丸山桂里奈  日本サッカー史上、男子を含めて唯一のワールドカップ優勝。ドイツ戦の決勝ゴールを決めたとき思ったのは「気持ちワル!」

丸山桂里奈 日本サッカー史上、男子を含めて唯一のワールドカップ優勝。ドイツ戦の決勝ゴールを決めたとき思ったのは「気持ちワル!」

東日本大震災が起こった年、「サッカーで日本に元気を送りたい」という思いでドイツワールドカップに乗り込み、絶対に勝てないといわれたドイツ戦で決勝ゴールを決め、男子を含めて日本サッカー史上初のワールドカップ優勝。


1983年3月26日、丸山桂里奈は、東京都大田区に生まれ、妻を「ネコ」と呼ぶ父、夫を「ウサギ」と呼ぶ母、丸山桂里奈がオリンピックに出ているとき、家で
「アレッ、桂里奈いないけどどこいったの?」
という兄と囲まれて育った。
小学校5年生の終わり、仲良しだった福田君と大島君が大田区立入新井第一小学校サッカークラブに入団したので、一緒にいたい一心で自分も入った。
今でもサッカーを始めたきっかけを聞かれると
「好きな男の子と一緒にいたかったから」
と答える丸山桂里奈だが、それとは別にサッカーが大好きになった。
ゴールを決めるのはもちろん、技術を習得してできなかったことができるようになったり、プレー中にみんなが1つになれることや同じことを目指して頑張れること、選手や指導者だけでなく応援している人たちも一緒に喜びを分かち合えるところが大好きだった。
「これは私の持論なんですけど、ボールって丸いじゃないですか。
私、丸いものが好きで、集まっている人はみんな良い人なんだと思うんですよね」
サッカーが大好きで家の近所の路地裏で暗くなるまで壁に向かってボールを蹴り、学校もボールをリュックに入れ、スパイクを履いて登校し、授業中も
「サッカーしたいな。
早く放課後にならないかな」
とサッカーのことばかり考えていた。
チームの中で女子は自分だけだったが、男子に混ざって試合で活躍し、ドンドン自信をつけ、逆に体格や体力の差でひっくり返されると
「それ自体、悔しくて、ますます練習にのめり込みました」

Jリーグのジェフユナイテッド市原のピエール・リトバルスキーが大好きで、
「今思うとなんでそんなに好きだったか謎」
というが、とにかくリトバルスキーに夢中。
知名度ではジーコが優っていたが、ワールドカップの実績ではリトバルスキーの方が上。
(リトバルスキーは、ドイツ代表としてワールドカップ決勝の舞台を3度踏み、1度優勝を経験。
ジーコも、ブラジル代表として3度ワールドカップに出ているが、決勝に進んだことは1度もない)
最も特徴的だったのは、170cmに満たない体でのドリブル突破。
ボールをガニ股の脚の間にスッポリと収め、まるで足に吸いつくようなドリブルで相手を抜き去る姿は
「オクトパスドリブル」
と呼ばれた。
「カッコイイ」
「リトバルスキーみたいになりたい」
と思う丸山桂里奈は、自然と歩き方もガニ股に。
結果、真っ直ぐだった脚は、母親に
「お願いだから素足でスカートはかないで」
といわれるほどO脚になった。

リトバルスキーのプレーをビデオで繰り返しみて、雑誌についていたポスターを部屋に貼り、グッズや文房具も集めた。
中でも1番お気に入りは、リトバルスキーが表紙になったノート。
勉強に使うのはもったいないので
「サッカーのことを書くノートにしよう」
と思いついた。
これが「サッカーノート」の始まりだった。
その日の体調、練習メニュー、練習でうまくいったこと、うまくいかなかったこと、フォーメーションの絵などなどサッカーに関することなら何を書いてもOK。
すごく細かく書くときもあれば、超アバウトに書いたり、しばらく書かなくなったり、そんなことを繰り返しながら、サッカーノートは何冊にもなっていった。
「長く書き続けたサッカーノートは、私にとって貴重な資料になっています。
例えば練習していると昨日までできていたプレーが突然うまくできなくなってしまうことがあります。
そんなとき昔のノートを振り返ってみると、できていた頃の体調や練習メニューがわかって、あのときはこんな練習していたんだとか、毎日続けていた腹筋をやめたから調子が落ちたのかななどと比較して考えることができます。
体調や練習内容だけでなく、そのときの気持ちまで思い出してヒントになることもあります。
サッカーノートは、私を迷いから救ってくれるバイブルです」


5年生の終りからサッカーを始めた丸山桂里奈は、小学校卒業が近づくと日本女子サッカーリーグの超名門チーム「ベレーザ」の下部組織「メニーナ」の入団テストを受け、200人中10人の合格者の1人となった。
大好きな男の子2人を追いかけてサッカーを始め、
「大島君のことがちょっと好きになっていました」
という丸山桂里奈だが、大島君は違う中学生に行き、福田君は、同じ大田区立大森第二中学校に入ったがラグビーを始め、そして自分は、サッカー漬けとなった。
メニーナは、ベレーザのジュニアチームで、ベレーザがポルトガル語で「美人」という意味なのに対し、メニーナは「少女」
出来上がった選手を集めるのではなく才気ある中学生、高校生を鍛えようというベレーザの育成システムでもあり、両チームは同じ時間、同じ場所で練習し、クラブハウスのロッカールームも同じだった。
練習は、週6回。
週末はベレーザの試合があって翌日が休みとなるので、月曜日だけが休み。
練習場所は、川崎市のよみうりランドの中にある専用グラウンド。
ベレーザは基本的に社会人なので、学校の部活動より遅めの18時30分に練習が始まり、21時30分に終了。
丸山桂里奈は練習場まで、電車、バスを乗り継いで1時間半かかるので、毎日、中学校の授業が終わるとダッシュで駅へ。
18時20分に練習場に着いて21時までミッチリ練習。
練習後、片づけと着替えを済ませて帰路につくのは22時。
コンビニで買ったおにぎりやカップラーメンを電車の中で食べて、走行する振動に揺られながらボーっと景色を眺めるのが心安らぐ大好きな時間だった。
駅に着くといつも母親か父親が自転車で迎えにきてくれていて、
「いいことも、何かイヤなことがあったときも、とにかく自分からなんでも話しました」
帰宅は24時を過ぎることもあったが、
「話を聞いてもらえたという満足感もあってスッキリし、家に着く頃にもうは元気になっていました」
そして布団に倒れ込んだ。

よみうりランドでは男子チームであるヴェルディも練習していて、まじかでみることができ、丸山桂里奈は、
「すごい人がいっぱいいる」
と感動。
ベレーザでは、野田朱美や大竹奈美などに圧倒されたが、中でも4歳上、東京都立南野高校に通う澤穂希は特別な存在だった。
丸山桂里奈と同じく中1でメニーナに入った澤穂希は、1ヵ月でベレーザに昇格し、さらに数ヵ月後、日本女子サッカーリーグにデビューし、3戦目で初ゴールを含む2得点。
中3の冬、日本代表デビュー戦で、いきなり4得点。
丸山桂里奈は、メニーナに入る前から
「澤さんのすごさは日本中誰もが知っていますが、私たちサッカー選手にとっては澤さんは神様みたいな存在でした」
と思っていたが、実際に会ってみると
「澤さんは地蔵だと思っていて、地蔵様くらい温厚なんです。
神様、仏様ってありますけど、私は地蔵様が1番上にいるんです。
その位置にいるのは澤さんしかいないんです」
といって、ますます崇めた。

メニーナの練習はキツかったが、イヤだと思ったことは1度もなく、サッカーをするのが楽しくて仕方なく、早めに練習場に着いた日は、壁に向かって1人でひたすらボールを蹴り続けた。
「キャプテン翼じゃないけど、本当にボールは友達という感じ」
ある年の大晦日、大雪が降ると丸山桂里奈はボールを持って近所の公園へ。
「雪がクッションになって倒れても痛くない」
とオーバーヘッドシュートを
「ここぞとばかりにめちゃくちゃやりました」
ひたすら練習し続け、気がつくと24時を過ぎていて、文字通り年もオーバーヘッドしてしまった。
「サッカーが生活の中心にあるのが当たり前だったんですよ。
サッカーのためなら、何もツラくないんです。
本当にごはんを食べている感じで。
とにかく点を獲りたいという気持ちしかなかったから、自主練も勝手にやるし、ご飯にもまったく興味がなくて、ただ良いプレーをするためだけに栄養を摂取している感じでした」

中学校に
「Kちゃん」
という同級生がいた。
髪を染め、制服も着崩し、タバコも吸う、いわゆる不良といわれている女の子だった。
中2の夏、丸山桂里奈はKと仲良くなり、一緒に遊ぶようになった。
門限18時、長時間のテレビ禁止、お笑い番組は一切禁止、炭酸ジュース禁止、駄菓子禁止などのルールを設けていた丸山家は驚愕。
元モデルで福祉関係の仕事をしている母は、礼儀や挨拶について厳しく、
「1度決めたことは途中で投げ出さずに最後まで続けなさい」
「小さいことでも1つ1つ積み重ねていけば絶対に自分のモノになるから」
と教えていたが、娘がKと一緒にいるのをみると、
「遊んじゃダメ」
「あの子といるとあなたまで悪く思われるよ」
といった。
丸山桂里奈は友人を悪くいわれ、
「うるさい」
「私がよければいいでしょ」
と反抗。
挙句、売り言葉に買い言葉で
「そんなこというならサッカーやめてやる」
といってしまい、そのままメニーナの練習に行かなくなってしまった。
そして堂々とKと遊んだ。
2人ともジャニーズJr.が好きで追っかけや出待ちをやった。
「京都まで行ったこともあります。
Kちゃんと遊ぶのはスポーツばかりしてきた私にとって、とても新鮮な体験で、新しい世界が開けたみたいでやたら楽しく、夢中になってしまったのです」
夜遅くなると自分の家に戻るのが面倒でKの家に泊まることもあり、Kの家に母親が迎えに来ると居留守。
夏祭りの後、Kの家に向かって夜道をふざけながら歩いていると前方から自転車に乗った母親が突進してきた。
丸山桂里奈は、母親が自転車を降りて停めた瞬間、自転車を蹴飛ばして逃走した。

一方、練習には出なかったものの、クラブハウスにはときどき顔を出していた。
チームメイトいわく、パジャマ姿や馬のマスクをつけて来たこともあったというが、そこでみんなと話をしているうちに、だんだん
「こんなことしてていのかな?」
「追っかけや夜遊びは楽しいけど、これが本当に自分のやりたいことなんだろうか?」
そして大勢のファンに応援されるジャニーズJr.をみても
「私も応援される側になりたい」
と思うようになり、
「私はサッカー選手として応援されるようになろう」
と一念発起。
3ヵ月の貴重なブランクを経てメニーナに復帰。
心を入れ替え、今まで以上にサッカーに打ち込み、不良少女からエースストライカーに復活した丸山桂里奈は、
「横道にそれてもいい。
戻ったところが自分の進む道」
といっている。

中学3年間で100ゴールを決め、卒業後はベレーザに入ることになっていたが、
「上手な選手の中で自己鍛錬するより、普通のチームで自分をどう強くできるかを試したい」
と思い、
「普通の高校のサッカー部に入りたい」
と打ち明けた。
するとメニーナの監督は激怒。
母親は
「本当にそれでいいの?」
と聞き、娘の意志が堅いのがわかると知ると一緒に監督に謝りにいった。
こうしてメニーナを退団し、文京区にある村田女子高等学校に進学し、女子サッカー部に入部。
クラブでプレーに専念すると共に1人で自主トレ。
連日、大田区山王2丁目12番と3丁目31番の間を北西に上がる急坂、通称「闇坂(くらやみざか)」を
「全力だと最後まで持たないため、6割で」
100回ダッシュ。
闇坂以外にも都内の坂道をほぼ走破した。
メニーナの練習で遅くなると駅まで迎えにきてくれた父親は、この自主トレにも毎日付き添った。
テレビドラマ「古畑任三郎」をみて西村まさ彦演ずる「今泉」の大ファンになった丸山桂里奈は、美容院に雑誌の切り抜きを持っていって同じような短髪にしてもらった。
ボーイッシュな風貌で同じ高校の女子たちにモテ、バレンタインデーはチョコレートを30個もらい、高校3年生のとき、第9回全日本高等学校女子サッカー選手権大会で第3位となった。

丸山桂里奈は、サッカー推薦で日本体育大学体育学部体育学科に進学。
日体大女子サッカー部はゴリゴリの体育会系。
先輩後輩の礼儀が厳しく、丸山桂里奈は普段から先輩の顔色をうかがい
「歯をみせないように先輩と話さないといけなかったです」
というが、先輩の藤巻藍子は
「空気の読めない後輩でした」
といっている。
日本体育大学 女子サッカー部監督、芦原正紀は、高校時代は関東選抜として活躍し、初代監督として日体大をゼロから指導し、丸山桂里奈が入った前年に初優勝。
丸山桂里奈をみて
「ワガママなプレーヤーだから自分の好きなときは動くけど、そうでないときはサボる。
そういう浮き沈みの激しいスタイルを直せば、もっと伸びる」
と分析し、1年間、フォワード一筋だった丸山桂里奈に様々なポジションを経験させた。
また上級生に遠慮しているのをみて
「もっと自分の持っているものを出せ」
とアドバイス。
丸山桂里奈は、さらに自分をさらけ出すようになった。

フィールド上では先輩も後輩も関係なく、実力さえあればレギュラーになれるという環境に、必死に練習を重ねた丸山桂里奈は、日本代表に初召集された。
丸山桂里奈は、日本代表に呼ばれたといわれ、最初は信じられず、
「マジっすか?」
「マジっすか?」
「マジっすか?」
と何度も聞き、本当だとわかると、まず思ったのは
「うわっ、超ヤダ」
それまで
「日本代表にいったらボコボコにされる」
と聞いていたので
「日本代表=超コワいところ」
と思っていた。
そして日本代表に入ったことを周りの同級生に
「めっちゃスゲーじゃん」
「マジで選ばれたの?」
と驚かれながら、1番最初に報告したのは彼氏。
続いて家族に報告すると大喜びされてうれしかったが、
「本当に?」
「本当に?」
「本当に?」
と何度も何度も聞く母親に、少しイラついた。

このとき大学生で日本代表になったのは、神奈川大学の矢野喬子(現:帝京平成大学女子サッカー部)と丸山桂里奈だけだった。
「私たちが1番年下で・・・
結構黄金世代っていうか、フォワードは澤(穂希)さんとか荒川(恵理子)さんとか井坂(美都)さんとか大谷(未央)さんとか、むっちゃうまい人ばっかりで。
エッ、こんな中で本当に入れるのかって。
それまでアンダー18とか選ばれてましたけど、やっぱりA代表って全然違うから。
ほんと子供が大人に入ったみたいなイメージだったから。
メチャクチャうれしいんだけど、あの中でできるかなって、怖ェーッてのはあった」
実際、日本代表の練習はハードだったが、それ以上に
「めっちゃコワかった。
イヤッ、コワかったっス」
というほど雰囲気に緊張しすぎてほとんど記憶がない。
「年下はサッカーやってるだけじゃねえぞみたいな、お前運べよみたいなのはあって、そういうものに気を遣いすぎて疲れてしまって、正直いってサッカーはちゃんとできなかったです」
しかし日本代表で得た刺激は大きかった。
全員が例外なくサッカーが大好きで、勝ちたい、もっとうまくなりたいと努力する人間ばかり。
試合に出られない選手もいるがフテ腐れたり、集中力も切らしていい加減に過ごす選手は1人もおらず、悔しいはずだが文句ひとついわずに練習やミーティングだけでなく準備や片づけにも主体的に参加し、チームのプラスになることを見つけて貢献しようとしていた。
日本女子サッカー代表は、試合後のユニフォーム交換は
「もったいないからダメ」
と禁止令が出たり
「代表チームに入ると1日あたり1万円の日当が支払われるので、『サッカーしてお金がもらえるなんて夢のようだね』と選手たちはみんな話していました」
というように男子に比べて金銭的には恵まれていなかったが、
「サッカーが好き」
「サッカーを続けたい」
「サッカーで夢を叶えることはお金で買えるものではない」
という思いであふれていた。
そのためプレーの迫力で劣るかもしれないが、逆境にも決して明るさを失わない精神的逞しさは男子を凌いだ。

日本代表から大学に帰ると1年生だったので同じように下働きをしたが、代表に選ばれたことで先輩に
「浮ついている」
「あなた5年生ですか?」
などとイヤミいわれることが増えた。
丸山桂里奈は、それに年下として対応しながら、
「そういうことをいう人はヘタな人が多い」
「試合に出てナンボ。
ピッチで結果を残す!」
と燃えた。

2年生のとき、韓国で第14回アジア大会があり、日本代表は出国前に成田で宿泊したが、丸山桂里奈は、そこで澤穂希と同部屋になった。
緊張はピークに達し、まず澤の荷物を部屋まで運び、澤が来ると直立不動。
そして
「何か失礼なことをいってしまったら大変」
と無言。
澤穂希に、
「私は体のケアがまだだから、桂里奈先に入って」
とお風呂を勧められても
「尊敬する先輩より先にシャワーを使うなんてとてもできません」
その後、何度もルームメイトになって
「桂里奈、シャンプー持ってきて。
私、リンス持っていくから。
同じもの使っているからいいでしょ」
と貸し借りをしたり、サッカーに関することやそれ以外のことでも、なんでも話せるほど親しくなった。
「夜、しゃべり足りなくて電気を消してもしゃべっていたこともあります。
私が澤さんをとてもすてきだと思っていることは、いつ誰に対してもフランクで親切なところ。
そしてちょっと天然なところもいいなと思います」
丸山桂里奈は、北朝鮮戦で日本代表デビュー。
日本代表は下着を自分で洗濯しなくてはならなかったが、丸山桂里奈は、下着を置きっぱなしの上、溜め込み、干し方も他の選手いわく
「いっちゃえば絞ってそのまんま」
だった。

大学3年生のとき、第4回FIFA女子ワールドカップが開催。
当初、中国で行われるはずだったがSARS(重症性呼吸器症候群)の大流行で、急遽、アメリカに変更。
日本は4大会連続参加となったが、

アルゼンチン戦 6対0
ドイツ戦 0対3
カナダ戦 1対3

と2大会連続予選リーグ敗退。
大学3年生の丸山桂里奈は、この大会で初めて「ジョーカー」となった。
それは「切り札」という意味で、後に「スーパーサブ」と呼ばれるようになった。
日本代表は個の力より組織力を重視するサッカーだったが、後半、相手ディフェンダーが疲れた時間帯にドリブルで仕掛けて点をとる、最悪、倒されてもフリーキックを得るような選手が「ジョーカー」だった。
チームメイトいわく
「味方も読めないんで相手も読めない」
というドリブルとシュート力を兼ね備えた丸山桂里奈は、これまでずっとスタメン、フォワードとして90分戦ってきたが、出番までベンチから相手ディフェンダーを観察し、自分が裏に回るイメージを繰り返した。
「本音をいえばスタメンで初めから出て、前半からドンドン得点を狙っていきたいという気持ちはあります。
でも代表で私に求められているのは、バテている相手にドリブルでゴール目指してひたすら突っ込んでいくこと。
そして得点につなげることです」

2004年、4年生の丸山桂里奈は、アテネオリンピック日本代表に選ばれ、あまり日体大の練習には出られなかったが、1年生の川澄奈穂美は、そのプレーをみて、
「ウウッとなった」
「衝撃の存在だった」
という。
そして話してみて、
(全っ然、人の名前覚えない!)
と驚いた。
例えば丸山桂里奈に、
「〇〇高校出身の、あの子いるじゃん」
といわれ、
「えっ、誰?
〇〇ですか?」
と聞き返すと
「そうそうそうそう」
というので、
(出身校わかるなら名前覚えろよ)
と思った。
さらに
「ウチさあ、こうやってサナホとさあ、超しゃべってんじゃん。
あんまりさ、なんていうの、下の子にちゃんとしてよってさ、タメから怒られるんだけど、ヤバくない?」
といわれ、
(私にそれいう?)
と思いながら
「そうですね」
と答えた。
あまりにフランクな丸山桂里奈に、本当は『・・・先輩』といわなくてはならないのに、すぐに
「桂里奈さん」
と呼ぶようになり、最終的には
「かりちゃん」
になった。
とにかく丸山桂里奈に笑わせてもらい、地獄の大学1年生時代を救われた川澄奈穂美は、
「ホント、まんま。
ホント、いいと思う」
といっている。

アテネオリンピック出場を決めた後、日本では女子サッカーブームが起こり、日本代表は取材やテレビ出演のオファーが殺到。
日本サッカー協会は、
「もっと親しみを感じるような名前があるといい」
と愛称を募集。
7月7日、七夕の日に日本女子代表チームの新しい愛称の発表イベントを開催。
丸山桂里奈を含む浴衣姿の5人の日本女子代表選手が持つ大きな紙には、地獄のリハビリを経て復活したキャプテン、澤穂希の筆で
「なでしこジャパン」
と書いてあった。
逆境に強い、凛々しく清々しい女性を表すネーミングだった。
「それまで「A代表」と呼ばれていた私たちのチームの愛称が「なでしこジャパン」となりました。
正直、最初はしっくりこなかったのですが、徐々に好きになり、いまではこれ以外にないと思うくらい好きです」
1ヵ月後、なでしこジャパンは、ギリシアに移動。
男子代表がビジネスクラスなのに比べ、女子はエコノミーで、積める荷物も限られ、ボールやウェア、トレーニング用具を優先し、個人の荷物は最小限にとどめ、男女格差を感じながら港町ボロスへ。
丸山桂里奈は、日本代表キャプテン、大部由美と同部屋になった。
上田栄治監督以下、代表スタッフがライバルを徹底的に研究した結果、陣形は3バックから右サイドハーフを置かない変則的な4バックに変わったため、レギュラーだった大部由美は控えに回っていたが、
「サブが強いチームは強く、サブが弱いチームは弱い」
と声をかけ、
「メンバー全員で五輪の切符をとる」
という一体感につなげていた。
そんな大部由美を
「大変規則正しい方」
「練習以外にも厳しい方」
と思っていた丸山桂里奈は、絵葉書を書いたり本を読んで静かに過ごした。

8月11日、予選リーグ第1戦、スウェーデン戦に1対0で勝利。
翌12日、アテネの選手村に移動し、男子のパラグアイ戦を応援し、世界の有名アスリートを目の当たりにして盛り上がった。
14日、予選リーグ第2戦、ナイジェリア戦。
アフリカのチームと対戦経験がないなでしこジャパンは、独特の身体能力の高さと何をやってくるかわからないプレーに翻弄され、0対1。
その上、攻守の要、ボランチの宮本ともみが負傷。
なでしこジャパンは予選リーグ3位だったが、内容でなんとか決勝トーナメントに進出し、予選で敗退し帰国する男子代表をカップラーメンなどをもらった後、お見送り。
20日、決勝トーナメント初戦(準々決勝)で、世界ランキング2位のアメリカと対戦。
上田栄治監督は、ナイジェリア戦で負傷した宮本ともみが強行出場させ、丸山桂里奈は、小林弥生、柳田美幸、安藤梢、山岸靖代らとベンチで途中出場に備えた。
前半43分、ゴール前に上がったボールを捕りに出たゴールキーパー、山郷のぞみが、アメリカの選手と交錯してファンブルし、こぼれたボールを押し込まれ、0対1。
後半3分、日本は山本絵美のフリーキックで1対1。
後半14分、ゴール前にロングボールが飛んできた日本は、思い切ってオフサイドトラップを仕掛けたが、副審のフラッグは上がらず、4人のフリーな選手を相手に山郷のぞみがゴールを奪われ、1対2。
交代で入った丸山桂里奈は、得点を目指してボールを追いかけたが、アメリカの巧みなゲームコントロールの前にタイムアップ。
1対2で敗れ、アテネオリンピックが終わった。

大学4年間で、

・全日本大学女子サッカー選手権大会を4年連続優勝(日体大は5連覇)
・日本代表(なでしこジャパン)として、FIFA女子ワールドカップ、アテネオリンピックに出場

という華々しい活躍をした丸山桂里奈は、当初、ベレーザ入団が決まりかけていたが、東京電力へ就職し、「東京電力女子サッカー部マリーゼ」に入団した。
マリーゼは、非鉄金属メーカーであるYKKの東北工場で創設され、日本女子サッカーリーグでも好成績を残した「YKK東北女子サッカー部フラッパーズ」が東京電力が移管されてできたチームで、丸山桂里奈が入ったとき、まだ創部7ヵ月だった。
「中学を卒業するときもベレーザに上がれたんですけど、自分が高校サッカーがいいなと思ったんです。
メニーナから高校にいった人にもいろいろ話を聞いて、高校サッカーっていいなと思って。
それにあんまり上手くはないけど、そういう高校サッカーを強くしたいという気持ちもありました。
いつもそういう感じなんです。
マリーゼに入ったときも、本当はベレーザに行く予定だったんですが、それをやめてマリーゼに行ったので。
YKK東北女子サッカー部フラッパーズが移管してきてマリーゼになるというタイミングで、だからそのときもすごく弱かったけど、新しいチームになるから強くしたいという気持ちが出てきて。
自分にはそういうのが合っているというか、信念みたいなものなんですかね」
マリーゼの由来は、
「海(マリーン)のように力強く、風(ブリーズ)のように颯爽と」
選手、スタッフは全員、東京電力の社員で、午前は福島第一原子力発電所で働き、午後は双葉郡楢葉町にあるJヴィレッジスタジアムで練習するというリーグ唯一の実業団チームだった。

マリーゼの選手は、全員、社員寮に入り、1人1部屋、8畳ほどの個室がもらえ、風呂、トイレは共同。
毎朝、一緒に「マリーゼバス」に乗って福島第一原子力発電所へ向かい、それぞれ部署で仕事。
丸山桂里奈の仕事は「管理職付」だったが、上司は2年後に起こる震災で原子炉の暴走をギリギリで回避させる吉田昌郎だった。
基本的に午前中で仕事は終わり、午後、マリーゼバスで移動し、Jヴィレッジスタジアムで練習。
そして練習後、一緒にマリーゼバスで寮に戻った。
「1番戸惑ったのは仕事でも練習でも寮でもずっと同じメンバーと行動を共にしなくてはいけなかったこと。
いつも一緒なのでさみしくはなかったけど、どんなに仲が良くても仕事でもプライベートでもずっと顔を合わせていると、さすがに息が詰まる。
それにずっと一緒にいることで緊張感がなくなってプレーに影響が出てしまうことが心配でした」
マリーゼには、アテネオリンピックのとき日本代表キャプテンだった大部由美がいて、丸山桂里奈ら新人は練習以外に寮生活でもよく注意を受けた。
あるとき練習が19時から始まる日があり、いつも軽く食べてから練習に行く丸山桂里奈だが、この日は用事があってそれができない。
そうなると夕食は寮に帰ってから22時くらいになってしまうため、仲の良かったチームメイトとパンを買いに行って、練習後、寮に帰る前に食べた。
そしてチームが食堂で食事しているとき、2人だけで風呂に入っていると、大部由美が入ってきて、
「あなたたち何考えてるの!」
と怒られ、その場で正座。
寮ではみんなで一緒に食事をとるというルールがあることをコンコンと説教された。

ずっと東京の下町で暮らしてきた丸山桂里奈は、福島県がどんなところかまったく知らなかったが、美しい土地と人の善さに感動。
最初、自転車しか移動手段がなかったが、運転免許を取得すると県内外へドライブへ出かけた。
川内村の「かわうちの湯」という温泉は
「寮から車で30分くらい山道を走らせないといけないので、あまりみんないけないし、ここまでくるとマリーゼの選手を知っている人も少ないので思い切り羽を伸ばせる」
と常連に。
五色沼や猪笛代湖など県内の観光地は
「ほとんど行き尽くした」
海沿いの道や山奥の道など自然の中を車で走るのが爽快だった。
「私はドライブが好きで、特に1人で運転していると、誰もいない空間なのでいろいろ考え事もできるし、気分が変わって気持ちに余裕が出てきます。
車の中では爆音で音楽を聴いています。
音楽とドライブというのは最強のカップリングで寮に帰る頃にはすっかりリフレッシュして頑張ろうという気になっていました。
どんなにイライラしても、凹んでも大丈夫!
車と音楽があればいい!」
また広い海と建屋しかみえない福島第一原子力発電所の展望台も
「将来、ここで結婚式を挙げたい」
と思うほど大好きな場所だったが、震災後、誰も近づけない場所となってしまった。

ちなみに
「初体験は2005年、22歳」
といい、マリーゼ1年目に夜のデビューも果たしたが、クリスマスイブに一緒にドライブしていたとき、かかってきた電話に出ただけで激怒され、監禁状態となり朝まで車から出られなかった。
「好きなことなら恋愛もサッカーも全力でできます。
アスリートはオン・オフが大事なんていいますけど、私はオン・オフなんてないんですよ。
起きているときは常にオンです。
だからサッカーも全力だったけど恋愛だって全力で向き合っていたんです。
例えば彼氏の家に泊まった次の日の練習は「イチャついたんだからメッチャ頑張ろう!」って誰よりも熱心に練習に励んでいました。
ケンカしたりトラブったり失恋しても「なんだよーっ!」って思って、どっちみちエネルギーになるんで。
アスリートってモチベーションが大事なので、私の場合は恋愛がサッカーのパワーにもなっていたんです」

創設1年目、マリーゼはリーグ4位で丸山桂里奈は、8得点を挙げ、新人賞。
日本代表としては、真夏の韓国で行われた第1回東アジア女子サッカー大会で2試合(北朝鮮戦と韓国戦)に途中出場したが、

北朝鮮 0対1
中国 0対0
韓国 0対0

と無得点で3連敗。
マリーゼ2年目、昨年は優勝争いに絡んだのに1勝8敗5分と1勝しかできず、2部リーグに降格。
日本代表として、7月のAFC女子アジアカップと12月のアジア競技大会に参加したが、無得点。
3年目、

3月 FIFA女子ワールドカップ予選、
4~8月 北京オリンピック最終予選
9月 FIFA女子ワールドカップ

という日本代表戦に加え、4~12月までリーグの試合があった。
マリーゼは「2部リーグ優勝」、そして丸山桂里奈は「得点王」に目標に掲げたが、シーズン序盤に「グローインペイン症候群」を発症。
グローインペイン症候群は、股関節周辺筋肉のオーバーユースによって起こる股関節障害で、手術や薬で治せるものではなく、とにかく安静にして休ませるしかなかった。
しかし日本代表に入ることをあきらめられない丸山桂里奈は、
「まだ可能性はある」
と股関節に負担をかけない体全体を使う蹴り方にフォームを改善。
すると最初、利き足である右足の股関節が痛み出し、左で蹴るようにすると左の股関節も痛くなった。
左をかばうと右、右をかばうと左が痛くなるという悪循環を繰り返した末、くしゃみをしたり座っているだけで骨盤周辺に激痛が走るまでに悪化。
結局、日本代表は辞退。
大泣きした後、
「本腰を入れて休むしかない」
と気持ちを切り替えた。
すると症状は改善し、プレーできるようになり、最終的にマリーゼは、2部リーグで優勝し、1部復帰。
丸山桂里奈は、17試合22得点という驚異的な記録を挙げたが、ベレーザの大野忍の23得点に及ばず、得点王にはなれなかった。

丸山桂里奈が入れなかった日本代表は、北京オリンピックの出場権利をGETしたものの、FIFA女子ワールドカップでは、

イングランド 2対2
アルゼンチン 1対0
ドイツ 0対2

で予選グループリーグ敗退。
ワールドカップが終わった後、「ノリさん」こと佐々木則夫が代表コーチから代表監督に昇格。
この時点で北京オリンピックは9ヵ月に迫っていた。
2008年2月4日、佐々木ジャパンが静岡県で初合宿を行い、丸山桂里奈は日本代表に復帰。
最初のミーティングでシステムの変更が告げられ、これまでは

中盤をダイヤモンド型にする4-4-2
2トップの下に攻撃的MFを置く3-5-2

だったが、

中盤を4人を横一列にする4-4-2
守備スタイルも、人をマークする「マンマーク」ではなく、エリアをマークする「ゾーンディフェンス」

になった。

合宿から2週間後の2月18日、中国で東アジア女子サッカー選手権が開催。
短い準備期間でのいきなりの公式戦だったが、佐々木監督は、
「北京オリンピックで勝つために新しいサッカーに取り組もうとしている。
最初から新しいシステムがうまく機能するとは思っていない。
東アジア選手権は北京オリンピックへ向けての通過点。
恐れずにやればいい。
課題が出た方が今後のためになるから逆に失敗するくらいでいい。
結果にはこだわらなくてもいい」
といい、それを聞いて選手は、
「とにかく自分たちのサッカーをやろう」
と思い切りプレーすることに専念。
まず宿敵、北朝鮮に3対2で勝利すると佐々木監督は、修正点を書いた紙をホテルのエレベーターに貼り、次の日からチーム全員が、その課題を意識して練習。
2戦目、韓国戦も2対1で勝利。
3戦目、決勝戦の相手は、中国。
「結果にはこだわらなくてもいい」
といっていた佐々木監督が
「優勝狙っていくぞ」
といい出したので丸山桂里奈は、
「いってること全然違うじゃーん」
といって笑った。
そして中国サポーターで埋め尽くされて真っ赤になったスタジアムで激しいブーイングを浴びながら、3対0で勝利し、アジアナンバー1になった。
1ヵ月後、第1回キプロスカップがあり、アメリカ、オランダ、スコットランド、カナダ、ロシア、日本が参加し、なでしこジャパンは3位。
その2ヵ月後のAFCアジアカップでは、ここまで出番がなかった丸山桂里奈が、2戦目、台湾戦でゴールを決め、なでしこジャパンは4位。
さらに1ヵ月半後、アジアカップの3位決定戦で敗れたオーストラリアと親善試合で再戦し、3対0で勝利。
その3点目は丸山桂里奈だった。

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