丸山桂里奈  日本サッカー史上、男子を含めて唯一のワールドカップ優勝。ドイツ戦の決勝ゴールを決めたとき思ったのは「気持ちワル!」

丸山桂里奈 日本サッカー史上、男子を含めて唯一のワールドカップ優勝。ドイツ戦の決勝ゴールを決めたとき思ったのは「気持ちワル!」

東日本大震災が起こった年、「サッカーで日本に元気を送りたい」という思いでドイツワールドカップに乗り込み、絶対に勝てないといわれたドイツ戦で決勝ゴールを決め、男子を含めて日本サッカー史上初のワールドカップ優勝。


1983年3月26日、丸山桂里奈は、東京都大田区に生まれ、妻を「ネコ」と呼ぶ父、夫を「ウサギ」と呼ぶ母、丸山桂里奈がオリンピックに出ているとき、家で
「アレッ、桂里奈いないけどどこいったの?」
という兄と囲まれて育った。
小学校5年生の終わり、仲良しだった福田君と大島君が大田区立入新井第一小学校サッカークラブに入団したので、一緒にいたい一心で自分も入った。
今でもサッカーを始めたきっかけを聞かれると
「好きな男の子と一緒にいたかったから」
と答える丸山桂里奈だが、それとは別にサッカーが大好きになった。
ゴールを決めるのはもちろん、技術を習得してできなかったことができるようになったり、プレー中にみんなが1つになれることや同じことを目指して頑張れること、選手や指導者だけでなく応援している人たちも一緒に喜びを分かち合えるところが大好きだった。
「これは私の持論なんですけど、ボールって丸いじゃないですか。
私、丸いものが好きで、集まっている人はみんな良い人なんだと思うんですよね」
サッカーが大好きで家の近所の路地裏で暗くなるまで壁に向かってボールを蹴り、学校もボールをリュックに入れ、スパイクを履いて登校し、授業中も
「サッカーしたいな。
早く放課後にならないかな」
とサッカーのことばかり考えていた。
チームの中で女子は自分だけだったが、男子に混ざって試合で活躍し、ドンドン自信をつけ、逆に体格や体力の差でひっくり返されると
「それ自体、悔しくて、ますます練習にのめり込みました」

Jリーグのジェフユナイテッド市原のピエール・リトバルスキーが大好きで、
「今思うとなんでそんなに好きだったか謎」
というが、とにかくリトバルスキーに夢中。
知名度ではジーコが優っていたが、ワールドカップの実績ではリトバルスキーの方が上。
(リトバルスキーは、ドイツ代表としてワールドカップ決勝の舞台を3度踏み、1度優勝を経験。
ジーコも、ブラジル代表として3度ワールドカップに出ているが、決勝に進んだことは1度もない)
最も特徴的だったのは、170cmに満たない体でのドリブル突破。
ボールをガニ股の脚の間にスッポリと収め、まるで足に吸いつくようなドリブルで相手を抜き去る姿は
「オクトパスドリブル」
と呼ばれた。
「カッコイイ」
「リトバルスキーみたいになりたい」
と思う丸山桂里奈は、自然と歩き方もガニ股に。
結果、真っ直ぐだった脚は、母親に
「お願いだから素足でスカートはかないで」
といわれるほどO脚になった。

リトバルスキーのプレーをビデオで繰り返しみて、雑誌についていたポスターを部屋に貼り、グッズや文房具も集めた。
中でも1番お気に入りは、リトバルスキーが表紙になったノート。
勉強に使うのはもったいないので
「サッカーのことを書くノートにしよう」
と思いついた。
これが「サッカーノート」の始まりだった。
その日の体調、練習メニュー、練習でうまくいったこと、うまくいかなかったこと、フォーメーションの絵などなどサッカーに関することなら何を書いてもOK。
すごく細かく書くときもあれば、超アバウトに書いたり、しばらく書かなくなったり、そんなことを繰り返しながら、サッカーノートは何冊にもなっていった。
「長く書き続けたサッカーノートは、私にとって貴重な資料になっています。
例えば練習していると昨日までできていたプレーが突然うまくできなくなってしまうことがあります。
そんなとき昔のノートを振り返ってみると、できていた頃の体調や練習メニューがわかって、あのときはこんな練習していたんだとか、毎日続けていた腹筋をやめたから調子が落ちたのかななどと比較して考えることができます。
体調や練習内容だけでなく、そのときの気持ちまで思い出してヒントになることもあります。
サッカーノートは、私を迷いから救ってくれるバイブルです」


5年生の終りからサッカーを始めた丸山桂里奈は、小学校卒業が近づくと日本女子サッカーリーグの超名門チーム「ベレーザ」の下部組織「メニーナ」の入団テストを受け、200人中10人の合格者の1人となった。
大好きな男の子2人を追いかけてサッカーを始め、
「大島君のことがちょっと好きになっていました」
という丸山桂里奈だが、大島君は違う中学生に行き、福田君は、同じ大田区立大森第二中学校に入ったがラグビーを始め、そして自分は、サッカー漬けとなった。
メニーナは、ベレーザのジュニアチームで、ベレーザがポルトガル語で「美人」という意味なのに対し、メニーナは「少女」
出来上がった選手を集めるのではなく才気ある中学生、高校生を鍛えようというベレーザの育成システムでもあり、両チームは同じ時間、同じ場所で練習し、クラブハウスのロッカールームも同じだった。
練習は、週6回。
週末はベレーザの試合があって翌日が休みとなるので、月曜日だけが休み。
練習場所は、川崎市のよみうりランドの中にある専用グラウンド。
ベレーザは基本的に社会人なので、学校の部活動より遅めの18時30分に練習が始まり、21時30分に終了。
丸山桂里奈は練習場まで、電車、バスを乗り継いで1時間半かかるので、毎日、中学校の授業が終わるとダッシュで駅へ。
18時20分に練習場に着いて21時までミッチリ練習。
練習後、片づけと着替えを済ませて帰路につくのは22時。
コンビニで買ったおにぎりやカップラーメンを電車の中で食べて、走行する振動に揺られながらボーっと景色を眺めるのが心安らぐ大好きな時間だった。
駅に着くといつも母親か父親が自転車で迎えにきてくれていて、
「いいことも、何かイヤなことがあったときも、とにかく自分からなんでも話しました」
帰宅は24時を過ぎることもあったが、
「話を聞いてもらえたという満足感もあってスッキリし、家に着く頃にもうは元気になっていました」
そして布団に倒れ込んだ。

よみうりランドでは男子チームであるヴェルディも練習していて、まじかでみることができ、丸山桂里奈は、
「すごい人がいっぱいいる」
と感動。
ベレーザでは、野田朱美や大竹奈美などに圧倒されたが、中でも4歳上、東京都立南野高校に通う澤穂希は特別な存在だった。
丸山桂里奈と同じく中1でメニーナに入った澤穂希は、1ヵ月でベレーザに昇格し、さらに数ヵ月後、日本女子サッカーリーグにデビューし、3戦目で初ゴールを含む2得点。
中3の冬、日本代表デビュー戦で、いきなり4得点。
丸山桂里奈は、メニーナに入る前から
「澤さんのすごさは日本中誰もが知っていますが、私たちサッカー選手にとっては澤さんは神様みたいな存在でした」
と思っていたが、実際に会ってみると
「澤さんは地蔵だと思っていて、地蔵様くらい温厚なんです。
神様、仏様ってありますけど、私は地蔵様が1番上にいるんです。
その位置にいるのは澤さんしかいないんです」
といって、ますます崇めた。

メニーナの練習はキツかったが、イヤだと思ったことは1度もなく、サッカーをするのが楽しくて仕方なく、早めに練習場に着いた日は、壁に向かって1人でひたすらボールを蹴り続けた。
「キャプテン翼じゃないけど、本当にボールは友達という感じ」
ある年の大晦日、大雪が降ると丸山桂里奈はボールを持って近所の公園へ。
「雪がクッションになって倒れても痛くない」
とオーバーヘッドシュートを
「ここぞとばかりにめちゃくちゃやりました」
ひたすら練習し続け、気がつくと24時を過ぎていて、文字通り年もオーバーヘッドしてしまった。
「サッカーが生活の中心にあるのが当たり前だったんですよ。
サッカーのためなら、何もツラくないんです。
本当にごはんを食べている感じで。
とにかく点を獲りたいという気持ちしかなかったから、自主練も勝手にやるし、ご飯にもまったく興味がなくて、ただ良いプレーをするためだけに栄養を摂取している感じでした」

中学校に
「Kちゃん」
という同級生がいた。
髪を染め、制服も着崩し、タバコも吸う、いわゆる不良といわれている女の子だった。
中2の夏、丸山桂里奈はKと仲良くなり、一緒に遊ぶようになった。
門限18時、長時間のテレビ禁止、お笑い番組は一切禁止、炭酸ジュース禁止、駄菓子禁止などのルールを設けていた丸山家は驚愕。
元モデルで福祉関係の仕事をしている母は、礼儀や挨拶について厳しく、
「1度決めたことは途中で投げ出さずに最後まで続けなさい」
「小さいことでも1つ1つ積み重ねていけば絶対に自分のモノになるから」
と教えていたが、娘がKと一緒にいるのをみると、
「遊んじゃダメ」
「あの子といるとあなたまで悪く思われるよ」
といった。
丸山桂里奈は友人を悪くいわれ、
「うるさい」
「私がよければいいでしょ」
と反抗。
挙句、売り言葉に買い言葉で
「そんなこというならサッカーやめてやる」
といってしまい、そのままメニーナの練習に行かなくなってしまった。
そして堂々とKと遊んだ。
2人ともジャニーズJr.が好きで追っかけや出待ちをやった。
「京都まで行ったこともあります。
Kちゃんと遊ぶのはスポーツばかりしてきた私にとって、とても新鮮な体験で、新しい世界が開けたみたいでやたら楽しく、夢中になってしまったのです」
夜遅くなると自分の家に戻るのが面倒でKの家に泊まることもあり、Kの家に母親が迎えに来ると居留守。
夏祭りの後、Kの家に向かって夜道をふざけながら歩いていると前方から自転車に乗った母親が突進してきた。
丸山桂里奈は、母親が自転車を降りて停めた瞬間、自転車を蹴飛ばして逃走した。

一方、練習には出なかったものの、クラブハウスにはときどき顔を出していた。
チームメイトいわく、パジャマ姿や馬のマスクをつけて来たこともあったというが、そこでみんなと話をしているうちに、だんだん
「こんなことしてていのかな?」
「追っかけや夜遊びは楽しいけど、これが本当に自分のやりたいことなんだろうか?」
そして大勢のファンに応援されるジャニーズJr.をみても
「私も応援される側になりたい」
と思うようになり、
「私はサッカー選手として応援されるようになろう」
と一念発起。
3ヵ月の貴重なブランクを経てメニーナに復帰。
心を入れ替え、今まで以上にサッカーに打ち込み、不良少女からエースストライカーに復活した丸山桂里奈は、
「横道にそれてもいい。
戻ったところが自分の進む道」
といっている。

中学3年間で100ゴールを決め、卒業後はベレーザに入ることになっていたが、
「上手な選手の中で自己鍛錬するより、普通のチームで自分をどう強くできるかを試したい」
と思い、
「普通の高校のサッカー部に入りたい」
と打ち明けた。
するとメニーナの監督は激怒。
母親は
「本当にそれでいいの?」
と聞き、娘の意志が堅いのがわかると知ると一緒に監督に謝りにいった。
こうしてメニーナを退団し、文京区にある村田女子高等学校に進学し、女子サッカー部に入部。
クラブでプレーに専念すると共に1人で自主トレ。
連日、大田区山王2丁目12番と3丁目31番の間を北西に上がる急坂、通称「闇坂(くらやみざか)」を
「全力だと最後まで持たないため、6割で」
100回ダッシュ。
闇坂以外にも都内の坂道をほぼ走破した。
メニーナの練習で遅くなると駅まで迎えにきてくれた父親は、この自主トレにも毎日付き添った。
テレビドラマ「古畑任三郎」をみて西村まさ彦演ずる「今泉」の大ファンになった丸山桂里奈は、美容院に雑誌の切り抜きを持っていって同じような短髪にしてもらった。
ボーイッシュな風貌で同じ高校の女子たちにモテ、バレンタインデーはチョコレートを30個もらい、高校3年生のとき、第9回全日本高等学校女子サッカー選手権大会で第3位となった。

丸山桂里奈は、サッカー推薦で日本体育大学体育学部体育学科に進学。
日体大女子サッカー部はゴリゴリの体育会系。
先輩後輩の礼儀が厳しく、丸山桂里奈は普段から先輩の顔色をうかがい
「歯をみせないように先輩と話さないといけなかったです」
というが、先輩の藤巻藍子は
「空気の読めない後輩でした」
といっている。
日本体育大学 女子サッカー部監督、芦原正紀は、高校時代は関東選抜として活躍し、初代監督として日体大をゼロから指導し、丸山桂里奈が入った前年に初優勝。
丸山桂里奈をみて
「ワガママなプレーヤーだから自分の好きなときは動くけど、そうでないときはサボる。
そういう浮き沈みの激しいスタイルを直せば、もっと伸びる」
と分析し、1年間、フォワード一筋だった丸山桂里奈に様々なポジションを経験させた。
また上級生に遠慮しているのをみて
「もっと自分の持っているものを出せ」
とアドバイス。
丸山桂里奈は、さらに自分をさらけ出すようになった。

フィールド上では先輩も後輩も関係なく、実力さえあればレギュラーになれるという環境に、必死に練習を重ねた丸山桂里奈は、日本代表に初召集された。
丸山桂里奈は、日本代表に呼ばれたといわれ、最初は信じられず、
「マジっすか?」
「マジっすか?」
「マジっすか?」
と何度も聞き、本当だとわかると、まず思ったのは
「うわっ、超ヤダ」
それまで
「日本代表にいったらボコボコにされる」
と聞いていたので
「日本代表=超コワいところ」
と思っていた。
そして日本代表に入ったことを周りの同級生に
「めっちゃスゲーじゃん」
「マジで選ばれたの?」
と驚かれながら、1番最初に報告したのは彼氏。
続いて家族に報告すると大喜びされてうれしかったが、
「本当に?」
「本当に?」
「本当に?」
と何度も何度も聞く母親に、少しイラついた。

このとき大学生で日本代表になったのは、神奈川大学の矢野喬子(現:帝京平成大学女子サッカー部)と丸山桂里奈だけだった。
「私たちが1番年下で・・・
結構黄金世代っていうか、フォワードは澤(穂希)さんとか荒川(恵理子)さんとか井坂(美都)さんとか大谷(未央)さんとか、むっちゃうまい人ばっかりで。
エッ、こんな中で本当に入れるのかって。
それまでアンダー18とか選ばれてましたけど、やっぱりA代表って全然違うから。
ほんと子供が大人に入ったみたいなイメージだったから。
メチャクチャうれしいんだけど、あの中でできるかなって、怖ェーッてのはあった」
実際、日本代表の練習はハードだったが、それ以上に
「めっちゃコワかった。
イヤッ、コワかったっス」
というほど雰囲気に緊張しすぎてほとんど記憶がない。
「年下はサッカーやってるだけじゃねえぞみたいな、お前運べよみたいなのはあって、そういうものに気を遣いすぎて疲れてしまって、正直いってサッカーはちゃんとできなかったです」
しかし日本代表で得た刺激は大きかった。
全員が例外なくサッカーが大好きで、勝ちたい、もっとうまくなりたいと努力する人間ばかり。
試合に出られない選手もいるがフテ腐れたり、集中力も切らしていい加減に過ごす選手は1人もおらず、悔しいはずだが文句ひとついわずに練習やミーティングだけでなく準備や片づけにも主体的に参加し、チームのプラスになることを見つけて貢献しようとしていた。
日本女子サッカー代表は、試合後のユニフォーム交換は
「もったいないからダメ」
と禁止令が出たり
「代表チームに入ると1日あたり1万円の日当が支払われるので、『サッカーしてお金がもらえるなんて夢のようだね』と選手たちはみんな話していました」
というように男子に比べて金銭的には恵まれていなかったが、
「サッカーが好き」
「サッカーを続けたい」
「サッカーで夢を叶えることはお金で買えるものではない」
という思いであふれていた。
そのためプレーの迫力で劣るかもしれないが、逆境にも決して明るさを失わない精神的逞しさは男子を凌いだ。

日本代表から大学に帰ると1年生だったので同じように下働きをしたが、代表に選ばれたことで先輩に
「浮ついている」
「あなた5年生ですか?」
などとイヤミいわれることが増えた。
丸山桂里奈は、それに年下として対応しながら、
「そういうことをいう人はヘタな人が多い」
「試合に出てナンボ。
ピッチで結果を残す!」
と燃えた。

2年生のとき、韓国で第14回アジア大会があり、日本代表は出国前に成田で宿泊したが、丸山桂里奈は、そこで澤穂希と同部屋になった。
緊張はピークに達し、まず澤の荷物を部屋まで運び、澤が来ると直立不動。
そして
「何か失礼なことをいってしまったら大変」
と無言。
澤穂希に、
「私は体のケアがまだだから、桂里奈先に入って」
とお風呂を勧められても
「尊敬する先輩より先にシャワーを使うなんてとてもできません」
その後、何度もルームメイトになって
「桂里奈、シャンプー持ってきて。
私、リンス持っていくから。
同じもの使っているからいいでしょ」
と貸し借りをしたり、サッカーに関することやそれ以外のことでも、なんでも話せるほど親しくなった。
「夜、しゃべり足りなくて電気を消してもしゃべっていたこともあります。
私が澤さんをとてもすてきだと思っていることは、いつ誰に対してもフランクで親切なところ。
そしてちょっと天然なところもいいなと思います」
丸山桂里奈は、北朝鮮戦で日本代表デビュー。
日本代表は下着を自分で洗濯しなくてはならなかったが、丸山桂里奈は、下着を置きっぱなしの上、溜め込み、干し方も他の選手いわく
「いっちゃえば絞ってそのまんま」
だった。

大学3年生のとき、第4回FIFA女子ワールドカップが開催。
当初、中国で行われるはずだったがSARS(重症性呼吸器症候群)の大流行で、急遽、アメリカに変更。
日本は4大会連続参加となったが、

アルゼンチン戦 6対0
ドイツ戦 0対3
カナダ戦 1対3

と2大会連続予選リーグ敗退。
大学3年生の丸山桂里奈は、この大会で初めて「ジョーカー」となった。
それは「切り札」という意味で、後に「スーパーサブ」と呼ばれるようになった。
日本代表は個の力より組織力を重視するサッカーだったが、後半、相手ディフェンダーが疲れた時間帯にドリブルで仕掛けて点をとる、最悪、倒されてもフリーキックを得るような選手が「ジョーカー」だった。
チームメイトいわく
「味方も読めないんで相手も読めない」
というドリブルとシュート力を兼ね備えた丸山桂里奈は、これまでずっとスタメン、フォワードとして90分戦ってきたが、出番までベンチから相手ディフェンダーを観察し、自分が裏に回るイメージを繰り返した。
「本音をいえばスタメンで初めから出て、前半からドンドン得点を狙っていきたいという気持ちはあります。
でも代表で私に求められているのは、バテている相手にドリブルでゴール目指してひたすら突っ込んでいくこと。
そして得点につなげることです」

2004年、4年生の丸山桂里奈は、アテネオリンピック日本代表に選ばれ、あまり日体大の練習には出られなかったが、1年生の川澄奈穂美は、そのプレーをみて、
「ウウッとなった」
「衝撃の存在だった」
という。
そして話してみて、
(全っ然、人の名前覚えない!)
と驚いた。
例えば丸山桂里奈に、
「〇〇高校出身の、あの子いるじゃん」
といわれ、
「えっ、誰?
〇〇ですか?」
と聞き返すと
「そうそうそうそう」
というので、
(出身校わかるなら名前覚えろよ)
と思った。
さらに
「ウチさあ、こうやってサナホとさあ、超しゃべってんじゃん。
あんまりさ、なんていうの、下の子にちゃんとしてよってさ、タメから怒られるんだけど、ヤバくない?」
といわれ、
(私にそれいう?)
と思いながら
「そうですね」
と答えた。
あまりにフランクな丸山桂里奈に、本当は『・・・先輩』といわなくてはならないのに、すぐに
「桂里奈さん」
と呼ぶようになり、最終的には
「かりちゃん」
になった。
とにかく丸山桂里奈に笑わせてもらい、地獄の大学1年生時代を救われた川澄奈穂美は、
「ホント、まんま。
ホント、いいと思う」
といっている。

アテネオリンピック出場を決めた後、日本では女子サッカーブームが起こり、日本代表は取材やテレビ出演のオファーが殺到。
日本サッカー協会は、
「もっと親しみを感じるような名前があるといい」
と愛称を募集。
7月7日、七夕の日に日本女子代表チームの新しい愛称の発表イベントを開催。
丸山桂里奈を含む浴衣姿の5人の日本女子代表選手が持つ大きな紙には、地獄のリハビリを経て復活したキャプテン、澤穂希の筆で
「なでしこジャパン」
と書いてあった。
逆境に強い、凛々しく清々しい女性を表すネーミングだった。
「それまで「A代表」と呼ばれていた私たちのチームの愛称が「なでしこジャパン」となりました。
正直、最初はしっくりこなかったのですが、徐々に好きになり、いまではこれ以外にないと思うくらい好きです」
1ヵ月後、なでしこジャパンは、ギリシアに移動。
男子代表がビジネスクラスなのに比べ、女子はエコノミーで、積める荷物も限られ、ボールやウェア、トレーニング用具を優先し、個人の荷物は最小限にとどめ、男女格差を感じながら港町ボロスへ。
丸山桂里奈は、日本代表キャプテン、大部由美と同部屋になった。
上田栄治監督以下、代表スタッフがライバルを徹底的に研究した結果、陣形は3バックから右サイドハーフを置かない変則的な4バックに変わったため、レギュラーだった大部由美は控えに回っていたが、
「サブが強いチームは強く、サブが弱いチームは弱い」
と声をかけ、
「メンバー全員で五輪の切符をとる」
という一体感につなげていた。
そんな大部由美を
「大変規則正しい方」
「練習以外にも厳しい方」
と思っていた丸山桂里奈は、絵葉書を書いたり本を読んで静かに過ごした。

8月11日、予選リーグ第1戦、スウェーデン戦に1対0で勝利。
翌12日、アテネの選手村に移動し、男子のパラグアイ戦を応援し、世界の有名アスリートを目の当たりにして盛り上がった。
14日、予選リーグ第2戦、ナイジェリア戦。
アフリカのチームと対戦経験がないなでしこジャパンは、独特の身体能力の高さと何をやってくるかわからないプレーに翻弄され、0対1。
その上、攻守の要、ボランチの宮本ともみが負傷。
なでしこジャパンは予選リーグ3位だったが、内容でなんとか決勝トーナメントに進出し、予選で敗退し帰国する男子代表をカップラーメンなどをもらった後、お見送り。
20日、決勝トーナメント初戦(準々決勝)で、世界ランキング2位のアメリカと対戦。
上田栄治監督は、ナイジェリア戦で負傷した宮本ともみが強行出場させ、丸山桂里奈は、小林弥生、柳田美幸、安藤梢、山岸靖代らとベンチで途中出場に備えた。
前半43分、ゴール前に上がったボールを捕りに出たゴールキーパー、山郷のぞみが、アメリカの選手と交錯してファンブルし、こぼれたボールを押し込まれ、0対1。
後半3分、日本は山本絵美のフリーキックで1対1。
後半14分、ゴール前にロングボールが飛んできた日本は、思い切ってオフサイドトラップを仕掛けたが、副審のフラッグは上がらず、4人のフリーな選手を相手に山郷のぞみがゴールを奪われ、1対2。
交代で入った丸山桂里奈は、得点を目指してボールを追いかけたが、アメリカの巧みなゲームコントロールの前にタイムアップ。
1対2で敗れ、アテネオリンピックが終わった。

大学4年間で、

・全日本大学女子サッカー選手権大会を4年連続優勝(日体大は5連覇)
・日本代表(なでしこジャパン)として、FIFA女子ワールドカップ、アテネオリンピックに出場

という華々しい活躍をした丸山桂里奈は、当初、ベレーザ入団が決まりかけていたが、東京電力へ就職し、「東京電力女子サッカー部マリーゼ」に入団した。
マリーゼは、非鉄金属メーカーであるYKKの東北工場で創設され、日本女子サッカーリーグでも好成績を残した「YKK東北女子サッカー部フラッパーズ」が東京電力が移管されてできたチームで、丸山桂里奈が入ったとき、まだ創部7ヵ月だった。
「中学を卒業するときもベレーザに上がれたんですけど、自分が高校サッカーがいいなと思ったんです。
メニーナから高校にいった人にもいろいろ話を聞いて、高校サッカーっていいなと思って。
それにあんまり上手くはないけど、そういう高校サッカーを強くしたいという気持ちもありました。
いつもそういう感じなんです。
マリーゼに入ったときも、本当はベレーザに行く予定だったんですが、それをやめてマリーゼに行ったので。
YKK東北女子サッカー部フラッパーズが移管してきてマリーゼになるというタイミングで、だからそのときもすごく弱かったけど、新しいチームになるから強くしたいという気持ちが出てきて。
自分にはそういうのが合っているというか、信念みたいなものなんですかね」
マリーゼの由来は、
「海(マリーン)のように力強く、風(ブリーズ)のように颯爽と」
選手、スタッフは全員、東京電力の社員で、午前は福島第一原子力発電所で働き、午後は双葉郡楢葉町にあるJヴィレッジスタジアムで練習するというリーグ唯一の実業団チームだった。

マリーゼの選手は、全員、社員寮に入り、1人1部屋、8畳ほどの個室がもらえ、風呂、トイレは共同。
毎朝、一緒に「マリーゼバス」に乗って福島第一原子力発電所へ向かい、それぞれ部署で仕事。
丸山桂里奈の仕事は「管理職付」だったが、上司は2年後に起こる震災で原子炉の暴走をギリギリで回避させる吉田昌郎だった。
基本的に午前中で仕事は終わり、午後、マリーゼバスで移動し、Jヴィレッジスタジアムで練習。
そして練習後、一緒にマリーゼバスで寮に戻った。
「1番戸惑ったのは仕事でも練習でも寮でもずっと同じメンバーと行動を共にしなくてはいけなかったこと。
いつも一緒なのでさみしくはなかったけど、どんなに仲が良くても仕事でもプライベートでもずっと顔を合わせていると、さすがに息が詰まる。
それにずっと一緒にいることで緊張感がなくなってプレーに影響が出てしまうことが心配でした」
マリーゼには、アテネオリンピックのとき日本代表キャプテンだった大部由美がいて、丸山桂里奈ら新人は練習以外に寮生活でもよく注意を受けた。
あるとき練習が19時から始まる日があり、いつも軽く食べてから練習に行く丸山桂里奈だが、この日は用事があってそれができない。
そうなると夕食は寮に帰ってから22時くらいになってしまうため、仲の良かったチームメイトとパンを買いに行って、練習後、寮に帰る前に食べた。
そしてチームが食堂で食事しているとき、2人だけで風呂に入っていると、大部由美が入ってきて、
「あなたたち何考えてるの!」
と怒られ、その場で正座。
寮ではみんなで一緒に食事をとるというルールがあることをコンコンと説教された。

ずっと東京の下町で暮らしてきた丸山桂里奈は、福島県がどんなところかまったく知らなかったが、美しい土地と人の善さに感動。
最初、自転車しか移動手段がなかったが、運転免許を取得すると県内外へドライブへ出かけた。
川内村の「かわうちの湯」という温泉は
「寮から車で30分くらい山道を走らせないといけないので、あまりみんないけないし、ここまでくるとマリーゼの選手を知っている人も少ないので思い切り羽を伸ばせる」
と常連に。
五色沼や猪笛代湖など県内の観光地は
「ほとんど行き尽くした」
海沿いの道や山奥の道など自然の中を車で走るのが爽快だった。
「私はドライブが好きで、特に1人で運転していると、誰もいない空間なのでいろいろ考え事もできるし、気分が変わって気持ちに余裕が出てきます。
車の中では爆音で音楽を聴いています。
音楽とドライブというのは最強のカップリングで寮に帰る頃にはすっかりリフレッシュして頑張ろうという気になっていました。
どんなにイライラしても、凹んでも大丈夫!
車と音楽があればいい!」
また広い海と建屋しかみえない福島第一原子力発電所の展望台も
「将来、ここで結婚式を挙げたい」
と思うほど大好きな場所だったが、震災後、誰も近づけない場所となってしまった。

ちなみに
「初体験は2005年、22歳」
といい、マリーゼ1年目に夜のデビューも果たしたが、クリスマスイブに一緒にドライブしていたとき、かかってきた電話に出ただけで激怒され、監禁状態となり朝まで車から出られなかった。
「好きなことなら恋愛もサッカーも全力でできます。
アスリートはオン・オフが大事なんていいますけど、私はオン・オフなんてないんですよ。
起きているときは常にオンです。
だからサッカーも全力だったけど恋愛だって全力で向き合っていたんです。
例えば彼氏の家に泊まった次の日の練習は「イチャついたんだからメッチャ頑張ろう!」って誰よりも熱心に練習に励んでいました。
ケンカしたりトラブったり失恋しても「なんだよーっ!」って思って、どっちみちエネルギーになるんで。
アスリートってモチベーションが大事なので、私の場合は恋愛がサッカーのパワーにもなっていたんです」

創設1年目、マリーゼはリーグ4位で丸山桂里奈は、8得点を挙げ、新人賞。
日本代表としては、真夏の韓国で行われた第1回東アジア女子サッカー大会で2試合(北朝鮮戦と韓国戦)に途中出場したが、

北朝鮮 0対1
中国 0対0
韓国 0対0

と無得点で3連敗。
マリーゼ2年目、昨年は優勝争いに絡んだのに1勝8敗5分と1勝しかできず、2部リーグに降格。
日本代表として、7月のAFC女子アジアカップと12月のアジア競技大会に参加したが、無得点。
3年目、

3月 FIFA女子ワールドカップ予選、
4~8月 北京オリンピック最終予選
9月 FIFA女子ワールドカップ

という日本代表戦に加え、4~12月までリーグの試合があった。
マリーゼは「2部リーグ優勝」、そして丸山桂里奈は「得点王」に目標に掲げたが、シーズン序盤に「グローインペイン症候群」を発症。
グローインペイン症候群は、股関節周辺筋肉のオーバーユースによって起こる股関節障害で、手術や薬で治せるものではなく、とにかく安静にして休ませるしかなかった。
しかし日本代表に入ることをあきらめられない丸山桂里奈は、
「まだ可能性はある」
と股関節に負担をかけない体全体を使う蹴り方にフォームを改善。
すると最初、利き足である右足の股関節が痛み出し、左で蹴るようにすると左の股関節も痛くなった。
左をかばうと右、右をかばうと左が痛くなるという悪循環を繰り返した末、くしゃみをしたり座っているだけで骨盤周辺に激痛が走るまでに悪化。
結局、日本代表は辞退。
大泣きした後、
「本腰を入れて休むしかない」
と気持ちを切り替えた。
すると症状は改善し、プレーできるようになり、最終的にマリーゼは、2部リーグで優勝し、1部復帰。
丸山桂里奈は、17試合22得点という驚異的な記録を挙げたが、ベレーザの大野忍の23得点に及ばず、得点王にはなれなかった。

丸山桂里奈が入れなかった日本代表は、北京オリンピックの出場権利をGETしたものの、FIFA女子ワールドカップでは、

イングランド 2対2
アルゼンチン 1対0
ドイツ 0対2

で予選グループリーグ敗退。
ワールドカップが終わった後、「ノリさん」こと佐々木則夫が代表コーチから代表監督に昇格。
この時点で北京オリンピックは9ヵ月に迫っていた。
2008年2月4日、佐々木ジャパンが静岡県で初合宿を行い、丸山桂里奈は日本代表に復帰。
最初のミーティングでシステムの変更が告げられ、これまでは

中盤をダイヤモンド型にする4-4-2
2トップの下に攻撃的MFを置く3-5-2

だったが、

中盤を4人を横一列にする4-4-2
守備スタイルも、人をマークする「マンマーク」ではなく、エリアをマークする「ゾーンディフェンス」

になった。

合宿から2週間後の2月18日、中国で東アジア女子サッカー選手権が開催。
短い準備期間でのいきなりの公式戦だったが、佐々木監督は、
「北京オリンピックで勝つために新しいサッカーに取り組もうとしている。
最初から新しいシステムがうまく機能するとは思っていない。
東アジア選手権は北京オリンピックへ向けての通過点。
恐れずにやればいい。
課題が出た方が今後のためになるから逆に失敗するくらいでいい。
結果にはこだわらなくてもいい」
といい、それを聞いて選手は、
「とにかく自分たちのサッカーをやろう」
と思い切りプレーすることに専念。
まず宿敵、北朝鮮に3対2で勝利すると佐々木監督は、修正点を書いた紙をホテルのエレベーターに貼り、次の日からチーム全員が、その課題を意識して練習。
2戦目、韓国戦も2対1で勝利。
3戦目、決勝戦の相手は、中国。
「結果にはこだわらなくてもいい」
といっていた佐々木監督が
「優勝狙っていくぞ」
といい出したので丸山桂里奈は、
「いってること全然違うじゃーん」
といって笑った。
そして中国サポーターで埋め尽くされて真っ赤になったスタジアムで激しいブーイングを浴びながら、3対0で勝利し、アジアナンバー1になった。
1ヵ月後、第1回キプロスカップがあり、アメリカ、オランダ、スコットランド、カナダ、ロシア、日本が参加し、なでしこジャパンは3位。
その2ヵ月後のAFCアジアカップでは、ここまで出番がなかった丸山桂里奈が、2戦目、台湾戦でゴールを決め、なでしこジャパンは4位。
さらに1ヵ月半後、アジアカップの3位決定戦で敗れたオーストラリアと親善試合で再戦し、3対0で勝利。
その3点目は丸山桂里奈だった。

その直後、北京オリンピックが始まった。
ここで丸山桂里奈は、同年齢、同ポジションの「アンチ」こと安藤梢と同部屋になり、以降、代表で1番の仲良しとなった。
「同じ部屋でいても、まるで1人でいるような錯覚に陥るくらいお互い、素のままでいられるし、会話があってもなくても平気だし、必要がない。
私にとってアンチは、唯一、目の前でオナラをしても平気な相手」
一緒にいるとあまりに楽なので
「彼氏彼女を超えているよね」
「長年連れ添った夫婦みたいだよね」
といい合っていたが、安藤梢はマイペースなところがあって、例えば眠れないと部屋の電気をつけ、
「寝れないじゃない」
といっても平気な顔をして自分が寝るまで消さなかった。
家に電話していた安藤梢が母親に
「桂里奈ちゃんにかわって」
といわれ、丸山桂里奈がかわると
「桂里奈ちゃん、あそこはパスしたらダメだよ」
といわれ、
(安藤のお母さんに怒られる私って・・・)
と悩んだこともあった。

よく
「何にも考えてなさそう」
「何も悩みがなさそう」
「なんでそんなに明るいの?」
といわれるくらい、いつも明るい丸山桂里奈だが、自分で
「人より涙腺が大きいんじゃないか」
と思ってしまうくらい涙もろい。
悲しいニュースやドラマ、映画、動物モノのドキュメンタリーをみるとすぐに泣いてしまい、周りに、
「そこで泣く?」
といわれてしまう。
自分が浮き沈みが激しいことを自覚し、日本代表にいるときは、
「浮くのはいいが沈むのは許されない」
と決めている丸山桂里奈が気をつけているのが
「たくさん笑うこと」
お笑いDVDは必須アイテムで、特にTKOの木本のファンでDVDを全部持っており、「人志松本のすべらない話」やとんねるずの「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」などもコンプリート。
遠征時には、それを持っていき、ホテルでずっとTKOをみていて安藤梢に、
「なんでそんなにTKOばっかりみてるの?」
とあきれられたが、その後、自分がいないときにTKOのDVDをみている安藤梢を発見し、
「きっとTKOさんのよさがわかったに違いない」
と思った。

北京オリンピックで日本は、予選でグループGに入り、ニュージーランド、アメリカ、ノルウェーと総当たり戦を行った。
第1戦、前半37分、ニュージーランドに先制点を奪われ、後半16分にもPKで追加点を奪われ、0対2。
しかしここから勝負強さをみせた。
後半27分、背番号8、宮間あやがPKをキッチリ決めて、1対2。
後半37分、丸山桂里奈が投入され、攻勢を強め、後半41分、宮間のフリーキックに澤穂希がボレーで合わせて2対2。
土壇場で引き分けに持ち込んで勝ち点1をもぎ取った。
第2戦、FIFA女子世界ランキング1位のアメリカに0対1。
第3戦、前半27分、ノルウェーに先制されたが、4分後に同点。
後半開始直後、相手のオウンゴールで2対1。
さらに大野忍、澤穂希、原歩が決めて、5対1。
グループリーグ3位で予選を突破し、決勝トーナメント初戦(準々決勝)で、開催国の中国と対戦し、完全アウェイで苦戦が予想されたが、2対0で勝利。
すでに世界ベスト4。
次、勝てばメダル確実という状況で準決勝、アメリカ戦も臆することなく挑み、前半16分に先制点。
しかし前半41分、44分、後半25分、45分と失点。
試合終了間際に1点を返したものの、2対4で敗北。

ドイツとの3位決定戦戦は、前半から圧倒的に攻め込んだが得点を奪えず、0対0で迎えた後半23分、試合の流れを変えるために丸山桂里奈が投入された。
しかし
「準備運動は疲れるだけで意味がない」
と思い、全く動いていなかった丸山桂里奈は、試合に入ると動きにキレがなく思い通りに走れず、得点を奪うどころか、ドイツに2点を奪われ、0対2で敗北。
試合後、温厚な澤穂希から
「オイッ!
お前さ、もっと走れよ!!」
と激怒され、
「このとき初めて誰にも相談せずに思いつきで行動すると大きなミスを生むことがわかりました」
また日本代表の試合中、得点を狙って敵のゴールポストに隠れていて、試合終了後、怒られ、
「オフサイド」
というルールを理解していないことが発覚。
しかし佐々木紀夫監督は、
「感覚的な選手だから細かいことを教えたら動けなくなる」
と思い、放置した。
これについて丸山桂里奈は、
「そこにボールがあるから蹴っていました」
「ルールを知らなかったところで、ボールを持てばとられることがない」
「サッカーは団体競技なので誰かのために何かをするのは当たり前で、足りないところをチームで補い合うところも魅力」
といっている。

しかし男子代表が3戦全敗に終わったのに比べ、なでしこジャパンは世界ベスト4。
6試合で11得点という攻撃力、しかもひたすら守備を固めてカウンターを繰り出すのではなく、組織的な守備とパスワーク、献身的なランニングで攻勢をとるサッカーは世界から注目を集めた。
決勝戦は、アメリカ vs ブラジルとなり、1対0で勝ったアメリカが驚異のオリンピック3連覇。
この年、マリーゼは5位。
1位は、ベレーザで4連覇を達成した。
ベレーザに所属していた澤穂希は、アメリカのワシントン・フリーダムから国際ドラフト1位で指名を受け、2度目の渡米。
一方、丸山桂里奈は、グローインペイン症候群が再発し、さらに坐骨神経痛併発。
東京の国立スポーツ科学センターでリハビリを行うため、福島を離れる時間が増え、チームとの間に溝が生まれていった。
試合に出られず、チームに貢献できず、肉体的にも精神的にも追い詰められ、結局、シーズン途中にチームメイトへ挨拶することもできないまま、5年間いたマリーゼを退団。
同時に東京電力を退職した。
「東電の社員だったので、待遇は他の社員と同じ。
私は大卒だったから給料は手取りで22万円ぐらいで、その他にボーナスが年3回ありました。
日本の女子サッカー選手は、男子とは違い、働きながらサッカーをしている選手がほとんど。
他のチームには、チームの試合でも休みを取りづらかったり、1日中働いてから夜に練習をするという選手もいました。
ただ私のいたマリーゼでは、勤務は午前中3時間のみ。
午後はサッカーの練習に没頭できたし、試合の次の日は休ませてもらえたりと、とても恵まれていました」

ケガをした上、所属チームと収入を失った丸山桂里奈は
「本当にピンチ!」
「このままサッカーができないのだろうか?」
と焦ったが、とりあえず目の前の治療とリハビリに黙々とこなした。
そうやって過ごしているうちにアメリカから
「トライアウトを受けないか?」
とオファーが来た。
日本代表として58試合13得点、26歳の丸山桂里奈は、それを受けて合格。
2010年3月、27歳の誕生日に単身渡米し、アメリカ女子サッカープロリーグ「WPS」に参戦しているフィラデルフィア・インディペンデンスに入った。

フィラデルフィア・インディペンデンスは、全員がプロ契約のチーム。
1チーム、外国人選手は5名までというルールがあり、丸山桂里奈は、その1人だった。
アメリカで女子サッカーは、野球、バスケットボール、アメフトに次ぐ人気スポーツだったので、待遇や収入は日本と大きく違った。
「私の場合は、1クール(試合のない期間も含めて約1年間)で1000万円の契約でした。
私はトライアウトを受けた末の契約だったので、普通にプロ契約を結んだ選手なら報酬はもっと高いはず。
代表クラスのスター選手ともなれば、スポンサー契約などもあるので収入は億単位かもしれません」
外国人選手である丸山桂里奈は、チームからホストファミリーが手配され、移動のための車も与えられた。
女子サッカー人気が高いアメリカでは選手の受け入れを歓迎する家庭が多く、丸山桂里奈もホストファミリーから手厚くもてなされた。
ドイツ人の夫、イタリア人の妻は、共に弁護士で、プール、シアタールーム、トレーニングルームがある豪邸に、小学生の姉妹、ラブラドールレトリバーの「ローメン」が一緒に住んでいた。
丸山桂里奈は、豪邸と駐車場を挟んで建つ離れの家を丸々借りて生活し、ホームパーティーをしたり、姉妹に
『カリナ、一緒にサッカーしようよ』
と誘われたり、ローメンも一緒にみんなで海に行ったりして楽しんだ。

日本が組織力重視だったのに対し、アメリカはフィジカルサッカーだった。
アメリカ人選手のスピード、パワーはケタ違いで、練習も超ハードだった。
基礎トレーニングでも、腕立て伏せ100回、腹筋500回など日本なら男子並みのメニューだった。
その上、丸山桂里奈には言葉の問題があり、監督が何をいっているのか、ほとんどわからない。
例えば
「30秒ダッシュして10秒ジョグ」
といっているのはわかっても、それを何分続けるのかはわからない。
ペース配分ができず、終わる頃にはフラフラになるなど練習が手探りとなって一層キツくなった。
「そもそも契約では通訳がつくことになっていました。
でも向こうのスタッフは『そんなことは聞いていない』って。
おまけに背番号は7を希望してたのに11になっていたりして。
まあカズさんが11だからいいかと切り替えましたけど」
ゲームになると状況はさらに厳しくなって、監督のいっていることがわからないので戦術も理解できず、監督が思うように動けない。
理解できずに説明してもらうなど、いろいろなことに時間がかかり、グラウンドでのチームメイトとのコミュニケーションにも問題が起こった。
結果、試合で使われなくなった。
「サッカーをやめてしまいたいと思ったことは1度や2度ではありませんが、最もつらかったのはアメリカのプロリーグ時代です。
なかなか試合に出場させてもらえず悶々とする毎日。
日本のチームでは、全試合スタメン出場が基本だった私にとって、アメリカでの現実は屈辱的でした。
シーズンが終わるのを待たずに日本に帰ることも考えたほどです」

実力で劣る選手が試合に使われ、自分は外されるという異常事態に丸山桂里奈は、毎日、必死に練習。
英語を勉強するために現地の家庭教師を雇ったが、自分の英語よりも家庭教師の日本語の方が上達してしまった。
意思疎通に苦しむ丸山桂里奈をチームメイトのエイミー・ロドリゲスとリンジー・パターソンがサポート。
丸山桂里奈のホームステイ先まで遊びにいって、野球観戦やショッピング、バーベキューに連れ出した。
エイミー・ロドリゲスとは、後にワールドカップの再開。
決勝戦のピッチでアメリカ代表の背番号8をつけたエイミーと目が合うと、ニコッとチャーミングな笑顔で返してくれた。
「人は絶対に1人ではダメ」
という考えを持ち、1人の環境をつくらないためにできるだけたくさんの人とつながるようにしてきた丸山桂里奈は、日本の食材がある店で出会った人から知り合いを紹介してもらい、
「そこからドンドンたどっていった」
するとボランティアで通訳をしてくれる人が現れた。
ホストファミリーの知り合いの秋葉さんには、郊外でトレーナーをしている岸本康平を紹介してもらい、
「岸本くん」
に呼んで、マッサージを依頼。
岸本康平はマッサージの免許は持っていなかったが、丸山桂里奈の頼みをきいたのをきっかけになり本格的に勉強。
後に日本のプロバスケットボールチームのトレーナーとなった。

ドリブルが得意な丸山桂里奈は、ゴール前でボールをもらうとパスをせずに自分でいくことが多かったが、状況によって、より確実に得点が決められると思えばパスすることもあった。
その点、アメリカの選手は強烈で、たとえ自分より味方がいい位置にいても無理やり自分でゴールに持ち込もうとする。
ボールをもらいにいくと思い切り蹴られたり、自分がボールを持っていると味方なのに体をぶつけられて奪われることもあった。
「遠慮してたら永遠にゴールを決められない」
悟った丸山桂里奈は、ボールをもらうとパスをせずに、そのままドリブルしてシュートまでもっていくようにした。
アメリカ人の強引さはプレーだけではなかった。
自己主張が強い人が多く、自分の意見を遠慮なく主張する。
それは相手チームだけでなくチームメイトに対しても、年齢など関係なくストレートに意見をぶつける。
練習中、チームメイト同士で放送禁止用語を連発させて激しく罵り合うなど日常茶飯事。
それは日本でもあることだったが、激しさが違い、
「アメリカ、怖っ」
と思ったが、激しくいい合った後、ピッチを離れれば誰も引きずらず、まったく後腐れがなく、
「切り替え、早っ」
監督に対しても
「なぜ自分を試合に出さないのか?」
と聞くだけでなく
「あの選手を使うより自分を出した方がいい」
と日本では考えられない自己アピールする選手もいた。
丸山桂里奈は、チームメイトを悪くいうことには馴染めなったが、多くの場合、アメリカ人のストレートな自己主張は納得できた。

丸山桂里奈はフィラデルフィア・インディペンデンスに入るときに代理人を務めた男性と交際していた。
「代理人の契約も選手としてしてたし、彼女と彼氏の契約もそのときに結んでいました」
その
「料理が出来なくて掃除もしないような、顔もそんなに格好良くなかった」
という彼氏に酔っぱらったときに
「本当は7人と付き合っていて、君を入れて8人なんだよ」
と8股を暴露され、7人の彼女の写真をみせられた。
そして渡米3ヵ月後、監督から
「このままチームにいても試合には使わない」
といわれ精神的に参ってしまい、どうしたらいかわからず、ワシントン・フリーダムにいた澤穂希に相談。
「やれるだけやった方がいいと思うよ」
といわれ、
「この曲聴いたら前向きになれると思う」
とFUNKY MONKEY BABYSの「大丈夫だよ」を教えてもらった。
「♪君が今何も言えなくて涙を流して
大丈夫 大丈夫 僕も同じような夜を超えてるから
泣きたいときは泣いてもいい その後に笑えれば
大丈夫 大丈夫 涙が全部洗い流してくれるから♪」
曲を聴いた途端、涙があふれ、
「澤さんもこんな心境になったことあるのかな?」
と思うと胸がいっぱいになった。
それからはこの曲を繰り返し聞いて頑張り、少なかったが試合にも出ることができた。

しかしそれから2ヵ月の渡米5ヵ月目に、
「2軍にいくか、契約を打ち切って違うチームにいくか、どちらか選べ」
といわれ、日本に戻ることを決めた。
結局、アメリカにいたのは5ヵ月間。
出場した公式戦は4試合。
悔しくてたまらず、強い挫折感に襲われた。
「同時期にアメリカのプロリーグに在籍されていた澤穂希さんからの激励もあり、何とか最後までやりきることができました。
それでも当時は悔しさしかありませんでしたが、自分の思い通りにならない状況にも耐え抜く粘り強さは、アメリカ時代に身についたように思います。
ましてや、翌年にドイツで開催されたワールドカップでは日本代表に選んでいただき、優勝できたことを思えば、もがき苦しみながらでもやめないことを選んで良かったと心の底から思います。
なのでときどき『どうすれば夢はかないますか?』って聞かれるんですけど、いう質問には「やめないこと」と答えています。
叶う夢もやめてしまったらそこで終わりですから。
「やめないこと」を選んだ人だけが見られる最高の景色、得られる達成感や喜びがあると、私は信じています」

アメリカ挑戦失敗は、帰国後のチーム探しに悪影響を及ぼすと思われたが
「目の前のことに一生懸命」
という信念と自分の可能性を信じた。
するとメニーナでチームメイトだった石田美穂子に
「ジェフレディースがイイと思うよ。
桂里奈に合うと思う」
といわれた。
ジェフユナイテッド市原・千葉レディースは、石田美穂子が4年間いたチームで、丸山桂里奈は連絡を取ってもらった。
3月の終りにアメリカに渡った丸山桂里奈は、9月17日、ジェフユナイテッド市原・千葉レディースへ入団。
ジェフレディースのチームメイトのほとんどがアルバイトで生計を立てていた。
毎日朝から夕方まで働いて、19時半~22時にハードな練習を行い、24時くらいに帰宅し、翌日も早起きして仕事に行かなければならず、中には練習後、またバイトに行くという選手もいた。
そんな中、
「私は働きたくなかったんです。
サッカーのために仕事をしているはずなのに、仕事で疲れ果ててサッカーどころじゃなくなっている選手をたくさんみてきましたから。
ただ私の場合は実家暮らしだったし、アメリカ時代の貯金もあったので何とかなりましたが、みんな本当にお金に困っていましたね。
一人暮らしだと食べるものにさえ困る生活で、友だちから食料を貰う選手もいたし・・・」
という丸山桂里奈はプロ契約。
フィラデルフィア・インデペンデンスは1シーズン1000万円だったが、ジェフレディースは400万円。
交通費を削るため、電車に使わずに徒歩や自転車で移動するなど節約に努めた。
「日本では400万円でも相当もらってるほうでした。
私はあまり物欲がないので使わないんです。
貯金も得意じゃないんですが、使わないので残るという感じです」

「サッカーの試合では、それが大きな国際大会だったとしても、緊張したことはありませんでした。
別のいい方をすれば、可能な限り備えて緊張しないですむようにしていたともいえます。
練習量や食事内容など、できることは全部やったという状態にしておけば、後は力を発揮するだけなのでワクワクしてきます」
という丸山桂里奈は、独自の食事ルーティンを行っていた。
国内リーグの試合は基本的に日曜日なので、それに合わせて月~木はタンパク質のみ、金、土は白米4、5杯のみ。
「カーボローディング法という、月~木は鶏をそのまま茹でて、金、土は白米だけでエネルギーを溜めた」
体調が悪いときは、
「とにかく刺激のある食事」
と、例えばラーメンに酢を1本を入れて、むせながら食べた。
こういったストイックな食事を続ける一方、
「食べたいものを食べる。
ただし、食べ過ぎない」
という考えも持っていて、
「餃子が食べたいな」
と思ったら、車で宇都宮までいき、
「手羽先が食べたいな」
と思うと名古屋へ。
夜行バスで大阪にタコ焼きを食べにいったり、博多にラーメンを食べにいき、日本代表で海外にいったときは、本当はスタッフがチェックするまで食べてはいけないのに勝手に食べた。
「とにかくおいしいものを食べるためならどこまでも!となって即、行動してしまう」

大事なのは
「安くておいしい」
ということで、甘いものも大好きだがレストランやカフェでスイーツを食べても
「高くておいしいのは当たり前」
と思ってしまう。
それに対してコンビニのプレミアムデザートは
「一生懸命研究して、これほどの味をつくったんだ」
「この味をこの値段で食べられるなんて」
と感動し、幸せな気持ちになれ、
「苦労して開発されたのだから・・・」
ととりあえず全部買ってしまう。
「新発売とかにも敏感です。
コンビニで、すぐに見つけて買うみたいな。
そういうのにはすごい敏感です」
デパ地下も大好きで、セール品、限定品には目がなく、たとえファンに気づかれても、かまわず試食。
地元のスーパーも大好きで、店先でたい焼きの屋台などが出ていれば大量に買ってしまい、店内では半額になったもの探し回った。
「恥ずかしいとかまったくなくて、普段食べてるおいしいものが半額だったら喜んで買います」

ジェフレディースの監督は、元選手の上村祟士。
身長が190㎝以上あったので
「ジャンボさん」
と呼ばれていた。
丸山桂里奈は、新しいチームで初心に帰ってサッカーに打ち込んでいたが、相変わらずケガに悩まされていた。
練習のキツさに定評があるジャンボ監督は、丸山桂里奈に、通常の練習が始まる前に20㎞走るように命じた。
バスで練習に向かうとき、丸山桂里奈だけ蘇我のユナイテッドパーク(男子チームの練習場)で降ろされ、新習志野の女子の練習場まで走り、クタクタになった体でチーム練習を開始。
練習試合のときは、1試合目、2試合目をずっとグラウンドの外周を走り、3試合目に出場した。
「ジャンボさんがいいというまで、ひたすら走り続けることもありました。
そしてたまに私を走らせていることを忘れることがありました」
つらくて走りながら涙が出てくることもあったが確実に効果はあり、身体が絞れ、動きにキレが出てきた。
なでしこリーグ1部リーグで戦うジェフユナイテッド市原・千葉レディースは、丸山桂里奈が入って2ヶ月後、7位でシーズンを終了。
この年、日本代表(なでしこジャパン)は、

1月、BICENNTENIAL WOMAN'S CUP
2月、東アジアサッカー選手権(連覇)
5月、AFC女子アジアカップ(4位)
11月、アジア選手権(初優勝)

があったが、丸山桂里奈が呼ばれることはなかった。

ジェフレディに入った翌年の3月11日、東日本大震災が発生。
翌12日、福島第一原子力発電所1号機が爆発を起こし、14日には3号機も爆発が発生。
丸山桂里奈は、東京電力社員時代、上司だった吉田昌郎が、現場から逃げずに原子炉の暴走をギリギリで回避させたのを知った。
4月3日開幕予定だったなでしこリーグは(同月24日まで)延期。
かつて所属していた、原発事故現場を本拠地とするマリーゼは、リーグ戦を辞退。
ジェフレディーも千葉の練習場に液状化現象が発生し、節電でナイター練習ができないので、平日はフィジカルトレーニングをして、週末の昼にゲーム形式の練習をすることが多かった。
丸山桂里奈は、福島にいる人々のことを心配しながら、毎日20kmの走り込みを続けた。
「東北が震源地と聞いて最初に思ったのが、以前の職場である東京電力福島第一原子力発電所にいるお世話になった方々の安否でした。
なかなか連絡がとれない不安な状態が続く中、物資の支援などできることを模索する日々が続き、もどかしい思いをしたのを覚えています。
すでにワールドカップドイツ大会が約3ヶ月後に迫っていましたが、当時私が暮らしていた千葉県でも地面の液状化現象などで、満足な練習ができない状態が続いていました。
東北が大きな悲しみに包まれている中、自分たちに何ができるのか。
今まで通りサッカーをしていてもいいのか。
無力さや葛藤にもがきながら、初めてサッカーを見つめ直すきっかけになりました。
ワールドカップに出場して、東北の皆さんや福島の皆さんに元気を出してほしいという気持ちで、毎日トレーニングに打ち込みました」

ワールドカップに向けて準備を進めていた日本代表監督、佐々木則夫は、ジェフレディースの練習試合を視察し、丸山桂里奈のをみて
「90分間動けるようになった」
と感じた。
「各クラブを回って選手の状況を確認していました。
そんな中、特に変化が感じられたのが丸山桂里奈。
もともとスピードはあったけれど、スタミナに難があったから、彼女には『今のままだとメンバーに残れないよ』と伝えていたんです。
ところが練習試合をみたら、課題のスタミナ不足を克服してガンガン走れていたんです」
試合後、佐々木則夫に、そのことを指摘され、丸山桂里奈は、
「私はサッカーでしか返せないから」
と答えた。
佐々木則夫は、ワールドカップ直前の5月に行われるアメリカ遠征に丸山桂里奈を連れていくことにした。

世の中が『サッカーどころではない』という状況の中、なでしこジャパンは記者会見を開かずにアメリカ遠征に出発。
しばらく代表から遠ざかり、久々に「日本代表候補」として合流した丸山桂里奈は、このアメリカ遠征がドイツワールドカップのメンバーに選ばれるために自分をアピールする最後のチャンス。
しかし試合に出られたのは、30分だけ。
アメリカ戦の後半18分から出場し、自分が持っている力を出そうと積極的に仕掛けた。
結局、なでしこジャパンは、アメリカと2回対戦し、いずれも0対2で敗北。
しかし丸山桂里奈は、
「ワールドカップで優勝したい」
といった。
「サッカーで日本に元気を送りたい」
というのが、その理由だったが、その思いはチームに広がった。
「特に私は福島のチームに在籍していたこともあったから、よりみんなのためにっていう思いが強くて・・・
非常時って自分のためには頑張れないけど、大切な人のためには頑張れるんですね」

帰国直後の6月、ドイツワールドカップの代表メンバーが発表。
丸山桂里奈は、貯金が底をつき
「そろそろ働かないとヤバい」
と思い始めたときに北京オリンピック以来1年9ヶ月ぶりに「日本代表」に選ばれた。
8月、岡山県美作市で合宿。
練習グラウンドには連日、何千人もの人がやってきた。
最終日、雷雨となって練習試合が一時中止となった。
佐々木則夫が
「雨が上がるまで、せっかく観に来ていただいたたくさんの皆様に何かしないと」
といい出し、土砂降りの中、ヘッドスライディングすることが決まった。
(ヤバイ)
丸山桂里奈は逃げて隠れたが、みんなに
「なにもしないからおいで~」
と呼ばれ、年下の大野忍に
「カリ、行け!」
と命令され、佐々木則夫をみると
「やるからにはしっかりやれ」
といわれ、
(こういうことは若い選手がやるもんじゃないかな?)
と思いながらグラウンドへ。
そして8000人の観客が見守る中、2回ダイブし、チームのために体を張った。
しかしなでしこジャパンに対する期待はあまり高くなかった。
「愛媛で壮行試合をやって、それから名古屋経由でワールドカップに向かうときも、同行した記者は3、4人くらいでしたかね。
団体のお客さんから『何のチームですか?』と聞かれて、『なでしこジャパンです』って答えたら『ああ、バレーボールね』といわれましたよ」
(佐々木則夫)

丸山桂里奈は、オシャレが好き。
「いい下着やお気に入りの下着をつけていると外からはみえなくても1日中気分よく過ごせる」
といい、大きな大会ではアメリカンイーグルというブランドを勝負下着と決め、試合に勝ったら替えずに連続して着用。
髪型はオデコ全開のポニーテールだが、髪を結ぶシュシュも「勝負シュシュ」があった。
爪は伸ばすことはできないが
「短い爪でもゴツい手でも関係ない」
と月一でネイルサロンに通い、バレンタインデーはハートとチョコレート、夏はスイカやヒマワリやセミ、クリスマスは星やツリーと季節のイベントをテーマにデザインをチェンジしていた。
ドイツに行く前、「T」「K」、そして「♡(ハートマーク)」が入ったネイルをブログにアップし、
「TKって彼氏のイニシャル?」
と話題となり、澤穂希からは
「桂里奈の彼氏の名前、タナカ・ケンジでしょ」
とイジられたが、それは両親のイニシャルだった。
丸山桂里奈は、両親を
「世界一大切な人たち」
と思っていて、
「不倫カップルと間違えられたら困るね」
などといいながら父親と腕を組んで出かけ、よりかかりながら寝転んでテレビ鑑賞。
母親も基本的に
「将来は、お母さんみたいになりたいな」
と思っていたが、1つだけ困っていることがあった。
「母は、キッチリした人だけにすごく口うるさいんです。
それも日常生活に関することならまだわかりますが、プレーにガンガン、ダメ出ししてくるんです。
例えばドリブルで競って澤さんにパスを出したとき、電話で『どうして自分で行かなかったの!あそこは行かなきゃダメでしょ!!フォワードなんだから!!!』ってプンプンしながらしつこくいわれました」

2011年6月26日~7月17日、ドイツの9都市でFIFA女子ワールドカップが開催。
出場したのは各大陸の予選を勝ち抜いた15ヵ国+開催国の16ヵ国。
世界一の座を争う戦いは、まず4チームずつ4グループに分けられ、総当たりで予選グループリーグを戦い、予選通過国による決勝トーナメントが行われる。
優勝候補筆頭は、アメリカ。
FIFA世界ランキング1位、過去5回行われた同大会で2度優勝。
続いてドイツ。
FIFA世界ランキング2位、前回大会優勝国であり、アメリカ同様、過去2度優勝。
そして初の世界一を狙うサッカー大国、ブラジルが、それに続いた。
日本は、FIFA世界ランキング4位。
過去5大会に5回出場。
しかし最高順位はベスト8。
世界トップクラスの一角に位置しているものの、優勝候補とはいい難い存在で、優勝オッズは約15倍だった。

なでしこジャパンは予選グループリーグで

ニュージーランド
メキシコ
イングランド

と同組に入った。
6月27日、高さとパワーのあるニュージーランド戦。
前半6分に先制し、すぐに追いつかれたが後半23分、宮間あやが決勝点を叩き込み、1対0で逃げ切った。
なでしこジャパンは、試合後、
「To Our Friends Around the World.
Thank You for Support.」
と書かれた横断幕を掲げて場内を一周。
世界中に人たちに大震災に見舞われた日本を支援してくれたこと、自分たちがワールドカップに参加してサッカーができること、そしてすべての人々に向けての感謝の気持ち、
「ありがとう」
というメッセージだったが、これは大会中、毎試合行った。
また大会中、なでしこジャパンは試合が終わった直後、試合に出なかった選手がピッチに出て、短時間ながら練習を行った。
「日本は勝利の歓喜の後になぜ再びネジを巻き直すのか?」
と不思議がる海外メディアもいたが、居残り練習でも罰ゲームでもレクリエーションでもなく、次の試合に起用されたときに最高のプレーをするため、そしてレギュラーの座を奪うための真剣な練習だった。

7月1日、第2戦、メキシコ戦を佐々木則夫監督は
「守備はそれほど強くはないが攻撃になると物おじしないで仕掛けてくるので冷静な対応が必要」
と分析。
選手たちは落ち着いて試合を運び、

前半13分 澤穂希
前半15分 大野忍
前半39分 澤穂希
後半35分 澤穂希

と澤穂希のハットトリック(1試合3得点以上)もあって4対0。
7月5日、第3戦、イングランド戦。
すでに予選突破を決まっている日本は、立ち上がりから、らしくない消極的なプレーを連発。
パワーに対してスピードとパスワークで崩す本来のサッカーではなく、相手にプレッシャーをかけられると焦ってボールを前線に蹴って、奪われるを繰り返し、イングランドに押され、前半15分後半21分に失点し、0対2と完敗。
グループリーグ2位で予選を通過し、決勝トーナメント進出を決めたが、もしイングランドに勝っていれば、4日後に行われる1回戦相手は、自分たちよりランキング下位のフランスだったが、負けたことで過去の対戦成績が0勝1分7敗のドイツになってしまった。
誰もがフランスと戦いたいと思っていたので、口にはしないものの、
「終わった」
と思うメンバーも多かった。
とんでもない相手に、丸山桂里奈もかなり凹んだ。
「ここで勝っていれば次はフランスと対戦だったんですよ。
当時のフランスはそれほど強豪ってわけじゃなかったのに比べて、ドイツはオリンピックでも金メダルを獲っていたし、さらに自国開催のワールドカップでぶっちぎりの優勝候補だったから、強かったです」

イングランド戦後、チームの空気は一気に悪化。
宿舎の食事会場でドイツチームとニアミスし、
「隣に座ったドイツは、もう勝ったも同然という感じで余裕いっぱい。
一方、こちらは暗ーい雰囲気で会話もまばらに食事をしていた」
そしてなでしこジャパンは、監督の佐々木紀夫が
「内紛寸前」
と心配するほど選手同士が激しく意見をぶつけ合った。
「意見をぶつけ合ったというか、まあ怒られたんです。
せっかくサブ(控え選手)が入っても、流れが変わらない、シュートは打たない.
そりゃ怒りたくもなるって思いました。
みんなイングランド相手に想定と違う戦い方になっちゃったから、サブはサブで『次はしっかり役目を果たそう!』って一致団結したんです。
あそこでサブも吹っ切れた感じでした」
ドイツ国内9ヵ所で行われるワールドカップ。
日本 vs ドイツ試合は、ヴォルフスブルクのフォルクスワーゲン・アレーナで行われ、なでしこジャパンはドイツと同じホテルに泊まっていた。
街中が、もうドイツ優勝みたいな雰囲気だったが、メンバーの1人が
「いいホテルに泊まって、Wi-Fiも使える。
それだけでもよかったと思おう」
というとみんな大笑い。
開き直ったなでしこ21名は、本当はしてはいけないが、
「ホテルを抜け出してケルンの大聖堂に行きました」
そして
「大舞台で開催国をヤッてやろう」
という気になった。

7月9日、決勝トーナメント1回戦(準々決勝)、なでしこジャパンは、1度も勝ったことのないドイツと対戦。
開催国であるためにスタジアムのほとんどがドイツサポーター。
試合前、スタジアムに場内アナウンスで注意事項を読み上げられ、それは各国語で行われたが、ドイツ語、英語に続き、日本語担当の若い日本人男性は、
「・・・・・・以上です。
絶対勝ちましょう!」
と果敢に職権を乱用し、数的に圧倒的に不利な日本人サポーターのボルテージを上げた。
負ければ日本に帰らなければならないトーナメント戦。
後がないなでしジャパンは、試合前にモチベーションビデオをみた。
モチベーションビデオは、いつも佐々木紀夫監督が専任スタッフに意図とイメージを伝え、完成したものをスタッフ全員で確認してから選手にみせていた。
「いつも映像をみせればいいという話ではない。
あまりみせすぎると慣れてしまって感動が薄れますからね。
ここぞというタイミングを常に意識していました」
(佐々木紀夫監督)
通常なら過去の試合を5~6分に編集したものだが、この日、画面に映し出されたのは、東日本大震災の被災地の映像だった。
「ドイツ戦の前にみせたのは『我々は日本を代表している』という映像でした。
何のために、この大会を戦っているのか。
それは震災で打ちひしがれた人たちに、我々が一生懸命ひたむきにプレーする姿をみていただいて、何とか元気になってもらうためだよね? 
最後まで一生懸命頑張る姿をみせることが、我々の責務だよね?ということを映像を使って再確認することができました」
(佐々木紀夫監督)
選手は、東北の人たちが置かれている厳しい現実を目の当たりにして、やらなければいけないことに気づいた。
「自分たちが一生懸命戦う姿、最後まであきらめない姿をみせて、被災地で頑張っている人たちに少しでも元気になってもらいたい」
「日本を元気づけたい」
崖っぷちから一転、なでしこジャパンは、
「絶対にあきらめない」
「勝とう 」
「相手がドイツだろうと関係ない」
「とにかくやってやる」
と前向きな気持ちで試合に臨んだ。
前半、持ち前のスピードと運動量で相手にプレッシャーをかけてパスをつなぐ自分たちのサッカーを展開。
セットプレーで危ない場面もあったが、0対0でハーフタイムへ。
「ドイツ戦は独特の雰囲気でした。
みんなの気持ちも1つになって、スタメンの選手もすごく粘り強く戦ってくれた。
だからサブが出て活躍する場ができたと思います」

佐々木則夫監督は、いつもは試合残り時間15分くらいから出していた丸山桂里奈を後半開始から投入。
「とにかく前に行ってどんどんシュートを狙え」
といわれ、丸山桂里奈は、
「やるしかない」
と気合いを入れたが、ピッチで澤穂希に
「桂里奈、頼むぞ」
といわれると、さらに気合いが入った。
しかしエースストライカー、永里優里の代わりに入った丸山桂里奈だったが、ポジションは最前線ではなく2列目だった。
「ノリさんは『絶対に決めろ』っていってて。
その割に途中から入ってもサイドに置くんです。
サイドから決めろって無理だよ、ドイツ選手は超攻めてくるのにって思いました」
ポジショニングに戸惑う丸山桂里奈は、後半が始まってすぐに自分のミスでボールを奪われてしまう。
一見、物おじしなさそうだが、実は超マジメで超気ぃ遣いな丸山桂里奈は、一気に緊張してしまいそうになったが、遠くにいた安藤梢が、
「GOOD」
というように親指を立てるのをみて、ネガティブな気持ちが吹っ切れ、試合に集中。
その後は力を惜しむことなく前線からプレスをかけ続けた。
『まさか日本相手に』
粘る日本に得点が奪えず、スタジアムを埋め尽くすドイツサポーターはフラストレーションを募らせ、苛立ってグラウンドでいい争うドイツ選手もいた。
一方、なでしこジャパンは
「いけるよ」。
「やれてるよ」
「サンキュー」
「ナイス」
と助け合い、励まし合い、お互いに信じてプレー。
両チーム0対0のまま90分を終え、試合は延長戦へ突入した。

延長戦に入る前、佐々木則夫に
「絶対決めてこい。
お前ならできる」
といわれた丸山桂里奈は、ひたすら前に出るチャンスを狙い続けた。
延長後半、佐々木則夫は丸山桂里奈のポジションをトップに変えた。
延長後半3分、ドイツボールを鮫島彩がカット。
鮫島彩、熊谷紗希、岩清水梓とつながり、縦に出たボールに岩渕真奈が反応。
丸山桂里奈は、それをみてドイツDFの背後に向かって一直線に走り始めた。
「感覚でした。
[岩渕)マナがボールを持ったと思った瞬間、来る!って思って、もう走り出していました。
全然ボールなんてみていなかった」
岩渕は受けたボールを、澤穂希にダイレクトパス。
澤は、前に大きな浮き球を出した。
無我夢中で走っていた丸山桂里奈の足元に
「今しかない!」
という絶妙のタイミングでボールが転がってきた。
ドリブル突破を開始し、スライディングしてくる相手ディフェンスをかいくぐるとボールからゴールに向かってスーッと金色の光のラインが走った。
それに導かれ、合わせるようにシュート。
角度のないところから踏ん張って蹴ったボールはゴールに吸い込まれていった。
「コースに光が走ったから蹴っただけ。
自分ではすごくかっこいいボレーシュートを決めたと思いました。
でも後からビデオでみるとゴールに向かって『ハイ』ってボールを渡したような、パスみたいなシュートだった」
その瞬間、満員のドイツサポーターの声援が消え、スタジアムは無音となった。
「あの静かさは私、どこかに連れて行かれたかと思った。
違う次元に行くって聞くじゃない?
みんなの動きがめちゃくちゃ遅くみえて、私の中では10分くらいに感じてた。
あんな感覚になったことなんて今までなくて、すごく怖かったんです。
何万人も入ってるのに誰の声もしないって、気持ちワル!って」
丸山桂里奈は、ジャンプして右拳を突き上げ、メンバーと抱き合った。
そして大はしゃぎする丸山桂里奈だったが、実は大変なミスを犯していた。
絶妙なラストパスを出したのが岩淵真奈だと思っていたため、笑顔で駆け寄ってきた澤穂希をいなして岩淵と抱き合ってしまい、試合後のロッカールームで
「(パスを出したのは)私だよ!」
と怒られたのである。
試合残り時間は、12分。
ドイツの怒涛の猛反撃が始まった。
サポーターの応援もすさまじく、完全アウェーの中、なでしこジャパンはフォワードもディフェンダーも関係なく
「勝ちたい」
という気持ちで一丸になって守りに守り、1対0という歴史的勝利を収めた。
試合後、記者会見で丸山桂里奈は、
「東北の人たちのために、ゴールを決めました」
とコメント。
結局、この代表3年ぶりのゴールが日本代表最後のゴールとなった。
そのゴールで国民的なヒロインになって、チームメイトに
「おいしい」
といわれた。

ドイツ戦から4日後、準決勝戦で、なでしこジャパンは、スウェーデンと対戦。
前半、澤穂希のパスミスから先制点を奪われてしまったが、みんなで
「大丈夫」
「まだまだ時間あるよ」
「澤さん、大丈夫だよ」
と声をかけ、前半19分、川澄奈穂美が同点ゴールを決めた。
みんなが川澄にかけよって
「ナイスゴール」
と称える中、澤は
「ありがとう」
とお礼をいった。
1対1のまま前半が終了するとロッカールームで澤は謝罪し、
「後半は自分で点を取って迷惑かけた分、取り戻すから」
と約束。
そして後半15分、気迫あふれるプレーでゴールを決めて、2対1。
後半19分、川澄がとどめのロングシュートが決め、なでしこジャパンは3対1で決勝戦進出。

「開催国のドイツに勝って、何をされるかわからないので、それからはホテルと試合会場の往復で、ホテルから出られませんでした」
と缶詰め状態の丸山桂里奈は、日本のサッカー誌をみて不満を感じた。
ドイツ戦のゴールを決めた自分の喜びの表情の写真が、まるでゴリラの雄たけびのようで
「そのすごい顔をみんなに冷やかされて、いじられ続けた」
のに対し、スウェーデン戦で2ゴールを挙げた大学の後輩、川澄奈穂美は、かわいい顔をして両手のネイルをみせる写真を掲載され、まるでシンデレラのような扱いを受けていたのである。
ホテルのロビーで囲み取材に応じたとき、
「川澄とかかわいい写真ばっかりなのに、なんで私だけひどい顔の写真しかないのよ。
プレー写真としては迫力があるのはわかります。
わかりますけど、もう少し何とかしてくださいよ」
と訴えた。
すると記者の1人が
「その写真を撮ったのは私です」
といったので、目を細めて睨んだ。

決勝戦の相手は、アメリカ。
過去0勝21敗3分。
両国ともワールドカップに6大会連続出場ながら、アメリカが優勝2回、3位3回なのに対し、日本の最高はベスト8。
大会前に15倍だった日本の優勝オッズは3.6倍になっていたが、アメリカの1.9倍。
ほとんどの人がアメリカの勝利を予測していた。
この日、用意されたモチベーションビデオは、「日本女子サッカーの歴史」
「アメリカ戦のビデオのテーマは『次のステージに向けて』
つまり復興ですよね。
ドイツには勝ったけれど、そこでおさまらずに新しいステージに向かっていこうというメッセージを込めました」
(佐々木則夫監督)
なでしこたちは、大先輩たちの苦労と努力とみて頑張って戦う決意を固めた。
一方、アメリカは、早い段階で勝利を決定づけようと試合開始から猛攻を仕掛けることを決めていた。
そしてキックオフ直後、前半1分、思惑通り、チェニーがドリブルで持ち込んでシュート。
その後も8分、9分、11分、12分、16分、18分と立て続けにシュート。
得点にはならなかったが、アメリカのエースストライカー、アビー・ワンバックは、
「時間の問題だ」
と思った。
日本は守備に追われて攻撃できず、慌ててロングパスをしてボールを奪われるという場面が続いた。
全体的にチームのリズムが悪く、佐々木則夫監督は、落ち着いてボールを回すよう指示。
前線にロングパスしていたGKの海堀あゆみは、近くにいるDFへのパスへ切り替え、DFも自陣でパスを回した。
すると観客は、攻撃を促すブーイング。
アメリカの猛攻を止まらず、前半29分、ワンバックが左足で強烈なミドルシュート。
クロスバーに助けられた日本は、敵の攻撃に耐えながらパスをつなげる自分たちのスタイルを少しずつ取り戻し、攻撃に展開することもできるようになった。
ワンバックは
「日本が自信を取り戻しつつある」
と警戒。

両チーム無得点で前半が終了。
悪夢のような攻撃にさらされながらも、日本はボール支配率で上回った。
一方、アメリカは戦略を修正。
攻め急がず、日本が攻撃で前がかりになったところでボールを奪って、素早く一気に攻めるカウンターを狙いに切り替え、突破力のあるアレックス・モーガンを前線に投入した。
後半1分、早速、クロスに合わせてアレックス・モーガンがシュートが放ったが、ボールはゴールポスト。
前半に続き、キックオフ直後にピンチを迎えた日本は、その後も懸命に守備を固めた。
後半21分、守る時間が続く中、佐々木則夫は、安藤梢、大野忍に代えて、永里優季、丸山桂里奈を入れた。
アメリカを相手にしても、丸山桂里奈の力強いドリブルは効果抜群だった。
後半24分、永里優季が囲まれてボールを奪われると、前線から自陣に一気にパスを通され、アレックス・モーガンにDFを崩されて先制点を奪われ、0対1。
この1点でアビー・ワンバックは勝利を確信。
攻めていたはずが速攻でゴールを奪われたなでしこジャパンは動揺し、
「やはり勝てないのか」
ネガティブな考えに陥ったチームに、キャプテンの澤穂希は声を上げた。
「あきらめるな。
行こう!」
その声にチームは奮い立った。
「まだやれる!」
そして得点後、動きが鈍くなったアメリカに対し、
「まずは同点!」
と走り続けた。
圧倒的な力をみせる相手にリードを許し、試合は終盤に突入。
まさに絶体絶命という状況だったが、ここまで劇的な勝ち上がってきたなでしこたちは、まったくあきらめなかった。
後半35分、川澄奈穂美が右サイドへ深く切り込んだ後、永里優季にパス。
永里優季は右サイドを強引に突破し、センタリング。
それをシュートしようとする丸山桂里奈とアメリカのディフェンダーが交錯。
こぼれたボールを自陣から約50m以上を一気に駆け上がってきた宮間あやがシュート。
最初、左足インサイドで右に蹴ろうとしたが、GKのホープ・ソロに読まれたと感じ、刹那、アウトサイドを使って左へ蹴って、1対1の同点。
その後、アメリカはパワープレーを仕かけたが、得点は奪えず、延長戦へ。

延長戦に入り、なでしこジャパンは守勢が続いた。
延長前半14分、澤穂希のクリアミスを拾われ、エース、アビー・ワンバックにゴールを決められ、1対2。
ワンバックは延長前半終了間際に奪った得点に
「これで終わった」
と確信。
しかし川澄奈穂美は
「このくらいの方が楽しい」
宮間あやは
「大事なのは、この後」
と声をかけるなど、なでしこの心は折れず。
同点にすることだけを考え、自分と仲間を信じてプレーしたが、得点は奪えず、15分間の延長前半が終わった。

延長前半終了後のわずかな時間に川澄奈穂美は、佐々木則夫監督に進言し、丸山桂里奈とポジションを入れ替わり、右のウイングへ。
そして延長後半3分と4分に攻撃の起点となったが得点はならず。
後がないなでしこジャパンは、近賀ゆかり、鮫島彩両サイドバックが前へ上がった。
そして澤のパスを受けた近賀がしかけ、ゴール前に迫り、得点は奪えなかったが、コーナーキックを得た。
ここでキッカーの宮間あやと澤穂希は短く言葉を交わした。
「ニアに蹴る」
(宮間あや)
「1番に飛び込む」
(澤穂希)
延長後半12分、宮間のキックに、ニアサイドに飛び出した澤は、ゴール前で相手と競り合いながらジャンプし、右脚を伸ばし、右足アウトサイドでボールを流した。
ボールはゴール前の密集を針の穴を通すように抜けていき、最後はアビー・ワンバックに当って角度を変えて、ゴールに入り、2対2の同点。
残り3分、つかんでいた勝利が手からこぼれ落ちたアメリカは、怒りの反撃を開始。
そしてアディショナルタイム、縦パスからアレックス・モーガンが抜け出た。
これを岩清水梓が体を張って阻止し、人生初のレッドカードをもらい、退場。
チームは、誰1人抗議したりせず、ラスト数秒を守り切ることだけに集中。
アメリカのフリーキックで試合が再開。
10人となって数的不利ななでしこジャパンは懸命に守り、タイムアウト。
勝負はPK戦に持ち込まれた。
TVで観戦していたオバマ大統領は、ツイッターで
「タフな試合」
とつぶやき、佐々木則夫監督は、
「延長戦のときは、もう試合なんかみえないんですよ。
ただただ『こいつら、すごいことをやらかしているな』と。
確かに『最後まで一生懸命頑張る姿を見せることが、我々の責務なんだよ』ということは伝えました。
そうすれば結果も後からついてくるとも思っていました。
でもそれ以上のことを彼女たちはやってのけようとしている。
だから2対2でPK戦になったとき、あまりの素晴らしさに僕はニコニコしていたんです。
あのときはむしろ、相手のほうが追い込まれた表情をしていましたよね」

PK戦となってピッチ上に集まったなでしこジャパンををみて、世界中の人々が驚いた。
全員が笑っているのである。
このとき佐々木則夫が、
「もうここまで来たら、勝っても負けてもいいんだよ。
PKなんて、たぶん運だし」
と笑いながらいったので、選手はホッとして笑顔になったのである。
その上、それに乗じて澤穂希は
「私、絶対PK蹴らない」
といった。
5年前の日本代表戦(2006年アジア大会決勝、北朝鮮戦)でPKを失敗し、試合に負けた澤穂希は、それ以降(そしてこれ以降も)PKを蹴ることはなかった。
「わかった。
澤は同点ゴールという大仕事をしたんだからお役御免だな。
後はみんなで頑張ろう」
と佐々木則夫監督に認められると澤穂希は、
「ラッキー」
とおどけた。
すると周りは
「ええー」
「ズルい」
といって爆笑。
川澄奈穂美が
「めったにないチャンスだから」
とマジメに勧めるのをみて、また爆笑した。

佐々木則夫監督は4番目にDFの熊谷紗希を指名したとき
「背番号が4だから」
とオヤジギャグを繰り出したが、苦笑され、PKでいえば失敗。
それでも笑顔で
「楽しんでこい」
といって選手を送り出した。
コイントスでアメリカが先攻となり、GKの海堀あゆみは
「2失点した自分の張りどころはここだ」
と気合を入れた。
このワールドカップには3人のゴールキーパーが代表メンバーに選ばれていたが、試合に出たのは最も若く最も試合経験が少ない海堀あゆみだった。
キーパーは大会途中で交代になる可能性が最も低いポジション。
それでも2人の先輩キーパーは腐ることなく、海堀をサポートし、練習やミーティングでも熱心にアドバイスを与えた。
アメリカは準々決勝のブラジル戦でPK戦を行っていて、海堀あゆみは、そのときのキッカーのコースを教えられた。

アメリカの1人目、ボックスの中央寄りのシュートを海堀あゆみは裏をかかれながらも右足で弾き出した。
なでしこジャパンの1人目、宮間あやは遠藤保仁ばりの落ち着きで決めた。
アメリカの2人目、ロイドのボールは枠外。
永里優季もキーパーに止められた。
アメリカの3人目、ヒースが左側を狙ったボールを海堀が阻止。
アメリカが3人連続で外すのをみて、丸山桂里奈は
「ノリさんマジック!」
と思った。
なでしこの3人目、ポーカーフェイスな関西人、阪口夢穂は、しっかりと決めた。
アメリカの4人目、ワンバックは成功。
なでしこジャパンは、次が決まれば勝ち。
仲間が祈る中、
「狙いを読まれたくない」
と1度夜空を見上げた後、熊谷紗希が放ったシュートはゴールの左上に突き刺さった。

試合後、勝利の喜びを噛み締めながらもなでしこたちが手にしたのは、国旗より先に
「To Our Friends Around the World
Thank You for Your Support」
と震災後の日本を支援してくれた世界へ向けてのメッセージを書いた横断幕。
優勝セレモニーの後に、サポーター席に駆け寄った選手たちの第一声もやはり
「ありがとう」
だった。  
多くの人が
「無理」
「できない」
と思う中、世界ランキング1位のアメリカを倒し、日本サッカー史上、男女を通じて初のワールドカップ優勝。
試合は日本の地上波でも放映され、早朝にもかかわらず21.8%という高視聴率を記録。
イギリスのザ・タイムズ紙が、
「鉄の意志のチーム」
ニューヨークタイムズ紙が、
「復興への希望の上に築かれた勝利、大震災で打撃を受けた国を盛り上げた」
と書くなど世界からも賞賛された。
アメリカ戦から2日後、なでしこは帰国。
成田空港で乗っている飛行機が放水アーチを受け、入国ゲートには、これまで目にしたことのない数のファンに歓迎された。
以後、なでしこフィーバーが巻き起こり、様々なメディアから取材を受けて出演。
8月に国民栄誉賞、11月に紫綬褒章が贈られた。
決勝の澤穂希の同点ゴールと共に丸山桂里奈のドイツ戦の決勝ゴールはハイライトとして取り上げられた。
丸山桂里奈は、そのキャラクターも相まってお茶の間の人気者に。
「日本の男子選手は、もしワールドカップで優勝したら1人5000万円ほどもらえるらしいですが、私たちは出身自治体などからいただくものも合わせて1人800万円ほどでしたね。
やっぱり格差があるなと感じたけれど、それでもこれまでの生活を考えるとありがたかった」
というが、ロンドンオリンピックのアジア最終予選が迫っていた。

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