒や洋食をメニューの中心として供したカフェー・ライオンの特筆すべき点は、女性給仕(ウェイトレス)のサービスにあった。和服にエプロンを纏った若い女給が客の話相手となったこの店は、いわゆるカフェーを代表する存在である。後年の美人喫茶やメイドカフェの嚆矢となったという見方もある。
(出典:Wikipedia「日本における喫茶店の歴史」)

カフェー・ライオンの女給さんは、 品行が良いことで評判でした。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 江戸が知りたい。東京ってなんだ?!

1911年(明治44年) カフェーパウリスタが銀座に開業

カフェーパウリスタ(CAFE PAULISTA)は日本の喫茶店である。1911年(明治44年)、銀座に開業。各地に店舗を広げ、親しまれたが、1923年(大正12年)関東大震災の被災後に喫茶店経営から撤退。1970年に復活した銀座店は、昔のカップ、スプーンを復元するなどで「日本初のカフェ」を自認している。「パウリスタ」は「サンパウロっ子」の意味。

皇国殖民株式会社の社長であった水野龍は、ブラジルへの日本人移送の見返りおよびブラジルコーヒーの宣伝普及のため、ブラジルのサンパウロ州政府より3年間1,000俵のコーヒー豆(ブラジル種)の無償提供を受けられることとなった。

これを元に1910年(明治43年)、大隈重信に協力を仰ぎ合資会社カフェーパウリスタを設立し、翌1911年12月、「南米ブラジル国サンパウロ州政府専属珈琲販売所」と銘打ち、京橋区南鍋町(銀座6丁目)に「カフェーパウリスタ」を開業した。サンパウロ州政府からのコーヒー豆の無償提供は実際には12年間続いた。

1911年は3月にプランタン、8月にライオンと「カフェー」を冠する店が相次いでオープンした年である。プランタン、ライオンは洋酒や洋食も売り物で、女給仕を置いていたが、パウリスタはコーヒー中心、店員は少年であった。

1杯5銭のコーヒーを提供する庶民的な店舗として人気を博し、「誰もが気軽に親しむことが出来る喫茶店の元祖」と言われる。

芥川龍之介や平塚らいてうなどの文化人のほか、学生(特に慶応義塾の学生)や社会人などが出入りした。カフェーパウリスタは東京市内を始め、名古屋、神戸、横須賀など各地に店舗を展開し、ブラジルコーヒーを広めた。

1923年(大正12年)の関東大震災でほとんどの店舗が全壊する大きな被害を受けたこと、およびブラジル政府からのコーヒー豆の無償提供の契約期限が同年で切れたことにより店舗経営から撤退し、事業規模を縮小してコーヒーの輸入・焙煎業を主としてうようになった。戦時下の昭和18年には当局の指示により横文字の社名を日東珈琲株式会社に名称変更した。

1969年(昭和44年)、子会社として株式会社カフェーパウリスタを新たに設立し、1970年(昭和45年)、銀座8丁目に直営宣伝店「カフェーパウリスタ」をオープンした。
ジョン・レノンとオノ・ヨーコが来日時に通ったという銀座店(銀座8丁目)は、1970年に再開したものである。
(出典:Wikipedia「カフェーパウリスタ」)

カフェーパウリスタ

関東大震災(1923年)の翌1924年(大正13年) 「カフェー・タイガー」はカフェー・ライオンの斜向かいの焼けビルを修復して開業した

カフェー・タイガー(Café Tiger)は、かつて存在した日本の飲食店である。関東大震災後、銀座に開業し、カフェー・ライオンに対抗して勢力を伸ばした。

関東大震災(1923年)の翌1924年(大正13年)、カフェー・ライオンの斜向かいの焼けビルを修復して開業した。「ライオン」と「タイガー」の競争ということでも話題を呼び、当時のヒット曲「当世銀座節」(西條八十作詞、中山晋平作曲、1928年)に"虎と獅子"と唄われた。

浅草のオリエントと同系列(浅野総一郎家の経営)で、オリエントから大勢の女給が移ってきたという。女給は16、7歳から25、6歳まで、30人近くがいた。

「美しい女給と濃厚なサービス」が売り物で、酒、料理は二の次だった。ライオンでは女給の監督が厳しく、少し品行が悪いとクビになったが、こうした女給をタイガーが引き取った。その結果、目立つ女性は皆タイガーに移ってしまった。

もっとも、関西から「エログロ好み」のカフェーが多数進出してきたため、タイガーのサービスもおとなしく感じられるようになったという。

後に、浅野家から本郷バーに経営が移った。警視庁がカフェー取締りを強化する中、1935年(昭和10年)に閉店した。

永井荷風、菊池寛、中村武羅夫、三上於菟吉らの作家がタイガーをひいきにした。広津和郎の小説『女給』で話題になった菊池寛のカフェー通いはこの店が舞台であった。

永井荷風は1926-27年にかけてタイガーの女給「お久」と馴染んだが、やがて500円の金を要求され、閉口させられた。後日、無頼漢の情夫がおり、度々ゆすりを働いていたことを聞き、日記に「黙阿弥劇の白浪物を見るが如し」と感想を記した。その後もタイガー通いは続き、カフェーを舞台にした小説『つゆのあとさき』を書いた(1931年5月脱稿、同年10月号の「中央公論」に発表)。
(出典:Wikipedia「カフェー・タイガー」)

「カフェー・タイガー」は「美しい女給と濃厚なサービス」が売り物

女中さん、カフェー、待合旅館などの求人

当時の女子の職業斡旋屋

1920年代 - 日本で喫茶店ブーム。当時コーヒー一杯10銭。

カフェーがもっぱら女給のサービスを売り物にするようになったのは関東大震災後と見られる。震災の翌年(1924年)、銀座に開業したカフェー・タイガーは女給の化粧、着物が派手で、客に体をすり付けて話をする、といったサービスで人気を博した。

昭和に入り、大阪の大型カフェ(ユニオン、赤玉など)の進出により「銀座は今や(…)大阪エロの洪水」という状態で、女給は単なる給仕(ウエイトレス)というより、現在で言えば(バー・クラブの)ホステスの役割を果たすことになった。

ちなみに当時の女給は多くの場合無給であり、もっぱら客が支払うチップが収入源だった。1933年には、カフェーは特殊喫茶(風俗営業)として警察の管轄下に置かれることになった。

昭和初期のエロ・グロ・ナンセンスの世相の中、夜の街を彩る存在として、カフェーは小説などの舞台にもなった。当時のカフェーを描いた小説として永井荷風「つゆのあとさき」、広津和郎「女給」がある(後者は菊池寛のカフェー通いを描いて評判になった)。また、谷崎潤一郎「痴人の愛」のナオミは、15歳で浅草のカフェーに出ているという設定である。林芙美子がカフェー勤めの経験を「放浪記」に書いたこともよく知られている。エッセイでは松崎天民「銀座」、安藤更生「銀座細見」などがカフェー風俗を活写している。
大正後期から昭和初期にかけてカフェーをテーマにした歌が流行し、カフェー歌謡という。

第二次世界大戦終戦後、いわゆる赤線地帯が発生し、かつての遊郭などがカフェー名目で営業を続けるようになったため、それまでのカフェーの方はバー、クラブなどと称するようになった。

法律用語の「カフェー」は今も残っており、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律第2条第1項第2号には「待合、料理店、カフェーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業」という規定がある。

なお、「純喫茶」という呼称があるが、これは酒類の提供、女給の接待を売りにするカフェー(特殊喫茶)に対して、(純粋に)コーヒーを売りにする店、という意味である。
(出典:Wikipedia「カフェー (風俗営業)」)

風俗営業としてのカフェー。当時のカフェーが立ち並ぶ夜の新宿

昭和に入ると「飲食を提供しつつ(女給の)サービスを主体にした店」と、「あくまでコーヒーや軽食を主体とした店」への分化が進む。 前者はそのまま「カフェー」または「特殊喫茶」「特殊飲食店」としてバーやキャバレーのような形で次第に風俗的意味合いを持つようになった。 1929年(昭和4年)に「<カフェ><バー>等取締要項」が、1933年(昭和8年)に「特殊飲食店取締規則」が出され規制の対象となった。 一方後者は「純喫茶」「喫茶店」と呼称されるようになり、やがて外来する店舗も含んだ「カフェ」として発展していくこととなった。 1933年(昭和8年)当時は、特殊飲食店が喫茶店の2倍を数えたものの、一般庶民にコーヒーが浸透しはじめ、1935年(昭和10年)には東京市だけで10,000店舗を数えるなど順調に増え続けサービスや提供形態の多様化が進んだ。 多様化は地域の特性を育み、例えば銀座は高級感を売りに出した店舗が特徴として知られるようになり神田は容姿端麗な女性給仕を揃えた学生を対象としたサービスを展開、神保町は落ち着いた雰囲気で本を読みながら過ごすスタイルが定着した。

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1933年(昭和8年) 「上島珈琲」が創業

ユーシーシー上島珈琲株式会社(ユーシーシーうえしまコーヒー、英:UCC Ueshima Coffee Co.,Ltd.)は、兵庫県神戸市中央区に本社を置く、コーヒーを中心とした飲料・食品メーカー。みどり会の会員企業。
コーポレートメッセージは、”Good Coffee Smile”。

創業者の上島忠雄(うえしま ただお、1910年10月25日 - 1993年10月31日)が1933年(昭和8年)に個人商店として創業。現在でもほぼ同族経営である。

呼称のUCCは"Ueshima Coffee Co.,Ltd."の頭文字に由来している。レギュラーコーヒー豆はもちろんだが、1969年(昭和44年)に世界初のミルク入り缶コーヒー、「UCCコーヒーミルク入り」(現在の「UCCミルクコーヒー」。別名「UCCオリジナル」)を発売したことでもその名を知られている。

自社のコーヒー農園を展開しており、1981年(昭和56年)にジャマイカでブルーマウンテンの農園を開設。1989年(平成元年)にはアメリカ合衆国ハワイ州ハワイ島でコナコーヒーの農園を開設させた。他にも1995年(平成7年)にはインドネシアスマトラ島でマンデリンの農園を開設している。なおブルーマウンテンコーヒーの直営農園は同社が初めてである。

東京都目黒区に本社があるウエシマコーヒーは100%子会社であるが、兄の上島治忠が創業し、同じく神戸市中央区に本社を置くウエシマコーヒーフーズ(U.COFFEE)との関連は、資本・経営面では一切ない。北海道で広く展開しているサッポロウエシマコーヒー(ユーコーヒーウエシマ)とは企業としての関連はなかったが、2008年に完全子会社化されている。また、大阪府堺市の上島珈琲貿易(マックコーヒー)は、UCCグループ会社ではないが、上島忠雄の兄である上島勝が創業者である。

東京ディズニーリゾート(東京ディズニーランド・東京ディズニーシー)・ユニバーサル・スタジオ・ジャパン・倉敷チボリ公園(2008年閉園)・ハウステンボス・宝塚歌劇のオフィシャルスポンサーである。
2010年(平成22年)4月1日付で持株会社制に移行し、社名をUCCホールディングス(登記上は、UCCではなくユーシーシー)へと変更、事業部門を新設のUCC上島珈琲に分割し、シャディ、ユーシーシーフーヅ、ユニカフェなどともに傘下に収めた。

2012年(平成24年)3月30日、シャディの全株をニッセンホールディングスに譲渡するとともに、第三者割当増資により、ニッセンホールディングスの筆頭株主になる。
(出典:Wikipedia「UCC上島珈琲」)

上島珈琲。1933年(昭和8年)創業。

戦後の喫茶店

戦後の荒廃した日本で喫茶店が復活を見るのは1947年(昭和22年)頃からで、戦時下の代用コーヒーや米軍の放出品を用いたGIコーヒーなどが提供された。一般にコーヒーが再び広まるのは、輸入が再開された1950年(昭和25年)以降となる。 こうした輸入豆は、その需要のほとんどが喫茶店であったと見られ、オリハラコーヒーの代表である折原烈男は当時を振返り、「輸入が再開されたコーヒーはその9割以上が喫茶店で消費されていた。そのほとんどは個人経営の喫茶店だった」と語っている。 世の中が平静を取り戻すにつれ、そのときの世情を取り込んだ様々な喫茶店が興亡した。1960年(昭和35年)頃は個人経営の店が主流となり、店主のこだわりが店の個性として色濃く反映された喫茶店が人気を獲得した。 特に「音楽系喫茶」と呼ばれる喫茶店は、美輪明宏や金子由香利などを輩出した「銀巴里」に代表されるシャンソン喫茶、「ACB」「メグ」「灯」のようなジャズやロックの音楽演奏がサービスの主となったジャズ喫茶、歌声喫茶、ロック喫茶、後年のディスコやクラブなどに多大な影響を与えたロカビリー喫茶、ゴーゴー喫茶など多数の業態の店が誕生している。 LPレコードなど金銭的にも個人レベルでは入手が困難であった時代であり、喫茶店にはこうした音楽鑑賞を趣味とした庶民たちへの場所貸しといった要素が強く出ていた。そのため、住宅環境の改善や音楽配信媒体の低価格化が進むにつれ、こうした業態の喫茶店の需要は無くなっていった。

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1950年代後半 - 日本でジャズ喫茶(JAZZ喫茶)、歌声喫茶、名曲喫茶などが流行。

銀巴里(ぎんパリ)は、1951年–1990年まで東京銀座七丁目にあった日本初のシャンソン喫茶店である。

「東の銀巴里、西のラ・ベル・エポック(武蔵野市吉祥寺 2009年10月31日閉店)」ともよばれた。
美輪明宏、戸川昌子、クミコ、仲マサコ、金子由香利、戸山英二、大木康子、長谷川きよしらを輩出し、三島由紀夫、なかにし礼、吉行淳之介、寺山修司、中原淳一らが集い、演出に尽力した。

閉店日には、銀巴里の名が記されたコーヒーカップや食器類が、すべて常連客によって持ち帰られた。
現在、跡地の銀座7丁目9番11号付近に石碑が立つ。
(出典:Wikipedia「銀巴里」)

日本初のシャンソン喫茶店「銀巴里」(1951年–1990年)

銀座ACB(ぎんざアシベ)は、1957年-1972年まで東京都中央区・銀座7丁目にあったジャズ喫茶である。

満州国からの引揚者・谷富次郎が銀座に料亭「あしべ」を妻の谷和子とともに開業。
妻の人柄が、政治家の三木武夫、中曽根康弘、鈴木善幸、園田直や、実業家の安西浩に愛され、安西が経営する東京ガス本社地下に、ジャズ喫茶を開店。

300席を擁し、店内中央に高い迫りによる回転ステージを設けるなど、国内最大規模のジャズ喫茶としての開業ではあったが、客足が伸び悩んでいたところに平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎らのロカビリーブームが起き、女学生が長蛇の列をなすようになった。

当時、学生だった橋幸夫や大宅映子も常連客であった。常連客は大半が演奏を聴く目的で来店していたため、喫茶店でありながらメニューはアイスコーヒーのみであった。

1960年12月24日、平尾昌晃の誕生日には大混雑し、女子高生数名の負傷事故が起きた。
ロカビリーブーム終焉後は、森山加代子、坂本九、橋幸夫、水原弘、ザ・スパイダース、ヴィレッジ・シンガーズ、ザ・ジャガーズ、ザ・ゴールデン・カップス、オックスらが舞台に立ち、女学生などから変わらぬ声援を受け続けたが、本格的なテレビ時代の到来とグループサウンズ(GS)ブームの終焉ともに1969年の秋に入ると急速に下火になり始め、その役目を終えたかのように1972年閉店した。
(出典:Wikipedia「銀座ACB」)

ジャズ喫茶「銀座ACB(ぎんざアシベ)」(1957年-1972年)

1960年(昭和35年)頃は個人経営の店が主流となり、店主のこだわりが店の個性として色濃く反映された喫茶店が人気を獲得した。

1964年(昭和39年)10月 「銀座ルノアール」は日本橋に第1号店を開店する。

株式会社銀座ルノアール(ぎんざルノアール)は東京都・神奈川県を中心に「喫茶室ルノアール」などの喫茶店をチェーン展開する会社。

都市型喫茶店として創業以来、早くからチェーン化を図り、喫茶店の直営店チェーンとしては業界の大手に成長。1989年(平成元年)11月には業界で初めて株式店頭公開を行った。

駅前での展開が多いのにもかかわらず、他のチェーン展開をしているコーヒーショップと比較してもゆったりとした座席配置となっている。 全店舗で無線LANサービスを利用でき、ノートパソコンや携帯電話充電のための電源としてコンセントも開放している。貸し会議室を「マイスペース」として都内店舗に設置しビジネスユーズに応えている。

また、低価格セルフサービス型コーヒーショップ「NEW YORKER'S Cafe」、中価格フルサービス型コーヒーショップ「カフェ・ミヤマ」も積極的に展開を図っている。また、「ブレンズコーヒー」を運営する株式会社ビーアンドエムは銀座ルノアールの子会社である。

2013年にキーコーヒー株式会社が資産管理会社の株式を取得し、同社の傘下に入った。

東京都中野区の煎餅店、有限会社花見煎餅(1955年10月設立)が1957年10月に四谷に喫茶店を開業したのが銀座ルノアールの前身である。その後、同社は喫茶店事業の展開を図るために喫茶部を独立させて有限会社花見商事を設立、日本橋に開店したのが第1号店となる。

元が煎餅店だっただけに創業当初のメニューには日本茶と煎餅のセットがあった。ルノアールの特徴ともいうべきロビー風喫茶室のスタイルは、「絨毯に金をかけすぎて資金不足となり、苦し紛れに椅子をまばらに配置したところ意外と客に好評だったため始めた」と創業者の小宮山正九郎が語っている[3]。このスタイルの基礎は1965年に開店した江古田店において確立した。
(出典:Wikipedia「銀座ルノアール」)

銀座ルノアール

出典 「昭和の喫茶店」は復権するか:日経ビジネスオンライン

キーコーヒーは「銀座ルノアール」提携でフルサービス型喫茶店の復権を狙う

カフェ・ミヤマ - 若い女性をターゲットにしたフルサービスの新業態。

Cafe Miyama 渋谷センター街店

1965年 「シャノアール (コーヒーチェーン)」は1号店「珈琲館シャノアール福生」開店

株式会社シャノアール(シャノアール、CHAT NOIR COMPANY, LTD.)は、日本の喫茶店コーポレイト・チェーン運営企業。東京都に本社を置き、全国に展開するコーヒーショップチェーンを経営する会社である。店舗はフランチャイズ・チェーン方式での展開ではなく、コーポレイト・チェーン方式(いわゆるレギュラー・チェーン方式)で展開している。

創業者中村脩が、フランスの中世期にパリの新進気鋭の芸術家たちがモンマルトルの丘のふもとにあるシャノアールというカフェに集い、雑談や議論を交わしていたとされているのを聴き、日本にもカフェ文化を根付かせたいとの思いからカフェ事業を始めた。そのカフェ文化の香りを受け継ぐ意味で、シャノアールという社名にし、店舗名もシャノアールとした。
(出典:Wikipedia「シャノアール (コーヒーチェーン)」)

シャノアール (コーヒーチェーン)

1965年 - 1号店「珈琲館シャノアール福生」開店
1969年 - 3号店「新宿珈琲館&洋酒館」開店
1973年 - コーヒーマシン導入
1985年 - 業界初の全店舗POSシステム導入/朝食セットメニュー開発
1986年 - 50号店「シャノアール東村山店」開店/カフェ・ベローチェ開発
1987年 - カフェ・ヴィラージュ開発
1988年 - カフェテリア・ノックノック開発
1993年 - 仙台地区に進出/100号店「シャノアール飯田橋店」開店[要出典]
1996年 - 「ブック&カフェ」開発
1997年 - 「イタリアンレストラン リアナ・バデッラ」開発/九州地区に進出/コーヒー豆・関連グッズ販売開始
2002年 - 社内にクラシフィカドール(コーヒー鑑定士)誕生/関西地区に進出
2003年 - 200号店「カフェ・ベローチェ春日駅前店」開店
2005年 - 広島地区に進出
2006年 - 板橋本町から池袋サンシャイン60ビルへ本社移転
2007年 - 「カフェ・ラ・コルテ」開発
2008年 - シャノアール研修センター(千葉県市川市)完成
(出典:Wikipedia「シャノアール (コーヒーチェーン)」)

1986年 新業態「カフェ・ベローチェ」開発

日本の高級喫茶店のはしりとな「談話室滝沢」が東京都内にオープン(1966年)

談話室滝沢(だんわしつたきざわ)は、日本にかつて存在した喫茶店。東京都に4店舗を構えていた。

1966年に1号店がオープン。コーヒー・紅茶などの飲み物は一律1,000円(但しケーキ類のデザートをセットすると総額1,100円 - 1,200円程度でセットメニューになった)と割高であったが、マスコミ・出版業界を中心に利用者は多かった(被取材者へのインタビューなどに利用)。

接客態度を重視する姿勢から、ウェイトレスは全て正社員で、全寮制の社員寮に入れて接客教育を行っていた。
しかし、従業員の確保が困難になったことから社員寮を廃止し、ウェイトレスの約8割がアルバイトになっていたこともあり、サービスの質を保つのが困難になったため、閉店することになり、2005年3月31日午後9時50分を持って全店を閉店した。
なお、最終日前日当日の売り上げは災害復興支援として日本赤十字社に寄付された。
(出典:Wikipedia「談話室滝沢」)

日本の高級喫茶店のはしりとな「談話室滝沢」が東京都内にオープン(1966年)

談話室滝沢の店内

1970年4月 「珈琲館」は直営1号店となる「専大前本店」を創業

珈琲館(こーひーかん、KO:HI:KAN)はUCCフードサービスシステムズが運営するコーヒーチェーン店。
この項では、かつてコーヒーチェーン店の運営やフランチャイズ展開やコーヒーの製造販売および器具の販売を行っていた企業である珈琲館株式会社についても記述する。

1970年4月に直営1号店となる「専大前本店」を創業。1972年6月に法人を設立。1991年4月に「マナベ株式会社」へ社名変更。1999年4月に「珈琲館株式会社」へ社名変更。2008年5月2日にUCC上島珈琲株式会社が珈琲館の発行済株式総数の89%を取得し、子会社化することで基本合意。2009年10月1日にUCCフードサービスシステムズと合併した。

特に首都圏を中心として、全国の主要都市に356店(2007年5月31日現在)を展開している。
(出典:Wikipedia「珈琲館」)

コーヒー専門店として1970年(昭和45年)に開業した珈琲館。

1970年(昭和45年)頃、名古屋市名東区で漫画喫茶「ザ・マガジン」が営業開始

漫画喫茶、まんが喫茶、マンガ喫茶(まんがきっさ)とは、漫画を多数揃えた喫茶店。また、そこから発展した漫画の閲覧などの娯楽サービスを有料で提供する施設を言う。略称は漫喫(まんきつ)やマンキなど。インターネットカフェと同義で使われることが多いがこちらは漫画が置いてあることが前提である。

通常の喫茶店が客の飲食や喫茶、待合わせの場を提供するのが主であるのに対し、漫画喫茶は漫画などの娯楽サービスを提供することを目的としている。漫画喫茶発祥の地は、名古屋市名東区でかつて営業していた「ザ・マガジン」が元祖といわれている。

一般に料金体系は時間制で、基本料金(1時間数百円)+延長料金を退店時に精算するシステムになっている。

一般的には図書館や書店並みの規模の書棚を備えていて、数多くの漫画や雑誌、新聞が閲覧できる。さらに店によっては、ドリンクバーや喫茶、テレビゲーム機、インターネットアクセスができるパソコン、テレビ、DVDなどのサービスも提供しているところが多い。

大規模店では、軽食、個人用ブース、ペアシートブース、ファミリーブース、仮眠スペース、ダーツ、ビリヤード、卓球、シャワー、サウナ、マッサージ機、日焼けマシーン等を備えているところもある。

大都市においては深夜営業を行う店舗も増えている。そういった店舗では、カプセルホテルより安価であることから、簡易宿泊所として終電に間に合わなかった人が始発を待つ間の仮眠に利用する場合もある。また、2000年代後半頃からは日雇い派遣で生計を立てるフリーター(ワーキングプア)の仮住まい(一時避難所)として利用されていることも多い。
(出典:Wikipedia「漫画喫茶」)

漫画喫茶(略称:漫喫(まんきつ)やマンキ)

1972年(昭和47年)7月 ドトールコーヒーは神奈川県横浜市に「カフェ コロラド」1号店を出店

カフェ コロラド

フルサービスのコーヒー専門店。1972年(昭和47年)に営業を開始。2007年10月時点の店舗数は、フランチャイズが118店、直営が1店である。ドトールコーヒーが最初にフランチャイズ展開を手がけた業態である。「健康的で明るく、老若男女が共に親しめる店」をコンセプトにしている。
(出典:Wikipedia「ドトールコーヒー」)

ドトールコーヒーは1972年(昭和47年)7月 - 神奈川県横浜市にカフェ コロラド1号店を出店

1970年代 - スペースインベーダーの登場にはじまるアーケードゲームブームが興り、多くの喫茶店にテーブル筐体が設置された(ゲーム喫茶)

写真は、ハウステンボスの『UFOゲーム喫茶』。インベーダーブーム時代を再現。当時の筐体も。

ゲーム喫茶

出典 ハウステンボスに『UFOゲーム喫茶』開店、インベーダーブーム時代を再現。当時の筐体も - Engadget Japanese

ハウステンボスの『UFOゲーム喫茶』

1978年、京都西賀茂で「ノーパン喫茶」誕生

従業員が下着を履かない喫茶店「ノーパン喫茶」

1980年(昭和55年)4月 「ドトールコーヒー」はドトールコーヒーショップショップ1号店を原宿駅前(渋谷区神宮前)に出店

ドトールコーヒーショップ(DOUTOR COFFEE SHOP)は、株式会社ドトールコーヒーが日本で展開する、セルフ式のコーヒーショップチェーンである。

2011年10月時点ではフランチャイズが973店、直営が140店と日本国内で店舗数は業界最多。
略称は、一般的にはドトール。また、業界ではDCS(Doutor Coffee Shopの頭文字)と呼ばれることが多い。以下、「ドトールコーヒーショップ」を「DCS」と省略する。

コーヒーやサンドイッチ、ケーキなどを提供するセルフ式のコーヒーショップである。原宿駅前の表参道 (渋谷区神宮前1丁目)にチェーン1号店が開業したのは1980年(昭和55年)で、同業種の日本における草分け的存在である。

当初は、ヨーロッパ式の立ち飲みスタイルが取り入れられていたが、現在では全店舗に座席が設けられている。各店舗で気取らないカジュアルな雰囲気を取り入れており、キャッチコピーは「がんばる人の、がんばらない時間。」。

長らく島根県のみ未出店の状態だったが、2015年10月16日のシャミネ松江店オープンによって、タリーズコーヒー・スターバックスコーヒーに続いて全都道府県出店達成となった。
石油元売り大手のエクソンモービルと提携したことで、セルフ式ガソリンスタンドと併設している店舗も幹線道路沿いを中心に設置されるようになった。

併せて、2004年(平成16年)には東京都千代田区霞が関の中央省庁が集まる官庁街にある日本郵政公社(現・日本郵政)本社、中央合同庁舎第2号館および第5号館にも出店した。この他にも、郊外部だと大型ショッピングモールのフードコートへの出店が多い。また大型総合病院に出店している例もある。

業務を円滑に進めるため、店員のランクが細かく分かれており、上から順にP.A.MANAGER→P.A.LEADER→2級パートナー(2つ星)→1級パートナー(1つ星)→初級パートナー(若葉マーク)となっている。ただし、このランク制度がどこの店舗でも使われているというわけではない。一部店舗では、フレッツスポットやdocomo Wi-Fiといった公衆無線LANが導入されている。
(出典:Wikipedia「ドトールコーヒーショップ」)

セルフカフェの草分け的な存在の「ドトールコーヒーショップ」

1970年(昭和45年)代以降は、コーヒーを飲むという行為がより大勢の人に浸透し、「珈琲館」や「カフェ・ド・コロラド」といった珈琲専門店も登場した。 やがて時代の流れが速くなり、「喫茶店でのんびり」といった行為が見られなくなると、細切れに空いた時間を活用したいという客のニーズに合わせた、従来の喫茶店に変わるセルフサービスのカフェが主流となった。 そうしたカフェの文化概念を日本で確立し定着させたのは、鳥羽博道が1962年(昭和37年)に設立した「ドトールコーヒー」である。 セルフカフェが定着していた日本に、1996年(平成8年)に進出してきた「スターバックス」は、カフェ ラテに代表される「ミルク系コーヒー」いわゆる「シアトル系コーヒー」をもたらした。スターバックスのメニューや提案は、特に女性に支持された。スターバックスは、日本に上陸して僅か10年で業界最大手であったドトールコーヒーの売り上げを上回り、一躍業界最大手に躍り出たことでも知られる。 続いて日本に進出して来た「タリーズコーヒー」「シアトルズベスト」と合わせて、「シアトル御三家」とも呼ばれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%96%AB%E8%8C%B6%E5%BA%97%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

日本における喫茶店の歴史 - Wikipedia

1990年代 - 日本へスターバックスなどシアトル系チェーン店が進出。コーヒー一杯を300円から500円で提供

1990年代 - 古民家を改築した和風喫茶の「古民家カフェ」などもブームになる。

隠れ家的な「古民家カフェ」

1996年(平成8年)8月2日 「スターバックスコーヒー」は東京銀座に、北米地区以外では初めてとなる、日本1号店を出店

スターバックス(英: Starbucks Corporation、NASDAQ: SBUX)は、1971年にアメリカ合衆国ワシントン州シアトルで開業した、世界規模で展開するコーヒーのチェーン店である。1986年に、エスプレッソをメイン商品としてテイクアウトと歩き飲みが可能なスタイル(シアトルスタイル)でのドリンク販売を始め、後に北米地区全土に広がったシアトルスタイルカフェ・ブームの火付け役となった。

2014年現在、およそ60の国と地域で営業展開をし、店舗数は18,000以上に亘る。

1971年にシアトルで開業。当時は、コーヒー焙煎の会社にすぎなかった。1982年にハワード・シュルツが入社。シュルツは、コーヒー豆のみならず、エスプレッソを主体としたドリンク類の販売を社に提案した。
1985年にスターバックスを退社したシュルツは翌年にイル・ジョルナーレ社を設立し、エスプレッソを主体としたテイクアウトメニューの店頭販売を開始した。これがシアトルの学生やキャリアウーマンの間で大人気となり、瞬く間に流行した。シュルツは1987年にスターバックスの店舗と商標を購入。

イル・ジョルナーレ社をスターバックス・コーポレーションに改称し、スターバックスのブランドでコーヒー店チェーンを拡大した。同業他社もこれに倣い、同様のスタイルのコーヒー店が急増した。

当時のアメリカではイタリア流のファッションや食事が流行しつつあり、イタリア式コーヒーのエスプレッソを主体とするこれらの「シアトル系コーヒー店」はブームに乗ってすぐに北米全土に広がり、シアトルスタイルというコーヒーやコーヒー店のスタイルとして定着した。

1996年(平成8年)8月2日、東京銀座に、北米地区以外では初めてとなる、日本1号店を出店。チェーン店ながらも洗練された店内・おしゃれなメニュー品目・欧風のオープンテラスの併設などから大きな人気を呼んだ。

当時の日本の喫茶店としては珍しく、店内を全面禁煙にしていたことも特徴。喫煙する客のために、屋外のオープンテラスは喫煙可としている。特に女性層を中心に好評を呼び、日本のカフェブームが進むきっかけとなった。

2003年(平成15年)4月、茨城県守谷市けやき台のショッピングセンター西友楽市にドライブスルーを併設した日本国内初の店舗を開設(米国では1994年頃から出店している)。郊外店舗を中心に増やし、2008年(平成20年)3月現在で53店舗ある。

2006年(平成18年)7月31日、千代田区霞ヶ関の経済産業省内に出店。中央省庁への初出店となった。市谷本村町の防衛省庁舎厚生棟にも店舗があり、出店時の契約により、ほとんどの商品が定価の1割引きで提供される。職員や出入り業者はもちろん、防衛省見学コースの参加者も利用できる。なお、両店とも店舗検索には掲載されていない。

2008年(平成20年)3月、茨城県つくば市の筑波大学中央図書館エントランスホールに店舗を開設。日本の大学の附属図書館に専門店が設置されるのは初である。
2010年(平成22年)5月12日、全国で初めて仙台クリスロード店が地域活動の場として開放された[28]。他にも出店した地域の祭りに協賛するなど、メセナを積極的に行っている。

通常の店舗だけでなく、医療施設内にも出店がみられる。2009年(平成21年)時点では、一般病院内に3店、大学病院に23店を出店している。これらの多くは患者や見舞い客のみならず一般客も集客できる立地にあることが多い。
(出典:Wikipedia「スターバックス」)

スターバックス 日本1号店 中央区銀座3-7-14 スターバックスコーヒージャパン銀座松屋通り店

クランチー キャラメル トフィー ラテ、ホット アップル、ジンジャーブレッド ラテ

1997年8月 「タリーズコーヒー」は東京都中央区銀座に一号店を開店

タリーズコーヒージャパン株式会社(英称:Tully's Coffee Japan Co.,Ltd.)は、伊藤園傘下の、日本においてコーヒーショップ「タリーズコーヒー」の経営を行っている会社である。

1996年に当時三和銀行員であった松田公太が、渡米中に飲んだタリーズコーヒーの味に感動し、創業者のトム・タリー・オキーフに直談判して日本での店舗展開を実現。知人から譲り受けた株式会社ロコ・トレーディングで、1997年8月7日に銀座で一号店を開店することに始まる(この開店日にちなんで、8月7日を「タリーズの日」として様々なアニバーサリー・キャンペーンを行っている)。

当時破竹の勢いで店舗展開を行っていたスターバックスとの競合から一時は売上不振により倒産寸前に追い込まれるが、後に地道な営業努力により成績を上げ、1998年5月12日に正式な日本法人「タリーズコーヒージャパン株式会社」へと業務を移管した。

東京都心部のオフィス街を中心に直営店を出店していたが、2001年よりフランチャイズ方式による全国展開を開始している。2001年(平成13年)7月には、当時飲食業界最速の記録を更新してナスダックジャパン(後のヘラクレス)へと株式上場を果たした。

2002年(平成14年)8月1日に社名を「フードエックス・グローブ株式会社」に変更したうえで、会社分割を実施し、タリーズコーヒーの営業を新設子会社「タリーズコーヒージャパン株式会社」(現在のタリーズコーヒージャパン株式会社とは別法人)に移管して店舗展開を推し進める他、緑茶を中心とした「クーツグリーンティー」、中国スイーツを中心とした「爽好果(シャンライカ)」をオープンさせるなど、持株会社として飲食店の経営・フランチャイズ展開を行う事業会社を統括していた。

2003年(平成15年)9月に「経営戦略上」の理由からMBOを行って上場廃止をする。これは米TULLY'S COFFEE CORPORATIONが債務超過の状態に陥っていること、また株主等の様々なしがらみから解かれることで、より積極的な経営展開を行いたいという考え方の下で実施された。また、同年から、若年層の認知度を高めるためもあって、コンビニエンスストア向けチルドコーヒーを販売している。

2005年(平成17年)8月に子会社のタリーズコーヒージャパンが米TULLY'S COFFEE CORPORATIONからタリーズコーヒーの日本における商標権、営業権などの各種ライセンス権利を譲り受けて、完全独立を果たした。

2006年(平成18年)8月29日、SBIホールディングスの子会社、SBIキャピタル(社長北尾吉孝)へ第三者割当増資(17.1%)を行い、再び上場への動きを見せていたが、10月25日から26日にかけて、株式会社伊藤園が有限会社AC-T Holdingなどからフードエックス・グローブ株式会社の株式51%を取得し、11月1日をもって、同社の子会社となった。

2007年(平成19年)6月8日には、SBIキャピタル系のSBI Value Up1号有限責任投資組合から株式を追加取得して、80.5%の株式を取得した。

2008年、フードエックス・グローブ株式会社は子会社のタリーズコーヒージャパン株式会社(2代目)と合併し、商号を「タリーズコーヒージャパン株式会社」に変更した(元の商号に戻した)。
(出典:Wikipedia「タリーズコーヒージャパン」)

京都大学の学内カフェ「タリーズコーヒー京都大学時計台店」(2010年1月15日)

1999年7月 「エクセルシオール カフェ」の第1号店が東京都港区芝浦の「シーバンス・ア・モール」にオープン

エクセルシオール カフェ(EXCELSIOR CAFFÉ)は1999年7月に株式会社ドトールコーヒーから誕生した、イタリアンエスプレッソを中心とした日本生まれのカフェのチェーン店である。

第1号店は東京都港区芝浦の「シーバンス・ア・モール」にオープン。イタリアンモダンを基調とした異国情緒溢れる店舗や、オープンテラスを併設した店舗を展開している。2006年1月現在、都市部を中心に直営店を107店、フランチャイズによる店舗は26店となっている。

ドトールコーヒー社は、低価格で人気を博していた「ドトールコーヒーショップ」とは別に、新たな事業を模索していた。その最大のテーマは日本人の嗜好にフィットするような店があったらとの思いであった。そして、その思いから誕生させたのがエスプレッソコーヒーや、カフェラテ、カプチーノなどのスペシャリティコーヒーをドリンクメニューのメインとしたイタリア流のお店であった。

しかし、販売するものを変えても「ドトールコーヒーショップ」と差別化ができるか否かが大きな焦点であった。その為、カップの重さや椅子の座り心地、つくりおきの豆は一切使用しないなど細かい部分まで差別化を図り、独自の店舗を展開している。

ほとんどの店舗ではdocomo Wi-FiやフレッツスポットといったNTTグループ系の公衆無線LANを配備しており、ノートパソコンやPDAを利用している人をよく見かける。
(出典:Wikipedia「エクセルシオール カフェ」)

エクセルシオール カフェ 第1号店 東京都港区芝浦の「シーバンス・ア・モール」

2001年(平成13年)3月 世界初の常設型メイド喫茶である「Cure Maid Cafe」が秋葉原で開店

世界初の常設型メイド喫茶である「Cure Maid Cafe」が秋葉原で開店

2013年(平成25年)1月 セブン-イレブンは淹れたてコーヒーブランド「セブンカフェ(SEVEN CAFÉ)」をスタート

セブンカフェは、セブン-イレブン・ジャパンが2013年1月から展開しているコーヒーブランド。SEVEN CAFÉとも表記される。

コンビニカフェブランドにおける導入時期ではコンビニエンスストア業界の中で最後発であるが、業界最大手としてそれに火を付ける形で、「コンビニエンスストアでコーヒーを買う」という新たな消費行動を根付かせた。 イトーヨーカドーなど、セブン-イレブン以外のセブン&アイ・ホールディングスの店舗にも展開されている。

2013年7月、累計販売数が1億杯を突破する
同年9月、全国のセブン-イレブン約15,800店への導入を完了させる
同年12月、累計販売数が3億杯を突破する。
2014年10月下旬から、ブランドの開始から初めてカウンターコーヒーのリニューアルを行う。ホット・アイスそれぞれのコーヒー豆の配合・焙煎を見直し、豆の渋皮を除去する独自の“磨き工程”を新たに導入したという。
同年10月末から、セブンカフェ ドーナツ(SEVEN CAFÉ Donut)の販売を開始する。

2015年6月24日より、開発に江崎グリコが参加し、九州地区のセブン‐イレブン店舗からセブンカフェ初の新メニュー「アイスカフェラテ」の発売を行っている。このメニューでは、風味の劣化を防止するため光を透過しない黒色の専用カップを採用している。
(出典:Wikipedia「セブンカフェ」)

淹れたてコーヒーブランド「セブンカフェ」が人気に

店頭に設置されるコーヒーマシンは富士電機との共同開発

セブンカフェのコーヒーマシン

2013年11月6日 「サードウェーブ・コーヒー読本」

サンフランシスコ周辺のサードウェーブと呼ばれるコーヒー焙煎所の創業者たちへのインタビューを収録

サードウェーブ・コーヒー読本 茶太郎 豆央 (著)

サードウェーブ・コーヒー読本

2015年2月6日 「ブルーボトルコーヒー」は日本の東京都江東区平野に「清澄白河ロースタリー&カフェ」を開店

ブルーボトルコーヒー・カンパニー(英語: Blue Bottle Coffee Company)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州オークランドに本社を構えるコーヒー生産販売企業である。

オークランドで創業後、他地域に拡大しており、フェリービル(英語版)やサンフランシスコ近代美術館屋上庭園などサンフランシスコ各地にカフェを出店した。2010年、ニューヨークに初出店した。直営店ではコルタードコーヒーである「ジブラルタル」といったオフメニューアイテムも用意されている。

サンフランシスコを拠点とする競合コーヒー企業にはフォーバレルコーヒー、リチュアル・コーヒー・ロースターズがある[3]。2012年、かつて独立系コーヒー企業であったスタンプタウン・コーヒー・ロースターズ等と同様の道を歩み、ベンチャーキャピタルから2000万ドルを調達した。

2015年2月6日にはアメリカ国外初の店舗として日本の東京都江東区平野(清澄白河駅付近)に「清澄白河ロースタリー&カフェ」を開店した。

なお、店舗の進出以前にも、東京都渋谷区宇田川町の西武百貨店渋谷店モヴィータ館地下のオープニングセレモニー内に2009年10月23日に開店したカフェ「POTLUCK」(ポットラック)で「ブルーボトルコーヒー」のコーヒーが提供されていたが、このカフェは1年後に閉店している。

2015年4月には、サンフランシスコを本拠とするベーカリーチェーンの「TARTINE BAKERY & CAFE」を買収し傘下に収めた。
(出典:Wikipedia「ブルーボトルコーヒー・カンパニー」)

ブルーボトルコーヒー「清澄白河ロースタリー&カフェ」

ブルーボトルコーヒー 清澄白河 ロースタリー&カフェ
営業時間:8:00〜19:00
住所:東京都江東区平野1-4-8

"コーヒー界のApple" 焙煎したてのコーヒーを提供する米サンフランシスコ発「ブルーボトルコーヒー」が日本上陸

ブルーボトルコーヒー 青山カフェ
営業時間:10:00~21:00
住所:東京都港区南青山3-13-14
店舗面積:214平方メートル

ブルーボトルコーヒー 青山カフェ

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