澤穂希の少女時代  受け入れた運命、切り開いた人生、抗った試練 、夢を持つことが生み出す力、その威力。

澤穂希の少女時代 受け入れた運命、切り開いた人生、抗った試練 、夢を持つことが生み出す力、その威力。

男子より粘り強く、ひたむきで謙虚で前向きでポジティブでパワーのある日本女子サッカーの激動の歴史。座右の銘は「夢はみるものではなく叶えるもの」 夢を持つことが生み出す力、その威力を知る澤穂希の魂あふれる戦い。


日本サッカーの起源は、明治時代である1873年に日本海軍が外国の軍人から教わったこと。
大正時代、1918年には全国大会が始まり、翌1919年には日本蹴球協会(現:日本サッカー協会)設立。
大正は、それまで家にいるのが当たり前だったが女性が外で働き出し、社会に進出し始めた時代で、
「男に負けない」
という意識はスポーツにも波及し、男性に混じってサッカーをする女性も多かった。
しかし昭和になり戦争が始まると、そんな雰囲気は消し飛んでしまった。
1945に終戦し、その後の混乱を経て、1966年、日本最初の女子サッカーチームが、兵庫県で2チームできた。

神戸市灘区の福住小学校6年生26人でつくられたチーム
西宮市の神戸女学院中等部3年生15人でつくられたチーム

は、翌1967年に福住小学校の近くにある王子競技場で対戦。
そして女子サッカーチームは急増。
世間には
「女がサッカーなんて」
という偏見がはびこっていたが、彼女たちは好奇の目にさらされながら一生懸命練習し、盛んに試合を行って、仲間を増やしていった。

日本最初の女子サッカーチームができた12年後、東京都府中市で澤穂希が誕生。
「ツルツル頭でなんともいえずかわいかったですよ。
産声は上げましたけど、全然泣かない子でしたね」
という母親、父親、1つ上の兄の4人家族。
通常、赤ちゃんは、生まれて1年間で、首がすわる、寝返り、お座り、ハイハイ、つかまり立ち、伝い歩き、たっち、しっかりと立つ、歩くという過程で成長していく。
しかしお腹にいるときに母親のお腹がグイっと突起するほど内側から強く蹴っていた澤穂希は、ハイハイはあまりせずに、いきなりつかまり立ち。
階段を降りるときも、はじめは前向きに座って1段ずつ降りるところ、後ろ向きでズンズン降りていき、ベビーカーもあまり乗らずに、すぐに歩き出した。

澤穂希が生まれた翌年、日本サッカー協会は発足から半世紀を経て、女子チームの登録の受付を開始。
するとそれまで男子だけの組織だった日本サッカー協会に、52チーム、919人が登録した。
翌1980年には、第1回全日本女子サッカー選手権(現:皇后杯、2012年~)が開催された。
この大会は、以後毎年、12月にトーナメント戦が始まり、翌年1月1日に国立競技場で決勝戦が行われ、
(同日、全日本男子サッカー選手(天皇杯)の決勝戦も行われる)
女子サッカーチームはどんどん増え、 レベルも上昇していった。
当初、

8人制
25分ハーフ
グラウンド面積は男子の2/3
胸トラップ禁止

など女子特有のルールもあったが、やがて男子と同一化。
しかし日本サッカー協会に登録したといっても、大会の開催、運営、資金調達などは、すべて自分たちで行わなければならず、
「日本女子サッカー連盟」
がつくられた。

澤穂希は、3歳のときに全国にプールがある「イトマンスイミングスクール」に入会。
昇給テストに受かって級が上がるとスイミングキャップの色が変わっていくというシステムがあり、澤穂希はこれにどっぷりとハマり、新しい色のキャップを狙って夢中で泳ぎ、幼稚園に入る前に1番上の「特級」に到達。
書道も習い、生まれつき左利きだったが、
「文字は右手で書きなさい」
と直され、書くのは右手、箸は左手という両利きに。
「両手が使えることで右脳と左脳がバランスよく刺激されているかもしれない。
そのバランスがサッカーに生かされている気はします」
雪の日の夜、3歳の澤穂希と兄がイタズラをしたため、母親は
「反省しなさい」
と家の外に放り出した。
その後、家事に追われ、気づけば、すでに1時間ほど経っていて、あわてて外をみると、泣き疲れて玄関で眠る兄がいた。
「穂希は?」
と思いながら、すぐに抱えてコタツに入れ、真っ青になりながら再び外に出ると物干し竿で遊ぶ娘がいた。

澤穂希が5歳のとき、父親の転勤で一家は大阪府高槻市に引っ越し。
兄が「安満サッカークラブ」に入ると、澤穂希は、いつも母親と一緒に練習をみにいった。
6歳のとき、コーチに
「妹さんも蹴ってみない?」
といわれ、いつも持ち歩いていたゴム製のバレーボールを抱えて立ち上がり、コーチの後についてグラウンドへ。
バレーボールを地面に置いて
「エイッ」
とつま先で突くように蹴ると、ボールは地面をコロコロと転がり
(いったいどこにいくの?)
ワクワクしながら行方を追っているとボールは何かに導かれるようにゴールへ。
さらにドキドキしながら見守っているとボールはゴールの中に吸い込まれていった。
その瞬間、
(楽しい!!)
ゴールの意味はあまりわからなかったが、とにかく嬉しく大喜び。
母親をみると笑っていて、コーチは少し驚いていた。
この一蹴り、初ゴールで人生は決まった。
「ゴールに入ったのが嬉しくて。
すぐに私もサッカーをやりたいってなりました」
こうして澤穂希は、大阪でボールを蹴り始めた。
安満サッカークラブは、安満遺跡公園のグラウンドで練習し、夜遅くなると夜間照明がないために車のライトをつけて練習するような熱心なクラブだった。
「大阪では週に1回か2回の練習に参加するだけだったけど、サッカーに夢中でした」

7歳のとき、父親の転勤が終わって東京都府中市に戻ると、澤穂希は「府ロクサッカークラブ」、通称「府ロク」に入った。
府ロクは、府中第6小学校の先生が創設。
授業の後、学校のグラウンドで練習し、全国大会に何度も出ているジュニアの名門チームだった。
兄は問題なく入ることができたが、澤穂希は、母親が
「妹は入れますか?」
と聞くと
「前例がないから」
と断られてしまう。
府ロクは、男子、しかも小学校3年生以上でないと入れないことになっていたが、母親はあきらめず
「前例がないのなら、うちの娘で新しい歴史をつくってください」
といって返事待ち。
そして小学2年生の女の子は「仮入団」が認められた。

仮入団の身である澤穂希は、グラウンドの隅で練習していたが、間もなく地元の小学生が出場する「狛江杯」があり、母親と兄の応援に。
前半を0対0で終えたとき、コーチに
「出てみない?」
と声をかけれた澤穂希は、ユニフォームを借りて、後半から出場。
いきなりゴールを決め、チームは勝利した。
本人は、
「無我夢中でプレーしたこと以外記憶がない」
というが、翌日の地元の新聞に
「途中出場の女の子の決勝ゴール」
と取り上げられた。
この功績で府ロクも「正式入団」となり、365日のほとんどをサッカーボールと過ごすサッカー漬けの人生が始まった。

府ロクの練習は週5日。
土日は、試合や遠征、合宿があった。
学校が終わるとすぐに練習が始まり、帰宅は夜。
兄は帰ってくると
「疲れた」
といって風呂に入ったが、澤穂希は
「練習する」
といってボールを持って外にいき、1人で1時間くらい、家の前の壁にボールを当てたり、リフティング。
「自主練というより、ただただ楽しくて蹴っていただけ」
というが、雨の日は家の中で蹴ることもあった。
府ロクに入って半年後、河口湖で行われた合宿で広いグラウンドの外周を1度もボールを落とさずにリフティングで回り、コーチを驚かせた。

府ロクを含め、多くのジュニアサッカーチームは各学年ごとにチームがあり、チーム別に練習や試合を行う。
上手な子が上の学年でプレーすることもあるが、基本的にチームメイトは同級生。
誰もが試合に出られるというわけではなくポジション争いは激しかったが、仲は良かった。
大人になっても府ロクのチームメイトの交流は続き、サッカーや昔の話で盛り上がっている。
澤穂希は、身長が高く、髪型もショート。
大阪にいた頃、可愛い帽子をかぶったりして女の子らしい格好をしたこともあったが、東京に戻って男の子ばかりの中でサッカーをするようになってから、スカートなどはいたことがなく、いつもGパンや短パンで、よく男の子に間違えられていた。
ところが運動会でスカートをはいてダンスをしなければならなくなり、練習のときからふてくされたように踊り、以後、ダンスは嫌いになった。
土日は、近郊や他県で試合や大会遠征、合宿があり、父兄は交代で引率や応援を行って、電車で一緒に移動したり、車を出すこともあった。
「遠くの遠征先ではホテルや民宿じゃなくて、「分宿」といって対戦相手の選手の家に泊まるんです。
それが他校の友達と仲良くなれるから面白かった。
だけど高学年になるとお互いに意識して気まずくなってくる」
大きな部屋で雑魚寝するときは、澤だけチームメイトのお母さんたちの部屋へ。
「さすがにお風呂は別だとしても仲間だし寝る部屋は同じでもいいのに・・・」
と思っていた。
女の子だからと別行動を強いられることがイヤだった。

とにかくサッカーをするのが大好きで、
「そのまま今まで来たような感じ」
という澤穂希が、
「私の原点」
という府ロク。
そしてサッカー選手として頂点を極めた彼女が、そうなれた理由として挙げるのが
「府ロクで基礎を繰り返し磨いたから」
府ロクの練習はハードであると同時に遊びの要素があって
「厳しさより楽しさを感じた」
という。
楽しくて自発的に練習することで基礎技術が磨かれ、それが澤穂希のサッカー人生を支え続けたという。
ポイントは、「やらされる練習」ではなかったということ。
多くの子供がハデでカッコいいプレーに憧れて、そのスポーツを始める。
しかしイザッ始めてみると、まずやるのは「基本」とか「基礎」といわれる練習。
それは地味でしんどい反復練習が多く、これがイヤでやめてしまう子供も多い。
その点、府ロクは、怒って強制的にやらしたり、枠にハメるのではなく、ホメたり楽しくしたりして子供のやる気を引き出すやり方を行った。

基本練習の1つである「リフティング」も
「世界一周ゲーム」
という面白く競争できるゲームを考案。
それはボールを地面に落とさずに蹴り続けるリフティングを、

利き足で5回
利き足で10回
利き足で20回
利き足で30回
利き足の内側だけで
利き足の外側だけで
左右、両足を使って
大腿、肩、頭を使って

と段階的に難易度が上げていく。
子供は、技を1つ習得する度に手持ちのカードに描かれたスゴロクのようなマスを1つ塗りつぶしてもらえ、その上、チョコレートや肉まんをもらった。
「サッカーでホメられて、お菓子までもらえて、2倍うれしい」
スイミングスクール同様、澤は、このシステムにどっぷりとハマり、
「目指すはゴールの世界一周」
とチームメイトと競争しながら、ドンドン技を覚えていった。
「基礎を習得する練習自体をゲーム感覚でやらせてくれたことがポイント。
やらされていると感じると何をやってもうまくいかない。
課題をクリアする達成感。
ホメてもらえる喜び。
周りに負けたくないという気持ち。
チョコや肉まんにはメンタル面強化の効果があった」

ご褒美という誘惑につられて頑張る日々は、目標に向けて努力する過程でもあった。
最初はうまくいかなくても
「続けていれば絶対にできるようになる」
ということも体で覚えていった。
基本練習同様、苦手なことをやるときは、どうしてもネガティブな気持ちになって消極的な取り組みになりやすい。
しかし澤は、苦手なことにもゲーム感覚で明るく楽しくチャレンジできた。
利き足は左足だったが、右足のキックにも取り組んだ結果、地面のボールを引っかけて浮かせるボールリフトは右足の方が得意になった。
現役を通じて強いシュートを打つときは左だが、右で蹴れることは大きな武器となり、ワールドカップの決勝戦で決めた同点ゴールも、そのおかげだという。
2011年7月17日(日本時間18日)、ドイツで開催されたFIFA女子ワールドカップで初の決勝進出を果たした日本女子サッカー代表「なでしこジャパン」は、世界最強のアメリカ代表と激突。
先制点を許しながらも追いつき、延長に持ち込んだものの、延長前半に再び失点し、1対2。
延長後半も残りわずかとなり、誰もが
「ダメか」
と思う中、宮間あやの上げたコーナーキックに澤が飛び込み、右足アウトサイドで蹴って後方に流したシュートは奇跡的な同点ゴールとなった。
2対2でもつれ込み、PK戦を制したなでしこジャパンは、男女通して日本サッカー史上初めて世界の頂点に立った。
「右足小指の外側にボールをひっかけて、足首をタイミングよくひねって、ボールを自分の体の右後ろに蹴ったんです。
でも私はあのシュートを特別、必殺技のように練習したわけではないんです。
積み重ねてきたことといえば、空中にあるボールを右足のアウトサイドにヒットさせること。
それが私の土台なんです」

サッカーに熱中するあまり、小学校では宿題をやらずに休み時間に友達のものを写し、人見知りで口数は少ないが、みんなと一緒にいるときはいつもニコニコと笑い、母親に
「100万ドルのスマイル」
といわれた澤穂希だったが、東京に転校してから、イジメにあった。
上履きがなくなったり、教科書がなくなって学級文庫の棚に並べてあったり、ランドセルがカッターで傷つけられたり、バレーボール部の女子が帰るときにサッカーグラウンドの脇を通りながら
「男の子の中で1人サッカーしてる」
とからかわれたりして
「さすがにショックだった」
イジメられる理由も嫌われるような行動をとった記憶もなく、仲良くやっているつもりだったので
「どうしてこんな目に遭うんだろう」
と悩んだ。
しかし
「負けることになる」
とイジめられていることを親にも先生にも話さず、誰にもそんな素振りもみせず、学校に行くのは嫌だったけど休まず、嫌がらせをされてもグッと我慢。

3年生になり、クラスが替わるとイジメを受けることはなくなったが、それまで悲しくツラい毎日を救ってくれたのはサッカーだった。
サッカーをやっている間は、イヤなことを忘れることができた。
「本気で好きなことがあれば、心が励まされるんです。
これは本当です」
毎日が、サッカー、サッカーだった。
周りは男の子ばかりだったが、歯を食いしばって相手とボールに向かっていき、誰よりも熱心に練習し、家に帰ってもボールを蹴った。
ある日、コーチは、雨が降りそうなので練習中止を決めて連絡を回したが、
「もしかしたら来ているかもしれない」
と練習グラウンドを確認。
すると案の定、澤穂希が1人でいたので
「今日は中止」
と伝えた。

府ロクに入って1年、小学3年生になると澤穂希はレギュラーとして左ハーフや左ウイングのポジションに入った。
チームメイトは練習熱心で負けず嫌いな澤を認め、大事な存在と認識していた。
しかしある日の試合中、相手チームの選手が少しバカにした口調で
「女のくせにサッカーするなんて」
澤は、試合中だったので無視。
すると相手はスパイクを蹴ってきた。
「やられたらやり返す」
主義の澤穂希は、さすがに頭にきて蹴り返したが、よけられてしまった。
ムキになって蹴ろうとすると相手が逃走。
澤穂希は追いかけた。
2人だけ試合の流れと逆方向に走り出し、ボールがないところで追いかけっこ。
レフリーは笛を吹いて試合を止めた。
2人は呼ばれて
「どうしてこんなことになったの?」
と聞かれた。
澤穂希は、
『女子がサッカーをやっていることをバカにされた』
と説明すること自体、悔しかったのでしなかった。
「どういう話し合いになったか記憶にないが、ただ悔しさだけは残っている」
澤穂希は、チームメイトが何かされてもエキサイトし、一目散に走っていった。
それは
「誰よりも速く、誰よりも多かった」
という。
「やられっぱなしはイヤだから、チームメイトがラフプレーをされたり、レフリーがみていないところで何かいわれたりしたときは、『あの選手、何番だった?』って聞いて、イエローカードをもらっても気にしないくらい、その試合中に絶対にやり返してました」
それは大人になっても変わらず、日本代表として国際大会の前に男子高校チームと練習試合をしていたとき、ガムをかみながら完全にナメた態度でプレーする高校生にチームメイトが悪質なファウルで押し倒されると、詰め寄って押し返し、
「ふざけないで。
謝ってよ」
と激しく抗議した。

同じく小学校3年生のとき、澤穂希は、母親に歯向い、ひどい言葉を浴びせた後、ブタれ、
「ピシッ」
と鼻血が台所の食器棚についた。
澤穂希は、悔しくて泣きながら
「出てってやる」
と叫んだ。
しかし
「出ていきます。
探さないでください」
と置手紙を書いている内に落ち着いてしまい、家出は中止し、ケロッと過ごした。
「この頃から切り替えは早い方だった」
澤穂希は、母親にブタれたのは
「人生で1度だけ」
というが、兄は、その1回のトバッチリを受けて頭にタンコブができた。
ちなみに澤穂希が初恋したのも、この頃。
相手は同級生。
「サッカーはしていなかったけど運動神経が良くて走るのが速い男の子だった。
スポーツ万能で勉強もできる、女の子なら誰もが気になるタイプの男の子。
私もなんとなくその子のことが気になっていた。
でも告白するなんて発想もなかったし、彼も私の気持ちにまったく気がついていないようだった。
まあ私の気持ちといっても恋心というほどのものでもなかったし、ただちょっと気になる、お気に入りの男子という程度だったけど」
そんな乙女心を育みながらも、体育の授業で俊足で男子をうならせ、ダンス発表会をサボって校長室に呼び出された。

1989年、女子チームの登録を開始して10年、日本サッカー協会は、女子サッカーの活動も責任を持って行うこと。
その背景には、

・1年後(1990年)、アジア大会で女子サッカーが正式種目として採用されたこと
・2年後(1991年)、第1回の女子ワールドカップも開催されること

があり、女子サッカーの強化が急務だった。
これによって「日本女子サッカー連盟」は発展的に解消され、女子サッカーはようやく日本サッカーの一員になれた。
それまで真剣勝負の場は、年1度の全日本女子選手権(現:皇后杯)だけだったが、同年9月、

読売サッカークラブ・ベレーザ(東京)、
清水フットボールクラブ(静岡)
田崎真珠神戸フットボールクラブ・レディース(兵庫)
日産FCレディース(東京)
新光精工FCクレール(東京)、
プリマハム・FC・くノ一(三重)

という1都3県6チームが参加する「日本女子サッカーリーグ」が誕生。
すべての選手がプロではなくアマチュアだったが、トップリーグの誕生は選手にとって大きなモチベーションとなった。
開幕戦は、ベレーザ vs 清水。
全日本選手権2連覇中のベレーザは、日本代表選手に加え、チャイニーズタイペイ(台湾)代表の周台英を擁する清水に2対0で勝利。

このとき澤穂希は小学校5年生。
女子のほうが身体の成長が早いため、府ロクではGKに続いて2番目の高身長となった。
高学年になって何かを意識し始めたのか、一部のチームメイトは2人1組で行うストレッチやトレーニングをするとき、
「お前やれよ」
「お前がやれよ」
と男同士で譲り合い、避けられた澤は
「これまでそんなことなかったのに」
と不思議に思った。

澤穂希は、人見知りで口数は少なかったが、優しく思いやりがあり、遠征などで誰かが大きなバッグを持っているとスッと近づいて一緒に持った。
そしてマイペース、かつ自分の考えをしっかり持っていた。
例えば監督やコーチに
「澤は・・・・が足りない」
といわれても悩むことはなかった。
「私がこの性格でよかったなと思うのは、いい意味で「聞き流せる」ことです。
例えば監督に怒られている選手をみると、いわれたことを全部聞きすぎてしまっているなあと。
そうするとあれもこれもやろうと頑張って空回りしてしまうことがあるんです。
それをみてマジメだなぁって思うんです。
サッカーはチームスポーツだから足りないところは補い合えばいいんです。
聞き流せる力があったことはよかったと思います。
たまに大事なことも聞き逃しちゃうけど」

非情に負けず嫌いで、
「どんな勝負でも勝ちたい」
という澤穂希だが、例えば自分より走るのが速い選手に、そのスピードをみせつけられても
「すごいな」
とは思っても、
『なんで自分は速く走れないんだろう』
とは思わない。
「相手の強さを認めることは降参ではない」
「素直に認めれば自分のコンプレックスにならない」
という感覚と
「他人を比べて縮こまるより、自分らしさや自分の強みを発揮しよう」
という思いがあった。
実際、大人になって日本代表となり、その背番号10をつけ、キャプテンにもなったが、体力測定では、ほぼすべての項目が平均値。
なのに日本代表出場試合数試合205と83得点は、史上1位である。

サッカーを始めた後も週2回、イトマンスイミングスクールに通っていたが、水泳に打ち込む気持ちは薄れ、やがて通うことが苦痛に。
「水泳が嫌いだったわけじゃない。
サッカーの方が楽しいくなったから」
3歳から続けてきたことだったために勇気が必要だったが、思い切って母親に
「サッカー1本に絞りたいからスイミングやめていい?」
と打ち明けた。
『これまで続けてさせてあげたのに・・・』
『自分でやりたいといったくせに・・・』
などといわれるのを恐れていたが、
「もちろんいいよ」
と許してくれた。
澤穂希は、この

・好きなものを「好き」といった自分
・娘が「好き」なものを受け入れた母親

が大切なポイントだという。
「子供は移り気ですから、どうなるかはもちろん誰にもわかりませんけど、やっぱり「好き」って夢の扉を開くカギになるんですよ!
重要なのは好きなことに対して夢中になれること。
好きなものをもっと好きになりたいと思う気持ちを持ち続けること。
つい忘れがちですが、夢は「近づきたい」と思う限り、ずっとそこにいてくれます。
夢は絶対に逃げないんです」

そして運動会で騎馬戦の騎手となった澤穂希は、母親いわく
「まるで木登りするサルみたいに身軽ですばしっこくて、スキあらばという感じで」
相手チームの帽子をほとんど奪い取った。
マラソン大会では、兄とそろって1位。
食べるのも早く、
「兄はマイぺースで、兄がみかんを1個食べている間に穂希は2個食べていましたね。
白い線維のところもとらないで、アッという間に食べちゃって。
野生的でしたよ」
(母親)

1990年1月、第1回日本女子サッカーリーグが終了。
初代女王に輝いたのは、開幕戦でベレーザに敗れた清水フットボールクラブだった。
3ヵ月後の4月、第2回日本女子サッカーリーグが開幕。
澤は6年生になったが、この年、人生でただ1度だけ、
「男の子に生まれたらよかったのに」
と思った出来事があった。
高校球児に甲子園があるようにジュニアサッカー選手にとって最高の目標は、毎年、夏休みによみうりランドで行われる「全日本少年サッカー大会」だった。
全国のサッカー少年(少女)が、
「全少」
と呼び、読売ランドを崇め、情熱を燃やす、この大会は1967年に始まり、現在は「全日本U-12サッカー選手権大会」と呼ばれている。
過去に予選に当たる都大会で優勝し、よみうりランドで戦ったことがある府ロクは、当然、出場&優勝を目指していた。

6年生チームのレギュラーであり中心選手だった澤穂希にとっても、よみうりランドは目標であり夢だった。
しかし都大会直前、衝撃の事実をコーチに告げられてしまう。
「お前は都大会に出場できない。
女子は出場資格がない」
澤は、その言葉を理解するのに時間がかかった。
これまで数年間、男女差など意識せずに共にボールを追い汗をかいてきたチームの中に初めて性別の壁が現れたのである。
「黙って出ればバレないんじゃ・・・」
「名前を変えてもいい」
そんなことを真剣に考えた。
府ロクも、なんとか澤が出場できるように大会運営と交渉したが
「少年サッカー大会だから」
と認められなかった。
納得できない澤は、悔しくて仕方なく、心底悩み、傷ついた。
「どうして女の子に生まれたんだろう」
男子だけで出場した府ロクは、都大会でベスト8に入ったものの、よみうりランド出場はならず、澤穂希は、さらに怒りに似た悔しさを味わった。

深く傷ついた澤を救ったのは、サッカー仲間だった。
小金井市にあった女子だけのサッカークラブ「小金井小スポーツクラブ」から助っ人として出場依頼が来て、初めて女子の大会に出場。
知らないチームと知らないチームメイトにとまどいながらも、相手をスルスルと抜いていき、小金井小スポーツクラブは優勝。
「男の子に生まれたかった」
という気持ちは消え
「これからもサッカーをやっていこう」
と前向きで明るい澤穂希に戻れた。
その後、富山で行われた全国大会の常連チームが集まった大会でも、澤は決勝戦の先取点をとり、府ロクは優勝。
全少の雪辱を晴らした。
「いま日本で女の子がサッカーをやろうと思ったら小学生のうちは男の子と一緒にできます。
近年は高校の女子サッカー部も増えてきて、2012年からはインターハイの正式種目になりました。
でもその間の中学は、学校の女子サッカー部も地域もクラブチームも、まだまだ少ない。
小学生のときにサッカーに夢中になった子が中学で他競技に転向してしまう例が後を絶ちません。
それは日本の女子サッカーにとって、未来のなでしこジャパンにとって残念なことなんです」

「これからどうするの?」
最後の試合が終わった後、府ロクのチームメイトは進路について話し始めた。
男子たちは、中学校のサッカー部、社会人チームである読売サッカークラブや日産FCのジュニアチーム、三菱養和スポーツクラブなどのサッカークラブについて語り合った。
しかしサッカー少女にとって女子サッカー部がある中学校は少なく選択肢はあまりなかった。
ただ澤穂希は、自宅から比較的近い場所にベレーザがあり、実際に電車に乗って練習に参加したことがあった。
そのときはずっと男子と一緒にやってきたので女子だけの練習は居心地が悪く、ベレーザの選手に話しかけられてもテレくさくて、どうしていいかわからなかった。
その後、国立競技場で府ロクのメンバーと試合を観戦していたとき、こちらに向かって手を振る女性がいた。
しかも声をかけようと笑顔で近寄ってくる。
「誰?」
というチームメイトに
『ベレーザの大竹奈美さん』
といえばいいのに、
(来ないで)
という気持ちを込めて大竹奈美にらんだ。
そして帰っていく大竹をみて、
(わざわざ挨拶してくれたのに・・・)
(ひどいことをしてしまった)
と後悔し、自己嫌悪に陥った。

1991年1月、第2回日本女子サッカーリーグが終わり、ベレーザが初優勝。
16ゴールを挙げて得点女王&MNPを獲得したキャプテンの野田朱美、高倉麻子、手塚貴子、本田美登里、松永知子という日本代表選手を並べる布陣で、14勝1分け無敗という圧倒的な強さだった。
4月、女子サッカー部がない府中市立第5中学校に進んだ澤穂希は、小学校ではなかった制服を着なくてはならず、再びスカート問題に直面。
「お母さん、私だけキュロットにすることはできないの?」
といわれ、母親は、
「我慢しなさい」
と答えた。
その後、ウンともスンともいわなくなった娘が登校するとき、スカートが異様に膨らんでいるのでみてみると下着の上にブルマ、さらにサッカーの短パンを履いていた。
「最初は毎日そんな感じで出かけていたけど、すぐにスカートにも慣れました」

そして中学校入学と同時に「ベレーザ」の下部組織である「メニーナ」の入団テストを受けた。
メニーナは、2年前に始まったばかりのチームで、出来上がった選手を集めるのではなく、才気ある中学生、高校生を鍛えようというベレーザの育成システムでもあった。
テスト内容は

50m走
リフティング200回
ゲーム

だったが、合格。
1ヵ月後には、竹本一彦監督の判断でベレーザに昇格。
ポルトガル語で「美人」という意味するベレーザの練習場所は、聖地、よみうりランドの中にある専用グラウンド。
芝ではなく土のグラウンドで、スライディングをすると擦り傷ができた。
2階建ての古い建物の中にベレーザとメニーナ共用のロッカールームとトレーニングルームがあったが、シャワーはなく、練習後は外の水道で洗った。
母親は泥だらけになった靴下を、いきなり洗濯機に入れても落ちないので、まず手洗いしてから洗濯機で洗った。

ベレーザの練習は、週6回。
選手は基本的に社会人なので、学校の部活動より遅めの18時30分に練習が始まり、21時30分に終了。
澤は、朝起きて登校すると、まず学校のそばにある府ロクのコーチの家に練習用のカバンと服を置く。
15時くらいに学校が終わるとコーチの家にいって制服からジャージに着替え、バスに揺られて練習場へ。
うまくいくと練習開始1時間前に到着し、コンビニで買ったおにぎりを食べて、誰もいないグラウンドで練習。
帰り道、コンビニで食べ物を買って、バスに乗って家に着くのは22時~22時半。
そこから夕食を食べた。
「練習をしていなかったら肥満児になっていたんじゃないかというくらい食べてた」
風呂に入って、宿題をして、日記とサッカーノートをつけて、寝るのは24時~深夜。
そして7時に起床し、登校するという生活を繰り返した。
サッカーノートには、その日の練習内容や目標、課題などを絵入りで書いた。
「サッカーノートはずっとつけてました。
ミーティングの内容とか、練習の中で気づいたこと、メンタル面のことなども書いてましたね」

通常、人は達成確率の低いことに挑戦することを嫌い、トップ選手は燃えるというが、澤穂希は、
「夢」
の大切さ、夢を持つことが生み出す力、その威力を強調する。
「まず夢を恥ずかしがらないこと。
そして夢に掲げることが大事。
夢は会社のノルマや選挙公約じゃないんだから、どれだけ大きくてもかまわない。
むしろ夢をわざわざ小さくするのはもったいない。
達成できるかどうか、結果で自分を責める必要なんて絶対にない。
夢に向かっていく過程が人生を肉づけしていくんだなって実感してきましたから、とにかく夢を追いかけるのに遠慮だけはしないでください。
繰り返しますが「なれるかどうか」という根拠を探す必要はありません。
なれたらどれほどうれしいかをイメージすることが夢を叶えるスタートなんです」

平日は練習、週末は試合で、試合の翌日が休みとなるので、ベレーザの練習は月曜日だけが休み。
澤穂希は、学校があるため、丸1日休んだり、遊んだりすることはできなかった。
月曜日の放課後にクラスメイトと遊んで、
「もっと遊びたいな」
と思うこともあったが、練習を休みたいとか休もうと考えたことはなかった。
それどころか風邪や熱くらいでは休まず、インフルエンザにかかったときにコーチに
「帰れ」
といわれた。

府ロクでは自信満々、伸び伸びとプレーしていた澤穂希だったが、ベレーザには未経験のプレッシャーがあった。
まず女子だけのチームであるということ。
そして大人のチーム独特の
「ミスしたら怒られる」
という雰囲気。
これまでは男子とはいえ同い年ばかりだったが、ベレーザは10代後半~20代の「お姉さん」ばかり。
身体能力の差は明らかで、中1の澤は同じように走れず、トレーニングもこなせず、
「できなーい!」
と叫びながらやった。

極度の負けず嫌いで、府ロク時代、
「練習のときにジャンケンで負けた人がビブスをつけるんですが、そのジャンケンも負けたくなかった」
そしてミニゲームが始まっても
「負けたくなくてバチバチ当たり合ったりしていました」
大人になって、なでしこジャパンのチームメイトの川澄奈穂美と「食わず嫌い王選手権」に出演したときも負けると本気で悔しがった。
「悔しさは感情というより感覚に近い。
感覚は使わないと鈍ってしまう。
悔しさを出さなかったり、感じなくなれば、負けても悔しくないから勝てなくてもかまわなくなってしまう」
金銭面で非情に堅実な澤穂希は、ギャンブルはしないが、
「対等の勝負を挑まれたら身を引くことはない。
わざと負けたりなど絶対にしないし、わざと勝たせてもらうなんてもっとあり得ない。
全力でぶつかるだけ」
しかしいつも勝てるとは限らず、心底悔しくて仕方ないとき、澤は泣く。
「強いということは泣かないということではなく、泣いた後にまた笑える心こそが強さ」
そして
「悔しい!」
と大声でいう。
すると
「なんだかスッキリする」
「明日から前を向ける」

ベレーザの練習はキツかったが、あきらめや逃げの気持ちはまったくなく、むしろ
「ここでやればもっともっと上手になれる」
「いつか日本代表に入れる」
と希望でいっぱいだった。
「毎日サッカーが楽しいから、中学校に行ってる間も、早く練習に行きたいって楽しみで仕方がなかった。
1時間前からグラウンドに行って1人でボールを蹴ってましたね」
そして練習が始まると日本屈指の強豪チームの中で、夢のような気分になることもあった。
「雲の上の存在だった憧れの本田美登里さん、高倉麻子さん、野田朱美さんを前に、わぁ、私、なんてすごい人たちとサッカーしているんだろうと毎日興奮し、練習なのに、試合以上に緊張してガチガチになっていました。
当時、練習や試合で右のハーフのポジションに入ることが多く、右サイドバックには本田さんがいて、ボールを持つとどうしても本田さんを頼ってボールを戻してしまうんです。
緊張しちゃって、前に相手選手がいるかどうかなんて冷静にみえていなかったんでしょうね。
あるとき本田さんにピッチで怒鳴られました。
『コラッ、澤!どうしてボールを戻すの!前を向いて自分で行きなさい!』って。
この「前を向いて自分で行く」は、憧れの人たちに囲まれたあのベレーザのピッチで私が最初に教えてもらったことかもしれない。
今でも覚えています」
お姉さんたちは、練習後にドライブに連れていってくれたりもした。
そして恋愛話などもして、澤穂希はサッカー以外にもたくさん学んでいたが、野田朱実に
「澤は耳年増だから。
大人の話を聞いていないようで聞いているから小声で話さないと」
といわれた。

よみうりランド内の専用グラウンドは、男子チームである東京ヴェルディも練習していた。
この頃、日本男子サッカーは初のプロサッカーリーグ誕生に向けて準備を進めている、いわゆる「Jリーグ前夜」の時期。
澤穂希は、そんなイチバン熱い時期に熱く練習する男たちを傍でみることができた。
その技術やフィジカル、そしてサッカーに対する意識が高さ、姿勢は尊敬せずにいられなかった。
しかしある日、「ボール回し」に呼ばれたときは、
「なんで?」
と思った。
ボール回しとは、数人がひたすらパスを回し、1人がひたすら奪いにいくという練習で、数人が1人を取り囲む形になるので「鳥かご」ともいわれる。
慣れ親しんだ練習なのでやることに問題はなかったが、違和感を感じたのはメンバー。
ヴェルディのラモス瑠偉、松木安太郎、武田修宏、北澤豪、そしてベレーザの本田美登里、高倉麻子、野田朱美がつくる輪の中に、チームに入ったばかりの中1女子が放り込まれたのである。
そしてボールを奪う役となり、振り回され続けた。
「想像通り、みなさん・・・・特にラモスさんなんて絶対手を抜きませんから・・・・
1回もボールをとれなくてずっと輪の中にいました。
股抜きされると1回ペナとか、プロなのに子供相手にいっさい手加減なし。
一生懸命やっているのに皆さん、もう笑っちゃうほどうまくて、とにかく1度もボールを奪えませんでしたね」
1時間以上、輪の中にいて1度もボールをとれなかった澤は、練習が終わった後、笑顔のラモスに声をかけられた。
「ボールは自分で奪わなかったら一生手にできない。
そして1度奪ったボールはどんなことがあっても失っちゃダメだ」

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